コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

信心決定 ~どこまでも自力~

2009-02-12 00:04:08 | 真宗


暇があると、ネットでいくつかの真宗関係サイトを回ったりするけど、結構そういうところで刺激を受けて「私はどう聞かせてもらってるだろう」と
いうことを考える。

うん、やっぱ私が語れるのは「こう聞かせていただいています」というところでしかないですね。

で、最近見たサイトで「信心決定」が話題になっていた。
それを絶対の目標にする…あるいは、それはそういう目標を持たせることで思考操作している…などと。
もうこの時点で駄目ですね。
「信心決定」が目標?

弥陀の本願というのは、「お前を救わせておくれ」というものですよね。
知恵も力も無い、ただただ罪業を積み上げることしか出来ない私に向かって。
「信心決定せよ」などと、一言もおっしゃってない。

その「救わせておくれ」の声に、「あぁ、なにも私のほうに手立ては無かった、すべて用意されていた」と、「私の成すことはすべて地獄一定でしかない。堕ちるのが元々。お救いを沙汰する立場のものじゃない」と、自力が無効になる。
自力を捨てよといわれても、どう捨てようとかいうふうに、すぐに自力で自力を片付けえようとするものに、捨てようが無い。
用事が無いものだと、手放させてもらうだけ。

そんなやつが「信心決定」などと目標を持ったら、「なんとか」「どうやって」「あれがわかれば、これがわかれば」とどんどん自力の迷宮に落ちるだけ。

じゃあ、「信心決定」とは…
「救わせておくれ」の願いに討たれたなら、ああもこうもない、ただ「南無阿弥陀仏」にお任せ。
「ただ」も「お任せ」もいらない、「南無阿弥陀仏」
そんな身になった自分を振り返って「あぁ、これが信心なんだ」と定まること。
先に追っかけるもんじゃありません。

で、そういう身になった人は「信心決定しました」なんてうそぶかない。
そんな「信心決定」にはもう用事はなく、ただ「南無阿弥陀仏」

人に「あなたは信心決定したんですか」と問われると、そういう人のご縁を通して今一度「何を聞かせてもらったのか」と帰らせてもらうだけ。
「こう聞かせていただいています」と。

まぁ、あこがれて追いかけたい気持ちもわかりますけどね。

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