コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

なんだかんだ気になるドラマ

2011-01-27 00:00:28 | 親子コミュニケーション

ドラマ「スクール」にはまってきた

偶然の感じで見始めたドラマ「スクール」
今回は見ようと思って録画しておいたので、ある程度先入観(これは所詮ドラマだから)ってのをもって視聴。

まぁ普通ありえない感じの校長像はドラマだからと割り切っておいて、また子ども同士のキスの話題もドラマゆえってんで。
っていうか、実際にこども同志の恋愛感情はそれこそ様々な形で存在してるだろうし、情報だけでいくともっとどろどろしたものもある。
こんなドラマみたいなきれいな、爽やかな恋愛って…なんていうのは”大人”のくすんだフィルターを通して見てるからですね。
うーん、純真じゃないなぁ。

で、やはり私が気になるポイントは一つ。
二つの家庭が(あいかわらず極端だけど)でてきた。
裕福で親も祖父母も子どもを好意的にかまっている家庭。
共働きで、夫婦間に問題があり、子どもにとって迷惑な親の家庭。
が、どちらも子どもに向き合っていない。
上のほうの親は、自分たちは精一杯向き合ってるつもりだろうけど、それは自分の感情(好意)の押し付けで、子どもが望んでいるものを受け止めようとしていない。
また、自分の子ども至上で、他を攻撃する。
下のほうの親は、自分こと中心で、自分の見方であるかどうかがまず子どもへの評価だったりする。

そういう意味では目いっぱい向き合おうとする主人公は輝いて見える。
というか、それが狙いだから親は対極に描かれてるんだろうけどね。


しかし、実際にこのドラマに出てくるような(あるいはもっと劣悪な環境の)子どもがこのドラマを見たらどう思うだろうか。
自身のもっている傷を、テレビドラマでまで見せ付けられるのは…

実際、私の両親は離婚していて、そういう場面をドラマで見るだけでいやなものが胸にざわめきだす。
そのざわめきは理屈じゃなくて、ドラマ的にあとでハッピーエンドが待っているとしても、そう簡単に心は晴れない。
まぁ、そういうのはフィクション・ノンフィクションに関わらずあるんだけど。
今の私はかろうじて、そういういやなものでも、目に触れるのはそれなりのわけ・縁があって、そういうざわめいている心もまた「今・ここ・わたし」だと受け止めるだけの根っこはいただいている。


とはいえ、こういうドラマを「まだましじゃん」と見るか、「これは極端でありえないよな」と見るかは、そのときの個人個人のありようってことで。
ただ、こういうドラマを鏡にして、ただひとつ「私は子ども(親)と向き合ってるかな?」って考えてみるきっかけになればいいかなと。
で、とくに子どもには「向き合ってみて欲しい」なと。
たいしたことは出来なくても、子どもが話したいと思っているときに、まずは一度、聴いてあげる事からでもね。


真宗カウンセリング研究会50周年

2011-01-26 02:24:27 | 真宗カウンセリング

先々週末の「聴き方・伝え方の学び」や、先週の真カ研世話人会議、日曜礼拝、輪読会など書きたい話題は尽きない
ドラマ「スクール」第2回の話題も書きたいしね。

が、先にやるべきことを優先していた。
それもなんとか先ほどめどがついたので簡単にブログを。

というか、その「やるべきこと」ってのもそんなに時間のかかるものではないんだけど、日々の仕事や家事の合間でこなさなくてはならなかったり、急な出張が入ったり。
それならば、普段レギュラーででていない輪読会を欠席して・・・とも思ってたけど、流れもあって参加したし。
(そこに至る心の流れはブログネタとしては面白いんだけど…ちょっと賞味が切れてきたかも)
さらに飲み会などと言うお楽しみのお誘いは決して断ろうとしないし。

このへんのグダグダさが私らしいと言えば言えるし、そんなグダグダ状態であれこれ引き受けてしまうのも問題だけど、そういう「頼られる」感じで流れてくるものはうれしかったりするので、苦労はいとわない。
というか、そういうことを引き受けて「えらいねぇ」と言ってもらえることがうれしいしね。
そのへんはなにかと褒めてもらおうと擦り寄ってくる息子の姿となんら変わりないなと。

さて、もうちょっと書きたいところだけど、これも次の予定があるので今日はここまで。

そんな合間でも書きたかったのはこのこと。
真宗カウンセリング研究会は来年度「50周年」を迎えます
ちょっとした記念の集いも計画中なので、ご縁のある方は11月の予定を埋めないようにね。
近日、情報を発信します。


「スクール」(学校)にまつわる話題と雑感

2011-01-20 23:46:54 | 親子コミュニケーション

ここ数日、学校に関係する話題なんかが目に飛び込んでくる。
”思わず”意識することになるこういうタイミングって、偶然のようであって、実は無意識のレベルでそういう話題にアンテナを張ってるのかなって気がする。

日曜日の夜、食事時に録画してあったテレビ番組を見ていて、それが終わったときに「スクール」というドラマがやっていた。
特に見たいと思ってたわけじゃないんだけど、ドラマ「ジェネラルルージュの凱旋」でなかなかいい役者だと思ってた、西島秀俊が出てたんで何気なく見てた。
すると、そこで繰り広げられる教育・親子の関係がいろいろ気になりだして…

とりあえずは「ドラマ」だから、そこでのいろんなトピックの描き方が”極端”なんだろうなってことは頭にいれている。
しかし、困った感じは味わってしまう。

いわゆる”熱血型”の主人公が、現代の学校問題に立ち向かっていくってことなんだろうけど…

まずは「男女間格差」の問題で、男児・女児ともに「さん」付けで呼ぶことを皮肉っている。
確かに親近感を持って、名前の呼び捨てがいいこともあるかもしれない。
しかし、そういう接し方が出来る子と出来ない子が出来てしまうなら、差別のないように苗字+「さん」がいいんじゃないかと思ってる。

次に「頑張る」ってことに対して「今の子に頑張らせると”体罰”になるんです」なんていう表現をしている(ほんとにそういう指導があるの?)
私も「頑張れ」と言う言葉の扱いにはいろいろ想いを持っているのだが、「頑張らせるのが駄目」とは思ってない。
「今の精一杯」をしている子に対して、「今・ここ・わたし」を認めずに、「それじゃ駄目」というニュアンスを含めての「もっと頑張れ」ということに対して「そうじゃないだろう」って思っている。
でも、このドラマの「頑張らせない」ことを「おかしい」という描き方を、私の「”頑張れ”否定」につながってしまうといやだなって事で。

あと「一人の子に向き合えないで、どうして100人の子に向き合えますか」という考え方。
うーん、これはうなづける。
うなづけるんだけど、そのセリフの元で「ひとり」に関わることが、残りの99人を置き去りにしてる状況だと話は違ってくる。
まぁ、ドラマなんで1話に付一人を取りあえげて行くしかないんだろうし、こういう描き方になるんだろうけどね。

もう一個気になったのは、これは今後どういう描き方をするのか分からないんだけど、なんとなく「PTA役員」が、学校に一言持ってる「選ばれた人」的な雰囲気をぷんぷんさせてるところ(笑)
まぁ、ドラマとして面白くするには「熱血校長vsクレーム父兄」って感じにされるんだろうけどねぇ。

でも、「男女間差別」の問題でも、「頑張るをめぐる」問題でも、現場ではとてもデリケートに取り組んでるであろうことを、盛り上げのために揶揄されるとちょっと困るなぁ。

一方、今回のドラマで取り上げてる「親子関係」もちょっと痛々しい。
「九九が出来ない」事を隠してうそをついていた子が、熱血校長と触れ合うことで勇気を出し、うそをついていたことを表明して、出来るようになった事を訴えるんだけど…
まず、忙しいから向き合おうとしない。
嘘をついていたことを責め、できるようになったことを認めない。
一生懸命働いて子育てしてるのは分かるけど「誰のために一生懸命働いてると思ってるの」と言ってしまう。
しまいには「あんたは私の子じゃない」と責め立てる。

極端ではあるけど、きわめてありそうな話。
なんか、親子コミュケーション問題を浮き彫りにするモデルだ。
嘘を駄目だと言うのは大事だが、同時にある「褒めて欲しいこと」を受け止めてあげることはもっと大事。
それが子どものためではあっても「子どものために働く」と決めたのは自分なんだから、それは「自分のため」で、その責を子どもに押し付けるのは駄目。

まぁ、ドラマなんで、最後に母親の元に駆けつける子と、受け止める母の姿を描くための確執なんだろうけど…ね。


今後、どういう描き方をされるかとても気になってしまったし、表現のもととなる風潮がまったくなければドラマは成立しないだろうから、現代の教育を見る1つの側面として注目してみようかと思ってる。


もう1つは、ネットのニュースで見て、その後たまたま見てた番組で取り上げられていた「教諭が保護者を訴えた」と言う話題。
これに関して問題の大元は「報道のされ方」にあると思うんだけど、双方の事情や経緯を知らず、マスコミに取り上げられる表面の部分だけで「学校が悪い」「親が悪い」と情報通になったつもりの人のなんと多いこと…
この話題をいろいろ触れたかったけど、長くなりそうなんで今回はパス。
ただ、この手の話題は学校を悪者にする傾向があるなと。
そして、親と教師が対立し、周りが煽る中で、子どもが置き去りにされていく。

学校に一言の前に、親としてやるべきことをしているかどうか自戒することが抜けてないだろうか。
親がしつけせずに、学校に多くを求めるのはおかしいんじゃないだろうかね。
と言うことを考えると、先のドラマのケースも含めて、親と子が向き合う時間がない…そうせざるをえない、社会の状況など、持ってる根は深いなと。


そんなことを思いながら、昨日小学校の参観日に行ってきた。
問題が無いことはないだろうが、笑顔の子どもらがいた。
これが当たり前じゃないってことも感じながら。

親子も、先生と保護者も、みんなじっくり向き合ってわかりあえたらいいね。


他の親御さんとの交流

2011-01-15 19:50:19 | 親子コミュニケーション

連休を報恩講で終え、明けて火曜日から子どもらの学校が始まりました。
その次の水曜日の朝は、「あいさつ運動」で、PTAの役員は朝から校門で「おはよう」の声かけです。
白い息を吐きながらも、朝から大きな声で挨拶するのはとても気持ちいいもの。

週に数回夜勤の仕事に行く私は、その帰りがちょうど通学時間になることもあり、知っている顔を見かけて目が合ったら「おはよう」と声をかけるようにしています。
通学路的に、その時間にそこを歩いている子はみんなこの学校の生徒なんで、むこうは私のことを知ってるかもしれないんで、みんなに声かければいいんですけどね。
返事が帰ってこないと寂しいってのと、今ひとつ勇気がないってんで、ついつい目があって反応がある子だけになっちゃいます。

でも、こうやって役で校門入ってくる子みんなに声をかけると気持ちいいですから、次からできるだけ声をかけてみたいなと。

そう、自分が気持ちいいからやるっていう、これも損得の判断で動いちゃいますねぇ。

そのあと、PTAの役員会。
つい先日お手伝い始めたと思ってましたが、もう次年度の役員を考える時期になってます。
ほとんどの仕事を、昨年から引き続き役員してる2年目さんに任せてましたから、これからどうなるかちょっと不安だったりします。

いろんな作業をしながらいろいろ雑談になるんですが、やはり十人十色で、子育てのポリシーもそれぞれ。
でもそのことが大いなる学びになります。

特に、しつけとして「手を出す」という事に関しては、自分自身がどういう育てられ方をしてきたか、自分の連れ合いの考え方はどうか、自分の育てられ方を模範とするのか反面教師とするのか…
私自身は、「しつけ」と「暴力」の境界線がないことと、与える側がどういうつもりであろうと、受ける側が傷つく(肉体的だけではなく精神的にも)ことがある限り、それは暴力だと思ってます。
そしてそれは、言葉により傷つけられる場合も含みます。

とはいえ、私自身「手は出さない」と言う自分なりのポリシーはありますが、言葉で子どもを傷つけることはよくあります。

このあたりは以前も「親子コミュニケーション」のカテゴリーで何度か取り上げてますが、一度、今の私のところでまとめてみたいですね。


明日は「聞き方・伝え方の学び」の学習会があります。
実践では、このあたりのこともはなししたくなるかもしれませんね。


報恩講 ~召還の呼び声

2011-01-11 09:03:27 | 真宗

二日間の報恩講が終わりました。

今回は、久しぶりに増井悟朗先生の座談会に司会役で配備され、いろいろと味わいが深かったですね。

以前書いた華光大会の時もそうでしたが、座談に対する私の確固たる思い(確固とはいえ時と共に移ろってますが)と、目の前に繰り広げられるものにしんどさを感じるところがあります。
大事なことなのに、「否定」という刃でしか伝わらない伝え方はその場に居て心苦しくなります。
伝えたい方の思いもわかるだけに…ねぇ。


一方でそんな伝わり方への想いを超えたところで、法の前に照らし出されるものに浸らせていただいた二日間でもあります。

その味わいは、終わってからちょっと呑みに行ったときの何気ない話題からハッキリと私の中に言葉にさせてもらいました。

「私の居所」

これが二日間のご縁の中で聞かせていただき、目の前で繰り広げていただいたもので味わえたんですね。

他人に伝えるための言葉ではなく、私の腑に落ちるところでの言葉なのですけれども。


今、ここ、この刹那に届いている呼び声に、応えさせていただくだけ。

それが一念だとかそれとは違うとか、そのためには堕ち機が知れていないととか、無常観や罪悪観はとか…そういうものが「居所」をはかるものだと思われがちなんですが、そうではない。
届いている声に忘れがちなこの私が、居所を問われたその刹那に、届いている声に気づかされたなら、たちまちに南無阿弥陀仏と応えさせていただく。
次の瞬間には、それが全力だったのかそうじゃないものかとか、でもまだ足りないものがあるとか、いろんな想いが襲ってくるかもしれないけれど、まずは称えさせていただく。
そして、そういう想いによって、「ごちゃごちゃ考えるのが私で、それがお目当てなんだ…」と願いに気づいたなら、その刹那に応える。
「忘れっぱなしのやつやな」と実機を知らされたなら、その知らされることがお働きなんだからその刹那に応える。

振り返れば、そういう「ごちゃごちゃ」理由を並べ立てる輩だから、機の中身や法の中身を懇切丁寧に先生方が説いてくださっているんであって、つまるところは「南無」に「南無」で応えておくれってことなんですよね。

一瞬前までごちゃごちゃ考えてるし、一瞬後にはまたごちゃごちゃ考えるんだけど、この刹那だけは応える。

「いや、それができないんですよ」
「称えるだけならできますが」
「でも響かないんです」
などなど、いろいろおっしゃりたいことはあるでしょうがね。

先手の「南無」はいついかなると時いかなる場所にも満ち満ちているんですから、私のほうの接点は「今・ここ・わたし」で応えるだけですね。

 


変わるもの、変わらないもの (年が変わって思うこと)

2011-01-07 06:54:34 | 真宗

サボってる間に年が変わりました。
今年もよろしければお付き合い願います。

ここ数年、「新年に志し新た」と言う感覚が年々薄れ、むしろ「大晦日と新年の変わり目の刹那で、この私のいったい何が変わるというのか…」と天邪鬼なことを考えてる次第です。

振り返れば、誕生日を境に、昨日まで少年法の保護にあった人間が一般に扱われるようになったり、酒・煙草がご法度だったのに解禁されたりだとか…人間が勝手に定めた時間の単位でもって、いったい本質の何が変わるのか…ということをずっと考えてきました。
そういう時間軸の問題ではなくて、本人の自覚・成長の問題なんだろうと。

しかし、帰結するところは「そういう自覚と言う不確かなものに頼らざるをえないから、時間と言う客観的なもので計るしかない」ということになるのですかね。


というような愚痴愚痴したことを、新年早々のSNSに書き込んで、新年を迎えておりました。

今年は娘の受験もあって、毎年恒例の連れ合いの実家にも行かず(帰省と言うよりは新年のお手伝いが目的でしたが)久々に京都で新年を迎えました。
ということで、元旦は朝から母方のお墓参りに行き、祖母のお見舞いに行き、午後から華光の修正会にお参りしてきました。
(本当は、本山の元旦会に初詣でするつもりでしたが、気がついたら6時だったもので…)

で、祖母の病院にいったとき、世間では元旦と浮かれているときも仕事をしている看護士の方の姿を見、まずます「新年だからって変わらんよな」と。
さらに、寝たきりの祖母の姿から、祖母にはもう旧年も新年も意味がなく、朝も夜もなく、静かにここに「居る」姿をみました。

そんな想いを抱きながらお参りした修正会ですが、やはり帰るべきは虚仮の姿ではなく、法に照らされたところなんだなと。


増井先生のお話は「いろはうた」を題材に、無常を教えてくださいました。
だからこその南無であることも。
(修正会・いろはうたの話題はかりもん師のブログで)

そう、私の中には「昨日と今日で何が変わった?」という感覚と、「昔の私と今の私で何が変わった?」という感覚の、二つのスパンで味わうものがあります。
1つの意味では、変わっていないと思っているのは私だけで、この刹那刹那に常ならぬものはないという事実があることを。
また、変わっていないつもりで、ほんの一日の間に食べた食事だけでも多くの命をいただき、罪を重ねていることを。
さらには、その境目がどこだと言うことではなく、常に照らされている法に「南無
」と応えさせていただける身にしていただいているという大きな変化があるということ。
もちろん、その中には変わらぬ因果の道理によって、「堕ちるしかない身」という”常”があるということも。


年賀状を作成しながら子どもの成長に驚き、祖母の姿に元気だったころの思い出を探り、自分を横において「変化」を見せ付けられながら、無常を無常と知れない身を感じます。
いや、感じないだけで、事実はここにあるんですけどね。