22日は京都支部法座でした。
誓願不思議ということを通じて、「不思議」を味あわせていただきました。
衆生の七不思議として「生・老・病・死・罪・禍福・因縁」というのがあるのですが、これらは私の思いや力でどうにもならない、思議できないということで「不思議」なんですね。
一般的な「ミステリアス」というような得体が知れない不思議じゃなく、計ろうことができないという「不思議」
そういうお話を聞かせてもらって座談会でいろんな方のお話を聞かせてもらうのですが、やはり気になるのは「信心決定したい」という力の入った言葉。
先日書いたことに思いがつながってきました。
信心決定したい
後生の一大事を解決したい
六道から離れたい
どうにかして聞きたい
これらはみんな「私」が主語ですね。
「諸仏に誓い、衆生に願う」のは阿弥陀仏なんですが、そんな弥陀の言葉に耳を貸さず「私が誓い、私が願う」ことをしてしまう。
誓願を”思議”しようとする姿です。
信心決定させる
後生の一大事を解決する
六道から離れさせる
どうにかして聞かせる
が誓いであり、願いであると言うのに。
それらを、今の今「ただ聞かせてもらうのです」と先生がおっしゃっても「どうやったら”ただ聞く”になるのですか」と自分で聞こうとしてしまう姿。
そうやって、自分でなにかアクティブに動いていれば近づけると錯覚、あるいは手ごたえを求めるほうが楽なんでしょうね。
だから「宿善を積め」と言われるとがんばって宿善を積もうとする。
それが財施であったり、聴聞にがんばることであったり、いいように踊らされてしまう。
そうやって宿善をつもうと躍起になる裏で、どれだけ宿業が深まっているのか…
弥陀の誓願は「宿善を積んで来い」でも「後生を解決しろ」でも「人生の目的を持って生きろ」ではなく、ただただ「任せろ」なんですよね。
「任せろ」と言えるだけの願と思惟と行を達成したのが「南無阿弥陀仏」の姿なんですから、もう先に用意されている。
そこに私が頑張る余地などないんですね。
いや逆に、そういう「頑張らなければ」という思いが、不思議に逆らい、弥陀の誓願を疑う「仏敵」の姿ですね。
「信心決定したい」という思いは”用がない”ということを聞かされてそのまま”用がない”と受け止める姿…それが捨てると言うことですね。
頑張ってなにかを手放すことじゃない。
「聴聞につきる」というのは、頑張って聴聞することじゃなく、頑張っても駄目だということを聞かされること。
何を聞くかを横において、形だけ聞くフリをしても駄目なんですね。
もっとも、一生懸命な方は、「フリ」だなんて思ってないでしょうが。
過去のコラムにも「聞く」をテーマにいくつか書いてますので、ぜひご覧ください。
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