コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ18

2008-06-26 00:36:50 | 親子コミュニケーション

今日は単純に「抱っこ」

保育園に子どもを迎えに行ったとき、先にいた別のお母さんが子どものいる部屋の入り口で、しゃがんで両手を広げるのを見た。
次の瞬間、部屋の中から子どもが飛び出してきてお母さんに飛びつく。
あまりの勢いにお母さんはしりもちをつくが、親子でニコニコ笑っている。
ただそれだけの光景が、私にはうれしかった。

ふと後ろを見ると、今度は別のお母さんがまだ生後半年くらいの赤ちゃんを抱っこひもで抱きかかえている。
赤ちゃんはもうまかせっきりで、幸せそうな顔をしている。
お母さんも笑っている。
ただそれだけの光景に、私もつられて笑顔になる。

前にカウンセリングの集まりで聞いたことがある話。
それに少し私の感じたことを加えたもの。

最初は子どもを包み込むように抱っこする。
子どもは親のふところで安心している。

次に、向かい合わせでお互いの顔が見えるように抱っこする。
子どもは親の顔を見て、目の前にいることに安心する。
まだ親と子だけの世界だ。

もう少し成長するとおんぶをせがみだす。
これは親と同じ視線で同じ方向を見ることになる。
親と一緒に、目の前の世界を知っていく。

さらに成長しだすと、肩車をせがむ。
これは親を超えて、親より遠くを望もうとする意思の表れだ。

もしかしたらこじつけなのかもしれないが…
私はこういう意味もあるんじゃないかなと思う。

どうせいつかは抱っこもせがまなくなるんですから、今のうちに精一杯抱っこしてあげましょうよ。

親子コミュニケーション 17 「いただきますの意味」
親子コミュニケーション 16 「今のあなたでいい」
親子コミュニケーション 15 「手をつなごう」
親子コミュニケーション 14 「逃げ道」
親子コミュニケーション 13 「違った雰囲気」
親子コミュニケーション 12 「沈黙も大事に」
親子コミュニケーション 11 「尊重してあげる」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ17

2008-06-24 16:49:26 | 親子コミュニケーション

今回書きますことは、仏教の考え方を中心としますので、他宗の信仰や道徳的な考え方とは違う部分もあるかもしれません。
まぁ、ひとつの考え方としてお読みください。

食事の時に「いただきます」「ごちそうさま」って言いますよね。
保育園・幼稚園や学校でもこれは当たり前に教えています。
おうちではどうでしょう。
もし、していないご家庭があるようでしたら、ぜひ食事の挨拶を家族全員でしてあげて欲しいと思います。

昔と比べても仕方ないのですが、食事の時に家族がそろうというのは当たり目であり、また重要なことでした。
しかし、だんだん仕事の時間というものが、かならずしも朝から夕方というものではなくなってきましたし、そういう人に合わせてショッピングセンターやいろんなお店が深夜営業や終夜営業しています。
と同時に、共働きなども増えてくると、なかなか家族揃って食事とはいきませんね。

で、子どもだけ先に食べさせてしまう時もあるでしょう。
そんな事情でも、この「いただきます」だけは一緒に言ってあげて欲しいんです。

じつはこの「いただきます」という言葉には深い意味があります。
私は仏教の教えを聞かせていただいているものですが、食事というものは「ほかのいのち」を奪う行為だと教えられています。
牛や豚、鳥や魚、米や野菜にしても、ほんとうは連綿と続いていくはずのいのちを、そこで断ち切って「いただいている」んですね。

また、それらを育てたり獲ったりしている人たちのおかげ、流通で運んでくれる人のおかげ、販売するお店屋さんのおかげ、料理してくれるひとのおかげ、食材を買うためのお金を稼いでくれるひとのおかげ…自分が食べるという事の裏に、これだけの「おかげ」がいるんです。

そういうことを、いつか一度、子どもに話してあげて欲しいと思います。

最近、信じがたいような事件をよく耳にします。
他人を傷つける、親でさえ殺してしまう…
自分と関係ない存在だと思うからじゃないでしょうか。
自分だけで生きていると思うからじゃないでしょうか。

自分が今ここにいるということだけで、どれだけのおかげがあるか。
どれだけ「いただいて」今ここにいるか。

食事の言葉を大事にして、その意味を聞くだけで、「いのち」を大事にする一歩になると思います。

私の子どもは、保育園が仏教園であることと、私たち両親が仏教徒であるので、外食の時でもこの言葉を言ってから食べます。
「みほとけと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
 ふかくごおんをよろこび、ありがたくいただきます」

今週末に、京都の華光会館で行われる「日曜礼拝」に、私が講師としてこの話をします。
幼児から大人まで、幅広く参加されていますし、子どもだけの話し合いやゲームの時間、大人の座談会もあります。
よければご参加ください。
また、このときの話はコラムにまとめてアップしようと思ってます。

親子コミュニケーション 16 「今のあなたでいい」
親子コミュニケーション 15 「手をつなごう」
親子コミュニケーション 14 「逃げ道」
親子コミュニケーション 13 「違った雰囲気」
親子コミュニケーション 12 「沈黙も大事に」
親子コミュニケーション 11 「尊重してあげる」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


やはり「聞く」ということに戻ってくる

2008-06-22 22:05:06 | 真宗
今日は京都支部の法座でした。
ネットで増井先生の法話を見て初参加された方や、神奈川からお参りされた方など、22名のお参り。

「しんじんのうた」のお勤めの後、増井先生のご法話をいただき、あとは時間いっぱいまで座談会。

ご賛題で「二種深信」のお話を聞かせていただいているのですが、座談になると「自分の思い」に捉われてしまう聞き方というのがあります。

「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」と、すでにこの私というのは「つねに没」「つねに流転」つまり迷いまくっているわけですよね。
その迷いから「出離の縁あることなし」なんだと。

しかし、自分の聞き損ないがなんとか変わって「凡夫」なんだと知れるようになると思ったり、がんばって聞き続けて「無常だ」としれるようなるのを待ったり…いつか出離の縁が来ることを待っている。

この自力の念仏がお聞かせにより他力に変わるのを待とうと思ったり、「あぁ、いいことを聞いた」と次のご縁の種にしようと収めてしまったり…いま、ここにかかっている「どうか聞いておくれよ」の願いを横に置いてしまう。

今まさに「お念仏」が口から飛び出していても、心では「今死ぬと思えんからこのお念仏では…」などと自分の心を格闘してしまう。

その口から飛び出しているお念仏を自分の耳で聞かせてもらいなさいと言われても、相手にするのは「機ざまが変わっているかどうか」

私の方は、どこまで行っても「出離の縁あることなし」だと断定されているというのに。


で、これは何も他の人の話じゃなくて、自分の聞き方はどうだろうという話で、自分自身が最初から「そのごとくに聞く」ということが出来ていたわけじゃないですね。
自分の聞き方が「正しくない」ということを何度も教えられ、それでも「少しは聞けるようになったかな」という自惚れを折っていただき、「自分に出来ることは邪魔しかない」と出来ることがあるという思いを剥ぎ取っていただいて、そうして全てお膳立てしてもらったところに頭を下げるだけだった。
まったく、すべていただきもので、自分でこしらえたものは役に立たない…それどころかそれが邪魔をしているというのだから。

自分の心持や、思いに向いている…向いてしまう…向かざるを得ない…そんなものにこだわるのをやめて(亡くすことはできないしね)、そう思わしてくれるきっかけとなった本願に心を向けるだけ。
そう、自分を相手にしてしまっているということでさえ、自分で気づいたんじゃなく、法に出会って気づかせてもらった。

具体的に言うと、法座で聞かせてもらうご法話や、座談での先生のお話、友同行の声を、自分の思いや感情を交えずに聞くということ。
先生が「無常というのは、今命がなくなるということだ」と言われた時に、そう思えるとか思えない自分だとか考え出すのじゃなく、そのままの言葉で「無常というのは、今命がなくなるということ」と繰り返す。一度形だけ繰り返したところで何も変わるはずがないから、もう一度繰り返してみる。理解してるとか、腑に落ちるとか、そんなことも横に置いといて、「無常というのは、今命がなくなるということ」となんどでも繰り返し声に出して言う。自分では知るはずがないことを、先生の姿を借りて伝えてもらっていることを繰り返し口に出してみる。自分の口から飛び出してくる言葉を、もう一度自分の耳で聞いてみる。何度でも繰り返し、口に出して聞いてみる。それでも湧き出してくる「これでいいんだろうかという」という思いも、「出てきたら駄目」「これじゃまだ足りん」などと相手せずに、無視して自分の口から出てくる言葉だけを相手にする。無常を知るというのは、無常と感じるのではなく、自分の知恵をはるかに超えた阿弥陀様が私の姿を見通して教えてくれることを、思いを抜きにして聞かせていただくこと。
そうすれば、「無常を見つめなさい」と言われたなら、それが「私のいのちが今なくなること」と、理解や知識を超えて響いてくる。

これはなにも無常ということだけじゃなく他に知らされる私の「機ざま」や法の姿、「願い」に対しても同じこと。自分の思いを挟まずに、聞かせてもらうという事。

最初は意識して訓練的にやってみるのもいいかもしれない。
ただ先生を絶対視して、一字一句覚えようという事では決してない。ましてや洗脳でもない。
自分の思いを交えずに、「聞く」に徹する訓練。
そうやって「聞いた」上で私がどう感じているかを見つめなおせばいい。

ちゃんと「聞く」まえに、自分で納得したり理解したつもりになることが間違いなのだ。

仏法は聴聞に極まるというのは、こういうことだと思う。

真カ研月例会 6月 その2

2008-06-20 02:16:29 | 真宗カウンセリング
昨日の続きです。

1日たって、昨日書き込んでいた感じからはかなり離れていってますが、ちょっと書ききれなかったところで書きます。

自分の中で起こってくる感情を、自分で意識してみて、そこで起こってくる「こうしたい」という気持ちに、偽りなく素直に表明する。
基本的には、こういうことを「自己一致」といえるのでしょうし、「開いている」という言い方も今までよく聞いてきました。
しかし、今回読んだ論文の中には「透明」という表現がありました。

「一致」していれば、自分が透明であって相手に全て知られることになっても大丈夫なんだということでしょうか。
この心境は今の私にはとても難しいというか、無理ですね。

自分の中でいろいろと経過していく中で、「あぁ、この人との今の関係なら大丈夫」ということで表明できることもあるのですが、そういう過程の考えすらも相手に伝わること、開いていくことができるというのは想像できません。
まだまだ、特定の条件下でしか「開けない」ですね。

ただ、今書いてきたことは相手に表明するという行為の伴うもので、その前段階をまず問題にしないと意味がないですね。
それが、前回書いた「意識する」という時点での「自己一致」

自分の心を偽っている時点で問題外ですから。
この辺が(まだまだ)私の課題。

自分では「一致」していると思えることでさえ、本当の「奥の奥」なのか、妥協や計算の混じったものなのか、自己判断が甘いです。

ただ、いろんな関係の中で「あぁ、これが自己一致ということか」という自分を引っ張り出していただいた経験・感覚はありますから、そこは経験と訓練で、そこに立てるようになることですね。


あともうひとつ、こういう「一致」できる関係・環境にかんして、自分の中の思いを話したのですが、「カウンセリングや法座だと一致できる」「商売や仕事など、利害関係があると自分の気持ちを隠したり誤魔化したり、不一致になる」「そのほうが良いという訓練をつんできたので、不一致の癖がついている」ということを言いました。
しかし、「それも思い込み・決め付けじゃないか?」「利害関係の中でも一致できることは”ある”」ということを教えていただきました。

確かに思い込みであり決め付けですね。
さらに言うなら、そういう関係の中でも「一致」を目指すことより、「そういう関係では一致は無理」とあきらめてしまうほうが楽であり、自分に都合がいいんだなと。
まったく、困った自分だと、気づきをいただきました。

真カ研月例会 6月

2008-06-19 00:01:18 | 真宗カウンセリング
6月月例会

今日は真宗カウンセリング研究会月例会に参加してきました。
ちょっと所用で遅れての参加でしたが、ちょうど着いた時が皆さんのチェックイン(自己紹介)が終わったところ。ということで、座るなり私のチェックインとなりました。
まったく気持ちが落ち着かないままでしたので、今日の流れと「気持ちがバタバタしています」という今の気持ちだけ話しました。

今日は、先月から始まった論文輪読の「一致」の項目。
内容は変にまとめると文脈が変わって伝わってしまう恐れがあるくらい、濃い内容なので省きます。

輪読と参加者の分かち合いを通じて感じたことを記しておこうと思います。
「一致」のことでいつも私が悩まされるところは、否定的な感情が起こったときにそれを「自分の中にある気持ちだから」といってそのまま表明することの是非があるのですが、この論文の中では不一致な言葉で誤魔化したりするよりは、純粋に表明することを勧めています。
ただ、何でもかんでも思ったとおり表明することを勧めているわけではありません。
不一致な状態である自分の気持ちに巻き込まれて、関係を損なうことを鑑みてのことだと思います。

この部分を話し合った中で、「感情の一致」と「意識の一致」という言葉を使って先生が話されました。時間が足りなかったので、このことを聴きなおすことが出来なかったのですが、私なりの受け取りとしては、自分の中で起こってきた「感情」に素直になることは「一致」ということとは少し違うのかなと。
たとえば、腹が立った時に相手のことをお構い無しに怒鳴ること…これは怒りたいという感情に素直に従っていることなのかもしれませんが、感情を考えなしに表に出すことであって「一致」とは違うのかなと。
対して、腹が立っている自分の気持ちを「意識」して「あぁ自分は今腹が立っているんだ」と認識すること。それを意識した時に「これを相手に伝えたい」という感情に従って伝えること、あるいは「これを伝えると自分も嫌な思いをするから伝えないで置こう」という感情に従って言わずにいること。
こういう、自分の意識…刻々と流れによって変わっていく意識を受け止めて、それに対して素直であるという事が「一致」なのかなと。
すぐにコロコロ変わっていく自分の気持ちを全部処理しようと思ったら、一時の気持ちを表明しきらないと次に起こる感情に待っててもらわないといけませんもんね。変わったら、変わったで、一瞬前の感情に捉われることなく、何らかの行動を伴いたくなったところに付き合っていけばいいのかな。

ちょっと前までは、相手に対する否定的な感情を押さえずに表明することを”しなければならない”と思っていましたが、それはちょっと違いましたね。

あと、仮に否定的な感情が生まれたときにそれを「相手に伝えられる関係」があるということも話題になりました。これは私が輪読の中でこだわって、混乱したことにつながるのですが、この「一致」ということを論文のテーマになっているのは「援助的関係を作っていくには」ということですので、これから「関係を作っていく」ために「一致」を大事にしようというのに、特定の「関係」がないと伝えられないというのはどういうことかと。

「援助的関係」を目指すには「一致」ということはもっとも重要なことであるけれど、ここには「自分でがんばって自己一致を意識する」ということと、「相談などの関係の中で、自己一致出来ていると感じられる時がある」という違った流れがあるようです。
ここにも、「一致した状態にならないといけない」という決め付けが私の中にありましたね。

こうした勉強会を通じて、自分のこだわりや決め付けを知らされる…すぐにそれが解消できるかどうかはわかりませんが、まずは知己ということが大事ですから。

ほかにも感じたことがあったのですが、長くなってきたので今日はここまで。

日常の中で感じる「聞き方」

2008-06-18 00:16:29 | 日常雑感

今日、自治会の「ある役割の会合」がありました。
前に別の会合に出たときも思ったのですが…

進行役の問題もあると思うのですが、なんでこう「聞くことが出来ない」のかと思いますね。
前で説明している間も、あちこちで話し声が聞こえるし、質問する人がいるとその質問者にはマイクがないのに、マイクを持った人が受け答えだけする。
なんの質問したかもわからないまま進みます。

これは質問者以外のその他大勢が「聞いていない」と進行役が判断して、当事者だけで進めようとしているんでしょうか。
そうすると、当然なにが話題となって進んでいるかわからないその他大勢は勝手におしゃべりしだす。
「聞いてない」その他大勢が先か、「聞いてないと判断」している進行役が先かどうかわかりませんが…とてもイライラする時間でした。

で、今日書こうと思うのは、そういう批判ではなく、今日の会合を通して感じた「聞こうとする姿勢」ということです。

そう考えると、私の普段の関わりは聞くことに関して優秀な人が多い気がします。

まずは、仕事で考えると、商談などの場合、利害関係がありますし儲けにつなげるためにはしっかり相手の話を聞く必要があります。
また、こちらの説明なんかも聞いてくれますよね。
複数がその場にいる場合でも、ひとりの質問を共有するのも当たり前です。

また、機械の操作講習という仕事もしていますが、これは聞き手はしっかり聞いておかないと作業できないわけですから、しっかりと聞く体制になっておられます。

私が所属している保育園の保護者会や、華光会の総会のような会合にもよく参加しますし、進行役を承ることもありますが、聞こうとしてくれる姿勢を感じますし、進行側ももし雑談のような状態になっても、一度質問を「誰々さんからこういう質問がありますが」と打ち出すことで、皆が問題を共有してから進んでいきます。

法座に至っては、自分の「一大事」を聞きに来ている訳ですから、その聞き方に問題があるとしても、聞こうという姿勢はたいしたもんです。

まぁ、損得や利害があるのも確かなんですが、それでも「聞こうとする」ことに関しては優秀じゃないでしょうか。

そういう環境に囲まれているからこそ、私自身ずっと「聞く」というテーマで考えさせられているのでしょう。
反面教師も含めて、これからも様々な関わりを通して、このことを知らされ続けるんだと思います。


 


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 16

2008-06-13 00:36:13 | 親子コミュニケーション

今日の話は、私の中でもまだ結論が出ていない話。
というか、私としての方針は決まってるんだけど、それが他人に薦めるのがいいのかどうかが微妙。

それはスパルタがいいのか、緩いのがいいのか。

私は基本的に緩い方。
出来ないことがあっても、それが今のその子の姿であれば無理をさせようとしない。
勉強であれ、スポーツであれ。

しかし、厳しく育てられたおかげで才能を開花させてる人もいるし…

たとえばスポーツだと、根性論でなくとも「あきらめるな」「がんばれ」というのは普通だし、「自分で限界を決めるな」というのもわかる。
世間で一流と呼ばれるアスリートはそういうところで努力して頑張って、その記録や地位にたどり着いたんだろう。
しかし、私はふと考えてしまう。

すでに、その人なりに一生懸命やっていることを、他人から見て「まだがんばれる、もっとがんばれ」と言われてどうだろう。
「あぁ、これだけやってもまだ認めてもらえないんだ」という気持ちになると傷つくんじゃないだろうか。

成功した人の話を聞くと、そこを乗り越えたって言うのはわかるんだろうけど、その一握りの人よりも、もっと大勢の傷つき挫折してきた人がいるんじゃないだろうか。
そう思うと、安易に「がんばれ」と今の姿以上のことを求めるのはしたくない。

かといって、みんなで手をつないで同時にゴールさせるような競争じゃない競争も疑問だ。
みんな一緒にしようと言うのは、勝ち負けがあると、「負けはだめ」という考え方がそこにあるんじゃないだろうか。
勝ち負けをつけた上で、「負けてもいい」という考え方。
そのときのその子の姿・状態を認める。

「こうであって欲しい」という親の願いはあるだろうし、当然だけど、そうじゃない時にそれを責めるのじゃなく、「今はこうなんだと」認める考え方。

それは決してあきらめの薦めじゃなくて、「今のあなたでいい」ということ。

ちょっと巧く言葉になってないけど、もしなにか感じることがあれば、「おかしいんじゃない」って言うのも含めて反応があれば、それに応える形で言葉にまとまってくると思います。

 

親子コミュニケーション 15 「手をつなごう」
親子コミュニケーション 14 「逃げ道」
親子コミュニケーション 13 「違った雰囲気」
親子コミュニケーション 12 「沈黙も大事に」
親子コミュニケーション 11 「尊重してあげる」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


初夏の味わい

2008-06-09 23:10:05 | 真宗
この日曜日に、家の横にあるプランターをきれいにしました。
夏が近づいて、子どもが昨年に取ってきて放り込んだオシロイバナが伸びてきています。
一緒に雑草が伸びてきていました。
雑草を抜いて、オシロイバナだけにします。
でも、この抜かれた草たちは、自分が雑草だとは思っていません。
のこされたオシロイバナも自分達も、おなじように土から養分をもらい、あめと日光の恵みを受けて当たり前のように育ってきただけです。
私が勝手に、主と雑を分けているだけですね。

その後行った公園では、芝生広場にシロツメグサがいっぱい咲いていました。
花の時期だからまだ許されているが、こいつも雑草扱いです。
でも、どれだけ多くの人に踏まれてもへこたれずにしっかりと根付いている。
そういう、人間の都合で雑草だなんて言われても、力強く生きているんだなという味わいがひとつ。

でも、もうひとつ味わったことがあります。

浄土真宗の領解文(りょうげもん)に「もろもろの雑行雑修自力のこころを、振り捨てて」という言葉があります。
一生懸命、仏法を求めようとしている人は、自分のやっていることを「雑行」(ぞうぎょう)「雑修」(ざっしゅう)だとは思っていません。
良かれと思い、悪よりは善を積まなければとか、心静かに一心不乱に無心にならなければとか、よけいなことをしてしまいます。
そして、振り捨ててと言われたら一生懸命意識から追い払おうとしてしまう。

でも、そういう「雑○」は根強く、踏まれても踏まれても頭を上げて、あとからあとから生えてくる。
「雑行雑修自力のこころ」を根絶やしにするのではなく、「あぁ、こいつには一生振り回されるな」と、そいつを何とかしようとする自分から解放されること。

「こいつが雑草か!こいつが雑草か!」と相手にするから問題になる。
雑草だなんだと気にせずに、そっと寝転がればそこには抜けるような青空が待ってます。
そうすると、今までの雑草も、心地よいクッションに感じたり出来ますよね。 (あくまで味わいですから、たとえ話をあまり深く考えないようにね)

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 15

2008-06-08 00:10:35 | 親子コミュニケーション

今日も(今日こそ?)軽く簡単な心がけを。

昨日の書き込みにあったように、次男はよく怒られます。
今日は保育園がお休みなので、一日中一緒にいたのですが、調子に乗ってなんどか周りを怒らせます。

そういうとき、こちらの顔色を見てまずいと思ったら謝りにくるのですが…

すぐに許してやってもいいのですが、こう毎日毎日だと少しお灸をすえたくなります。
(今日の場合はちょっときつくあたりすぎたのですが)

しかし、そのまま怒りっぱなしというのも大人気ないですし、こちらから簡単に許すのも…
そんなときに、私はちょっとした態度でコミュニケーションを回復させることをします。

それは、子どもより先に歩いているときに、手は後ろで組んでいるのですが、その手のひらを開いて子どものほうにむけ、ひらひらと振ります。
顔は前を向いていますが、手は子どものほう。
言葉にはしませんが「おいで」と。

それだけで気づかないようなら、手を組むのをやめて体の横に出して手のひらを子どもに向けます。

子どもが手をつなぎに来たら、そっとつないであげます。

そのあと最初に問題になった怒らせた原因のことに戻るもよし、違った話題で手をつないで帰るもよし。

でも、手をつなぐということで、子どもはちょっと安心できるでしょうし、こちらも気持ちに一息つけるんじゃないでしょうか。

親子コミュニケーション 14 「逃げ道」
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親子コミュ 番外編2

2008-06-07 01:07:59 | 親子コミュニケーション

また、二人の息子がけんかした。
ちょっとした実例として、また流れを書いてみよう。

原因は単純で、寝床で最初にKくん(長男 小2)がやってきて私の横に寝ようとした。
あとからSくん(次男 年長組)がやってきて、二人の間に割り込む。
まぁ、私の横で寝る権利の取り合いなんだが、そのときにSくんが「あっちいって」と邪魔者扱いしたらしい。
Kくんはそれが気に入らなかったようだ。

まずはKくんがイラつきだし、泣きながら布団を叩く。
まずいと思ったSくんがゴメンと誤る。
しかし、Kくんは許さず、Sくんも泣き出す。
Sくんがかんしゃくを起こすように手や足をばたつかせているので、Kくんも困りだす。

まぁ、ここまではよくあることで、お互いどうしたらいいかわからない状態で、感情だけが昂ぶっている。

ここまでは怒るわけでもなく、様子を見ていた。
で、まずは「横で寝る権利」のことを解決するため、私が寝る場所を買えて二人が両横に来るようにした。
じゃあ問題が解決したかというと、そう単純なものじゃない。
(もっと早い段階でこうしてたら、ケンカにはならなかったかもしれないが)
私も余裕がないときなら「これで二人とも横で寝られるンやからもうケンカするな!はよ寝ろ!」と怒鳴って、二人とも泣きながら寝ることになるだろう。
しかし今日は、このブログのネタにしようと思ったわけではないが、ちょっとじっくり関わってみようと思った。

ここでまず考えたのが、どちらかの味方になるのはやめておこうという事。
両方の話を聞いてみようと意識した。

Kくんの主張は
「Sくんがいつもいやなことを言う。あっちいけって言って仲間はずれにする」
Sくんの主張は
「あやまってるのに許してくれへん。Kくんがいやなこと言ってあやまるときは、僕はすぐ許してあげるのに」

単純に裁くのならばKくんの主張が正解で、Sくんは先の問題解決ができないまま自分の主張に摩り替えている。
まぁ、普通なら「先にいやなこと言ったのはSくんだから、あなたが悪い」ということになるだろう。
しかし、どちらの味方という事をしたいわけではないから、裁くのが目的じゃなく、聞いてあげることを重視する。

とうぜん、お互い主張するだけだから、よほどどちらかが折れない限り納得はしないだろう。
Kくんに「どうしたい」と尋ねると「いっつも、いやなこと言うから許したくない」
つぎにSくんに「どうしたい」と尋ねても、泣きながらバタバタとかんしゃくをおこすだけ。

ここで、母親が部屋に入ってきた。
最初は「S君が悪いンやろ」と当然の理屈で叱る。
そういう対応を責めるつもりもないので、それはそのまま受けておく。

ただ、彼女が来てくれた事で場面転換が出来ると思った。
Kくん側に寝に入ったんで、私はSくんの方により背中をさすってやった。
そしてKくんに、「お母さんがいるから、話したい事聞いてもらい」と伝える。
これで、私がSくんと話しても、ただ単純にSくんの味方してるんじゃないという状況だし、Kくんにも逃げ道ができる。

こんどはしっかりとSくんの方を向いて、ボディタッチ。
まだ泣いていたが、ちょっとだけ落ち着かせて「下の部屋に行ってお話しする?」と場面転換をはかる。
案の定「うん」というので、下の部屋に行き、さらに「散歩しようか」と外に連れ出す。
靴ははかさずに、抱っこ・おんぶで連れ出す。

近所をぶらぶらして、20分ほど密着状態。
ようは、お父さんを独占したかったのが始まりだから、これだけで本人は満足し、他愛のないことを話すだけで、問題にしてたことはどこかへ行ってしまっている。


理屈で行けば、大人の考え方で「これが悪い」「こうしなさい」と指示することも大事だろうが、「解決」という事だけを重視せずに、言葉にできない要求を受けてみてあげることもできるんじゃ無いかと思う。
小さい子どもは、まだまだ「言いたいこと」をうまく表現できないし、言葉尻だけを追っかけていたら矛盾したり摩り替わったりしてついていけない。
小学生くらいなると、少しそれがわかってくるから、「それはおかしい」と弟を責める。
そういう意味でも兄のほうが正しいのだが…
また、その正しいことはちゃんと受けてあげないと、兄としては理屈に合わなくなる。

いちどに両方を納得させるのは難しいので、こうやって別々に対応できればいちばんいいんだけど…中々難しいですよね。

明日はこっそりとおにいちゃんの方を抱きしめてやろうと思う。

問題解決ってことではないけれど、「逃げ道」ってことと「雰囲気を変える」ってことのひとつの形になったんじゃないだろうか。

親子コミュニケーション 14 「逃げ道」
親子コミュニケーション 13 「違った雰囲気」
親子コミュニケーション 12 「沈黙も大事に」
親子コミュニケーション 11 「尊重してあげる」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」