最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●常識を疑う

2009-11-10 09:53:37 | 日記
【子育て一口メモ】

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携帯電話HP用に書き改めた、一口メモ集です。
少し前に送った原稿とダブりますが、お許しください。
ここでは、私たちがもっている常識を、少し疑って、
つまり別の角度から、考えなおしてみます。

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● 「子はかすがい」論

たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。


● 「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。


● 「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。


● 「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。


● 「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。


● 「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。


● 「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意!


● 「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。


● 「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。


● 「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。



●教育力

2009-11-10 09:49:16 | 日記
●心を洗う

 幼児と接していると、ときどき「すばらしい!」と実感するときがある。幼児と接することができるものだけが覚える、感動と言ってもよい。その「すばらしさ」には、3つある。

(1) 心を洗ってもらえる。
(2) 生きるエネルギーを与えられる。
(3) 命の原点を教えられる。

 ほかにもいろいろあるが、私は、(1)の「心を洗ってもらえる」を、その第一にあげる。

 幼児の世界では、不正、不平等、不公平、不公正、インチキは、いっさい、通用しない。少しでも、そういう様子を見せると、子どもたちは、すぐ反応する。「先生は、ズルイ!」と。

 そう言われたとたん、私は、ハッと、自分を見なおす。修正する。それが「心を洗う」ということになる。昨日(1・12)も、こんなことがあった。

 A君(年中児)が、やっと数字が書けるようになった。そこで私がA君の書いた数字に、大きな花丸を描いてやった。するとそれを横で見ていたB君が、「どうしてA君のは、花丸で、ぼくのは、丸だけなの?」と。

 そこで私はあわてて、「ごめん」「ごめん」と言いながら、B君の書いた数字に花丸を描いてやった。

 毎日というより、すべての瞬間が、そういう(美しさ)に包まれている。幼児の世界は、そういう意味では、純粋。汚(けが)れを知らない。

 で、私はレッスンの途中で、ふと、こんなことを言ってしまった。

私「おとなになるほど、心が汚くなるんだよ」
子「……?」
私「君たちも、今の心を大切にしなよ」
子「……?」
私「今のまま、おとなになったら、すてきなのにね」と。

 それに引きかえ、おとなの世界は、見苦しさに、満ちあふれている。悲しいほど、満ちあふれている。たとえば教室へ入るとき、クツを並べて脱ぐことを教えると、その瞬間から、幼児たちは、それができるようになる。ほかのだれかが、雑な脱ぎ方をしたりすると、「いけないよ」と、注意しあったりする。

 それが小学生、中学生、さらに高校生となっていくにつれて、この習慣が乱れていく。いいかげんになる。どこかで小ズルさを、身につけてしまう。ほとんどの人は、「幼児は幼稚」と考えている。しかし、これはとんでもない誤解。偏見。

 知識や経験こそ、とぼしいが、それ以外は、幼児といえども、1人の人間。喜怒哀楽の情もあれば、嫉妬もする。自尊心もある。名誉も、誇りも感ずる。だから私はときどき、こう思う。

 もし、人間が、すべての人間が、幼児のころの心を忘れずに、それを大切にしておとなになったら、この世の中は、ずっと住みやすくなるのに、と。それを「教育だの」「しつけだの」と言って、子どもの心を、こなごなになるまで破壊してしまう。しかしこれを悲劇と言わずして、何と言う?

 大切なことは、子どもを教えようとは思わないこと。子どもに、教えを乞うこと。幼児教育とは何かと聞かれれば、最終的には、そこへ行きつく。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ゆとり教育

 10年前までは、中国や韓国では、「日本に追いつけ」「日本を追い越せ」が、重要な合言葉になっていた。が、今はちがう。「日本を叩きつぶせ」「日本は、もう相手ではない」という雰囲気に変わってきた。

 そういう日本を取り巻く環境に、あえて背を向ける形で、数年前、日本の文部省は、「ゆとり教育」なるものを始めた。教科内容も、約3割、削減した。

 たとえばそれまでは、小学6年になると、子どもたちは、算数の時間には、分数の割り算、掛け算を学んだ。しかし今は、分数の足し算、引き算である。

 さらにずっと昔だが、私が中学3年生のときには、すでに、サイン、コサイン、タンジェントを学んでいた。これらの教科内容は、現在は、高校で教えられている。

 「ゆとり教育」は、まさに時代逆行の、大愚策であった。そうでなくても子どもたちの学力は低下し始めていた。ゆとり教育は、それに拍車をかけてしまった。

 今では、中学生でも、掛け算の九九を、使えこなせない子どもは、いくらでもいる。調査のし方にもよるが、私は、15~20%の中学生がそうでないかとみている。

 これからの日本が日本であるためには、教育しかない。頭脳の質で、世界をリードするしかない。

 もっとも、むずかしいことを教えるから、レベルが高いということにはならない。たとえば今、幼稚園でも、掛け算の九九を教えているところがある。九九を丸暗記させているだけだが、だからといって、その幼稚園の教育レベルが高いということにはならない。

 それはわかる。

 しかし実際には、教育の質そのものが、低下している。教育というよりも、教育力が、低下してきている。たとえば20年前だと、小学2年の段階で、掛け算の九九ができなかったりすると、先生たちは、残り勉強をさせてでも、子どもたちにそれを教えた。掛け算の九九があやしいと、そのあとのあらゆる学習に影響を与えるからである。

 だから教える先生も必死だったが、それを学ぶ子どもたちも必死だった。

 しかし今は、そういう光景は、ほとんど、見られなくなった。「教えるべきことは、教えます。そのあと、覚えるか覚えないかは、子どもの問題です」(たしかに、そうだが……)と。先生自身が逃げてしまう。

 子どもたちも、掛け算の学習が終わるとそのまま、数週間後には、九九すら忘れてしまう。

 いや、そうでなくても、学校の先生は、いそがしい。教育はもちろん、しつけから、家庭教育指導まで、ありとあらゆるものを、押しつけられている。ある女性教師は、こう言った。「授業中だけが、心を休めることができるときです」と。

 これでは質の高い教育など、望むべきもない。「ゆとり教育」というのは、結局は、先生の負担軽減のことだったのか? ……ということになる。

 話をもどすが、この日本の教育に一番欠けるものはといえば、緊張感ではないか。教える側にも、教えられる側にも、その緊張感がない。その緊張感をかろうじて支えているのが、受験勉強ということになる。いろいろ言われているが、もしこの日本から、受験競争をなくしたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら、崩壊する。

 教育に夢がない。
 教育に目的がない。
 教育に希望がない。

 そういう教育の中で、子どもたち自身も、自分の進むべき道を見失ってしまっている。では、どうするか?

 私は何度も書いているが、教育を自由化すればよいと考えている。今のように、北海道から沖縄まで、金太郎アメのような、画一教育をつづけているほうが、おかしい。さらに、何からなにまで、学校に押しつけて、「しっかりと子どものめんどうをみろ」というのも、おかしい。

 子どもの多様化にあわせて、教育そのものを、自由化する。たとえばドイツやイタリアのように、学校での授業はできるだけ午前中ですませ、午後からは、子どもたちが、それぞれの目的をもって、クラブに通えるようにすればよい。政府は、そのために費用を、援助する。

 (ドイツでは、クラブの月謝は、1000円程度。子どもをもつ親には、毎月1万5000円ほどの、チャイルド・マネーが支給されている。単純に計算すれば、1人の子どもは、そのお金で、放課後、15のクラブに通うことができることになる。)

 大学にしても、単位を共通化すればよい。もちろん、どこの大学で、学位、修士号、博士号が認められるかは重要だが、それはつぎのステップである。……という方向で、日本の大学教育も進みつつあるが、その速度を、もっと加速させる。少なくとも、入学後の学部変更、大学から大学への転籍くらいは、今すぐ、自由化すべきではないだろうか。

 これからの日本で求められるのは、その道に秀(ひい)でた、プロである。そういうプロを育てるための教育体制をつくる。

 それを追求していけば、自ずと日本の教育の輪郭(りんかく)が見てくる。そしてその輪郭が見えてくれば、子どもたちの間から、夢や目的や希望が生まれてくる。そしてそれが、学校教育の活性化につながっていく。


●悪魔性

2009-11-10 09:41:55 | 日記
● 悪魔性

 人の不幸な話ほど、楽しいものはない。……という悪魔性は、だれにでもあるものか。私の知っている人に、いつも他人の悪口ばかりを言っている人がいた。そのとき、60歳くらいではなかったか。女性だった。

 「あのAさんの父親は、窃盗罪で逮捕されたことがある」
 「Bさんの家の長男は、離婚歴がある」
 「Cさんは、かなりあくどいことをして、金をもうけたそうだ」と。

 一般論として、世間体を気にする人は、相対的な尺度で、自分の位置を決める。隣の人より、収入が多ければ、金持ちであり、隣の人より、収入が少なければ、貧乏である、と。もちろん隣の人が幸福だと、自分は不幸と感じ、反対に、隣の人が不幸だと、自分は幸福と感ずる。

 その結果として、いつも自分より、「下」の人ばかりを見るようになる。そのほうが、居心地がよいからである。そしてさらにその結果として、ここでいう悪魔性をもつようになる。「他人の不幸ほど、楽しいものはない」と。

 そこで私や、あなた自身は、どうかということになる。

 たとえばここにたいへん不幸な人がいる。経済的にも家庭的にも、恵まれず、苦労の連続。おまけにその人自身も、大きな精神的な問題をかかえている。

 そういう話を聞いたときの心理的反応は、つぎの6つのタイプに分類できる。

(1) 自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と納得する。)
(2) 同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
(3) 嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
(4) 無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
(5) 学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
(6) 妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)

 言いかえると、他人の不幸な話を聞いたときの、自分の心の中の反応を知ることで、自分自身の人格の完成度を知ることができる。言うまでもなく、「人の不幸な話ほど、楽しいものはない」と思っている人は、きわめて人格の完成度の低い人ということになる。

 つぎの話を読んで、あなたはどう感ずるだろうか。

【テスト】

 X氏(47歳)は会社をリストラされた。そのとき得た退職金を使って、市内に小さな事務所を開いた。しかし折からの不況で、半年後には、多額の借金をかかえて閉鎖。そのころ、妻は、二人の娘(小6と小2)を連れて、家を出た。X氏は、酒に溺れるようになり、スナックで暴力事件を引き起こし、傷害罪で逮捕。そのショックで、X氏は、緑内障になり、右目の視力を、ほとんどなくしてしまった。

 この話を読んだとき、あなたの心の中では、どのように感じただろうか。どのような反応が起きただろうか。上の(1)~(6)を、人格の完成度の応じて並べなおしてみると、こうなる。上の位置の人ほど、人格の完成度が、低いということになる。

★嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
★無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
★自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と安心する。)
☆学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
☆妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)
☆同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
☆(神性タイプ)(神々しい包容力で、他人の不幸を共有できる。)

 ここで重要なことは、人格の完成度の低い人からは、高い人がわからない。しかし人格の高い人からは、低い人がよくわかる。それはちょうど、山登りに似ている。低い位置にいる人には、山の上からの景色がわからない。自分がどこにいるかさえわからない。

しかし高い位置にいる人は、低い位置の人がどこにいるか、手に取るようにわる。当然、視野も広くなる。(だからといって、私がその視野の高い人というわけではない。自分でも、そうなりたいと願っている。念のため!)

 さらに人格の完成度の低い人は、たいていのばあい、自分の(低さ)にすら、気づくことがない。ないばかりか、自分を基準にしてものを考え、「他人もそうだ」と決めてかかる傾向が強い。
 
 冒頭にあげた女性も、いつも、こう言っていた。

 「他人の心なんて、信用できない」
 「人はみな、タヌキだ」
 「渡る世間は、鬼ばかり」と。

 どこかさみしい人生観になる。

 しかし人格の「格」をあげるということは、むずかしいことではない。ないが、しかし勇気のいることである。たとえば奉仕活動(ボランティア活動)をしたことがない人は、奉仕活動をすること自体を、「損」と考える。

 子どもの世界でも、こんなことを言った高校生がいた。「生徒会活動をするヤツは、バカだ。受験勉強ができなくなる」と。幼児でも、「スリッパを並べてくれない?」と声をかけただけで、「どうして、ぼくがしなければいけないのか!」と言いかえしてくる子どもがいる。

 そうしたレベルの低い人生観を変えることは、簡単なことだ。自ら進んで、奉仕活動をしてみればよい。しかしそこには、大きなカベがある。そのカベを越える力が、勇気ということになる。

最初、これは私の経験だが、そういう自分が、バカに見えてくる。バカらしさを感ずる。それはたとえて言うなら、他人のあとをついて歩きながら、その他人が捨てるゴミを拾って歩くようなバカらしさである。

 そのバカらしさを越えるためには、勇気が必要である。

 こうして私たちは、自分の中の悪魔性と戦っていく。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。人は、自ら、その悪と戦って、善人になる。

 実のところ、私の中にも、悪魔性がある。ないとは思わない。ときに、他人の悪口ほど、楽しいものはないと思うこともある。「あいつはアホだ」「こいつはバカだ」と、ワイフと笑いながら話しこむこともある。私は、決して、善人ではない。それにもともと、生まれが生まれだから、それほどの善人になれるとも思っていない。期待していない。

 しかしこれだけは言える。

 明るく、朗らかに、楽しく人生を生きるためには、自分の中に潜む悪魔性は、敵である。戦うべき、敵である。その悪魔性に毒されると、人生そのものをムダにする。事実、冒頭にあげた女性は、見るからに醜悪な顔をしていた。今、その女性を思い出しながら、「私は、ああはなりたくない」と思っている。
(はやし浩司 悪魔性 人格の完成度 人格 善人論)