コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

話せる時間があることの意味

2011-04-29 02:50:04 | 日常雑感

今日は「南区まちづくり推進協議会」なるものの会議に参加してまいりました。

 

南区の小学校PTA代表と言うことだそうです。

召喚状には日時と出欠確認だけで内容はほとんど書かれておらず、規模も内容も分からないままの不安な出席です。

まぁ、引継ぎ時に前任者から聞いていれば良かったのですが、引継ぎ事項は学校向けの事柄中心でしたから地域のこういう組織に関しては触れられていませんでした。

いや、もしかしたら聞いていても意識してなかったかもしれません。

 

いざ、会場に入ってみると結構な数の人。

区役所職員を除くと、半分は各地域の自治連会長様。

自分の地域の会長は良く知ってますが、他の地域の方は面識がありません。

これがまた、かなり高齢のお歴々。

残り半分は各種団体の代表で、身近なところですと保育園会の会長や中学PTAの会長、あとは地域の医師代表(歯科や眼科などからそれぞれ)女性会や身体障害者の団体もあります。

それと行政側から消防署や上下水道局などの代表ですね。

そして顧問として区長が座っています。

 

いやはや、予想だにしない本格的な「行政」に関わる集まりにまで進出することになってしまいました。

 

今回は総会のようなもので、役員改選に始まり、昨年度の事業報告と今年度の計画が説明され、承認の拍手でちゃんちゃん…

ただ、こういう進行はお役所さまはお手の物で、そのプレゼン手段も用意された資料も突っ込みどころがないように整備されており、しっかり予定時間で終了と言うものですね。

(自校のPTA総会もこうありたいものですが)

 

ただ、これだけしっかり資料がそろっているから、やっていることが簡単に見えてくるかと言うと…

 

実際に活動されている内容は良く分かりますが、その活動を行う根拠となる声が良く聞こえてきません。

なんといいますか、きれい過ぎるんですね。

同じような事業の報告が昨日の小P総会でもあったんですが、昨日のブログに書いたように「人の熱」があったんです。

 

ここまで書いてもやっとしたものが言葉になってきました。

「南区のまちづくり」なんですが、なんか主役の区民の声が聞こえてこない。

出来上がったものを、事務的に受け止めることしか出来なかったんですね。

おそらく、この日説明された様々な事業の「部会」に参加して運営側に回ればもっといろいろ見えてくるんでしょうが、今の時点ではどういう風にすればその「部会」に参加できるかも分かってなかったりしますから。

今日もらった、説明が省かれた多くの資料に目を通すことからはじめるしかなさそうです。

(それをしてから意見を述べるべしなんでしょうがね)

 

 

と、相手のことを通じて今日の気づきがやっと整理されてきました。

私もいろんな総会などの運営側を経験してます。

いつも時間に追われながらもできるだけ参加者の声を聞く時間を大事にしてきました。

私のくせとして、先にサービス精神たっぷりに「これを聞かれるだろう」と想定して答えを並べてしまうことがあるんですが、これは駄目だなと。

この先回りが、声を殺すことになるんだと。

 

言いたことを言えないのがしんどいことは、コミュニケーションの学びの中で知っています。

だからこそ、ここでも何度も書いているように、話し手の時間を大事にします。

同じ事柄でも、聞き手が言うのではなく、話し手の言葉にしてもらうまで待ちます。

話し手が自分の言いたい事を持っているときに、それに似たことを先に言われてしまうと、似ていれば似ているほど残りの”違い”が表に出しにくくなります。

だから、聞き手は想像して「こうじゃないですか?」と質問したり決め付けたりすることを避けなければなりません。

 

参加者の声を聞くことを大事にする総会ならば、参加者を「話し手」として、じっくり聞く集まりであって欲しいものです。

そう考えると、昨日の小P連の総会も、会長や役員の話を聞く場としてはその生の声が届くいい集まりでしたが、参加者の声が出しやすい時間があれば良かったなと言う思いを持っていたことに気づきました。

その前の「はぐくみ委員会」の報告会が、途中にインタビューとして声を聞く時間を確保していましたから、「声を聞いてもらう時間がない」という不満になることがなかったのかもしれません。

 

と、このままでは主催者側に対する一方的な思いになってしまいそうですが、私自身の反省として、参加するならば「ちゃんと知っておけ」ということになりますね。

あまりにも初めて触れることが多すぎて…

 

まぁ、「知っておく」のが先か、「知らないから聞く」のが先か、ニワトリと卵のようなものです。

今回は「知らなかったことがある」から始まったので、せっかく縁があることとしてちょっとアンテナを張ってみましょう。

あまり守備範囲が広がりすぎると危険なので、軸足は立場でもある「小学校PTA」の視線であることを忘れないように努めながら。


熱意との出会い

2011-04-28 09:59:57 | PTA

昨日、「はぐくみ委員会報告会」と「京都市小学校PTA連絡協議会総会」(小P連)に参加してきました。

 

はぐくみ委員会と言う言葉は、昨年からPTA役員をしたことで、一緒に役員をしてる方が委員として参加したりしたときの報告を聞いて知っていましたが、その活動に触れるのは初めてです。

しかも今回は小P連の理事として、総会に参加するにあたり、その前に行われた「報告会」に参加させてもらうと言うもの。

つまり、こちらから積極的に知ろうと思っていたわけではなく、よくその委員会のことを知らないままの出会いでした。

 

その活動報告にあたり、一般的な事業報告などの形式もあったのですが、劇仕立てで学んできたこと(今年は”食育”について)発表してくださり、しっかり活動して学んだことを理解してきていることと、それをわかりやすく「伝えたい」と言う気持ちがあふれてました。

 

食卓での家族の場面を通して、食事を通してのコミュニケーションを伝えてくれます。

「家族がそろう」ということが、コミュニケーションにとって大事なことが前面に出ているのですが、その報告の渦中に「親から子どもへの伝え方を工夫することで、子どもの態度が変わる」ということを伝えています。

 

食事の準備を手伝って欲しいときに、「あれをして・これをして」「はやくして」あげくには「手伝えへんならもう食べんでいい!」となってしまうことがあります(耳の痛い話ですね)

それを「お母さんはおなかがすいたなぁ」「手伝ってもらって早く食べたいなぁ」などという風に、子どものほうから動くような伝え方をします。

そうです、これって「私メッセージ」になりますよね。

相手の行動を非難したり、批判するのではなく、「私はこうして欲しい」と言う伝え方。

まぁ、ストレートに「私メッセージ」としては伝えていませんでしたが、「気軽に出来る伝え方の工夫」として、軽く教えていました。

でも、それだけでも「あぁやってみよう」と思わせる効果はあるでしょうから、正面切ったワークじゃなくても、こういう伝え方もいいなと。

 

感心したことを直接「はぐくみ委員会」の方に伝えたかったのですが、同行した校長の車で帰ってくる予定だったため、時間的に断念しました。

もし、これからのつながりの中で、「はぐくみ委員会」の方がこのブログを見てくださることがあるかもしれません。

ということで、ここで感想を述べときます。

 

劇仕立ての工夫はとても分かりやすく、勉強してこられたことを報告していただけました。

それから「私メッセージ」をうまく提案してくださったことが、とてもうれしかったです。

 

 

その後、小P連の総会になるわけですが、その報告や提案については先日の引き継ぎ会で一通り聞いていた話でした。

その活動の方針もいろいろ共感させられるものがあったんですが、それよりも心に残っていることがあります。

ひとつは挨拶された校長会代表の先生の熱意が伝わってきたこと。

もうひとつは、先日の会議でも感じた、小P連会長の姿勢と考え方。

ともに「一緒にやっていこう」という気を与えてくれるものです。

なんと言えばいいのか、言葉だけじゃなく、そこに実践している態度が伝わってくると申しましょうか。

 

「伝える」ということが大事にされているのを感じます。

 

そのあたりで、昨年一年、学校のPTAに関わってきて、上部組織である「小P連」がやろうとしていることがうまく伝わってきていなかったことを感じましたし、このままではもったいないなと。

もちろん、学校単位や、PTAと教師側の温度差は様々あると思います。

しかし、この総会に出て前出の方々と出会えた事、またそういう立場に今収まっていること…ちょっと刺激受けて動いてみたくなってます。

 

 

この日の夜は自校のPTA役員会があったので、総会後の交流会には出れなかったのが残念ですが、逆に役員会で話合い、足元の学校単位も大事にしつつ、そこにプラスアルファを持ち込んでみても大丈夫だなって手ごたえを感じてます。

無難に役員をこなすのも1つの選択肢でしょうが…なんか火がついちゃったんですよね。

 

いや、なにも大きなイベントを立ち上げてこなそうってのじゃありません。

機会をもらって私が知りえた様々な方のことや活動を「伝える」ことをするだけで、あとは伝わった方が意識してくれることです。

その「伝える」のところを私なりに。

もちろん、そういう流れに乗れない人の気持ちも置き去りにしないことを肝に銘じつつ。

 

 

だてに「聞き方・伝え方の学び」を継続してるわけじゃありませんから、今こそ実践ですね。


こちらの思いと相手の思いが、必ずしも一致していないと言うこと

2011-04-26 01:15:38 | 「聞き方・伝え方」学習会

土曜日に「聞き方・伝え方」の学習会を行った。

 

いつものように2分間の静かな時間の後、それぞれの今の感じを尋ねるチェックインを行う。

先月もそうだったが、3月の震災以来、色んな形でみなの思いに影響が残っている。

いや、残っていると言うより今も進行形の形で日々の感情に影を落としている。

 

先にひとり15分間の聞き手・話し手にわかれての実践の後、エンカウンター的な座談会を開いたのだが、その話題の材料に二つのニュース記事を持っていった。

カウンセリングであったり、そこまで行かなくても誰かの話を聞いてあげるときに大事な考え方の1つ。

こちらの思いと相手の思いが、必ずしも一致していないと言うこと。

 

1つは、私もブログでよく話題にする「頑張れ」と言う言葉をめぐっての話題。

 

ACのCMに代表されるようにテレビでは「がんばろう」「前を向こう」といったメッセージが繰り返し流されている。だが、当の被災者からは、戸惑いとともにこんな声が聞こえてくる。


「当初はとにかく家族や家をなくして茫然自失だったので、何か声をかけてもらえるだけで嬉しかった。でも、長引く避難所生活のなかで“がんばって”といわれても、どうがんばればいいのか。他人事だからそんな風にいえるんだって、正直、ムカついてくる」(30代男性)


「東京も随分と揺れたらしいけど、家もあるし、電気もガスも水もある。自分は安全地帯にいて、現地のことを何も知らない人に“一緒にがんばろう”なんていわれても、嫌な気持ちになるだけ」(40代女性)


もちろん「がんばろう」というメッセージは善意から発せられたものだ。被災者もそれを理解しているがゆえに、“心の声”が表に出てくることはない。


日本中にあふれる励ましの言葉。しかし、そうした「非被災者」の言葉は本当に励ましになっているのだろうか――。 宮城県南三陸町の佐藤徳憲総務課長が語る。


「この間、県の保健士さんのカウンセリングがあり、“知らないうちにがんばりすぎてるから、とにかく休みなさい”といわれました。自分では、今の状態ががんばっているのかどうか、よくわからないんです。(亡くなった)職員たち一人一人の顔が浮かんできて、精神状態が正常なのかどうかも、よくわからない」

 

被災者「安全地帯東京から“頑張れ”といわれると嫌な気する」

 

 

「頑張ろう」の発信者には悪意はないだろうし、なんとか相手の気持ちに寄り添ってあげようとしているのだろう。

実際、この言葉をきっかけにして、一歩踏み出していける人も少なくはないはずだ。

しかし、まだ悲しみ足りない人には「それではいけない」と言うメッセージになってしまう。

「今、悲しんでいる」「今、どうすればいいかわからない」ということを否定されることほど辛いことはない。

様々な理由で頑張れない人もいるのだ。

 

もう1つ、相手の気持ちに土足で踏み込んでしまうもの

 

 慰めようと思って発した言葉に、被災者の心が傷つけられることもある。

 

「ボランティアの人たちには感謝している。でも、“大丈夫です。絶対に明日はやってきます”“お気持ちはわかりますよ”なんて同情の目でいわれても、あんたたちにわかるわけがないとつい思ってしまう」(仙台市の避難所にいる40代女性)


 気仙沼市在住の50代男性は、被災後2週間ぶりに発見された父親を弔う通夜の席で、参列者の一人にこういわれたという。


「遺体が見つかってよかったですね」


 男性が“遺体だけでも見つけてあげたい”と必死に探し続けていたのは確かだ。遺体が見つかったときには、安堵も覚えたという。


「それでも、死んだのに“よかったね”なんて、人にいわれたくないんです。逆の立場だったらどんな気持ちがするか考えてみてほしい」


 精神科医でたかはしメンタルクリニック(岩手県宮古市)の高橋幸成院長はこういう。


「自宅に家族、仕事も失い、自分だけが生き残ったと苦しんでいる個々の人たちはがんばろうにもがんばれない。虚しく響くだけです。“今日1日を生きましょう”、私はそう話します」

 

被災者の心を傷つけるNGワード「絶対に明日はやってきます」

 

これは普段の関わりの中でも見受けられる、相手に同情して何とかしてあげようと言うときの励まし。

同情と言うのは、こちら側の”してあげたいこと”で、相手が”してほしいこと”ではない。

傾聴ということがあるように、ひたすら聞いてあげる。

それはなにもテクニック的に自分の言いたい事を我慢すると言うことではなく、相手が今感じていたい感情を、自由に体験させてあげること。

悲しいと言ったらなら「悲しいんですね」、苦しいと言ったなら「苦しいんですね」と、こちらの想像や思いを交えずに、相手のかんじょうをそのまま受け止めてあげるだけ。

余計な詮索やアドバイスはいらない。

私からすれば、記事の中の「今日1日を生きましょう」もいらないくらい。

 

こちら側が善意と思って投げかけるもの…相手もそれが善意だと思うからむげに反発するわけにも行かない。

逆に、反発したい気持ちを押し殺して、さらにしんどくなってしまう。

「いやな気持ち」になったり「あんたにわかるわけない」なんて気持ちになったり、それを表に出せなくなってしまう。

 

これは震災のことに限らず、普段のコミュニケーションでも言えること。

「聞き方・伝え方」の学習会では、そういうことを学んでいきたいと思っています。

 

5月は28日の土曜日に行います。案内

また他の集まりでも、こういう学習会や講習を行いますので、気軽にお問い合わせください。
講習などの案内

メールはこちら
manu.takahashi@nifty.ne.jp


テレビで見たカウンセラーの話題

2011-04-23 00:00:30 | 真宗カウンセリング

 

先日、ふっとテレビを見ていたら、夕方に放映している関西ローカルの情報番組が目に留まった。

あるカウンセラーを取り上げると言うので、興味深く拝見した。

 

そのカウンセラーさんは自らカウンセラー活動をしながら、大学で学生に指導もしているようだ。

その、学生さんに向けての言葉がなかなか深く、勉強させられた。

 

「聞いてあげるではなく、聞かせていただく」

「相手の話に”だって”だとか”でも”だとか挟まない」

 

そのほかにもいろいろあったが(すぐにブログに書き留めればよかったんだけど)パーソン・センタード・アプローチや傾聴のことを、自然な言葉で伝えておられる感じだ。

 

不登校の子を持つ親御さんたちに、定期的に集まりを持って接したりもされている。

アドバイスをするよりも、その苦しみを聞かせてもらうことに重きを置かれている。

 

このコーナーは、東北の震災に対して、カウンセリングが必要なことを訴えるためにこの先生の活動にスポットをあてていた。

 

復興という言葉の元に、心のケアまで急いで効率的にしようとする動きが、行政や教育の立場の視点だが、本当に必要なことはとても非効率的で時間のかかる、こういう「とことん聞いて吐き出してもらう」ステップなんだと思う。

 

ただ、1つだけこの番組の取り上げ方で気に入らない部分がある。

この先生は、ガンで余命2ヶ月と診断されているそうだ。

本人がそのことを看板にしているのならば、番組に非はないと思うが、話題を盛り上げるためにそういう看板をくっつけたのだとしたらちょっと寂しい。

 

この先生は「命ある限りカウンセラー活動を続ける」とおっしゃっていた。

それは、今この瞬間の、カウンセラーであることに命をかけているということで、余命が2ヶ月だからその2ヶ月すべてを賭けるということとは少し違うはずだ。

余命2ヶ月と言う状況でなくとも、命ある限り活動を続ける覚悟を持っておられると思うのだ。

だから「余命2ヶ月のカウンセラー」ってタイトルは無粋。

 

余命を知らないだけで、だれしもいつ死期が訪れるか分からない。

(本当に余命2ヶ月が保障されるのならばこんなありがたいことはない)

 

好きな番組の好きな方が担当されたコーナーだけにちょっと残念。

(でも、石田さんの視点は大好きなんでこれからも応援しますよ)

 

お知らせ

今までの「親子コミュニケーションの心がけ」をインデックス作りました。

左側のリンクからご覧ください。


京都市小学校PTA連絡協議会

2011-04-22 08:24:28 | PTA

水曜日、「京都市小学校PTA連絡協議会」の理事会に参加してきました。

子どもが通う学校のPTA会長になるのは昨年度から覚悟はしていましたが、その後今年度に我が校が南ブロック(京都市南区の小学校)の当番校4校のうちの1つになっていることを知らされ、さらにはそのうち3校の諸事情により、我が校が南ブロックの会長となることに。

ということで、各ブロックの会長が自動的に「京都市小学校PTA連絡協議会」の理事になるということで、また立場が1つ増えてしまいました。

 

 

昨年度の理事を中心に、各団体の挨拶や役職の交代がどんどんと進んでいきます。

もちうろん、「子どものため」がPTAであることの主題ですから、そのための様々な「言葉」が飛び交います。

そのひとつひとつはとても大事で、すばらしいことが盛り込まれています。

 

「子どものために大人が規範となる」ということが随所で語られてきました。

連携を取るために、また思いを子どもに実践するために「伝えること」を大事にすることも。

 

しかし、私の中にはいくつか「?」をつけたい状況もあります。

 

こういう大事な話をしてくださるときに、元になる資料を配られているのですが、話を聞きながらずっと資料に目を落としている人の多いこと多いこと。

おそらく「目を見て人の話を聞きましょう」ということは大人が子どもに、(あるときはしかりながら)言っている事でしょう。

資料の内容を読んでいるときはともかく、その説明をしてくださっているときに話し手の方をみようとしない…

レスまではいいでしょうが、せめて相手を見ながら聞いてうなづきをする…

そういう見本を示すことは大事でしょうね。

 

もうひとつは、ある行政の担当者が話をされるときに非常に早口だったこと。

普段の会話でしたらその一人一人の性格もあるでしょうからとやかく言いません。

しかし、「伝える」ということを意識するならば、ここはいつもよりもゆっくり話すことを大事にしたいですね。

「伝える」ことと「伝わる」事は違う。

「伝える」という発信者の自己満足で終わるのならいいのですが、やはり相手と情報を共有できてこそ、「伝わって」こその伝達ですからね。

相手を大事にする観点があれば、こちらのペースではなく、聞き手への意識が出来るはずですね。

 

もう1つは、これは情報を知らなさ過ぎるこちらに問題があるのかもしれませんが…

何が行われているのか説明がなく進行していく部分があるので戸惑ってることがありました。

いや、司会者がちゃんと進行していることは問題ありません。

ただ、各ブロックの会長が今年度の理事になるのは分かるのですが、それ以外に「推薦理事」がいたり、「役員推薦」がすでにあって承認手続きがあるだけだったり…

初めてこの組織に参加したものには?です。

たとえば、

「理事は本年度の各ブロック会長と、昨年ど理事の中から推薦された”推薦理事”で構成されています」

「本年度の役員は、昨年度の理事会にて推薦されており、性格上今年度の新理事からの立候補ではなく、継続的に事業を理解している方にお願いしています」

とか言うような説明があれば、すっと入っていけるのですが、「推薦理事って何?」「役員って実質、私らの意見なしで決まってるもんなの?」と、理解が追いつけないまま紹介され承認され…

 

私が関わってきた色んな会議では、くどいくらい説明・伝達を心がけて、物事を決める前に質問を受けるようにしていた気がします。

これも、情報提供側の「分かっているでしょ」目線じゃなく、受け取り側の「分かってないかもしれない」を意識すれば、大事に出来るところだと思います。

実際は、最初に書いたとおり、この会議に参加する前に、前理事などからもっと説明を聞いていることが必要だったのかもしれませんね。

だとすると、こちら側の準備不足・引継ぎ不足なんで、今回の進行さんには非はないのでごめんなさい、ですが。

 

と、ちょっとマイナス面を書きましたが、それ以上に”感心”したことがあります。

今年度の小P連会長さんのさりげない態度が素敵でした。

昨年の理事さんたちで「卒業式などでPTA会長として紹介されたときに大きな声で返事するようにしました」という話が前会長からあったのですが、新しい会長として紹介されたときに「はい!」と大きな返事をされました。

スローガンをたてることは簡単ですが、それを常に実行することは大変なことです。

まさに規範となる見本を、話題としてではなく実践で見せてくださいました。

また、取り組みの説明をする際に、アシスタントの方が項目を読み上げた後、自分が話す番になるときに必ず「ありがとうございます」と言ってから自分の話しをされます。

一見当たり前のように思えますが、その当たり前を実践している方をなかなか見かけません。

 

この会長さんの態度によって、今年一年、この小P連に関わっていくのが楽しみになってきました。

 

 

 

この日の夜に真カ研の月例会があり、チェックインでこの会議で感じたことを言葉にしてみたんですが、その時に気づいたこともあります。

この会長さんや前会長さんを含めて、様々なことを実践されている方々は輝いていてすばらしいですし、すごく前向きなんですね。

でも、実際の学校現場では、そういう”前向き”についていけず、「頑張ろう、やっていこう」の陰に「そうできない私は駄目なんだろうか…」という方も少なからず居られるはずです。

前向きな声が大きければ大きいほど、そういう声は「出しては駄目」と押さえつけられます。

私は、そこを大事にする視点を持って参加していきたいですね。

前向きな活動をする方を信頼できるからこそ、そこは任せておいて、マイノリティな部分を気にしてしまう私の存在を活かしていければなと。

 

その辺に関する最近感じてることもあるのですが、それはまた改めて…

 

 


憲法月間 人権パレード

2011-04-16 19:20:59 | PTA

5月は憲法月間だそうで、PTAのほうに「人権パレード」への参加要請がありました。

 

ちょっと雨が心配されましたが、暑くもなく寒くもなく、風が心地いい日曜の朝です。

私は二人の息子を連れ、他にも3名のPTA仲間が子連れで参加。

集合の京都市役所前から、河原町通りを下がり、南座の前を通って円山公園まで。

低学年の子らにはちょっときつい距離だったかもしれません。

 

憲法月間という言葉は何度となく耳にしてますが、こういう役をもらって参加が身近にならないとなかなか普段意識していないことが知れます。

 

この企画は「人づくり21世紀委員会」と「京都市PTA連絡協議会」が行っており、開会式には京都市長も挨拶します。

昨年度署名した「児童ポルノ撲滅運動」は、京都市で条例化されるまで発展していますし、こういう市民活動の力もたいしたものだと思います。

 

私自身、今年度は「京都市PTA連絡協議会」のほうへ南ブロックの会長として参加することになりますから、さらに身近な活動として学んで行くことになるでしょう。

「人権」の取り組みとなると、わたしにとってはたいそうなことになってきますが、「目の前のひとりひとりを大事にする」というカウンセリングの学びを逸脱しないところで、その延長線上に広がるものとして捉えれば、私にもその組織の一端として意味が出てくるかもしれません。

先日のブログでも書きましたが、こういう風に話が広がっていくことと、自分の立ち位置とのバランスを見誤らないようにしないといけませんね。

 

 

今回のパレードには、各PTA単位でプラカードを作ってきてくださいとの依頼がありました。

例文としていろいろあったんですが、ここは私の色を出して独自なものを。

さらにはPTA仲間の考えたものをも入れて、5枚作りました。

 

「いま・ここ・わたし」

ありのままの自分でいてもいい社会を


決め付けないで

いろんな考えがあることを認めていこう


「みんなちがってみんないい」

お互いの違いを認められる心を育む


自分を大切に

他人(ひと)も大切に

生きていることを大切に


相手の話をゆっくり聞いて

分かり合える関係つくりを目指して

 

どうですか?

どれも私っぽいでしょ。

 

人権と言う大事なことに対して、似たような考えで進んでいける仲間とPTA活動できることはとてもうれしいことです。

 

パレード終わりの円山公園で、ある学校のPTA会長さんで、他にもいろいろ活動されている方を紹介してもらいました。

うまく連携とって、新しいことができるかもしれません。

 

社会活動自体ではなく、こういうことを通じていろんなつながりが出来ていくことが楽しいのかもしれません。

 

 

集合時、ひとりカメラ目線のわが息子・・・


春は出会いの季節

2011-04-09 18:29:50 | 日常雑感

 

6日は小学校の入学式。

PTA役員としてお世話のついでに来賓席に座ることはありましたが、今回初めて正式に来賓となってしまいました。

しかも、PTA会長として祝辞もありますから、他のお歴々を差し置いて最前列と言う…

 

身分不相応な席ではありますが、受けた役割はしっかりこなさせていただきたいと。

いろいろ伝えたいことへの欲はありましたが、対象が新1年生ってことなので、できるだけ短く、それでいて伝えたいことは外さず…苦労しました。

 

テーマは「命を大事に」ということ。

「他のおかげでもって、今ここにいる」ということを伝えたかったのですが、言いたい事を全部含めちゃうと”法話”になっちゃいます。

戦争や死刑制度なども含めた「命を奪う行為」、また食べ物として「命」を差別していること、自分の命と何一つ価値の変わらない他の「命」をいただくことによって「生きている」こと…。

まぁ、祝辞の言葉では無理ですね。

 

なので、新たな環境での「お友達を大切にする」ということと、「育ててくれた親の恩」と言うところにしぼって、そのことを言葉にしてみました。

反省としては「おかげ」という言葉をしっかり使えばよかったかなと。

 

あとは保護者向けに今ここに居るのは「当たり前じゃない」ということをテーマに。

これは震災のことを具体的に盛り込むことも出来るのですが、これまた法話じゃないですから、一応お祝いの範疇を超えないような言葉で。

 

祝   辞


新一年生の皆さん、ご入学おめでとうございます。

夢いっぱいの気持ちで、このK小学校の門をくぐってきたことでしょう。そんな新一年生にお祝いの言葉を送りたいと思います。

これから小学生となるみなさんは、学校でいろんなことを勉強するあたらしい生活が始まります。自分でいろんな用意をし、おかあさんやおとうさんではなく近所のお兄さんやお姉さんに連れられて学校に来ます。お友達と一緒に通学する子もいるでしょう。


そこでみなさんにお願いです。授業で習うお勉強だけではなく、お友達を大事にするということをお勉強してください。いままで君たちが大きくなるまでには、おとうさんやおかあさん、おじいちゃんやおばあちゃん、保育園・幼稚園の先生と言った大人の人たちの助けがないと大きくなれませんでした。これからはそこにお友達と一緒に過ごす時間が大事になってきます。自分だけでは成長できないですから、ぜひお友達を大事にして、仲良く過ごしてください。そして、お友達を大事にすることといっしょに、命を大事にすることをお勉強してください。


さて、保護者の皆様、お子様のご入学、誠におめでとうございます。

昨今の出来事を通して、あらためて今ここに生きているということが当たり前ではないことを痛感します。この日に我が子が入学式を迎えることを喜びつつ、これからも笑顔で子どもたちが生きていけるように大事に育ててあげてください。もちろん、子育てにはいろいろな悩みも付いてくるでしょうが、一人ではなく、PTA仲間と共に保護者も命の大切さを学んでいければ良いなという思いとともに、お祝い申し上げます。

 

 

まぁ、最後にはお決まりの来賓者への言葉があるんですが、そこは前会長の原稿をそのまま拝借。

「ご臨席賜り」なんて普段使わない言葉は、とてもおもいつきませんのでね。

 

 

この式を進行するのは教頭先生なんですが、今年度から新しい先生に。

これが素敵な先生で、ゆっくりとやわらかい子ども目線の言葉で進行されます。

あとで感心したことをお伝えしたら、「卒業式ではカチッとしますが、入学式は子どもらが緊張してますから、それを出来るだけ和らげたいと思ってました」とのこと。

式ですからある程度格式も必要なんでしょうが、この子どもを大事にするバランス感覚が素敵です。

おそらく今までも優しい言葉で進行してきたんだとは思いますが、この先生の口調や声のトーンがとてもやわらかいイメージだったもので(容姿は私とおなじ強面系ですが…笑)

 

他にもこの教頭先生と事務的な用事でご一緒してますが、この新米会長をうまく乗せてやって行ってくれそうで助かります。

 

 

この日、式の後にもいろいろPTA役員の作業があり、さらには夜に第1回の役員会が開かれました。

いろいろと課題は山積みで、予定時間をかなりオーバーした会議になりましたが、単に学校の言いなりのPTAだったり、逆に学校に意見ばかりするPTAだったりすることなく、相手側の意思も確認しながら進めていくことが出来そう気がします。

 

役員のみなさんに負担はかかるでしょうが、私が会長になったということはそういう流れなんでしょう。

時間をかけてでも、気持ちの確認をしながら一年間進めていければいいなと。

その分、事務作業は効率化して手間を減らせればなと。

 

 

今後、この小学校だけじゃなくPTA南ブロックの会長としての役割も始まります。

あんまり足元のことから離れて、大きく出て行くことはしたくないのですが、言葉を発する”立場”をもらうことで、学んできた「目の前にいる人を大事する」視点で物事が進められればうれしいですね。

(という気持ちの中には、行政単位が大きくなれば、そこにいる一人一人と離れた動きになるんじゃないかと言う懸念や偏見があるんですけどね…苦笑)

 


感情を経験しきる

2011-04-05 00:28:35 | コミュニケーションワーク

あらためて3日間の「真宗カウンセリングワークショップ in 広島」のことを。

 

年間スケジュール的には私は世話役ではなかったけど、急遽ピンチヒッターで参加することに。

この1ヶ月、祖母の死からいろいろと「すっきりしない」ものを抱えていたのは何らかの形でブログにしてきている。

なので、ゆっくり自分と向き合うワークショップは楽しみでもあり、ちょっと心配でもあり。

 

定員いっぱいの参加者は、多くは8月にもご一緒した皆さん。

初めてお会いする方もちらほら。

会場の神田山荘は、まだ2回目だと言うのになんだかなじみの場所の感じ。

全体のワークから始まり、2日目の午後から3日目の午前までは二つに分かれてのワーク。

 

と、内容には触れないので、外殻だけだとこんな味気ないレポートになっちゃう(笑)

ところが、その書けない内容のところでいっぱい”大きな動き”があり、そのことに浸り、そのことに学ぶことが出来た。

 

 

今回、先に書いたとおり祖母の死のことがあった私は、それまでその「死」と向かい合うことが出来ず、その”死”によって受けているであろう感情をしっかり”経験”することができていなかった。

月例会で学んでいるロジャース氏の論文を通じて、「その経験に開かれている」ということがとても大事だと学んでいるのにだ。

なので、この「経験に開かれている」というのは私にとっては大いなるテーマとしてあった。

私の個人的理解かもしれないが、この「経験に開かれている」というのは、それがマイナスのものであっても、しっかりその経験(感情)を”やりきる”ことだと思っている。

悲しければ、無理に悲しみをこらえるのでもなく、ごまかすのでもなく、しっかりと「私は悲しいんだ」と浸ること。

カウンセリングでは、問題を解決するために指示したり操作したりすると思われがちだが、そうではなく当人が自分で”成長”することを寄り添い見守ることしか出来ない。

その”成長”のためには、時間をかけてでも(むしろしっかり時間をかけて)当人が「今・ここ・わたし」を経験することだ。

 

 

そのことが、私の問題ではないところで展開されているのを感じた。

流れの中で、参加者同士の関わる問題が話題になり「すっきりしない」状況が生まれた。

その「重たい感じ」なことを、自分の言葉で表明された方がいた。

目の前には、そうさせた当事者も居る。(もちろん、わざとそうさせたのじゃなく、受け答えの流れの中での問題だ)

ここはカウンセリングのワークの場でもあるし、じっくり時間をかけてお二人を解きほぐすと言うことも出来たのかもしれない。

おそらく、世間的な「まぁまぁ、ここはひとつお互いに水に流して」なんて表面だけでの解決をとることはしないだろう。

 

そのとき「十分”重たい感じ”を味わって、その上で変わってくるものを感じてもらいたい」と思っている私が居た。

そのためには、当事者が居る場面だとお互いに「そんなつもりはなかったのよ」と言う感じのいたわり・慰めが入ってくると、経験がゆがめられるかもしれないと言う思いもあった。

ちょうど時間的なものもあり、二つに分かれるかどうかと言う話になったので、私は分かれたいと言う意思を表明した。

この時点では、もしお二人が同じグループになったらなったときでその場面に任せておけるし、分かれたとしてどちらの方と同じになってもそのときのその方の「今」に任せておける気がしていた。

果たして、お二人は分かれることとなり、「重たい」と表明された方とご一緒することになった。

 

その出来事に関しての思いや、そんな気分のまま二つに分かれたことに対する思いなどもじっくり聞かせてもらえた。

二つに分かれたことで、もうおひと方がどういう表明をされたり変化されて行ったかがわからないという問題もあったかもしれない。

しかし、二つに分かれたからこそ聞かせてもらえた時間が出来たと思っている。

十分かどうかは分からないが、「経験に開かれた」時間になったのではと。

 

その方のストレートな表現に、周りの方は心配したりする場面もあったかもしれないが、私はその方が信用できるし、信頼できるし、関係作りが出来ているし、いろんな意味で安心している。

 

ちょっと配慮的なところで他のやりようもあったかもしれないが、「私で居られる」時間を過ごしていただけたのではかいかと。

それをゆったりと受けながら味わえてる私でも在った。

 

ただ、私自身がそうありたいと思っていた「経験に開かれている」状態で居れたかどうかは…またゆっくりと振り返ってみるとしよう。

 

 

マイナスの感情があったとしても、そう感じる自分でもいいんだと。


先週のあれこれをまとめたいんだけど・・・

2011-04-03 23:04:34 | 日常雑感

先週、月曜から3日間の真宗カウンセリングワークショップが終わり、大いに刺激を受けて書きたいことがある。

しかし、その次の日に広島で仕事をし、帰ってきたのは夜半。
翌4月1日は娘の大学入学式(これについても書ける話題がある)
土曜日は急遽入った仕事で兵庫県小野市へ。
そして今日は祖母の法事(いよいよ来週四十九日だ)

その間に夜中の副業も入っているし、今晩も出勤。
明日には、水曜日に控えた小学校の入学式の打ち合わせもあるし(PTA会長なんで祝辞を考えなくては)

まぁ、ちょっと寝かせといても書きたいことの芯はぶれないだろうから、落ち着いたらゆっくりと。

そうそう、広島での夜も楽しかったなぁ…
うわさの廿日市のお店も連れて行ってもらったしね。