コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

必然の出会い

2008-11-29 23:23:23 | 真宗

少し間が空いてしまいましたが、先週末から東京往復、広島・愛媛の出張とちょっとハードな日が続いていました。
しかし、東京は法友の結婚式があり、翌日は東京支部の法座。
広島の出張でも、法友のお家にお邪魔し、そこに集まった何人かの方と法座の時間を過ごしました。

いろんな人と”法”の話をする機会…そこにはいろんな思いが巡ります。
個別なところでは、結婚した二人のつながりに対してだとか、東京で始めてお会いした方とのやり取りだとか、広島ではじめてじっくりお話させてもらった方との関わりとか、一見ばらばらの相手、ばらばらの出来事なんですが、そこに「縁」「出会い」というものを感じていました。

今回、ご招待して下さった二人は、双方の熱心なおばあさんが華光という同じ場にご縁があったことで、同じ時代、同じところで仏法を求めて出会い・育ちしてきたんですね。
これって、当たり前のようで全然当たり前じゃない。

で、私を振り返ってみると、私の今の連れ合いが華光とご縁があったことで、私が浄土真宗に出会っている。
それまでは、家で法事があっても仏教だとは知っていても何宗だなんて興味もないし、自分の家には仏壇はなく、子どもの頃育った祖母の家には仏壇と一緒に神棚もあった。

そんな私が連れ合いと出会うことによって華光に出会い、浄土真宗に出会い、本願に出会った…
たった一人との出会いによって、「後生の一大事」に出会うことにまでなった。
しかも、そこには多くの人との出会いも含まれている。

これって、人間の知恵で測ったら、ほんの「偶然」の出来事としか思えない。
あの日、あの時、あの場所で、君と出会わなかったら
 僕らはいつまでも、見知らぬ二人のまま

っていうのは、小田和正の有名な一節だけど、それが出会ったでいうのは「偶然」でなければ「運命」なんて言葉で語ってしまう。
出会うようになっていた、なんらかの運命がある…なんてね。

でも、それは「偶然」でも「運命」でもなくて、私が仏法に出会うためにはこの道を通るしかなかった「必然」だと言えるんじゃないだろうか。
そう、誰かと出会ったから仏法に縁ができたんじゃなく、仏法に出会うために、いろんな人との出会いがあって、それはすべて「本願」に出会うためのもの。

そういうことを、知恵のない頭で一生懸命意味づけしようとしても仕方ないしね。

人によっては、耐え難い人や集団との過去があって、そのことを何とか乗り越えたり、否定してしまうことを通らないと進めないように思ったりもするんだろうけど、「今、ここに、わたし」がいて、仲間と一緒に法の話をしている”現実”があるのは、それらの縁も含めて用意されているもの。
そういう過去を亡きものにするんじゃなくて、はやくそこへのこだわりを捨てる。
どうあがいたって過去を捨てることはできないし、逆に無理に嫌な過去までありがたがる必要はない。
そこに「捉われている私」を振り捨てて、「弥陀の本願」に出会っていくこと。

縁を喜んだり、縁で苦しんだり、それは確かに「私」の中の現実としてあるんだろうけど、そういう「私」すべてをひっくるめた上で、「本願のお目当て」だと呼んでくださっている。

とはいえ、人間同士の関わりは割り切れないんだろうけどね。
出会うも”苦”、離れるも”苦”、とっくにお釈迦様が示してくださっている。

すべての出会いは、私一人の聴聞へと続いている。

でも、結婚して二人がお互いに「私ひとり」のところで響きあっていくのは素敵ですね。
あらためて、お二人の結婚を喜んでいます


「求め、捨てさせられ、転ぜられる」

2008-11-21 14:45:54 | 真宗カウンセリング

先日の月例会で感じたことを、あとで思い返したので書いて見ます。

担当のSさんがジェンドリン氏の書いたものを参考資料として添えてくださいました。
その中の一説です

私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
 (セラピープロセスの小さな一歩)

こう聞かされると、私は一生懸命「関係を作るために」いっぱいはさみこむものを身につけようとしているのが判ります。
ならば、そういうものをはさみこまないようにがんばらないといけないのでしょうか?

これより前の部分にこういう一説がありました。

私は情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることが必要なのです。
(中略)
そこで私は「それならなれる」と
次第に確信してきました。
 (同上)

というものがありました。
この部分に感銘を受けた方が、「わたしも、それならなれると勇気をもらいました」とおっしゃったのですが、先生は「そういう気持ちも挟み込んじゃうんですね」というようなことをおっしゃいました。
うーん、いろいろ気づけば気づくほど、それを頼りにしてしまう。
頼りにするということは、それを関係に利用しようとしているんですね。
「挟み込まないように意識する」という時点で、自然でなくなってしまう。
難しいです。

他の話題で、「禅問答のようだ」という話もあったのですが、この「はさみこまない」というのも言葉で理解しようとすると「禅問答」の世界に落ち込んでしまいそうです。
「無」を求めていこうとする「我」に悩まされる「有我」ですね。


そう考えるうちに、これと近い感覚を思い出しました。
自力と他力のせめぎあいです。
他力になろうとすればするほど、それは自力でしかない。
他力が目的だと思い込むと、それを目指してしまう。
目指すのは「我」だから、それは自力の域を出ない。
他力は、自分がまったく役に立たないというところの翻りなんですね。


ということは、「はさみこむ」というのも、その意識から開放される時が「はさみこまない」状態なんでしょう。
やはり、前回書いたように、そこは技法や態度ではなく、その大元の「人間観」による「尊重」があるときに、なにも障りがない関係が「出来上がる」のかもしれません。
関係を「作る」のではなく「出来上がる」

その「人間観」が「パーソン・センター」であるならば、私をそういう人間観にならしめるものは「ダルマ・ベースド」なんだなと。
うーん、言葉にするとうまくいえないのですが、大きなことに触れた気がします。

「求め、捨てさせられ、転ぜられる」という言葉が、今私の中で大きく響いています。


真カ研月例会 11月

2008-11-20 02:58:07 | 真宗カウンセリング

今日は真カ研の月例会でした。
先月は欠席したので2ヶ月ぶりですか。
内容は引き続きロジャース氏の論文の輪読会です。

カウンセラーが「人間に関しての哲学」を持っていないと、「一致・共感・肯定的配慮」といった態度を経験することは難しい…という内容なんですが、「哲学」という言葉で示されると、哲学をかじったことのない私にはどうも遠い話になってしまう。
で、先生や他の方々の話を聞いていると、それは「人間観」と置き換えてもいいような感じでしたね。
それならば、少しはニュアンスが見えてきます。

そのあと、ロジャース氏の自説を立証するための研究の話に進むのですが、その実証手順の記述は専門的でわかりにくいものの、そういう細かい手順を経ていくロジャース氏の”思い”というところを味わった感じがします。
その中のひとつに、クライエントにカウンセラーの態度を記述させるものがあるのですが、その項目の選択肢にドキッとするものがありました。

「彼は、われわれの関係において、まったくあるがままに振舞っている。」
「彼は、実際に思っている以上に、私を好いているように、また理解しているように見せかけている」

これは”一致”に対してのものですが、カウンセラーは一致した態度で臨んでいるようでも、クライエントには「あるがままに振舞っている」のか「見せかけている」のか、その態度が伝わってしまうんですね。

先の哲学の話題のときに、先生から「人間観-態度-技法」という言葉があり、「人間の可能性を尊重」し、「個人を尊重」し、「相手を理解する欲求」という人間観があれば、それが態度に表れ、技法につながるということが「ひっかかり」としてありました。
しかし、私はまず「技法」の模倣から入り、いかに「態度」が身につくかを模索している感じがするんですね。
頭では、先に「人間観」だとわかってはいても、その「人間観」を磨くために技法や態度から入っている。
しかし、根本の「人間観」がゆらゆらしていれば、「見せかけている」状態に留まってしまうのじゃないだろうかと。


じゃあ、どうやってこの「人間観」を磨くか…
矛盾するけれど、やっぱり「技法」「態度」を意識して「経験」していくしかないのか。

仏法といっしょで、頭の理解じゃなくて体感なんでしょうねぇ。

次回は私がレジュメ担当になったので、この実証手順を踏んでおこなった検証の答えの部分を考えます。
もしかしたらそこに指針があるかもしれませんね。


地域若者サポーター養成講座 第5回 -3

2008-11-19 00:21:47 | コミュニケーションワーク

もう一回、養成講座のことを書きます。

昨日書いた講義の後、3人組になって「聞き方」の実践がありました。
「話し手」「聞き手」「傍観者」の役割を決め、5分間「話を聞く」作業をし、その後順番に感想を述べ合う…これ役割を交代して3回行うというものです。

私はカウンセリングのワークで体験したり、ミニカウンセリングで何度も実践(この場合は二人組みですが)してますのでなじみのあるワークでした。

ただ、今回は「最初の1分間は、聞き手は相手の顔も見ないし、言葉の反応もしないでください」という条件付けがされました。
講義では「大事なスキル」として示された、「うなづき・あいづち」をしない状態と、する状態の両方を体験させようとすることですね。
それとももうひとつの条件「普段、話を聞くときの2倍・3倍うなづいてください」というものも加わります。

私は二人の女性と組みました。
最初は「傍観者」ですが、そこで感じたことは割愛します。
で、次に「聞き手」です。

最初の一分は反応をしないように、視線をそらすためにうつむいて、聞いています。
いつも間にか、うなづきながら、あいづちを打ちながら聞くのが当たり前になっていることに気付きます。
黙って聞いているのがこれほど「意識して、力を入れる」必要があるのかと驚きます。
当然、そちらに意識がいって、話が100%入ってきません。
「時間です」との先生の声で、話し手さんの方に向き直り、視線を合わせてうなづきながら聞き始めると、とても楽になりました。
本来は、この違いで「話し手」が楽になるかどうかの条件だったのでしょうが、私にとっては「自由に聞けない」という制約が、とても大きなものだということを実感できました。
それは同時に「いつもの倍うなづく」という条件にも当てはまり、無理に一杯うなづくにはかなりの意思が必要で、それは私にはとても窮屈なものになります。
そこには「私は十分うなづきの癖がついている」という自負との戦いにもなりますから、そちらに気持ちを向けるより、自然に聞くほうを選びました。(先生、ごめんなさい)

聞かせてもらっていると、話し手さんの主題も明確になってきましたので、感情の言葉の繰り返しに留意して、私のほうはゆったりと聞かせてもらった気がします。

「話し手」になって、やはり最初の1分間、聞き手が反応がないとノリが悪かったですね。
時間になってこちらを向いてくださると、満面の笑顔で一生懸命聞いて下さるので、特に整理せず、思いつくまま言葉にしていきました。
おかげで、先にアンケートで感じていたトラウマのことを少しだけ明確にできて、ちょっと思いの置き場所が作れた感じでした。
まぁ、5分という短い時間(そのうち1分は反応なしだし)で、しかも未経験の方の練習の場ですから、かなり状況をはしょって、出てくる感情の言葉中心にしましたから、じっくり向き合うまではいきませんでしたけどね。
「問題ありだな」ということだけは、しっかりと明確化。
それが前々回のブログに現れていますね。

今回、条件付の1分間を経験したことで、やはり今見につけさせてもらった態度やうなづきなどのスキルの大切さを再確認しました。
そして、傾聴して、相手の成長に任せる…またそのための関係作りが大切なんだと。
もっとも、このことは今までの経験から感じるところで、5分間のミニカンを一回経験するだけでは「違いがあるな」というくらいしかわからないでしょうけど。

あと、客観的に見て判ったことは、聞き手に見られることで、話し手は「身振り手振り」が加わって、何とか伝えようとするんだなと。
そのことで、声にも抑揚が加わるし、言葉にならない感情も現れてくるだろうなということですね。


この養成講座は、このあと実際に活動されている現場に実習に行くことになります。
私の実習先は12月の頭の予定。


地域若者サポーター養成講座 第5回 -2

2008-11-18 00:05:10 | コミュニケーションワーク

今回の講義には二つの柱があり、ひとつは前回話題にしたアンケートを基にした、実際の来談者がどのような状態で来るのかの実態。
もうひとつが「援助の手法」としての「カウンセリング」の話

私自身、数年にわたってカウンセリングに触れてきているが、その多くはミニカンやエンカウンターに参加しての実践と、ロジャース氏の論文を通じての専門用語よりの学習で、分かりやすい言葉でカウンセリングで体感していることを伝えるのは難しいと感じていた。
それを今回の講義では、とても分かりやすくまとめてくださり、その”大事”な部分を伝えてくださった。
もちろん、その後の実践を通じて参加者はその言葉の意味を体験していくのだが。

まずはタイトルとして「カウンセリング(傾聴)の基礎」として、そのサブタイトルに「その方の言い分を聴くこと」としてある。
「その方」というのはもちろん来談者であるし、何かを施したり対策したりではなく「言い分を聴く」ということが「来談者中心主義」を現してくれている。

ついで「カウンセリングとは」ということで、巷にあふれている「カウンセリング」(対面販売、聞き取り調査)という言葉と、これからここで進められる「カウンセリング」の違いを教えていただき、本題に入っていく。

まずは話しての状態について

 話しているときは、自分の想いを表す言葉を探しながら話している。
 話しているときは、自分の声を聞きながら、言い過ぎかな、などと吟味しながら話している。
 話しているとき、聞いてくれている人の反応を見ながら、聞いてくれそうな表現を探しながら、話している。
 話しているとき、言うのをやめようかな…とも思っている。

これは私もミニカンの実践などで徐々に感じるようになってきたところで、言葉にでているものの裏にある思いは当然あるし、そういうものは行間というか、沈黙の時に”動いている”ものとして出て来るように思う。
もちろん、表に出ないところで動いているので、それを探る必要もないし、無理に引き出すのも当然良くない。
ただ、表の言葉だけでなく、こういう動きがあるよってことを知っているのと知らないのではずいぶん違うと思う。

さらに続けて

 カウンセリングでは理解することに力点が置かれます。
 基本にして、最強の援助法はよく「聴く」ことです。そしてこれを実現するには、「聴いてもらっている」と話し手に判るように示す事が必要です。

と教えてくださいます。
今でこそ、私も当たり前のように思っていますが、私自身以前は「理解」よりも「対策」が必要だと思っていましたし、何かアドバイスすることが援助だと思っていましたから。
ただ、この「聴いてもらっている」と話し手に判るというのはとても難しいことです。

そこで、「傾聴スキル」に話が移ります。

 うなづき
 あいづち
 同じ言葉の繰り返し(感情を表す言葉・直前に発せられた言葉)

このことは、私は実践の中で相手の方の態度や様子を真似することから覚えていきました。
それを改めて「スキル」ということでまとめていただくと、「やっぱりそうだよなぁ」とうなづけます。

このあと、3人組で実践するのですが、やはりなれない方には難しいものがあるようですね。
「話し手を大事にして、聞き手は言葉を挟まない」ということだけでも、何度も実践しないとね。
この実践の話はまた別の項にしましょうか。


最近ではカウンセリングの流れもいろいろあるようですし、支持的・操作的なものも必要な場合があるようです。
しかし、私の周りではとにかく「聴く」ということを実践して見せてくださる先達がいっぱい居られますし、その大事さを教えてくださいます。
それが、今回違う場所でも同じように教えてもらったことで、とても私の中にある芯を太くしてもらった気がします。

今回の養成講座の流れの中で、時間的制約やゴールを目指すことが重視されるのだったら、その活動と私の目指すものにちょっと違和感が残るかと思っていたのですが、実際に現場のカウンセラーさんが大事にされているところは私の思いと離れたものではないことが判り、ホッとした感じがあります。

足元の再確認をさせてもらえましたね。
今週は、真カ研の勉強会もあるので、ちょっといい感じの気持ちで臨めそうです。


 


地域若者サポーター養成講座 第5回

2008-11-15 23:29:44 | コミュニケーションワーク
1週のお休みを置いて、養成講座もいよいよ5回目。
講義形式としては最後の回です。

今回は「聞く」ということを講義と実習で学ぶのですが、私の場合は今回を目的にしていたと言ってもいいほど楽しみにしていた日。
それだけに、講義の中身、実習の感じ、私自身の感じなど、ブログのネタが一杯です。
もしかしたら、数回に分けるかもしれません。

そんな中でも、今日の感じというところは時間とともに薄れたり他の気持ちが混じるかもしれないので、本来なら流れを先にすべきでしょうが、この気持ちのところを先に書いておこうと思います。

まず、非常に満足できた回でした。
「聞く」「カウンセリング」ということを、私なりに学んできましたが、それはほぼ100%「真宗カウンセリング」を通じてのことです。
ネット上などで、他の流れのカウンセリングを学んでいる方とやり取りすることもありますが、それは言葉上のことがほとんどで、実践的な、実感の伴うところでの学びではないと思っています。
今回の講師の方は、アカデミックに研究されているというよりも、実際に現場でカウンセラーとして実践されている方で、教えてくださることが実感として伝わってきます。
その中身は、私が学びの中で感じていることを、言葉として明確に示してくださいました。
そのことはまた項を改めて書こうと思います。

そして、後半の実践でもミニカウンセリング形式で行われ、久しぶりに「見知らぬ方」の話を聞いたり、話したりする感覚を味わいました。
これもうれしいことでした。
このこともまた改めて。

では、今日は何を書くか…それは非常に個人的に感じた、私の内面の部分になってきます。

今回の講義をするにあたって、実際に面談の現場で使われているアンケート形式を試してみることがありました。
実際に支援が必要な若者に、今の状態を確認するための項目で、その答えからトラウマや他者との距離感などを計る事ができるようです。

で、やってみた結果に現れているのは…わたしには大きなトラウマがあり、ずっとそれを引きずっていて、ふと気を緩めるとそのときの痛みを思い出し、そこに捉われてしまうという…

その部分はいくつかの項目の中の1ブロックなんですが、そこだけ18点満点の14点。
問題のない人は6点以下のようですから…問題ありですね。
他の社会的な関わりなどを表す部分は低い数字なんですがね。
講師の先生は、「そういう問題を克服している人は点数が低い」というようなことを言っておられましたが、普段の「社会人している私」ならば、そういう項目も普通に低い点数をつけていたかもしれません。
そういう内面を引きずっていたら、仕事などやってられないですから。
が、カウンセリング的なイメージがすでにあったため、飾らず、開いた状態でその項目に対していたからでしょう、普段奥底に閉じ込めているようなものが、気がつけば表に出てきていました。
だからこそ、トラウマというんでしょうね。

幸い、後半のミニカウンセリングでそのことを口にさせてもらい、「出てきたものに驚き、こだわっている自分が嫌だ」というところまで明確化させてもらいました。
そうやって、外に出してやれたことで、そういう自分をもう一度見つめなおすことができたようです。

いつもながら、ミニカウンセリングは「体験的な練習」でありながら、見事に自分の問題に向き合わせられる時間ですね。
人のために身に着けるカウンセリングではなく、その時々の「今」の自分のための時間だと痛感します。

それには、今日の講師の方の話や態度がとても心地よく、実習までに気持ちをほぐしてもらっていたからだろうなと。

このカウンセラーさんが教えてくれたことも、ぜひブログで残しておきたいと思っています。
(帰り際に、ブログにしても良いかたずねたら、快く笑顔で了承してくださいましたので)

余韻と新たな流れ

2008-11-14 00:04:53 | 真宗カウンセリング

先日、9月に行われた「真宗カウンセリング・ワーク・ショップ」の最後の分かち合いを録音したテープを、テープ起こししていた。
手紙やメールによる感想も送ってもらっていたが、実際のワークの最後に、余韻のままに語られる言葉は素晴らしく、このワークショップが充実していたことを思い返すことができた。

このテープを聴いていて感じたことは「何を話してもいいんだ(話さなくてもいいんだ)」ということが、参加者の共通項として浸透していたこと。
ほめたり喜んだりする言葉だけじゃなく、「物足りなさを感じている」ということも無理なく発信され、またみながそれを無理なく受け止めている感じが伝わってくる。
二日間という時間ではあったが、誰かが指導するのでもなく、参加者で作り上げてきた”関係”がそれを可能にしたんだと思う。

私自身は話でしか聴いていないが、このワーク後も参加者の中に残ったものがあり、顔をあわせるとその余韻を語り合ったり、新たなワークを計画・開催する声も出ているようだ。
「響きあい、育ちあい」ということが、波紋のように広がっていることを強く感じる。
その波紋に自分も触れていたいと思うが、なかなかそういう時間が取れない。
私の場合は、普段の親子コミュのことを考えたり、地域若者サポーターの研修などを通じて、そういう外に触れることとカウンセリングを振り返ることで、なんども味わいなおしている感もある。

私は参加できないが、今月にも宿泊のワークがある。
また、1月には新たな試みとして学習会も始まる。
http://homepage1.nifty.com/MANU/counseling/2008ivent.htm

今しばらくはこういう位置関係・距離感でもって、流れにのれば一気に動き出したりすることもあるのだろう。
そういう部分にワクワクを感じている。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 33

2008-11-11 00:22:42 | 親子コミュニケーション

以前、ふと見ていたテレビ番組で画面に映し出されていたものが気になり、写真を撮っておきました。
いつかブログのネタに出来るかなと…。

どういう経緯でこの言葉が出ていたのかは忘れましたが、その当時はちょっと違和感を持つところもあったと思います。
今の私で、あらためてその言葉を考えてみたいと思います。

「親の6大NGワード」とされています。
これがベスト6かどうかは分かりませんが、それぞれに意味はありそうですね。

「なんでこんなことができないの?」
これはNGでしょうね。
まず「これはできる」「できて当然」という親の側の「期待」「決め付け」があります。
それに対して、「今はここまでできる」という状態を受け止めずに、否定する…。
子どもにとっては悲しいでしょうね。
もっとも、親がそう思いたい気持ちを否定するつもりはありません。
「もっとできるはず」という思いをもって育てていくのも当然でしょう。
ただ、「今、ここ」の状態を認めてあげて欲しいんです。

「お兄ちゃんはそんなことしなかったわよ」
これもNGですね。
兄弟で比較する…よくやってしまいますよね。
これは私の考えですが、たとえば兄弟で2歳違いの場合、お兄ちゃんは2年成長していますから、いろんなことができたり、余計なことをしなくなっています。
でも、2年前はそんなこともなかったんでしょう。
ところが、今のお兄ちゃんを見ていると2年前も今の弟よりましだった気がする…てことはないですかね。
「今のお兄ちゃんの姿」というフィルターを通して、2年前のお兄ちゃんをイメージし、今の弟と比べる。
まぁ、そういうこととは別に、誰かと比較されるのは大人の自分でもいい感じはしませんよね。

「あなたはいつも…」
これは、どういう意図でここに入っているのか良く分からないんですが、何か怒ろうとしたときに、過去のことを引っ張り出してくるということでしょうかね。
だとしたら、それもNGですね。
とはいえ、結構気づかずにやってるんじゃないでしょうかね。
「前もこうだった」「何回も言ったけど」
そういう怒り方をされると、聞くほうも「またか…」となっちゃいますしね。
まぁ怒る側としては、同じことを何回も言わさないで欲しい、成長して欲しい、という思いがありますから、ついつい口に出してしまうでしょうけどね。
今指摘したいことは、過去のこととは切り離して、単独の問題として指摘するほうがいいと思います。

「みんなやってるじゃない」
これも比較の意味でしょうかね。
周りがみんなできていたら、自分の子どももそうあって欲しい…まぁ当たり前の感情でしょう。
でも、やはり比較というのは、されるほうは辛いことです。
逆に「みんな持ってるから、携帯買って」といわれたらどうでしょう。
「他所は他所、うちはうち」なんて返してるんじゃないでしょうかね。
「みんなって、あなた以外はみんな持ってるの?あなたが最後の一人?」っていうのもありますか。
つまり、「みんながこうだから…」っていうのは納得しづらいものですね。
「みんな」は置いといて、「あなたはどうなの」というところで相手してやりたいものです。

「テスト100点とってえらいね」
これもどういう意図で入れているのか…
そのときの状態をほめてあげるということでは良いと思うのですが。
もしかしたら、「100点だから良い」という考えが「100点以外は駄目」ということの裏がえしでNGにしているのかもしれません。

「ふざけるんじゃない!」
これも意図が分からないのですが…
言葉遣いってことでしょうかね。
そのときの子どもの思惑を無視して、一方的に「悪いことをしている」と決め付けて怒鳴ることに対してでしょうか。
大人にとって「ふざけていること」でも、子どもにとっては意味があってやっていることもありますよね。
たとえば、私が寝ているときに背中に乗ってどんどん暴れる。
そりゃ「ふざけるな」といいたくなります。
しかし、普段こちらが機嫌のいいときに「背中に乗ってマッサージして」などというと、子どもは喜んで背中の上でステップを踏みます。
休日の朝、なかなか起きないお父さんに「疲れてるんだな、マッサージしてあげよう」と子どもが思っても、本来責めるべき事じゃありません。
でも、その思いが分からずに、「ゆっくり寝てたいのに」というこちらの都合で応対してしまう…。
「疲れてるから、マッサージしようと思ったのに」などといわれると、大人気ない自分を反省し、ぎゅっと抱きしめて「そうかありがとうな」…というのが理想ですが、そういうときでも「そんなこと、言われたときだけやれ!」とさらに追い討ちをかけてしまうこともあります。
それはもうNGですよね。

「ウソつきはドロボーのはじまりよ」
うーん、作者はなぜこの言葉を入れたのか…
うちの場合は「ウソをつくのも罪で、それで地獄にいかんとあかんのやで」と言いますが…
こういう脅すような言葉で押さえつけるのじゃなく、「どうしてウソをついたの?」という風に、丁寧に子どもの気持ちを聞いてあげるべきだということでしょうかね。
それならわかる気がします。

もうちょっと画面全体を撮っておけば、ヒントがあったかもしれませんね。

でも、こうして普段何気なく使っているであろう言葉を、一度丁寧に振り返ってみるのは大事なことだと思います。
こういう言葉を使っていて「駄目だ」と自分を責めることじゃなく、まずは「そうか、これは良くないのか」と受け止めるだけでいいと思います。
そのまま、気にせずに使い続けるよりは、次使いそうになったときに思い留めることができれば、一歩進めますしね。

 32-「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」
  31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 32

2008-11-06 23:46:10 | 親子コミュニケーション

火曜日に保育園行事のひとつ、サッカー大会を応援に行ってきました。
京都府立体育館で市内から多くの園が参加しての大会です。
各チームに、おとうさんおかあさんたちもいろんな応援をしていましたね。

親は観客席からの応援ですが、コートの脇では保育園の先生がコーチをしながら声をかけています。
自分の子どものときは応援に集中しますからわかりませんでしたが、他の園の試合の時に眺めているといろいろ気づくことがあります。
コーチングということもあるので、先生はいろいろ指示をされています。
「前に蹴って」とか「広がって」とかいう指示型が多いのですが、中には「なにやってんの!」「それじゃダメでしょ!」という罵倒・ダメだし型もありました。
保育園の活動の中にはいろいろありますから、園によってはこのサッカー大会に大きな期待をして、早くから指導・特訓しているところもあるんでしょうね。
そういう思いが「これだけできるはず」という理想と、目の前の状態のギャップに「過度な期待」を持ってしまうのかもしれません。
普段そんなにきつくないだろう先生でも、ついつい興奮してしまうんでしょうね。

観客席の親のほうでもいろいろ居られます。
やっぱり基本は「がんばれ」でしょうか。

以前も書いたかもしれませんが、「がんばれ」にもいろんな意味が取れますね。
16-今ある状態を認めてあげる
「がんばって欲しい」ということでしたらこちらの思いですね。
「がんばりなさい」となると命令・押し付けに近くなりますか。
本人がもう精一杯やっているときの「がんばれ」はプレッシャーになるかもしれませんね。
まだ子どもだと純粋に「応援してくれている」と励みに受け取るのでしょうけど、どれだけやってもそれ以上に「がんばれ」といわれるのは、子ども心に傷が残るかもしれま
せん。

それに対して、終わってからの「がんばったね」は、自分がやったことを受け止めてもらうことですから、子どもにとってもうれしい言葉でしょうね。
ギューと抱きしめてやって「がんばったね」って言ってやれる自分でありたいと思います。

そういう親のほうからのアプローチとは別に、子どもが自分から「がんばる」というのはうれしいことですね。


今回、私の子どもはゴールキーパー。
最初の試合はずっと攻められていたけれど、なんとか0点に抑えました。
2試合目は、結構攻めていたのですが、相手のワンチャンスにいいシュートを決められ、負けてしまいました。
試合後、席に戻ってきたとき、顔を合わせようとしない息子がいました。
近づいて「がんばったてたな」と声をかけてやると、小さい声で「くやしい」と。
「そうか、くやしいんやな」とだけ返して、抱きしめてやりました。
こちらから「こうしたら」ということを言わなくても、自分から「もっと練習して、みんなとがんばって、次は勝ちたい」と意思表示。
「みんなとやるわ。だってぼくキャプテンやから」
私は驚きました。
私はどういう結果でも「それでいいよ」と言うほうでしたから、息子もどちらかというと「まぁしゃあないな」とするタイプです。
(ただ、あとからグチグチと思い返して、いつまでもこだわり続けはしますが)
それが、悔しいという思いとともに、次はがんばろうという気持ちを持つようになっている。
親のほうから追い込まなくても、子どもなりに思うところはあるんですね。

そして、それを自分だけのことじゃなくて「みんなで」という考え方をするようになったこと。
ここ1ヶ月で、運動会の鼓隊・組体操・チームリレーやこのサッカー大会など、グループで目標を目指す行事が続いたことで、個人だけでなく協調ということを学んでくれたのかなと(親ばか要素もかなりあるとは思いますが)


私自身、今、ニートということや、それに対するプログラムを学んでいます。
多くは「社会になじめない」つまり協調ということが出来ないところに悩みを持っているんですね。
そしてその原因は「期待に応えられない」という挫折から始まる場合もあります。
そして彼らは、怠けていたり、逃げているんじゃなく、自分なりに精一杯「がんばっている」ということを知る必要があります。
その頑張りが、周りには「もっとできるはず」という幻想に沿っていないから、周りが認めてくれない。

振り返ってみて、自分自身もそういうことはありませんでしたか?

今、やっていることを、そのまま「がんばっている」と受け止めてあげることは、簡単なようで難しいことかもしれません。
ただ、甘えさせるということとの違いが伝わればいいのですが…
このことは、ずっと考え続けて、伝え続けていく、私のテーマのひとつかもしれませんね。

「がんばれ」と「がんばる」と「がんばったね」の違い…大事なことだと思います。

 31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ

 


捨て置けば良いんですけどね(愚痴です)

2008-11-03 21:16:40 | 真宗
土曜日から3日間、華光の法座「華光大会」でした。
私は先に書いた研修会の関係で、夜からの参加でしたが、さまざまな自己に揺さぶられる、それでいてありがたい時間でしたね。
後生のことは、これでもかこれでもかとハッキリ向きあわさせられ、今生のことはもうあきれるくらいどうにもならないなと…
(普通は今生事はどうにでもなる…と言われるんですがね)

そんななか、姿勢という点で思わされることがあります。
あくまで、私の思いであって、人に押し付けるつもりはないという前提ですが。

法座には若い先生も多いのですが、それこそそういう先生が子どもや学生のころから知っています。
当然そのころは○○くんという感じで呼んでいますし、普段の場では今もそういう風に呼びますね。
私は、そういう気軽でもいられる関係の仲間でも、法話の講師として話されるときは当然○○先生と呼びます。
法をお取次ぎしてくださるわけですからね。
それから、座談会でも、○○先生と呼ぶように、心がけるというよりは当たり前のようにそうしています。

その先生の人や形で、たとえば若いからとか、普段良く知っているからということで、「子どものような気がして心配」とか「弟のように感じているから」なんてところで、評価するのは悲しいなと思うんですね。
そういうところで「でも良かったよ」とかいう気持ちが出てくるのは否定しませんし、それを伝えてあげることも気にしません。
そういうことも聞いておきたい方も居られるでしょう。
しかし、それを座談会で「今、聞かせていただいたところで話しましょう」というところで、そういう発言が続くとちょっといやな気持ちにさえなります。
(評価は反省会や休憩時間にでも十分できると思うんですが)

まぁ、いやになるのは私の問題ですから、そのことをそのまま表明すればいいし、できる場なんですが、今回はいろいろ余計なこだわりが付随して、その自分の思いがニュートラルなところから出ているのか、普通なら気にならないことが変に意識しているから偏って考えているのかの自信がなかったので、言葉にしませんでした。
でも、いやな気分は事実でしたね。

それでも、そういう「若い先生だというところで心配」している心をお持ちなのは事実なんで、それを表明されたということで受けるとしても、そういう評価の部分だけ口にして「ご法話の内容は…まぁいいや」なんてことが出てくると、もう何のためにここに居られるのかがわからなくなりますね。
まぁ、人のことはどうでもいいのですが、そういうことにこころ煩わされる私がいて、どこかで吐き出したいなと思い続けていたんでしょう。

百歩譲って、その発言者と先生が普段から良く知っていて、フランクな関係なんだとしても、その場には他にも「大事な時・場だ」と集まっておられる人がいるんですね。
先生を絶対視して、崇め奉れという気はさらさらないですが、法を取り次いでくださる方、そのために普段から骨を折ってくださっていることを敬い、大事に聞かせていただくということは、心にかけておきたいと思っています。

でも、普段はというか本当はそんな殊勝な気持ちもなく、師といえど足蹴にしているようなやつが、こんなときだけいいかっこして吼えるのもこっけいなことだとは思います。
そんなこっけいなやつだからこそ、忘れていると気づかされたときは頭を垂れて、師を仰ぎ、師を通して本願に向きあわさせてもらいたいなと。

そんな形式にこだわって馬鹿じゃない?なんて声があるかもしれないですけどね。
後から来る人は、良いも悪いも、前の人の形式を頼りにしますから、意識しておくことは無駄じゃないだろうなと。

とここまで書いてみて、そんな自分こそそんな形のことばかり話して、肝心の中身はどうだったんだと自問しちゃいますね。
うん、こんなことに煩わされるアホなやつだとますます痛感し、ますます「それがおめあて」の声が頼もしくあります。
南無阿弥陀仏