コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「いま・ここ」ということを考える

2009-09-29 00:18:33 | 日常雑感


「いま・ここ・わたし」ということの大事さは、仏法の面でもカウンセリングの面でも重要なこととして何度も話してきましたが、ここを感覚的にしっかり受け止めるってのはなかなか難しいですね。
「言ってることはわかるけど…」という方はまだ「理解しよう」とされているでしょうし、「よくわかります」という方でも理解でとどまっている事が多いんじゃないでしょうか。

最近のご縁の中で、このこと(理解で留まる)をわかりやすくあらわしていただいた場面がありました。

その方とはいろんな場面でごいっしょさせていただき、お話させていただいています。
最近のことをお聞きしているときに
「以前、『いま・ここ』が大事だと教えていただき、それを教えていただいたことがうれしかったです」

「いま・ここ」が大事だということをしっかり聞いてくださり、そのことに気付いた事がその方には大きな体験だったんですね。

しかし、このことはすでに「過去」のできごとであり、「気付いた体験」を大事にして、「気付いた内容」を理解しているだけですね。
「気付いた」ことだけが大事ならもったいないですよね。

このことを話している「いま・ここ」はもう違う気持ちが流れていますし、そのことを気付いた「歴史」を経てある「いま・ここ」のわたしが、なにを感じているのか…

この方は、そういう話をしたときに「はっ」と何かに気付かれました。
その「はっ」がまぎれも無く、そのときの「いま・ここ」で動いているものですよね。


この「いま・ここ」の私でいられるというのは、実はなかなか難しいんです。
「いまの自分でいいんだろうか?」という不安な気持ち…これは誰しも持っていると思います。
そうすると「いま・ここ」の自分と向き合うとき、その瞬間が「否定」の気持ちで受け止めてしまいます。

ですから、カウンセリングでの「受容」というのはすごく大事な条件になってきます。
「どんなあなたでいても大丈夫ですよ」と受け止める関係が伝わってはじめて「いま・ここ」のわたしに、素っ裸になれるんですね。

このことは、仏法の面で見るとさらに「仏の目で見透かされている」ということになります。
なにを隠す必要も無い。
「こうありたいわたし」というものを持ったまま、「そうじゃないわたし」でいること…「それがお目当てなんだよ」という無条件の受容。

そう考えていくと、がんばって「いま・ここ」になっていくことではないですね。
カウンセリングの「正しい関係」が出来上がれば、「いま・ここ」のわたしになれます。
仏の願いの前にたたされれば「いま・ここ」のわたしになれます。

まずは「いま・ここ」をどう受け止めているかゆっくり自分に問うてみて、そのときに浮かび上がる気持ちをキャッチしてみてください。
どんな気持ちが出てきても大丈夫です。

日曜礼拝 9月 ・ 東京法座案内

2009-09-28 01:07:34 | 真宗

今日は日曜礼拝、この時期は運動会や文化祭など学校イベントも多いせいか、あるいは連休のあとで家族でのんびりしているのか、子どもが少なくちょっと残念。
また、お隣の大阪で支部法座があるため、大人の参加も少なめ。

でも、少なければ少ないでお座はしっかりと成立するあたりが、こちらの思いどうこうじゃないところですね。

ご法話は、「小さい虫・生き物の名前を挙げてみよう」という先生の問いかけに、子どもら(大人も)が黒板一杯になるまで名前を挙げていき、次に「じゃあ、この中に殺した事があるもの」というお話。
無邪気な子どもらは「ありを踏み潰した」だとか「蚊をたたいた」など自慢げに…
大人も負けずに…

ついで、そういう殺生の罪で私はどこに行くの?というお話から八大地獄の説明まで。

あとの分級座談で、子どもらがどんな反応をしていたかも気になるところですが、大人は大人で「気持ち悪い感じ」と「それでも意に介さない私」というところで、時間があっとすぎるほど盛り上がったりします。
表面だけ見ると「罪悪自慢」になるのですが、それぞれの人が「我が身で作っている事実」というところで味わっていきます。

こりゃあ堕ちるしかない…

脅しでも卑下でもなく、事実を事実として。

今日の顔ぶれは「ベテラン」揃いだった事もあって、話は「南無阿弥陀仏をも称えない身」というところまで深まりますし、「合理化か溝さらえか」というブログでの問いかけに対する「えっ?私はどうだろう?」の表明まで。
ありがたい時間でした。

私自身のところで見ていくと、そのときの気持ちのありようで「南無阿弥陀仏」が近かったり遠かったりするのですが、そんな当てにならない自分自身を通してこそ「南無阿弥陀仏」がハッキリしてきたりします。
(先日の書き込みと言ってる事が矛盾しているようにも聞こえますね、これは)

違う言い方をすれば、そういうあやふやな奴が、法座での出会いを通して”引き戻され”、”素っ裸”な本来の姿にまで”剥がされ”ます。

だからこそ、また法座に引き寄せられたり、というかそうなるようにお手回しが用意されていたりします。

来週は東京にお邪魔します。
本来、中心で動くはずの方のご都合で、ピンチヒッターという形ですが、そういうご縁が整ってくるんですね。
公開講演会」という形で、一日目の午後はどなたでも参加していただき、増井信先生のお話を聞いていただけます。
関東近郊の方、ぜひお会いしましょう。


地域若者サポーター ~「がんばれ」をめぐって~

2009-09-26 23:58:15 | 親子コミュニケーション

昨年受講し、「地域若者サポーター養成講座」の第一期生となったのですが、今年も第二期がスタートするにあたり、今日サポーターの交流会がありました。

ニートの状態を何とかしようとするための支援がメインなんですが、まだまだ問題は山積みです。
そのために、行政だけではなく、地域地域にサポーターを置くことによって継続的に「一歩を踏み出していこう」というものです。
一番の目的は、そういう主旨を理解している「受け入れ企業」が多く現れ、暖かく迎え入れてくれることなのですが…
現実は、十分に就労できていた人でさえ職を失っていく現状。
昨年の講習受講時にはまだ「一歩踏み出せば未来が変わって行くかもしれない」とおもわれていたのに、年末には派遣切りが問題になり、年が明ければ正社員の雇用も削減されるという。

以前、ハローワークに勤める方のお話も聞いたのですが、なかなか大変な状況のようです。
そうなると職場に出る以前に、何かに傷つき、恐れて、「コミュニケーション」の一歩を踏み出せない若者たちはどんどん居場所をなくし、家にこもってしまいます。

で、そういう現状と、そん中でも動き出したプロジェクトのお話、そして参加者それぞれの取り組みや考えを交換してきました。

残念ながら、参加者は少なかったのですが…

私の関心はやはりカウンセリングを通じての「いま・ここ・わたし」を受け止めていくことから、引きこもっているひとりひとり、そしてその周りの方の関わりの部分です。

そういう意味では、参加されていた「サポートステーション」の方のお話にぐっと引き寄せられました。
それは「がんばれ」という言葉をめぐってのお話です。
私自身、なんどかこのブログで話題にしていますが、本人なりに「がんばっている」人に対して、その到達への期待や価値観の違いから「がんばれ」と言うことへの問題定義です。

出来ていない事があるときに、その「できない」ということを認めてあげずに、「できるはず」というこちらの価値観で持って「がんばれ」と言ってしまう…これは「いまのままじゃ駄目」ということにつながります。
もちろん、声をかける側にはそんなつもりは無く「応援」ということなんでしょうが…
なかには、そういう応援の声を受けて、嬉しく感じる人もいますし、一概に「がんばれ」が駄目だとは思いませんが、こと「ニート」と言われる人にとっては「がんばれ」といわれるのは困る事が多いのだと思います。

この問題を考えるときに、支援する人たちにこういう意識があるかどうかは大きな問題だと思いますし、サポートステーションの方からこの話を聞けたのは私にとって大きな安心でした。

どうしても引きこもる子に対して、親や周りの人も困惑していますから、どうにか「変わってほしい」という願いを持っていると思います。
それは下手をすると、「その子」の問題にしてしまう。
じつは、親や周りの側にも問題はあり、変わるべきところは一杯あります。
変わるべきとかくと、かなり強い言葉になり、親の側を責めるような言葉に取られてしまうかもしれませんが、「親の側にも問題があることをまず認める」というだけのことです。
それは責められることではなく、そのことで「いっしょに変わっていこう」という気持ちにつながればいいと思います。


私は、今回サポーターにとして登録され、活動していく中で、ひとつはこういう制度・サポートセンターという場所・取り組みがあることを何らかの形で少しでも知らしめていくことが役割だと思っています。
そしてもうひとつ、上に書いたような親や周りの方に心がけを持ってもらうことを伝えていければと思っています。

それはなにも新しいことを始めるではなく、このブログで「親子コミュニケーションの心がけ」としてつづっていることを繰り返していくだけのことでしょう。


このサポーター制度の具体的な取り組みのひとつに「ギタープロジェクト」というのがあります。
自分で何かやってみたいと一歩踏み出せる子たちにとって、とても大事なプログラムです。
こういうものがいろんな趣味のことで、広く行われていけば、何かひとつ達成してみたいという人に大きなきっかけを与えられるでしょう。
しかし、その前段階で、一歩を踏み出せず、傷つき、恐れている人たちが一杯います。
どうしても、そちらのほうに気持ちが行っているなと、今日交換会に参加してあらためて思いましたね。

このブログや「聞き方・伝え方」の集まりを進めていく事が、こういう制度につながっていけば…いや、続けることでつながっていくだろうなと。


フォーカスしてる?してない?

2009-09-24 23:52:32 | 日常雑感

 

この連休の後半、兵庫県西部にある知人のお寺に遊びに行かせてもらった。
メインは家の連れ合いともう一人が、先方の坊守さんとおしゃべりをする約束をしていたというもの。
さらに、3家族の子ども同士が「華光仏の子ども大会」の仲間で、再会を楽しむということ。
というわけで、私は運転手として狩りだされるという…

遊びに行かせていただき、ご馳走や様々な会話、法の話・子育ての話などを楽しんだ翌日、お母様方は三人でゆっくり談笑、子どもらはそれぞれで遊んでいたので(ご住職は法務でお出かけ)私一人のんびりと本堂でゆっくりさせていただいた。

こころ静かにフォーカシングするには、お寺の本堂ほど適した場所は無い…はずなのに、こちらの心はころころと定まらない。
浮かんでくる問題にじっくりと向き合うということで行くと、ぜんぜんフォーカシングできていない。
しかし、何が浮かんでこようとその一つ一つを否定しないでキャッチしていくという点では、じっくり向き合っているとも言える。

この辺が、まだフォーカシングということを深く認識・習得できていないということだろう。
この程度で「フォーカシングをしている」とは言えない。

ただ、そんな私でもまったく経験していないときよりは、フォーカシングを意識する事が出来るという点では大きく変えていただいた。


最初、こころ静めて自分に向き合ってみようと思わせたのは、その前に見ていたメールの中の話題。
それに刺激され、ある人物のことを考え出す。
考えようとしているのか、意識から追い出そうとしているのか、その時点でその問題に焦点が当たる。
(追い出そうと考えている時点で、その人のことを考えてしまっている)
じゃあ、その問題をどうしたいのか尋ねてみる。
明確な答えが出てこない。
いろんな想像(こういう風に関わってきたらこう、ああいう風に関わってきたらああ)ばかりあふれてきて、具体的なものは出てこない。

そのうち、「じゃあこの問題に関わる根本を避けてみるのはどうだろう」と考え出す。
絶対に関係者に出会う事が無いように、周辺の関わりも絶っていけば…
もうこの時点でただの妄想。
しかし、具体性の無い妄想は楽しく、次々と心が遊んでいく。
想像の中でいろんな人の反応を作り上げていく。
かなり病的な感じがしてきた(これは打ち込んでいる今の感じ)

いつしか、南無阿弥陀仏のことに思いは捉われていく。
正確には、これだけいろいろ考えが浮かんでくるのに、南無阿弥陀仏が浮かんでこないという自分自身に対して。

そのことを駄目だとも思わず、かといって善しとも思わず。
他人と関わったとき、その人に対してだといくらでも出てくる阿弥陀仏のおこころ。
自分自身に向けてみると、なんとも動かない自分というのは実にこっけいだ。

ここまで南無阿弥陀仏を手放してきたのか、と。
おそらく多くの方にはわかってもらえないだろうが、この南無阿弥陀仏に「頼ってない感」がすがすがしく思える。
お寺の本堂で、阿弥陀仏の前にあって、まったくその存在を意識しなくて大丈夫な感じ…

いろんなことが滑稽に思えてくる。
あえて言葉にするならば、もうなにもなく、スライムのように…

もうちょっと感じをうまく言語化できればいいんだろうけど、このときと今でももう時間の隔たり、感じの隔たりがあるから、言葉に留める作業がむなしくなってくる。

そうか、やはり一人で探っていくのはただの内省で、誰かに聞いてもらいながらその瞬間瞬間に言葉にしていくのがフォーカシングなのか…と今フッと思った。

せいぜい、いろんな人を踏み台にして、このどうしようもないやつの正体を暴いていくしかないか。

土曜日には「地域若者サポーター養成講座」の交換会
日曜日は「日曜礼拝
次の週には「東京公開法座」(お世話役で参加します)


捨てるべきものは捨て、出会うべきものは出会い…
それが南無阿弥陀仏に内包されている(もうちょっとちがった表現したいんだけど、言葉が見つからん)


地域若者サポーター養成講座

2009-09-21 23:20:48 | コミュニケーションワーク

昨年参加して、いろいろ勉強・刺激を受けた京都市の取り組み「地域若者サポーター養成講座」が今年も行われます。
私としてはカウンセリングスキルを「若者サポーター」の活動として提供していきたいのですが、いまのところ活かす機会はありません。
とりあえずは最低限の活動として「広報」に努めたいと思っています。

先日もお世話になった保育園などに活動のポスター貼りをお願いしてきました。
今回は、ブログで紹介という方法を使おうかと。

基本的にはニート状態にある若者に、職業的自立を目指してもらおうという活動です。
理想は、企業や公共で就労環境をつくり、受け入れること。
が、そういう面では私はお役に立てません(自分の給金もままならない状況ですからね)

が、昨年サポーター養成講座を受講することで、精神面のサポート、また周りの家族に対する精神的サポートは、バックアップとして大きな意味があると認識しています。

先日、京都府が行っている別の同様の取り組みに参加されている方とお話しする機会があったのですが、行政任せだとなかなか問題が多いということを聞いています。
それよりは地域地域で、府や市などの区切りを廃した、現場レベルのアイディアを集結した取り組みのほうが即効性がありそうです。

そのために、まず現状を知ってもらうことからということで、この養成講座があります。
興味のある方は、参加をご検討ください。
無料でいろいろ勉強できるのはありがたいことですよ。

問合せ先

昨年参加した時のことをブログに記しています。

第1回
第2回
第3回(この回は別の用事でお休み)
第4回
第5回
第5回-2
第5回-3
実習


真カ研 月例会 9月

2009-09-18 23:34:39 | 真宗カウンセリング

水曜日には真カ研の月例会がありました。

ちょっと遅れていったのと、いつも使用している会場の入り口が閉鎖されていて、「もしかして昔の会場に戻った?」などと勘違いもあり、キャンパス内を(龍谷大学内に会場があるので)うろちょろ。
結局先月と同じ会場でしたが、その校舎の一番遠いところにある入り口まで戻る必要がありました。

ということで、着いたときにはチェックインが始まっており、そのときに話されている方が最後のようで、すぐに私の番。
会場に迷っていた話と(同じように迷った方が数名いたようです)先日の円座談に参加したこと、あと今年も行われる「京都市地域若者サポーター養成講座」の話を。

引き続いて、テキストであるロジャース氏の論文「十分に機能している人間」を前回に引き続いて。

正しいセラピーによって導かれたものにどのような特徴があるかということ。
そのひとつは「自分自身を再構成する仕事を完了した」という認識ではなく、今が「プロセスである」ということを知っていて、自分に自信があり、「どこに向かっているかわかっている」ということ。

ここをめぐっていろいろと意見を交わしたんですが、船をたとえに出して「まだ到着していなくても、今の状況を正しく知る事が出来れば、どちらに穂先が向いているか知る事が出来る」という話が興味深かったですね。

私のところでは、まず自信というものが無く、いろいろと周囲からの関わりで持って「こっちのほうに向いている」と教えてもらっても、「ほんとうに今の向きでいいんだろうか」と不安になります。
また、向きがあっていれば、今がプロセスの途上であっても安心できるのでしょうが、到着(完了)しないと最後まで不安のままのような気がします。

「今はプロセスでもいいんだよ」
「今の歩みでいいんだよ」
そういう言葉をいつも熱望しながら、実際かけてもらっても自分の「いいように」聞こえてこないと安心できない…
このあたりを考えるとき、先日の「円座談」で教えてもらっていることに通じてきている気がします。


もうひとつ大事な話題に「経験」という事がありました。
論文でもよく使われている言葉です。
私は、それは「積み重ねてきているもの」として、過去からつながってきているもの、私の歴史として、今の私を構成しているものだと認識していました。
一般的に使われる経験はまさにそうですよね。

しかし、ロジャース氏が伝えようとしていることは「今まさに対面してる瞬間瞬間の”経験”」ということだと。


円座談のセッションの中でも、一度起こってきた”感じ”を中心に、それをいかに表明するかということに思いをはべらせていました。
確かにそうしていることでも次々に新しい”感じ”が生まれてくるのですが、それはすでに過ぎ去ったものを考察していることになっていた気がします。

瞬間瞬間経験していることを、瞬間瞬間捕まえていく…

うん、イメージはわかるのですが、意識してそう持っていくことは難しい気がします。
いや、意識などせずに、そういう刹那を感じさせていただいていることも多々あります。
そのときは「十分に機能」しているようにしていただいたときなんでしょうね。

法座などで自力無効と知らされ、任せきる事が出来る瞬間などは、まさにそういう「刹那」に生きている瞬間ですね。
法に照らされるというのは、まさに「十分なセラピィに出会った」以上の高まりをいただいている気がします。

ちょっと話題がそれましたが、円座談で感じた「まだまだ未熟」な感じ、「上手く出来ない」感じを、ロジャース氏の論文を通じてもう一度かみ締める事が出来ました。

そこには、先に行っているものへの羨望と、ある程度進んだ気でいるのに突き落とされた悔恨とがうまれて来ます。
このことは別に書かなくても良かったんでしょうが、なにか得体の知れないものを感じてたので、ちょっとその感じに付き合ってみたときに言語化できたものです。

でも、そういう作業をしたことで、意外とその感じに引きづられていない今の私もいます。


円座禅 -4 花束のワーク・こころの天気

2009-09-17 09:40:30 | コミュニケーションワーク

二日間のプログラムの中に二つのワークがありました。

ひとつは「花束のワーク」
白い紙の上から4分の一あたりに波線を引きます。
上のスペースの好きな場所、好きな大きさで円を書きます(形は丸とは限らなくてOK)
心に浮かぶセンテンツを上に書き、真ん中に線を引き、下側にそのセンテンツに対する”感じ”を書きます。
たとえば上に「仕事」下に「ヘトヘト」という具合に。
それを思いつくまま、いくつも書いていきます。

自分の心のなかに浮かんでくるもの、またそれに対する”感じ”を、言語化し、外側に置いて行く事で、客観的に眺める作業になるのでしょうか。

ひとつのものを書くと、それに関連した事がいろいろと浮かんできます。
それは大きかったり小さかったり、真ん中のほうにあったり端にあったり。
”感じ”のほうも、好意的なものであったり、ネガティブなものであったり。

そうやって出来たものを眺めてみると、いろいろ面白いものが見えてきます。
自分の関心ごとの縮図であり、普段はあまり意識してないと思っているのにしっかりと主張してくるものであったり。

特に、あまり触れたくないことがしっかりと浮かび上がってきたときには、それを書いてみるかどうか迷います。
今回はワークの体験ということもあるので、そこは素直にいこうと、場所を探して書いてみます。
結局、一番隅っこのほうで、感じは「関わりたくない」という言葉といっしょに。


これは私のくせなんですが、こうして行っている「表現」に意味を求めてしまいます。
今回、それが良いのかどうかわかりませんが、無理に気持ちを修正せず、浮かんでくるままにまかせていました。
そうして見えてきたものは、手前(下)に置いている物ほど大事にしているもので、遠く(上)に置くほど避けようとしているセンテンツだなと。
もしかしたら心理学のほうでいろいろと説明付けられるかもしれないですね。

人によっては、ただの円ではなく周りを花のように飾ったり、手足をつけて動きを加えて表現している人もいました。

 

もうひとつは「こころの天気」のワークです。
こちらは絵に描くことで、心の様子・感じを、外に出して表現するものです。

これも自由に絵を書けば良いのですが、「天気」という言葉にとらわれている私は空の様子を思い浮かべました。

基本は青空です。
どちらかというと深い藍。
時刻は夕方…陽はあるはずですが、ちょうどそこだけに白い雲があり陽の光を隠しています。
でも、雲はそこだけなので、空は晴天のまま。
さらには、その雲の裏に太陽があるのを主張するように、雲のスキマからオレンジ色の陽の光が地上に射しています。

「完璧に晴天」というのは今の私の気持ちとは違います。
かといって、雲に覆われているのでもない。
しっかりと私を照らす太陽があります。
その太陽も遠慮がちに雲の後ろにあったりします。
後ろにあるのに、スキマから陽を射すことで「みえなくてもいつもここにいるよ」と。
うーん、複雑ですねぇ…一貫していない。
(ちゃんとした精神鑑定うける必要アリかもです)

ここまではこのワークをはじめたときに一気にビジョンが生まれてきました。
そのイメージを形にしていく作業です。
(表現がちゃんと出来てるか…イメージを絵に出来ているかは疑問ですが)

ところが、こうして絵にする作業をしているうちに、違ったものが心に生まれてきます。
遠くのほうに別の雲が気になりだします。
真っ黒な雲。
一度気になりだすと、どんどん雲は膨れてきます。
なので端の方に黒い雲を書く…いやもうちょっと大きくなってきた…雲を大きくする…大きくしだすとそこまでも大きくないかと…
その雲は近づいたり遠ざかったり、膨らんだりしぼんだり。
絵として留める事ができません。

そういう雲に付き合っていると、今度は光のほうが単純なオレンジじゃなく、もっと光り輝いて見えました。
黄色を足していると一筋の光だけでなく、周りがその影響でキラキラしてくる…

最初は「浮かんだビジョン」に固執して、それを形に留めるという作業。
後半は変化に合わせて深みを加える作業。

これも「花束のワーク」同様、あまり分析しないほうがいいのかもしれませんが、やはり分析してしまうこの”くせ”…
まぁ、それのよしあしじゃなく、そうしてしまうのが今の私だということを受け取ります。

実は、この記事に書いた感覚も、今日参加した「真カ研月例会」での刺激を受けて、また違ったステージに動いて来ています。
でも、まずは当日の感じを出来るだけなぞっておきます。
(月例会のことはまたあらためて)


円座禅 -3 フェルトセンスをめぐって

2009-09-16 02:21:54 | コミュニケーションワーク

昨日の記事でうまく「フォーカシング」を説明できなかったのですが、一日たって読み返してみて「フェルトセンス」という言葉に触れないといけないなという気持ちがあります。
この「フェルトセンス」というのがフォーカシングしていく相手…”感じ”ということになります。


自分の心を眺めていったとき(私の場合は”内省”という言葉がしっくり来ます)「なんか疲れてるな」というような”感じ”を味わう事があります。
仕事などをしているときにそういう”感じ”が現れたとき、その”疲れ”に付き合っていると仕事が進みませんから、その”感じ”を否定したり無視したりします。
そうでなく「疲れている」という感じを「いま・ここ・わたし」の姿としてありのまま受け止めていくことが大事になります。
(このことは以前「真カ研 月例会 7月」で話題にしています)

もちろん、「嬉しい」だとか「寂しい」だとか、いろんな”感じ”があると思います。
あるいは「おなかがしくしくする」だとか「ボォーッとした」というような身体的な感覚もあるかもしれません。

今回教えていただいた「フェルトセンス」ということでは
感じは未だ言葉にならないようないろいろな意味を含んでいる
という一歩深いところまで含んでいるようです。
それを
感じに触れながら言葉を発したり、表現したり、文章を書いたりすることで、感じそのものが変化していく
と教えていただきました。
(緑字は共に「心の天気を感じてごらん」より)

円座談のセッションでは、自分のフェルトセンスを感じながら言葉を発することで起こる変化「フェルトシフト」を感じていくということを体験します。

しかし、ここで私の受け止め方に問題が出てきます。

「いまおなかの辺りに重いものがあるけれど、心に影を落としているこの”感じ”を話せば、おなかがすっきりするんじゃないだろうか」という予感の元に話をしだします。
おなかの身体的感覚を言語化して話し、心にある”影の感じ”に付き合いながら言葉にしていきます。
羨み、妬み、葛藤…ゆっくりと聞いてもらうことで、言語化は進みます。
そして、予想通り、おなかのあたりの身体的感覚はかなり解消されています。
「話してみてどういう感じですか?」
という問いかけに、おなかの違和感がなくなったことを話します。
私としては、「感じが変化した」という感覚でしたが、フェルトセンスという点から見ると「それは想像できた変化」ということで、フェルトシフトとは異なるということを指摘されました。

内省的には予想通りであるなしに関わらず、現としておきている変化として、”ありのまま”受け止めます。

しかし、フォーカシングでは「予想外の変化」ということが大事なようです。
驚きを伴う変化
という言い方をされたように思います(すでに記憶があいまいですが)

このことにはちょっと困惑を覚えました。
というのは、私にとっていろいろ想定してしまうのは”くせ”なんですね。
数分間の「静かな時間」をもらうと、ひとつの事が浮かんでは、それに対するいろんな思いが回りで集散を繰り返し、誰かがこういう反応をしたらこう、ああいうはんのうをしたらああ、という具合に、いろんな想定をしてしまいます。
前いに書いたように、以前はそういう”想定”を振り払って、集中することに勤めていましたが、今は出てくるものは出てくるまま…として「いま・ここ・わたし」を味わっていますから。
また、「予想した変化」もそのまま「いま・ここ・わたし」として受け入れています。

ただ、私の感覚だけが正解だと固執するつもりも無く、今回先生に言われたこともひとつの受け取りとして…というより、これだけいろいろ想定するくせがあっても、それをも超えて「驚きを伴う変化…フェルトシフト」が起こってくることもあるのだろうなと。

それこそ、先に無理やり想定するのでなく、そのときそのときの”感じ”を大事にしていくだけですね。

今日はワークの話題に入るつもりでしたが、それ以前のところで終わっちゃいますね。

フェルトセンスに関しては、ごいっしょさせていただいた「かりもん」氏が詳しく書いてくださってます。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-1d3c.html


円座禅 -2 セッションについて

2009-09-14 23:55:24 | コミュニケーションワーク

先日の円座談で感じたことです。

最初に概要と共に、ルールをお話くださいます。
ルール1:円座談の場で語られたことは他の場で話さない。
ルール2:どんな感じもみんなで尊重。正直でいられるために。

ここまでの守秘・尊重は他のワークなどでも大事にされています。
そしてもうひとつ

ルール3:非暴力

これも当然他のワークで大事にされています、というか、絶対的な条件です。
しかし、この非暴力に関して、私は身体的暴力(これは絶対にだめですね)と、もうひとつは言葉の暴力ということで、「相手が困ること」という漠然な認識をしていました。
そこを円座談の土江先生はもっと明確な言葉で表してくださっています。
「プロセスを妨げない」
相手を攻撃する悪口は当然として、語ることに対してそれを妨げることを「暴力」とされています。
プロセスの中には、ひとつの”感じ”から広がっていく・成長していく流れというものが含まれます。
語り手がそのようなプロセスの中にいるときに、それを中断させるような行為、たとえば質問であったり、語り手が身構えるような意見であったり、そういうことも「暴力」であり、認められないということです。

確かにミニカウンセリングなどで大事にしていることにそういうことを含んでいます。
その場合はクライエントが語るあいだ、カウンセラーは質問したりすることは無く、”寄り添っていく”ことに終始します。
なれないときには、話題を促進させるつもりで質問したり聞き返したりしてしまいますが、それは「尊重」の精神が身につくにつけ、避けるべきことだと気付いていきます。
そのことを最初からルールとして「暴力」ということを定義する。
最初の気付きでしたね。


次にセッションに入っていくのですが、最初に数分間静かに時を過ごし(時には思考のテーマをもらいます)自分の中に現れてくる”感じ”を受け止めていきます。
昔のわたしは、こういう時間に「一生懸命意識をまとめないといけない」ということをしていました。
その後、様々なカウンセリングやワークの体験、そしてなによりも仏法を通じての「いま・ここ・わたし」ということを通じて、意識が乱れれば乱れるまま、新しい思いが浮き上がってくれば浮き上がるまま、「この後なにを語ろう」ということに固執せず…とはいえ、結構ここに固執する私が知るのですが、固執しているときは「固執しない」ということに固執しないで、無理せずそのまま「この後何を語ろう」という気持ちに任せたりします。
なんか禅問答みたいな言葉になっていますが、「何が沸きがってこようが、そのまま」という境地です。

区切られた静かな時間を終えると、グループで語る時間になります。
参加者が輪になり、その真ん中に「シャべラー」というアイテムがおかれます。
語りたい人は、そのアイテムを手にして語り始めます。
そのときグループの中にひとり「サポーター」(聞き手)をハッキリさせます。
「サポーター」は単なる聞き手(リスナー)ではなく、語り手が最後まで感じていることを語り終える手助け(サポート)をするという役目です。

じつはこの「サポート」というところが大事なところでした。

あまり比べることはしたくないのですが、いままでミニカウンセリングで大事にしてきたところに、「相手の尊重・成長を信じる」という事があります。
ここはわたしの未熟さもあるかもしれませんが、できるだけカウンセラーが”動かない”ことを大事にしています。
レスやオウム返しはしますが、それはクライエントが話することの促進であり、一段落があるまではクライエントが沈黙をしてもそれを大事にします。

今回、サポートということの中には「伝え返し」(レスと同様)だけでなく、「コメント」(カウンセラーの思い)さらには「洞察」を伝えるという事があります。
この「洞察」のところが微妙で、語り手が到達しなかった思いに対し「こういうことをおっしゃりたかったんじゃないですか」という関わりも出てきます。
この部分を軽々しく想像で動いてしまうと、「プロセスの妨げ」になり兼ねないなということを感じました。

しかし実際は、その関わりが間違っていても、語り手が「いや、そうじゃなくて…」と、真実に向かって促進される場合もありますから、大事なことにつながりますね。

まぁ、簡単に動くのではなく、それこそ”洞察力”を磨いて、身体的メッセージや、言葉の奥にあるメッセージを丁寧に拾い上げることが大事なんだと思います。

こうやってシャべラーを手にした「語り手」とサポーターがハッキリすることで、カウンセリングの形が出きあがります。
ただ、聞き手以外の周りの参加者もいっしょに話を聞くというところがカウンセリングとは違います。
じゃあエンカウターかというと、いつでも自由に関わっていく事が無いですから、それとも違います。

このブログではフォーカシングという言葉を使っていませんが、語り手がフォーカシングしたところを大事にしていくというところが「フォーカシング指向エンカウター」と命名されているところでしょうね。

ほんとうはこの「フォーカシング」というところも書けばいいのかもしれませんが、参加した方の話によると「フォーカシング」にもいろいろあるらしく、今回のフォーカシングは「他と少し違う」ということも聞いていますので、勉強していない私が説明できるものではないと…なので”感じ”という表現になってしまいます。

うーん、まだエネルギーの余韻が体内を渦巻いているせいか、ひとつのセッションの外側だけでこれだけの話になってしまいました。

説明を重ねるよりも、感想で今日は閉めておきたいと思います。

ミニカン・エンカウンターで自然と身についた”関わり方”を基準にするので、動きづらい感じもありましたが、この”場”に身を任せることで二日目の午後には私もサポーター体験をさせていただきました。
無理に”洞察”を意識することはありませんでしたが、普段通りの「聞き方」で、「語り手」さんとの関わりがもてたように思います。
そこには「語り手」さんの”開いていく”スキルがあったからだとは思いますが、言い切るお手伝いが出来たのならば…ちょっとうぬぼれてもいいですかね(笑)
今まで教えていただき、身につけてきた「聞き方」「寄り添い方」が、少なくとも間違ってはいないのならば、それは嬉しいことですね。


他のワークの事もいろいろ書きたい事がありますので、また明日以降に続けます。


円座禅 -1

2009-09-13 23:18:20 | コミュニケーションワーク
二日間のワークショップに参加してきました。
メインとしては円座禅(フォーカシング指向エンカウンター)のセッションですが、そこに「花束のワーク」や「心の天気」さらには「簡単なヨガによる身体のほぐし」を織り交ぜて、自分とまた仲間と触れ合っていきます。

それぞれのことは、改めて振り返っていこうと思っていますが、今日は全体を通じての”わたし”のところを簡単に。


自分の中にある”なにか”に向き合っていく手段としてのフォーカシングということを中心に体験したのですが、ある程度自分の”内”を内省していくことは、ここ数年行ってきました。
どちらかというと、そうして内省して見えてきたことを「そこに居るんだ」と受け止めるところまで。
まぁわたしとしてはそれだけでも昔よりは大きな成長です。
それまでは「そこに居ては困る」と隠したりそっぽ向いたりしていたのですから。

そこに居る
でも、いまはそれに触れない
触れないけれど、そこに居てもOK

そういう感じですね。

実際、自分の心を絵として表すワークでは、しっかりとそれらが「居る」事が確認できました。

いままでのミニカンやエンカウンターでは、自分のほうから触れたくなってきたことを相手にして、そこを尋ねていくことをしています。
しかし、この二日間のワークの中ではフォーカシングする時間に「テーマ」を提示されます。
もちろん、そのテーマにこだわることなく自由に向き合っていくことも許されていますが、一旦「テーマ」として聞くと、それが頭に残ります。
そのテーマがまさに、「居るけれど触れないでおこう」としている”黒いもの”に直結してきます。

セッションの中で、それぞれの方が「触れ合ってきた」ものを言語化して、語っていかれます。
もしかしたら、その”黒いもの”をめぐる、心の動きのところで私も話をする事が出来たかもしれません。
しかし、それも含めて「話さない」という選択をしました。

もう一方で、そういう「話さない」という選択をした事が、マイナスのエネルギーとして感じられてきます。
この円座談を通じて、多くの方が「語ることによって、開いていく」ことをされています。
そこに「閉じている」ことを表明することを躊躇している。
そういう自分に向き合っていくわけですから、どんどんと口を閉ざしていきます。
(そんな思いがもれてしまうことを避けるように口をハンカチで押さえているという身体表現をしていました)

一番最後に振り返りとして、この二つの事を話しました。

「そういうマイナスのものも出してもらっていいですよ」
というやさしい、抱きとめられるような言葉と
「話さないという選択をされたことでいいですよ」
という受領してもらう言葉。
それぞれ別の方からですが、返していただきました。

それを受けて感じたことは、
「マイナスのものを”出せない”と思ったのではなく、”出さない”と判断したということ」
この場は十分信頼できるもので、出しても大丈夫という感じは十分に受け止めていましたし、自分がサポーター(返し役)をするときでもそのことは意識しています。
そのうえで、”出さない”と選択した…
そのことに向き合っている気はします。
昔のように隠したり避けたりすることとは違う…私的にはそういう感覚があります。

そのへんをもうちょっと上手く伝えられたら良かったなという思いはありますが、上の二つの言葉をかけてもらったときに、今はこれ以上言葉を重ねて、変に自分の気持ちを探ってまぎれてしまうより、二つの言葉の余韻を味わっていたいなと。
(そのことだけでも語ればよかったなと今は思ってます)

今日は、最後の振り返りのところだけ記して、明日以降、大事なことを押さえておきたいなと思っています。