少し間が空いてしまいましたが、先週末から東京往復、広島・愛媛の出張とちょっとハードな日が続いていました。
しかし、東京は法友の結婚式があり、翌日は東京支部の法座。
広島の出張でも、法友のお家にお邪魔し、そこに集まった何人かの方と法座の時間を過ごしました。
いろんな人と”法”の話をする機会…そこにはいろんな思いが巡ります。
個別なところでは、結婚した二人のつながりに対してだとか、東京で始めてお会いした方とのやり取りだとか、広島ではじめてじっくりお話させてもらった方との関わりとか、一見ばらばらの相手、ばらばらの出来事なんですが、そこに「縁」「出会い」というものを感じていました。
今回、ご招待して下さった二人は、双方の熱心なおばあさんが華光という同じ場にご縁があったことで、同じ時代、同じところで仏法を求めて出会い・育ちしてきたんですね。
これって、当たり前のようで全然当たり前じゃない。
で、私を振り返ってみると、私の今の連れ合いが華光とご縁があったことで、私が浄土真宗に出会っている。
それまでは、家で法事があっても仏教だとは知っていても何宗だなんて興味もないし、自分の家には仏壇はなく、子どもの頃育った祖母の家には仏壇と一緒に神棚もあった。
そんな私が連れ合いと出会うことによって華光に出会い、浄土真宗に出会い、本願に出会った…
たった一人との出会いによって、「後生の一大事」に出会うことにまでなった。
しかも、そこには多くの人との出会いも含まれている。
これって、人間の知恵で測ったら、ほんの「偶然」の出来事としか思えない。
「あの日、あの時、あの場所で、君と出会わなかったら
僕らはいつまでも、見知らぬ二人のまま」
っていうのは、小田和正の有名な一節だけど、それが出会ったでいうのは「偶然」でなければ「運命」なんて言葉で語ってしまう。
出会うようになっていた、なんらかの運命がある…なんてね。
でも、それは「偶然」でも「運命」でもなくて、私が仏法に出会うためにはこの道を通るしかなかった「必然」だと言えるんじゃないだろうか。
そう、誰かと出会ったから仏法に縁ができたんじゃなく、仏法に出会うために、いろんな人との出会いがあって、それはすべて「本願」に出会うためのもの。
そういうことを、知恵のない頭で一生懸命意味づけしようとしても仕方ないしね。
人によっては、耐え難い人や集団との過去があって、そのことを何とか乗り越えたり、否定してしまうことを通らないと進めないように思ったりもするんだろうけど、「今、ここに、わたし」がいて、仲間と一緒に法の話をしている”現実”があるのは、それらの縁も含めて用意されているもの。
そういう過去を亡きものにするんじゃなくて、はやくそこへのこだわりを捨てる。
どうあがいたって過去を捨てることはできないし、逆に無理に嫌な過去までありがたがる必要はない。
そこに「捉われている私」を振り捨てて、「弥陀の本願」に出会っていくこと。
縁を喜んだり、縁で苦しんだり、それは確かに「私」の中の現実としてあるんだろうけど、そういう「私」すべてをひっくるめた上で、「本願のお目当て」だと呼んでくださっている。
とはいえ、人間同士の関わりは割り切れないんだろうけどね。
出会うも”苦”、離れるも”苦”、とっくにお釈迦様が示してくださっている。
すべての出会いは、私一人の聴聞へと続いている。
でも、結婚して二人がお互いに「私ひとり」のところで響きあっていくのは素敵ですね。
あらためて、お二人の結婚を喜んでいます。