コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 47

2013-01-31 22:39:29 | 親子コミュニケーション

以前にミニカウンセリング研修のときに話した話題で、「コミュニケーションを失敗しちゃうことはわたしにもありますよ」ってお話。
この話に関心を持ってくださった方がいたので、一度文章化しておきたいと思いながらズルズルと。
ちょっと時間が経って心境の変化はあるけど、このまま風化させるよりは今の時点の思いとして、ね。


次男はいわゆる「空気が読めない」といわれるタイプ。
これまでも「なんでこのタイミングでそのことを言うのかなぁ」ということが多々あった。
なので、こちらも「そういう考え方をしちゃう子だ」と対応する。
それはあるときは”配慮”として現れるんだけど、時としては”思い込み”になってしまうという例。


いつも夕食時になると「今日のおかずは何?」というのが日課のような息子。
あるとき、「そろそろ出来るから、食卓の上片付けといてな」と私。
「はぁい」と返事して、兄と一緒に散らかした食卓を片付けてくれる。
「お膳拭いて、取り皿とお箸用意しといてな」
「はぁい」
というやり取りを繰り返す。
で、お膳拭きを台所にもって来て「今日のおかず何?」と。

「食卓の準備を頼む」→「もうすぐ食卓におかずが並べられる」→「聞かなくてもすぐに答えがわかる」
これが因果関係を把握できる思考の流れ(一例だけど)で、こう感じてほしい。
同時に、それがこの子には困難だということもわかりつつ。

しかし、連れ合いが仕事で遅くなると連絡してきて、お腹をすかした子らのために急いで用意をして…
気持ちに余裕はなくなってる状態。
なので出てくる言葉は「もう用意できてるって言ってるやろ、すぐに何がおかずかわかるやろ」
一応、怒鳴ることはなく諭す口調だったけど(連れ合いによると、静かに言うときのお父さんの方が怖いらしい)フレンドリーさは全然ない。
一瞬黙りこくる息子。

ところが次の瞬間思いもかけない言葉が返ってきた。
「ドレッシングとか何がいるのかなって思ったから…」

こちらはいつもの癖のようにたずねている言葉、状況を把握せずに思いのままにいっている言葉だと”思い込んでいた”。
しかし息子はお手伝いの延長で、おかずの種類によって用意するものが変わるから、そのことを考えるために「今日のおかずは何?」と。
(あぁ、思い出して言葉にするだけでも涙が出てくる)
ほんとうに申し訳ないことをした。

「空気が読めない」という特性を理解していないよりは理解している方が良い。
そういう特性があるのなら、配慮してあげて丁寧に一件ずつ事柄を進めてあげられるのが良い。
ただ、そうやってあげることが「こちらがしてあげている」と、思い上がると怖いことになる。
間違っちゃうこともある。
それはお互いに起こる。

お互いでしんどい思いを抱えながら、手を取り合って、抱き合って、共に育たせてもらうしかない。

  親子コミュニケーションのちょっとした心がけシリーズ インデックスはこちら


教育委員会との懇談会を通じて

2013-01-30 03:55:22 | PTA

尾木ママ講演会の翌日、本能寺会館にて「京都市PTA連絡協議会と教育委員会との教育懇談会」に参加。
昨年度は「京都市小学校PTA連絡協議会と~」に参加し、今年度も11月の終わりに行われた。
そういう懇談会を、「幼稚園PTA」「中学校PTA」「高校PTA」「総合支援学校PTA」がそれぞれ行い、それを受けて5校種の集合体である「市P連」として締める。

参加の顔ぶれは小P連懇談会とは一段グレードが上がり、教育長を初め講演会や様々なごあいさつで拝見する方々だ。
内容の方はいずれPTA新聞やホームページなどで公開されるだろうし、割愛。

いつもの事ながら、印象のところで書き込んでおく。

この一年、学校をめぐる様々な出来事が起こった。
例年より重大な問題が起こっているのか、私自身がそういう立場なんで例年より関心を持って子どもをめぐる問題にアンテナを張っているのかは判らない。
しかし、話題には事欠かない。

当然、質問もそういう方面が多く、また回答される教育委員会のお話も「しっかり対応している」というものだ。
実際、何らかの問題が起こった後、迅速に対応策が練られその報告が書面で届く。
しかし、そのことを実際に立案されたり行動されている方の”言葉”で聴くというのはとても心強いものだ。

その上で、私どもとしては「決して起こってはいけない」「決して繰り返してはいけない」という当然でありながら大変難しい注文をすることになる。
お隣のあの市やこの市では「教育委員会」という組織が槍玉に上がっているが、京都市は真摯に向き合ってくださっている。

そんななか、私としてはある方のお話が非常に心に響いた。
前日の尾木さんの講演の話も引き合いにされながら、問題に対応していくときに「最初にしっかりとお話を聞かせていただく」という姿勢を話された。
尾木さんのときはこの言葉は使われなかったが、この方はしっかりと「カウンセリングマインドでもって…」と。
これこそ、このブログで私がよく話題にする、「カウンセリングマインドをもって、一人一人を大事にすることから問題解決は始まる」ということを、こうして教育現場の方からお聞きするととてもうれしい。

市P連の懇談会は、終了後に情報交換会として会食しながらさらにいろいろとお話を聞かせていただける機会がある。
私はその方に、上記の感想をお話した。
すると予想外の答えが返ってきた。
「それは基本です、教職員はこの聞く姿勢を大事にすることで、問題は解決していけます」と。
実際に数千人いる京都市の教職員すべてに浸透しているかはおいておいて、指導する立場の方がこれだけ強く言ってくださるとは。
(力強すぎて、現場から浮いてしまうと怖いが)

この姿勢は保護者側にも必要なことだと思う。

これからも様々な問題が起こってくるだろう。
そういうときに、学校と保護者、行政が対立するところからはじめるのではなく、お互いを尊重しながら「聞き合い・伝え合い」することから、共に動いていけたなら。
それが「子どもを共に育む」ということになっていくと。


尾木ママ講演会 その2

2013-01-26 18:38:50 | PTA

前回のエントリーでもれていたところをもう少し付け加えておきます。

もうひとつ印象に残ったトピックが「大丈夫?」という問いかけをめぐるお話。

なにか困っている相手に対して投げかける言葉ですが…
「そう聞かれたら『ハイ大丈夫です』としか答えられないじゃないですか」というお話でした。
たしかにそうですよね。
よほどカウンセリングマインドになじんで自己開示力の高い方で、なおかつ問いかけてくれる方と信頼の関係作りが出来ていれば「いやぁ、大丈夫じゃないんですよ」と返せるかもしれませんが。
本当は泣きつきたいときでも、「大丈夫です」と返してしまう。

だから「どうしたの?」の問いかけなんですね。
もちろん、そういう問いかけに対しても素直に弱っていることを伝えるのは難しく「いや、なんでもありません」と答えるかもしれません。
でも、「大丈夫?」よりは「じつは…」と答えやすい気がします。


この講演会を聞いて帰った夜、連れ合いがしんどそうにしてたのでついつい「大丈夫?」とたずねていました。
その瞬間、この話を思い出して聞いてきたお話を家族の前で出来ました。
そのとき長男は「ぼくは大丈夫じゃないときはちゃんと言えるけどなぁ」と。
あぁ、このまま素直に育ってくれればいいなと。


もうひとつ別のトピックで「家族の居場所」について話がありました。
一昔前は、できるだけ子ども部屋を作って勉強できる環境をという流れでしたが、最近は「リビングで一緒にいる場所で勉強を」という流れが、住宅建設会社などでも話題になっているそうです。
「勉強部屋用意してもらっても集中して勉強してました?」と問われると確かに…
自分のテリトリーが出来たのはうれしいですが、マンガ読んだり音楽聴いたり(爆)
そして、家族の団欒時間は確かに減ってましたね。
リビングで一緒にいるところで、子どもは勉強し必要あれば教えたり会話したり。
横でテレビ見たりすると邪魔しちゃうでしょうが、そこは「子どもとの時間」として、何もしなくても距離的に寄り添ってあげられれば。
そういうことを尾木さんの話から感じています。


この講演会の翌日、京都市PTA連絡協議会の別イベントがあったのですが、尾木さんのお話が随所で話題になっていました。
良いお話はどんどん広めておきたいですね。

いくつかのメディアで記事になっていました。
どうしても大津の問題に絡められちゃいますが…(苦笑)
http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20130124000159


市P連研修会 尾木ママ講演会

2013-01-25 01:04:21 | PTA

 

「いじめは絶対に許されない 市民フォーラム」として、「尾木ママ」をお迎えしての講演会とパネルディスカッション。
お手伝い役も兼ねて聞かせていただきました。

尾木ママの講演は「子どもの危機をどう見るか ~尾木ママ流!子どもとのふれあい方~」という演題で。
まずは、その話術・演出術に、さすが聴衆の心をつかむ術を心得られているなと。
中央に演台があるのですが、一度たりともその後ろに立たず、常に演台より前で観客に近づき、親しみやすく話されます。

話の中身としては、私がカウンセリングの学びで話題にしたり、親子コミュニケーションとして話題にすることに近いものを感じました。

「信頼」ということを軸に触れ合い方の話題が主題だったように思いますが、そこには「共感」「受容」という言葉がちりばめられています。
子どもが何か行動をしたときに「なんでそんなことするの」と応対しがちですが、そうではなく「どうしたの?」とたずねて、こどもにはなしをさせてそれを受容すること…こちらで決め付けることをせずに、思い込みを横において、子どもの視点で状況を話させることの大事さを説いてくださいました。

親子に限らず、夫婦や職場などの人間関係に通ずることとして、相手の話を”聞く”ことを通じて、思いを受容していくことはやはり大事なことだと思います。


後半は「いじめ」のことを軸にしたパネルディスカッションですが、いくつかの話の中で「いじめられる側の話は聞くが、いじめた側(その保護者)が相談に来るのは稀だ」ということ。
そこの話を聞くことで、解決につながるケースはあるだろうなと思います。

他にもいろいろお聞きしたのですが、ゆっくり振り返るには余裕がないので、とりあえずここまでで。

いつものことですが、きっちり録音や記録をしながら聞いているわけではないので、お話の中身はかなり私なりに偏りがありますので。


南区学校保健会研修会 発達障害の学び

2013-01-24 01:04:19 | PTA

 

昨年、私が講師を引き受けて「カウンセリングに学ぶ子どもとのコミュニケーション」というお話をさせていただいた委員会。
昨年のエントリーはこちら

今年はかねてから念願していたNさんをお招きして発達障害のことをお話していただいた。

PTA会長を引き受けたご縁で、昨年のはぐくみ委員の取り組みで発達障害について学ばせていただいた。
で、これまた不思議なご縁で、一緒にカウンセリングを学んでいたNさんとこの話題を共有できた。
さらに、Nさんが積極的にワークを開いてこのことをお話されていることを聴き、私もワークに参加させていただくことも出来た。
さらには京都で立ち上げられた「みんなで発達障害を考える会」にも参加させていただくことが出来た。
そのときの模様はこちら

他にもブログに紹介しきれていないだけで、いろいろと学ばせてもらっている。
そんな時思うのは、もっと多くの人に「Nさんの話を聞いてもらいたい」ということ。
今回は学校行事を”利用”して、講師としてお招きし、委員会の参加者にとどまらず声をかけて参加していただいた。

その思いの根っこにはNさんの発達障害グループワークへの関わり方がある。

”学び”ということには様々な側面がある。
やはり専門家の言葉は重く、アカデミックなものも含めて”公的”な言葉だ。
それらは学んだ気には確かになるが、一人一人の状況に合わせた機微こととなると物足りなかったりする。
そうすると、誰にでもあてはまるものより、より身近な視点のものが響いてくる。
今回は、ご自身の”保護者として”伝えたいことを”学校現場の先生”に伝えるためにNさんが工夫されてきたことがベースになっている。
まさに、困っている保護者にも先生にも、具体的なところで通じ合うための”共通理解”の部分をお話いただけた。

今回の企画が実現するとき、具体的に何人かの顔が浮かび、「この人に聞いてもらいたい」と思った。
企画が具体的になってからの日数が短く、その願いはすべてが報われることはなかったが。

今後、別の形でもNさんといろいろ企画していこうと話し合った。
(盛り上がりすぎて、気がつけば4時間飲み続けてた)

一度に大会場で数百人に聞いてもらうような性質のものではないが、一人聞かれた方が数人に紹介し、あちこちで話がつながるようになれば素敵だと思っている。

Nさんじしん、様々な形でワークを開かれているので、情報はぜひこちらから。
ご本人の熱い思いも満載されたブログですので、ブックマークをぜひ。

育児パパのあったか・やさしい発達障害談義

この日のことも話題にしていただいています


義父の還浄

2013-01-20 23:32:34 | 真宗

1週間前の日曜早朝、連れ合いのお父様が死去された。
タイトルの「還浄」というのは、「お浄土へ還られた」という意味を込めて。

義父、池永文雄は新潟の雪深い山村の寺で生まれ育ち、学生時代から京都で生活されていた。
なので連れ合いは京都生まれ京都育ち。
今はご両親とも新潟の寺で暮らされていたので、一応新潟へ寄せていただくときは「連れ合いの実家へ帰る」という言い方をしているが。

義父は寺の住職であるということと、京都在住のときはK会で先生もされていたということもあり、連れ合いも浄土真宗の教えの中で育った。
私は、連れ合いと知り合いお付き合いする中で「お義父さんに認めてもらう」ために仏法を聞き始めた。 
そうさかのぼると、お義父さんの存在がなければ私は浄土真宗と向き合うことはなかった。

きっかけはいろいろ複雑なものもあったが、K会に出入りするようになり、不純な動機ながらも諸先生方のお話を聞かせていただくことで、いつしか「認めてもらう」ということから「自分自身の後生の問題」へと移っていった。
思い返せば、それまでは「聞かせてください」などといいながら、何も聞こうとはしていなかった。
しかし、お義父さんとの関係がなければ、そこにまでいたっていないのだから、お義父さんはまさしく「お浄土より人間の姿で現れ私を導いてくださった」仏様であった。
なので、一仕事終えて、人間の身としての役割を終えられ、お浄土へと戻っていかれたのだ。

お義父さんとのエピソードはいろいろあるが、一番私にインパクトを与えているのはお子さん方につけられたお名前。
連れ合いは長女で「利華」これは「蓮華」でもある。
そして二人の息子さんには「至」と「得」
合わせて「得至蓮華」はお正信偈の一節だ。

もちろん、そんな表面的なものだけではなく、お義父さんの好きなお酒をご一緒しながら、真宗やカウンセリングのいろいろなお話を聞かせていただいた。

今年の正月も新潟で過ごさせていただき、京都へ戻る日に偶然30分ほど二人だけになる時間があった。 
最初に「K会はどうなってる?」という問いこそあったが、あとはずっと私の話を聞いてくださる。
私自身の最近の心境を話しても、否定も意見もされず、ずっとニコニコと。
カウンセリングマインドを持ちながら、おおらかに受け入れてもらう感覚。
私が目指そうとしている、「人間的にカウンセリングマインドで受け入れながら仏法のことを語る」姿がそこにはあった。

悲報を聞き、新潟で出会ったお義父さんの表情は、そのときと同じ柔和なものだった。
憂いも感じさせず、悼みも感じさせず、そこに居られた。
そのことがまだ”別れ”を迎えたことを実感させない。

少し落ち着いたら、お義父さんにまつわるいくつかの話もアップしていけるだろうけど… 

 


親まなび委員会研修会

2013-01-11 02:02:37 | PTA

この研修会は、本来京都市中P連の行事なんで、小P連の私は本来部外者。

でも、市P連の常任理事会で内容をお聞きしたときに興味を持ち、よほどの予定がかさならなければ聴きに行きたいなと。
で、実現しました。
(K中P連会長、S親まなび委員長、快く受け入れてくださってありがとうございます)

で、なにに興味を持ったかというと講師の古川先生に。
カウンセラー・スーパーバイザーということなので、普段「聞く」をメインにされている方が「何をどのように」発信されるのだろうという興味。
また、「シンガーソング・カウンセラー」とはどういうことなのか。
私自身、「聞く」に勝ることはないと思いながら、こうしてブログでなんやかや発信したくなっているし、よくよく考えてみれば真宗カウンセリング研究会がらみ以外ではあまりカウンセラーという方と触れ合っていないし・・・
と、内容よりも興味先行なのが正直なところ。

で、いざお話を伺うと、話しなれている名調子で、引き込む術に長けておられるなと。
なので、そこは引き込まれるままにお話の中身を聞かせていただいた。

話題の軸は「孤独」とはどういうことか。
本来、コミュニケーションをとって関わりあうことが「人間」としての本質なのに、自分(自分の価値観)を守るために、どんどん孤立化していく。
それが「うつ」につながったり、中高年の自殺につながったり。
その底には経済主義があって、「自分は損をしたくない」という思いがますます孤立化を進める。
損得を越えて、周りに施していくと、結果つながりができて自分に還ってくる。

メモを取らずに印象に残るまま聴いていたので、かなり私の言葉になってると思います。
興味のある方は(私の言葉に惑わされずに)、直接先生のお話に触れてください。

途中、アドバイス的に話される部分があり、「しんどいこと、つらいことは、心に箱を作ってそこにしまって頑丈な鍵をかけてください」という話もあった。
その部分は、私としては「無理に仕舞いこまずに、しんどいときはしんどいまま、つらいときはつらいまま、起こってくる感情をそのまま経験することも大事だけどなぁ」という思いが出て来た。
でも、最後の歌で「どうぞ、そのままで」というメッセージを強く出されていたので、きっとそこに同じようなことがこめられているんだろうなと。
(ひとつの講演では少数派にスポット当てるよりは、多くの方に伝わる話のほうが大事ですしね)

傾聴、パーソン・センタード・アプローチに立つと、かなり聞き手の感情を喚起させる(誘導する)感じもあったので少し違和感もあったけれど、ゆっくり周りを見渡してみると、講演としてそういう流れによって、お母さん方の気持ちが緩和されていくのが感じられたので、そういう方向からも「そこにいる方を大事にする」ということが底辺に流れているとも感じられた。
私のアプローチとは違うけれど、これもアリだなということを教えてもらえた気もする。


このあたりは、ベーシックな傾聴を第一にしながらも「新しい傾聴」を模索していくヒントにもなりそうな気がする。

あぁ、今年もいろいろと刺激をもらっていけそうな予感

古川先生のHPもあります
http://tantant.net/kensyuu/top_ken.html


めいめいのおん計らいでどうぞ

2013-01-06 02:10:33 | 日常雑感

新年を迎えてはや1週間。
年明けは例年通り連れ合いの実家寺にて、子どもらと除夜の鐘を突きながら迎える。
大晦日の「除夜会」・明けて「元旦会」であげさせていただいた「正信偈」から飛び込んでくるお味わいや、池永先生のご法話にて聞かせていただいたこと、またよきせぬ形で、池永先生と二人っきりで話させていただく機会に恵まれ「真宗とカウンセリング」について語り合ったことなど、早々に深い日々をすごさせていただいた。

一方で、皆様からのご挨拶をいろいろいただき感謝。

そんな賀状の中に、思いのほか多くいただいた「どうした高橋?!」の文字。
私ごときの動向がこれほど多くのかたにご心配をかけているとは、うれしさ半分戸惑い半分で(苦笑)

お一人お一人にお応えする機会もいずれはあるかもしれませんが、不精の私としてはここでまとめて(笑)
(なんのことかよくわからない方は軽く流しといてくださいな)


とはいえ、語れないことも多々ありますので、うわべだけになりそうですが。


今回、ある組織を退会することで気づいてきたことがいろいろあります。
私自身の信仰として、浄土真宗を通じて「阿弥陀仏の願い」に触れさせていただいた事は間違いなく、帰依すべきは「南無阿弥陀仏」だけなのははっきりとしてますね。
ただ、それは「どう聞かせていただいた」ではなく、「何を聞かせていただいた」かということ。
大本の「ご本願」が私にかかるものでありますので、そのことを「今、ここ、私」に伝わるための「お釈迦様・仏教」であり、「親鸞聖人・浄土真宗」であり、「K会」の位置づけがあります。
その流れがなければ今の私はない。
しかし、あくまで私にかかるのは「弥陀の本願」であり、どこかへの所属や名乗りで区分けされるべきものではありません。
そのことを一番私にあった形で伝えてくださっていたのが「K会」の先生方であるのは間違いないですしね。
なので、わざわざ他に求めたり、比較する必要はなかった。

が、所詮人間ですので、その関係性には様々な諸毒が混じってまいります。
仏教が分かれていったり、浄土真宗が組織化されたり分かれたり、挙句の果てには争ったり…こういうことで「本願」が変わろうはずもないのですが、人間ってのは厄介で「うちが本家だ、正統だ」などと、ね。
そのことで、ご本願がどこかの専売特許になったり、商標登録されるべきものなら困ったものではありますが。
逆にいえば、真宗門徒と名乗ろうが名乗るまいが、仏教徒と名乗ろうが名乗るまいが、そんなものは人間レベルのもので「ご本願の対象」としてはなんの意味も成さなかったりします。
そういうレベルで、私は「K会」に固執する必然はなくなってます。
それは逆にむりやり「K会」と袂を分かつ必然もないってこと。
行きたいときに行けばいいし、行きたくないときには行かなくてもいい。
その判断基準は「今私がお念仏を称えやすいのは…」ってところだけでね。
(そういう意味では、こうして「K会」のことを語るだけでお念仏に帰らせてもらえますからねぇ)

ただ、同人組織として考えるときにはちょっと違う考えも混じってくる。
と、この部分は「立場上知りえた」事柄にも起因しますので、カウンセラーとして秘匿義務の大事さを教えてもらった身としては書けなくなってくる(笑)
もうすでにこの2行を書くだけでも”差し障り”が出てきますしね。

 

で、別の側面として私自身のことを”少しだけ”開いておきますと…
上記とおり”ご法”を聴かせて頂く身としては何ら変わりはないという上で、人間的な部分でやはり”所属”には価値をつけたくなるし、大事にしたくなる。
そうすると「私にとってのK会は」ということを考え出す。
おそらくこれは10人集まれば10通り、100人集まれば100通りのものがあるはず。
じゃあどうどうと「こうあってほしい」というものを打ち出せばいいし、そういう声の集まりが(人間として)民主的に組織作りを行っていく。
ところが、今の状況で私の「こうあってほしい」ということを打ち出そうとすれば、「じゃあ、今はそれとどう違うの?」ということも触れる必要が出てくる。
そこが私にはネックで、例の「立場上…」ということが絡んでくるし言えない。
「言いたいことがあるのに言えない」という事ははなはだ苦しいものでして。
じゃあ、組織を離れてしまえばどう転がっていこうが私が思い悩むものではなくなってくる。
(離れてなお責め続ける、現代的な復讐に陥る危険もありますがね)

ほら、書こうと思うともう差し障りが出てくる(苦笑)

ご法の場として「そのままのお目当ての姿」であったり、カウンセリングの場として「ありのままでいて良い」という状況が阻害される可能性があるとき、無理してその場に身を置くことは不自由この上ないし、そんなものは求められていないし。

そうして距離を置くことで、ご法との向き合い方や、カウンセリングの学びに支障が出るのならば(後者は少なからず影響は出てくるかもだけど)困ったものだけど、今のところそうとも思えない。
むしろ、今までと違った側面で「私がお聞かせいただいているところは」と言う刺激を思わぬところからいただいている。

 

ということを、書いては消し書いては消しの年末年始(笑)
ご心配してくださった方々に「心配ないですよ」と言うだけでよかった気もしながら、多少の差し障りはご容赦いただいて、私なりの道を歩んでおりますので、交差する際は「アホなやつやなぁ」のお叱りとともに声かけてやってくださいな。