最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●1年目の冬

2009-11-05 08:05:52 | 日記
●1年目の冬

++++++++++++++++++++

 母が死んで、ちょうど丸1年になる。
……と、書いたところで、キーボードを叩く指が止まってしまった。
いろいろな思いが、さらさらと、音もなく頭の中を流れる。
流れては消える。
それが文という形になって、頭の中でまとまらない。

 さみしさはない。
やり残したこともない。
それよりもうれしかったのは、実家から解放されたこと。
長い60年だった。
悶々として、1日とて、気の晴れる日はなかった。
だから母の葬儀が終わってしばらくしてからのこと。
私は、こう思った。

「あと一歩」と。
「あと一歩で、実家から解放される」と。

+++++++++++++++++++++

●安易な『ダカラ論』

 こう書くと、「何と親不孝な!」と思う人も多いかと思う。
しかし私は何も、母が死んだことを喜んでいるのではない。
母というより、「実家」が重荷だったと言っている。
結婚前から、収入の約半分は、実家に送金していた。
経済的な負担感というより、社会的な負担感。
それに苦しんだ。
それから解放されたかった。

が、この日本では、「息子だから……」という理由だけで、何もかも押しつけてくる。
こういうのを『ダカラ論』と言うが、それがいまだに大手を振って、まかり通っている。
「親だから……」「子だから……」と。
論理でない論理を、そのまま相手に押しつけてくる。
「浩司君、どんなことがあっても、親は親だからな」と言った親類もいた。
つまり親がどんな悪人でも、子は、それに従うべき、と。
とくに、この日本では、そうだ。

またそういう日本だからこそ、私と母のような関係ができあがってしまった。
欧米のように、それぞれの人がもう少し独立した心をもっていたら、母は母のように
ならなかっただろう。
私は私で、もっと別の考え方ができただろう。

●母の実家

 母は、岐阜県の山奥に生まれ育ち、江戸時代をそのまま引きずっていた。
庄屋ではなかったが、そのでは庄屋的な存在だった。
農家といっても、山農家と畑農家がある。

山をたくさんもっている農家。
林業中心の農家。
それが山農家。
畑をたくさんもっている農家。
小作人に農地を貸して、年貢を納めさせる。
それが畑農家。

母の実家は、畑農家だった。
そのの畑は、ほとんどが母の実家のものだった。
それが没落の理由となった。
戦後のあの農地解放で、畑のほとんどが没収され、小作人と呼ばれる
人たちに分配されてしまった。

●江戸時代の見本

 母は、13人兄弟の中で、長女として生まれた。
妹が1人いたが、残りの11人は、男だった。
そういうこともあって、母は、「お姫さま」と呼ばれ、大切に育てられたという。
農家に生まれ育ちながら、土に手を触れることは、ほとんどなかったという。
そういう環境の中で、母は独特の考え方をするようになった。

 自身が女性でありながら、徹底した男尊女卑思想を身につけていた。
そのことと関係があるのかどうかは知らないが、「女は働くものではない」
と強く思っていた。

 事実、母は自転車店を営む父と結婚したが、生涯にわたって、ドライバー1本、
握ったことすらない。
恐らくドライバーの回し方も知らなかったのではないか。
また姉が農家に嫁ぎ、畑仕事をしていると知ったときも、そうだ。
「M(=姉の名)を、そんなことをさせるために、嫁にやったのではない」と。
本気でそれを怒っていた。

 お姫様でありながらも、愛情の薄い家庭だったかもしれない。
もうひとつ母の考え方で特筆すべき点は、母は、自分の子どもたちを、
「財産」と考えていたこと。
子どもたちというのは、私や、兄や、姉をいう。

 今で言う人権意識など、元からなかった。
すべてを親が決め、私たち子どもは、それに従うしかなかった。
へたに反抗すれば、即座にあの言葉が返ってきた。
「親に逆らうようなやつは、地獄へ落ちる!」と。

私はいつしか母を通して、その向こうに江戸時代を見るようになった。
そういう点では、母は江戸時代の見本のような存在だった。
純粋培養されたというか、外部の影響を受けることなく、娘時代までを、
あので過ごしている。

●人は環境の動物

 母を責めているわけではない。
母は母として、過去を引きずりながら、懸命に生きた。
人間は環境の動物である。
もし私やあなたが、同じような環境で、同じように育てられたら、母と
同じような人間になっていただろう。
事実、母には1人、妹がいるが、その妹、つまり私の伯母にしても、
また実家を継いでいる弟、つまり私の伯父にしても、みな、一卵性双生児と
揶揄(やゆ)されるほど、ものの考え方が似ている。

 が、そういうことがわかるようなったのは、私が50歳も過ぎてからのこと。
それまではわからなかった。

 で、私はある時期、心底、母をうらんだ。
嫌うというよりは、うらんだ。
私がもっていた土地を、私に無断で転売してしまったときのこと。
「権利書を見せてほしい」と言うから、母に渡した。
その土地を、母はそのまま転売してしまった。
私が泣いて抗議すると、母は、ひるむことなく、こう言い放った。
「親が先祖を守るため、息子の金を使って、何が悪い!」と。

私と母の関係は、そのまま壊れた。
その関係を壊したことを、うらんだ。
それが私と実家を遠ざけるきっかけになってしまった。
ついで親類縁者と遠ざけるきっかけになってしまった。
が、結果的にみると、それも運命というか、それでよかったのかもしれない。

 それから10か月あまり、私は夜、床に就くたびに、熱でうなされた。
毎晩、ワイフが看病してくれた。
マザコンというのは、カルト。
そのカルトを抜くのは容易なことではない。
が、その10か月が過ぎたとき、私の心から、「母」が消えていた。

●マザコン 

たまたま今朝も、ワイフとこんな会話をした。
「昔のままの母が死んでいたら、ぼくは、今ごろ、毎晩夜空をながめながら、
母を偲(しの)んで、涙をこぼしていただろうね」と。
「昔のまま」というのは、私が子どものころもっていた母親像のまま、という
意味である。

私は、マザコンだった。
兄もそうだった。
姉もそうだった。
私の家族のみならず、とくに母方の家系は、みな、マザコン家族と断言してもよい。

母の実家もそうだった。
だから伯父、伯母もそうだった。
その下の従兄弟(いとこ)たちも、そうだった。

母系家族というか、「母親」を中心に、家族がまとまっていた。
それぞれの家族には、父親もいたのだが、父親の存在感は、薄かった。
父親自身が、マザコンなのだから、あとは推して量るべし。
そんな家庭環境の中で、自分がマザコン化しているのを知るのは、たいへん
むずかしい。

●母親の神格化

 しかし一歩、その世界から出てみると、それがよくわかる。
私は高校を卒業すると同時に、故郷のあの世界から、離れた。
離れたから、マザコンに気がついたというのではない。
ここに書いたように、それを気づかせてくれたのは、私のワイフということになる。
ある日、ワイフは、私にこう言った。
「あなたは、マザコンよ」と。

幸いなことに、私は自分の仕事を通して、さまざまな家族を外からながめることが
できた。
マザコン、つまり「マザーコンプレックス」の問題を、教育的な立場で、考える
ことができた。

 いろいろな特徴がある。
その中でも、つぎの2つが、とくに重要である。

(1) 母親の絶対視化。(母親を絶対視すること。)
(2) 母親の無謬性(=一点のまちがいもない)の追求。(母親の中に、まちがいを認めな
いこと。)

 私も、若いころは、私の母の悪口を言う人を許さなかった。
さらに子どものころは、悪口を言った人に、食ってかかっていった。
私にとっては、母というのは、神以上の存在であった。
そういう意味では、マザコンというよりは、「母親絶対教」の信者と、言い替えてもよい。

 そういう私を、母は横で喜んで見ていたのかもしれない。
母は私を前に、いつもこう言っていた。
「わっち(=私)は、ええ(=いい)、孝行息子をもって、しやわせ(=幸せ)や」と。
それが母の口癖でもあったが、一方で、そういう言い方をしながら、言外で、
私に、向かって、「そういう、息子になれ」と言っていた。

●男尊女卑

 マザコンであっても、それでその家族がうまく機能していれば、問題はない。
私は私。
人は人。
人、それぞれ。

 しかし一般論として、夫がマザコンだと、離婚率はぐんと高くなる。
(反対に、妻がファザコンのばあいも、同じような結果が出る。)
妻に理想の女性を求めすぎるあまり、妻のほうが、それに耐えられなくなる。
それが長い時間をかけて、夫婦の間に、亀裂を入れる。

 私のワイフもあるとき、私にこう言った。
「私がいくらがんばっても、あなたのお母さんには、なれないのよ」と。
それは痛烈な一撃だった。

 が、さらに悲劇はつづく。
嫁姑戦争に巻き込まれると、妻に勝ち目はない。
ただし私の家系には、離婚した夫婦はいない。
その一方で、「離婚」という選択肢は、元からない。
60数人いる従兄弟たちの中で、離婚した夫婦はいない。

 それだけ家族の結束が強いというよりは、自らの男尊女卑思想の中で、妻側が
妥協し、あきらめているにすぎない。
妻自身が、男尊女卑思想を受け入れてしまっている。
私も子どものころ、母に、よくこう言われた。
私が台所で何かの料理をしようとすると、「男が、こんなところに来るもん
じゃネエ(ない)!」と。
つまり「男は、料理なんか、するものではない!」と。

「男が上で、女が下」
「夫が上で、妻が下」
「親が上で、子が下」と。

●母の介護

 ともかくも、こうして1年が過ぎた。
母が死んで、1年が過ぎた。
おかしなことに、私の心はあのときのまま。
あのときというのは、母が私の家に来たときのまま。
私は便で汚れた母の尻を拭きながら、こう言った。
「お前のめんどうは、死ぬまで、ぼくがみるよ」と。

 母は両手でパイプをしっかりと握りながら、こう言った。
「お前に、こんなことをしてもらうようになるとは、思わなんだ」と。
私も負けじと、こう言い返した。
「ぼくも、お前にこんなことをしてやるようになるとは、思わなんだ」と。
そのとたん、それまでの(わだかまり)が、ウソのように消えた。

 2007年になったばかりの、正月の4日のことだった。

●実家の売却

 09年の9月。
母の一周忌の法要のあと、私は実家を売却した。
私にとっては、記念すべき日となった。
価格など、問題ではない。
早く縁を切りたかった。
何もかも、すっきりしたかった。

 最後に家の中をのぞいたとき、油で汚れた作業台だけが、やけに強く印象に残った。
角もこすれて、形すら残っていなかった。
父は毎日、その机に向かって、何かを書いていた。
父の孤独感が、その机にしみこんでいる。
その向こうには、祖父がいて、兄がいた。
さらにその向こうには、町の雑踏があり、客の声があった。

 が、不思議なことに、本当に不思議なことに、母の姿は、そこにはなかった。
母は……ここに嫁いできたときから、そして死ぬまで、その家の住人ではなかった。
母の心は、生まれてから死ぬまで、母の故郷の、あのK村にあった。

 そのとき、私は、そう思った。
1年たった今も、そう思う。
ボケもあったのかもしれない。
特別養護老人ホームに入居してからも、ただの一度も、M町のあの家に帰りたいと
言ったことはなかった。
グループホームに入っていた兄のことを口にすることも、姉のことを口にすることも
なかった。
いつも母が言っていたことは、「K村(=母の実家)に帰りたい」だった。

●過去からの旅

 私にとって、父とは何だったのか。
母とは何だったのか。
さらに家族とは、何だったのか。
その「形」を知ることもなく、私はおとなになっていった。
戦後の混乱期ということもあったのかもしれない。
しかしそれがすべての理由ではない。
私の家族には、「家族」という(まとまり)すら、なかった。
思い出のどこをさがしても、「家族がみなで、力を合わせて何かをした」という
記憶さえない。

 みな、バラバラだった。

 そんなわけで、私はおとなになってからも、いつも、自分の過去を否定しながら、
生きてきた。
だから今でも、自分の子ども時代を思い浮かべると、その部分だけが抜けて
しまっている。
あえて言うなら、列車で、どこかへ旅行するとき、出発地から目的地へ
いきなりやってきたような気分ということになる。
途中の駅が、どこかへ消えてしまっている。
過去から逃れたくて、旅行してきた。

 ただ晩年最後の2年間だけは、母は別人のようになっていた。
穏やかで、やさしく、静かだった。
一度たりとも、不平や不満をこぼしたことはなかった。
だからある日、私は母にこう言った。

「お前ナア、20年早く、……いや10年早く、今のような人間になっていれば、
いい親子関係のままだったのになア」と。

そのあと母が何と言ったのかは、覚えていない。
いないが、あの母のことだから、今の今でもあの世で、こう言って、とぼけている
ことだろう。
「ワッチは、子どものころから、ええ(=よい)人間だった」と。

 まっ、母ちゃん、そのうちぼくも、そっちへ行くから、そのときはよろしく!

●1年目の冬

2009-11-05 08:05:26 | 日記
●1年目の冬

++++++++++++++++++++

 母が死んで、ちょうど丸1年になる。
……と、書いたところで、キーボードを叩く指が止まってしまった。
いろいろな思いが、さらさらと、音もなく頭の中を流れる。
流れては消える。
それが文という形になって、頭の中でまとまらない。

 さみしさはない。
やり残したこともない。
それよりもうれしかったのは、実家から解放されたこと。
長い60年だった。
悶々として、1日とて、気の晴れる日はなかった。
だから母の葬儀が終わってしばらくしてからのこと。
私は、こう思った。

「あと一歩」と。
「あと一歩で、実家から解放される」と。

+++++++++++++++++++++

●安易な『ダカラ論』

 こう書くと、「何と親不孝な!」と思う人も多いかと思う。
しかし私は何も、母が死んだことを喜んでいるのではない。
母というより、「実家」が重荷だったと言っている。
結婚前から、収入の約半分は、実家に送金していた。
経済的な負担感というより、社会的な負担感。
それに苦しんだ。
それから解放されたかった。

が、この日本では、「息子だから……」という理由だけで、何もかも押しつけてくる。
こういうのを『ダカラ論』と言うが、それがいまだに大手を振って、まかり通っている。
「親だから……」「子だから……」と。
論理でない論理を、そのまま相手に押しつけてくる。
「浩司君、どんなことがあっても、親は親だからな」と言った親類もいた。
つまり親がどんな悪人でも、子は、それに従うべき、と。
とくに、この日本では、そうだ。

またそういう日本だからこそ、私と母のような関係ができあがってしまった。
欧米のように、それぞれの人がもう少し独立した心をもっていたら、母は母のように
ならなかっただろう。
私は私で、もっと別の考え方ができただろう。

●母の実家

 母は、岐阜県の山奥に生まれ育ち、江戸時代をそのまま引きずっていた。
庄屋ではなかったが、そのでは庄屋的な存在だった。
農家といっても、山農家と畑農家がある。

山をたくさんもっている農家。
林業中心の農家。
それが山農家。
畑をたくさんもっている農家。
小作人に農地を貸して、年貢を納めさせる。
それが畑農家。

母の実家は、畑農家だった。
そのの畑は、ほとんどが母の実家のものだった。
それが没落の理由となった。
戦後のあの農地解放で、畑のほとんどが没収され、小作人と呼ばれる
人たちに分配されてしまった。

●江戸時代の見本

 母は、13人兄弟の中で、長女として生まれた。
妹が1人いたが、残りの11人は、男だった。
そういうこともあって、母は、「お姫さま」と呼ばれ、大切に育てられたという。
農家に生まれ育ちながら、土に手を触れることは、ほとんどなかったという。
そういう環境の中で、母は独特の考え方をするようになった。

 自身が女性でありながら、徹底した男尊女卑思想を身につけていた。
そのことと関係があるのかどうかは知らないが、「女は働くものではない」
と強く思っていた。

 事実、母は自転車店を営む父と結婚したが、生涯にわたって、ドライバー1本、
握ったことすらない。
恐らくドライバーの回し方も知らなかったのではないか。
また姉が農家に嫁ぎ、畑仕事をしていると知ったときも、そうだ。
「M(=姉の名)を、そんなことをさせるために、嫁にやったのではない」と。
本気でそれを怒っていた。

 お姫様でありながらも、愛情の薄い家庭だったかもしれない。
もうひとつ母の考え方で特筆すべき点は、母は、自分の子どもたちを、
「財産」と考えていたこと。
子どもたちというのは、私や、兄や、姉をいう。

 今で言う人権意識など、元からなかった。
すべてを親が決め、私たち子どもは、それに従うしかなかった。
へたに反抗すれば、即座にあの言葉が返ってきた。
「親に逆らうようなやつは、地獄へ落ちる!」と。

私はいつしか母を通して、その向こうに江戸時代を見るようになった。
そういう点では、母は江戸時代の見本のような存在だった。
純粋培養されたというか、外部の影響を受けることなく、娘時代までを、
あので過ごしている。

●人は環境の動物

 母を責めているわけではない。
母は母として、過去を引きずりながら、懸命に生きた。
人間は環境の動物である。
もし私やあなたが、同じような環境で、同じように育てられたら、母と
同じような人間になっていただろう。
事実、母には1人、妹がいるが、その妹、つまり私の伯母にしても、
また実家を継いでいる弟、つまり私の伯父にしても、みな、一卵性双生児と
揶揄(やゆ)されるほど、ものの考え方が似ている。

 が、そういうことがわかるようなったのは、私が50歳も過ぎてからのこと。
それまではわからなかった。

 で、私はある時期、心底、母をうらんだ。
嫌うというよりは、うらんだ。
私がもっていた土地を、私に無断で転売してしまったときのこと。
「権利書を見せてほしい」と言うから、母に渡した。
その土地を、母はそのまま転売してしまった。
私が泣いて抗議すると、母は、ひるむことなく、こう言い放った。
「親が先祖を守るため、息子の金を使って、何が悪い!」と。

私と母の関係は、そのまま壊れた。
その関係を壊したことを、うらんだ。
それが私と実家を遠ざけるきっかけになってしまった。
ついで親類縁者と遠ざけるきっかけになってしまった。
が、結果的にみると、それも運命というか、それでよかったのかもしれない。

 それから10か月あまり、私は夜、床に就くたびに、熱でうなされた。
毎晩、ワイフが看病してくれた。
マザコンというのは、カルト。
そのカルトを抜くのは容易なことではない。
が、その10か月が過ぎたとき、私の心から、「母」が消えていた。

●マザコン 

たまたま今朝も、ワイフとこんな会話をした。
「昔のままの母が死んでいたら、ぼくは、今ごろ、毎晩夜空をながめながら、
母を偲(しの)んで、涙をこぼしていただろうね」と。
「昔のまま」というのは、私が子どものころもっていた母親像のまま、という
意味である。

私は、マザコンだった。
兄もそうだった。
姉もそうだった。
私の家族のみならず、とくに母方の家系は、みな、マザコン家族と断言してもよい。

母の実家もそうだった。
だから伯父、伯母もそうだった。
その下の従兄弟(いとこ)たちも、そうだった。

母系家族というか、「母親」を中心に、家族がまとまっていた。
それぞれの家族には、父親もいたのだが、父親の存在感は、薄かった。
父親自身が、マザコンなのだから、あとは推して量るべし。
そんな家庭環境の中で、自分がマザコン化しているのを知るのは、たいへん
むずかしい。

●母親の神格化

 しかし一歩、その世界から出てみると、それがよくわかる。
私は高校を卒業すると同時に、故郷のあの世界から、離れた。
離れたから、マザコンに気がついたというのではない。
ここに書いたように、それを気づかせてくれたのは、私のワイフということになる。
ある日、ワイフは、私にこう言った。
「あなたは、マザコンよ」と。

幸いなことに、私は自分の仕事を通して、さまざまな家族を外からながめることが
できた。
マザコン、つまり「マザーコンプレックス」の問題を、教育的な立場で、考える
ことができた。

 いろいろな特徴がある。
その中でも、つぎの2つが、とくに重要である。

(1) 母親の絶対視化。(母親を絶対視すること。)
(2) 母親の無謬性(=一点のまちがいもない)の追求。(母親の中に、まちがいを認めな
いこと。)

 私も、若いころは、私の母の悪口を言う人を許さなかった。
さらに子どものころは、悪口を言った人に、食ってかかっていった。
私にとっては、母というのは、神以上の存在であった。
そういう意味では、マザコンというよりは、「母親絶対教」の信者と、言い替えてもよい。

 そういう私を、母は横で喜んで見ていたのかもしれない。
母は私を前に、いつもこう言っていた。
「わっち(=私)は、ええ(=いい)、孝行息子をもって、しやわせ(=幸せ)や」と。
それが母の口癖でもあったが、一方で、そういう言い方をしながら、言外で、
私に、向かって、「そういう、息子になれ」と言っていた。

●男尊女卑

 マザコンであっても、それでその家族がうまく機能していれば、問題はない。
私は私。
人は人。
人、それぞれ。

 しかし一般論として、夫がマザコンだと、離婚率はぐんと高くなる。
(反対に、妻がファザコンのばあいも、同じような結果が出る。)
妻に理想の女性を求めすぎるあまり、妻のほうが、それに耐えられなくなる。
それが長い時間をかけて、夫婦の間に、亀裂を入れる。

 私のワイフもあるとき、私にこう言った。
「私がいくらがんばっても、あなたのお母さんには、なれないのよ」と。
それは痛烈な一撃だった。

 が、さらに悲劇はつづく。
嫁姑戦争に巻き込まれると、妻に勝ち目はない。
ただし私の家系には、離婚した夫婦はいない。
その一方で、「離婚」という選択肢は、元からない。
60数人いる従兄弟たちの中で、離婚した夫婦はいない。

 それだけ家族の結束が強いというよりは、自らの男尊女卑思想の中で、妻側が
妥協し、あきらめているにすぎない。
妻自身が、男尊女卑思想を受け入れてしまっている。
私も子どものころ、母に、よくこう言われた。
私が台所で何かの料理をしようとすると、「男が、こんなところに来るもん
じゃネエ(ない)!」と。
つまり「男は、料理なんか、するものではない!」と。

「男が上で、女が下」
「夫が上で、妻が下」
「親が上で、子が下」と。

●母の介護

 ともかくも、こうして1年が過ぎた。
母が死んで、1年が過ぎた。
おかしなことに、私の心はあのときのまま。
あのときというのは、母が私の家に来たときのまま。
私は便で汚れた母の尻を拭きながら、こう言った。
「お前のめんどうは、死ぬまで、ぼくがみるよ」と。

 母は両手でパイプをしっかりと握りながら、こう言った。
「お前に、こんなことをしてもらうようになるとは、思わなんだ」と。
私も負けじと、こう言い返した。
「ぼくも、お前にこんなことをしてやるようになるとは、思わなんだ」と。
そのとたん、それまでの(わだかまり)が、ウソのように消えた。

 2007年になったばかりの、正月の4日のことだった。

●実家の売却

 09年の9月。
母の一周忌の法要のあと、私は実家を売却した。
私にとっては、記念すべき日となった。
価格など、問題ではない。
早く縁を切りたかった。
何もかも、すっきりしたかった。

 最後に家の中をのぞいたとき、油で汚れた作業台だけが、やけに強く印象に残った。
角もこすれて、形すら残っていなかった。
父は毎日、その机に向かって、何かを書いていた。
父の孤独感が、その机にしみこんでいる。
その向こうには、祖父がいて、兄がいた。
さらにその向こうには、町の雑踏があり、客の声があった。

 が、不思議なことに、本当に不思議なことに、母の姿は、そこにはなかった。
母は……ここに嫁いできたときから、そして死ぬまで、その家の住人ではなかった。
母の心は、生まれてから死ぬまで、母の故郷の、あのK村にあった。

 そのとき、私は、そう思った。
1年たった今も、そう思う。
ボケもあったのかもしれない。
特別養護老人ホームに入居してからも、ただの一度も、M町のあの家に帰りたいと
言ったことはなかった。
グループホームに入っていた兄のことを口にすることも、姉のことを口にすることも
なかった。
いつも母が言っていたことは、「K村(=母の実家)に帰りたい」だった。

●過去からの旅

 私にとって、父とは何だったのか。
母とは何だったのか。
さらに家族とは、何だったのか。
その「形」を知ることもなく、私はおとなになっていった。
戦後の混乱期ということもあったのかもしれない。
しかしそれがすべての理由ではない。
私の家族には、「家族」という(まとまり)すら、なかった。
思い出のどこをさがしても、「家族がみなで、力を合わせて何かをした」という
記憶さえない。

 みな、バラバラだった。

 そんなわけで、私はおとなになってからも、いつも、自分の過去を否定しながら、
生きてきた。
だから今でも、自分の子ども時代を思い浮かべると、その部分だけが抜けて
しまっている。
あえて言うなら、列車で、どこかへ旅行するとき、出発地から目的地へ
いきなりやってきたような気分ということになる。
途中の駅が、どこかへ消えてしまっている。
過去から逃れたくて、旅行してきた。

 ただ晩年最後の2年間だけは、母は別人のようになっていた。
穏やかで、やさしく、静かだった。
一度たりとも、不平や不満をこぼしたことはなかった。
だからある日、私は母にこう言った。

「お前ナア、20年早く、……いや10年早く、今のような人間になっていれば、
いい親子関係のままだったのになア」と。

そのあと母が何と言ったのかは、覚えていない。
いないが、あの母のことだから、今の今でもあの世で、こう言って、とぼけている
ことだろう。
「ワッチは、子どものころから、ええ(=よい)人間だった」と。

 まっ、母ちゃん、そのうちぼくも、そっちへ行くから、そのときはよろしく!

●パニック  ●『沈まぬ太陽』

2009-11-05 07:02:38 | 日記
●パニック

昨夜、自転車で家に帰るとき、
今までにない経験をした。
時刻は、夜9時を回っていた。

信号が変わるのを待ちながら、ふと横を見ると、一人の
若い女性が、車の中で携帯電話を使っていた。

私「……」。

そのとき、止まった車の間を縫うようにして、
大通りの後方から、無灯火の自転車が、
道路を横切って来た。
信号が赤になる前に急いで……、ということらしい。

私「……」。

横を見ると、みな、停止ラインで、車を止めていない。
数メートル、はみ出た車。
数メートル、手前で止まっている車。
車間距離はまちまち。

私「……」

信号待ちと言っても、その交差点は、おかしな十字路。
間に川をはさんでいるため、幅が50メートル
近くはある。
左右の道のうち、左へ行く道は、途中で行き止まり。
右から来る車も、そこは一方通行になっている。

それを知っているから、信号を守る歩行者は、
ほとんどいない。
今度は、赤信号を無視して、ジョッギングしながら、
1人の若い男が、こちらに向かって走ってきた。

私「……」。

さらに近くの家から、一方通行の道を逆走して、一台の
車が猛スピードで、目の前を通り過ぎていった。

私「……」。

もうひとつ、何かあったが、思い出せない。
ともかくも、そういうことが、(瞬間)という
短い時間の間に、たてつづけに起きた。
とたん頭の中がパニック状態になってしまった。

その直後、私は、こう思った。
「いったい、この国は、どうなってしまったのか!」と。

おおげさに聞こえるかもしれないが、そう思った。
つまりひとつずつのできごとは、ささいなことでも、
それが短時間にたてつづけて起こると、それぞれが
頭の中で大きくふくらむ。
そしてその結果、「この国は!」と、なる。

こういう脳の反応を、どう理解したらよいのか。
私にはわからないが、おもしろい現象なので、
ここに書きとめておく。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●『沈まぬ太陽』(補記)

++++++++++++++++++++

 今朝、起きるとすぐ、「『沈まぬ太陽』vs
日本航空(JAL)」という原稿を書いた。
「あの映画は、日本航空(JAL)の名誉を
傷つけているという内容の原稿である。

それについて朝食のとき、ワイフに話すと、
「そうね、私もそう思う」と、あっさりと
同意してくれた。

++++++++++++++++++++

●一サラリーマンの左遷劇

 繰り返しになるが、労使問題がこじれ、そのはざまで翻弄される、一サラリーマン
の悲哀劇を描くだけなら、何も日本航空(JAL)を、あえて取り上げる必要は
なかった。
それに「左遷」「左遷」というが、当時の日本では、あの程度の左遷劇は、どこの
会社でもあった。
民間企業ではもちろんのこと、三公社五現業と呼ばれる団体でも、あった。
「窓際族」「単身赴任」、さらに「粗大ごみ」という言葉も、そのころ生まれた。

また海外勤務についても、商社などでは、一度海外に出たら、最低でも2年、
日本には戻って来られなかった。
短期出張(70年代の当時は、「単身赴任」という言葉は、まだなかった)の
「はしご」というのもあった。
短期出張は、単身が常識だった。
出張先から、さらにつぎの出張先へ飛ばされるのを、「はしご」と呼んでいた。
しかし商社マンのばあい、海外勤務は、出世コースと位置づけられていた。
(『沈まぬ太陽』の中では、懲罰として位置づけられていたようだが、そう決めて
かかるのもどうか?)

 私がいたあのM物産にしても、社員の7割が国内勤務、3割が海外勤務と
いうことになっていた。
「商社マンは、海外で活躍してこそ商社マン」、
「海外勤務は、夢」、
「海外勤務は、出世コース」と。
私たちは、みな、そう考えていた。

 つまり単なる左遷劇ドラマなら、何もあえて日本航空(JAL)を舞台にする
必要はなかった。

●だれが見ても、日本航空(JAL)

しかし日航123便の墜落事故を描くことによって、あの映画に出てくる国民航空
というのは、日本航空のことと、だれにでも、わかる。
しかもその墜落事故は、映画の中では、トップシーンの中に出てくる。
が、実際には、労使紛争につづく主人公の左遷劇は、その何年か前に始まっていた。
たくみに前後を逆にすることにより、日航123便の墜落事故が、あたかも日本航空
(JAL)の経営陣に責任があるかのような、ストーリー展開になっている。

 が、繰り返しになるが、あの映画は、基本的には、1人の社員の左遷劇を描いた
ものに過ぎない。
それにそのあとに起きた日航123便の墜落事故を、まぶした。
(映画の中では、「JAL123便」が、「NAL123便」となっていたが……。)

 そこで改めて問う。

 どうしてこの映画の中で、日航123便の墜落事故が出てくるのか?
また出さねばならなかったのか?
あたかも主人公の恩地が、被害者であるかのような立場で描かれているが、一歩
退いた世界から見れば、恩地は、社員そのもの。
もし会社に責任があるとするなら、恩地自身も、その責任を負う立場にある。

 またわざわざ「この物語はフィクションです」と断るくらいなら、ほかの事故でも
よかったし、まったく架空の事故でもよかったはず。
つまり一サラリーマンの左遷劇と、日航123便の墜落事故が、どうしても
私の頭の中でつながらない。

●日本航空(JAL)は悪玉?

 ゆいいつ「それかな?」と、記憶に残っているセリフに、こんな言葉があった。

「ニューヨークの高額なホテルを買い占めるお金があるなら、どうしてその
お金を、安全面に使ってくれなかったのだ」と。
日航123便の遺族の1人が、そう言って、恩地に詰め寄っていた場面である。
しかしそれとて、ホテルの買収の話。

 つまりあの映画は、日本航空(JAL)を悪玉に仕立てようと、無理をしている。
それはまるで昔のチャンパラ映画のようでもあった。
善人と悪人の色分けをはっきりする。
とくに悪人は、いかにも悪人でございますというような、稚拙な演技をする。

たとえば補償金交渉をする担当者。
実にわざとらしいというか、取ってつけたような演技。
あそこまで事務的に補償金交渉をする担当者はいない。

●疑問

 となると、ここで疑問は、振り出しに戻ってしまう。
「なぜ、日本航空(JAL)なのか」と。

 1985年といえば、「つくば‘85」(国際科学技術博覧会)(3月)のあと、
NTT、たばこ産業が、それぞれ民営化されている(4月)。
(日本電信電話公社が、日本電信電話株式会社に。
日本専売公社が、日本たばこ産業株式会社に、それぞれ民営化。
日本航空も、日航123便の墜落事故の当日、民営化を決議していた。) 

 さらに言えば、「なぜ、今なのか」と。
日本航空(JAL)は、現在、経営再建中で、たいへん困難な時期にある。
映画を観てもわかるように、労使問題といっても、それは社内という、
コップの中での話。
日航123便の墜落事故は、たしかに不幸な事故だったが、その事故と、
その前段階として描かれている労使紛争や主人公の左遷劇は、関係ない。

(関係があるなら、それをテーマにすればよい。
またそういう映画なら、話もわかる。
たとえば日航123便の墜落事故についても、圧力隔壁の破壊説のほか、
米軍によるミサイル誤射説、垂直尾翼の羽破壊説などもある。
ボイスレコーダーの一部は、いまだに未公開になっている、などなど。)

 まったく関係ない大事故をもちだし、労使紛争にまぶしていく。
あたかも労使紛争が、そのあとに起こる日航123便の墜落事故と関係あるかの
ように、である。

●表現の暴力

 しかしこれこそが「表現の暴力」。
確たる証拠もないまま、労使紛争と日航123便の墜落事故と結びつけていく。
そしてその上で、この物語は、「フィクションです」と断る。

 このあたりに、制作者や監督の、薄汚さを覚える。

 前にも書いたが、たとえば大統領の不正を追求する映画とか、そういったもので
あれば、問題はない。
大統領は公人である。
しかし日本航空(JAL)は、当時はいざ知らず、今は、一民間企業である。
株式も公開している。
そういう会社をターゲットに、こういう映画が許されてよいものか?

 観る人によっては、日本航空(JAL)に対して、悪いイメージをもつだろう。
みながみな、「これは映画」「フィクション」と、割り切ることができるわけではない。
観たまま、「日本航空(JAL)って、おかしな会社」と思うかもしれない。
もしそうなら、(実際、そうだが)、日本航空(JAL)は、本気で怒ってよい。

●制作意図がわからない

 要するに、あの映画は、(原作のほうもそうだろうが)、日本航空(JAL)を
中傷するためだけに作られた映画と考えてよい。
社内の労使紛争の理不尽を、ドラマ化しただけ。
それに日航123便の墜落事故をまぶして、ドラマを水ぶくれ式に大きくした。

 だから私はこう書いた。
「表現の暴力」と。

 ワイフは最後にこう言った。
「山崎豊子は、JALに、何かうらみでもあったのかしら?」と。
そう、何かうらみでもなければ、あそこまでの本は書けない。
日航123便の墜落事故で亡くなった犠牲者は、そのための(飾り)として
利用された。
犠牲者に同情するフリをしながら、物語のスケールを大きくするために、利用された。
しかしそれこそ、犠牲者への冒涜ということになるのではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 日本航空 JAL123便 沈まぬ太陽 国民航空 NAL123)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司