コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 47

2013-01-31 22:39:29 | 親子コミュニケーション

以前にミニカウンセリング研修のときに話した話題で、「コミュニケーションを失敗しちゃうことはわたしにもありますよ」ってお話。
この話に関心を持ってくださった方がいたので、一度文章化しておきたいと思いながらズルズルと。
ちょっと時間が経って心境の変化はあるけど、このまま風化させるよりは今の時点の思いとして、ね。


次男はいわゆる「空気が読めない」といわれるタイプ。
これまでも「なんでこのタイミングでそのことを言うのかなぁ」ということが多々あった。
なので、こちらも「そういう考え方をしちゃう子だ」と対応する。
それはあるときは”配慮”として現れるんだけど、時としては”思い込み”になってしまうという例。


いつも夕食時になると「今日のおかずは何?」というのが日課のような息子。
あるとき、「そろそろ出来るから、食卓の上片付けといてな」と私。
「はぁい」と返事して、兄と一緒に散らかした食卓を片付けてくれる。
「お膳拭いて、取り皿とお箸用意しといてな」
「はぁい」
というやり取りを繰り返す。
で、お膳拭きを台所にもって来て「今日のおかず何?」と。

「食卓の準備を頼む」→「もうすぐ食卓におかずが並べられる」→「聞かなくてもすぐに答えがわかる」
これが因果関係を把握できる思考の流れ(一例だけど)で、こう感じてほしい。
同時に、それがこの子には困難だということもわかりつつ。

しかし、連れ合いが仕事で遅くなると連絡してきて、お腹をすかした子らのために急いで用意をして…
気持ちに余裕はなくなってる状態。
なので出てくる言葉は「もう用意できてるって言ってるやろ、すぐに何がおかずかわかるやろ」
一応、怒鳴ることはなく諭す口調だったけど(連れ合いによると、静かに言うときのお父さんの方が怖いらしい)フレンドリーさは全然ない。
一瞬黙りこくる息子。

ところが次の瞬間思いもかけない言葉が返ってきた。
「ドレッシングとか何がいるのかなって思ったから…」

こちらはいつもの癖のようにたずねている言葉、状況を把握せずに思いのままにいっている言葉だと”思い込んでいた”。
しかし息子はお手伝いの延長で、おかずの種類によって用意するものが変わるから、そのことを考えるために「今日のおかずは何?」と。
(あぁ、思い出して言葉にするだけでも涙が出てくる)
ほんとうに申し訳ないことをした。

「空気が読めない」という特性を理解していないよりは理解している方が良い。
そういう特性があるのなら、配慮してあげて丁寧に一件ずつ事柄を進めてあげられるのが良い。
ただ、そうやってあげることが「こちらがしてあげている」と、思い上がると怖いことになる。
間違っちゃうこともある。
それはお互いに起こる。

お互いでしんどい思いを抱えながら、手を取り合って、抱き合って、共に育たせてもらうしかない。

  親子コミュニケーションのちょっとした心がけシリーズ インデックスはこちら


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 46

2012-07-22 17:23:19 | 親子コミュニケーション

かつて力を入れていた「親子コミュニケーションのちょっとした心がけ」シリーズ。
2年半前に45回目を書いてから、間が空いている。
インデックス化も途中で止まったままだ。
気負いをはずして軽く書き続けようと初めた「親子コミュニケーション・Light」シリーズからも半年以上経ってる。
多少、親子に関することは「PTA」カテゴリーで書いてる気もするが。

で、最近SNS上でお友達が書いてた話しがほほえましかった。
私が「親子コミュニケーション」として大事にしていることを実践されている話だ。
ご本人の了解ももらったので、紹介したい。

 

今週の話。

小3の娘、なぜか何日もご機嫌ナナメ。

そんなある日、朝起きると「お腹いたい」と言う。
でもそんなに大ごとではなさそう。

ご飯を食べてしたくもしたのに、学校に行く時間になるとグズグズ。

待ちきれないお兄ちゃんは、先に出てしまった。
(あー、私が学校まで送っていかなくちゃな・・・。)

それでもいつまでもグズグズしてて、なかなか出かけようとしない。

私はつのるイライラを抑えながら娘の正面に座り、
「何かあるなら言ってごらん」

娘:「お兄ちゃんが具合悪いときはお医者さんに行くのに、私のときはどうして行ってくれないの」
(息子はしばらく頭痛が続いていて、少し前に耳鼻科で副鼻腔炎が見つかったのです。)

あ~、そういうことか。

私:「お医者さんに行くくらいお腹痛いの?」
娘:「うん」

私:「じゃあお医者さんに行ってから、遅れて学校に行こうか」

娘、顔がパッと輝く。

羨ましかったんだな~。
お兄ちゃんばっかりで、私のことは心配してくれない・・・って。

二人で歩いて小児科へ。
診断は「お腹の風邪」でした。

そのあと、一緒にドーナツ屋さんでお茶。

実は私、子どもを医者に連れていったあと、よく一緒にお茶します。
たいていは、息子か娘のどちらかだから。
子どもは私と二人きりの時間を喜んでくれます。
「今は自分だけのためにお母さんがいてくれる」と思うのかな。

どちらも愛しているのに、二人とも大好きに決まってるのに、
兄弟ってどうして親の愛を競い合うんでしょうね~。

ドーナツ屋を出て学校まで送っていくと、娘は元気に教室へ上がっていきました。

まずは、こちらから「どうこうしなさい」ではなく、話を聴いてあげる態度(心がけ 11
正面に座って向き合う姿勢(心がけ 1
環境を変えて息抜き(心がけ 13

ブログ記事にしたのは結構昔に話になっちゃいましたが、懐かしく思い出しました。
別に私のブログを見てこういう対応をされたわけじゃありません。
ちゃんとされてる方はいるんだよなっていう嬉しさもありますね。

今はPTAの活動の方が忙しく余裕がないですが、落ち着いたらこのシリーズも整理していきたいなと思います。

 親子コミュニケーションのちょっとした心がけシリーズ インデックスはこちら

 

Special Thanks to M.N


極々私的な書き込み

2011-12-18 23:54:10 | 親子コミュニケーション

他にも書くべきこと、書きたいことはあるんですが…今日は子どものことを書きたくなりました。

 

今日、息子二人と映画を観に行きました。

金曜くらいに次男のSくんから「明日からやるんやけど、観に行ける?」と聞かれ、「お父さん、夜中仕事やし、朝から昼間では寝てると思う。その後はわからん」と生返事。

ところがSくんは「昼まで寝たら、その後は可能性がある」と受け取ったんでしょう。

昼過ぎに「お父さん、もう起きる?」と聞いてきます。

「風邪気味やし、もうちょっと寝とくわ」と私。

しばらくしたら、友達の家に遊びに行ったようです。

後で聞くと、母親にも「おかあさん、映画行ける?」と聞いていたようです。

 

その日の夜には「お父さん、明日は?」と聞いてきます。

「今晩も仕事やし、明日は昼まで寝たら昼から勉強会あるから無理」

さすがにちょっとかわいそうになったので、「映画はすぐにおわらへんし、来週もまだやってるはずやで」とごまかしにかかります。

 

そうして、夜中に仕事に出かけたのですが、どうもばつが悪い。

で、いろいろ考えてしまう(夜中の仕事は、単純作業しながらなのでいろいろ考えてしまいます)

 

ここからはさかのぼっての話。

息子Sくんは、今3年生。

発達障害の講習会を聞きにいくと、そこで教えてもらう様々な特性が当てはまります。

落ち着きがない。

話が聞けない。

妙なところをしっかり記憶していて、融通がきかない。

その他もろもろ。

 

そんなSくんが、今年の夏以降に「学校辞めたい」とよく言うようになってきました。

思ったことを口にしたり、融通がきかなかったり、いわゆるKYぶりを発揮しているのでしょう。

友達づきあいが苦手です。

ちょっとしたことを言われて、気にしてしまう性質でもあります。

本人曰く「いじめられている」「おもしろくない」と。

「学校がいや」と言う気持ちは聞いてやれますが、「転校したい」という要求までは聞けません。

そんなある日、いつもより強烈に「もう辞めたい」ということを訴えてきました。

よく話を聞き、一緒に学校へ行って先生も交えて話を聞きました。

 

仲の良い友達が一人居るのですが、その友達としゃべっていたらいつもいじめる子が来て「あいつといっしょに居るな」と連れて行ったようです。

自分がいじめられているだけのときは我慢できていたけど、大事な友達を取られたことは我慢ならなかったようです。

 

その少し前に、いざこざから相手の子に怪我をさせてしまいました。

「いくら相手が悪くても、怪我をさせたらダメだ。お父さんは暴力は嫌いだから、手を出さないように」と言っています。

そのことを必死に守ろうとしたんでしょう。

「手を出したらあかんから我慢した。でも、我慢し切れんようになったら怪我させるから、そうなりたくない」

彼なりに一生懸命内省しています。

 

Sくんはある絵本が好きです。

「おまえうまそうだな」宮西達也

まだ保育園の頃、この本に出会って感動していました。

その心優しさに、「Sくんはこういうお話がすきなんやね。そういう心はお父さんも好きや」というような褒め方をしていたと思います。

その後、このシリーズの新作が出るたびに買って読んでいます。

本当に好きだと言う面もあるでしょう。

一部には、そうやって褒められたと言う記憶が、彼にとっての私とのつながりであり、こだわりとなっているのかもしれません。

 

異形のものが、どんどん心を交わして深いつながりを持っていく。

別に心理分析したいわけじゃないんですが、Sくんは私が思っている以上に「つながり」に飢えていて、「つながり」を求めているのかもしれません。

 

これも先日参加した研修会で、絵本読み聞かせの先生にお話を聞いたときに、このシリーズも取り上げられていました。

 

話が前後してきましたが、こういうことを経てきたことが、昨晩の仕事中に気になりだしました。

今回、息子が観たいといってきた映画は「Friends もののけ島のナキ」

単純に予告編で観て面白そうと思ったのかもしれません。

しかし、「Friends」と言うタイトル、キャッチコピーの「どこまでも、きみのともだち」と言う言葉が、Sくんの思いとリンクします。

 

どんな思いで、この映画を観たいと言い出したのか。

生返事でどっちでいいようなあやふやな態度しか取れなかった私。

普段、PTA活動やカウンセリングの学びで、「子どもとしっかり向き合うため」と良いながら、実際には何も向き合っていなかった。

 

午後の学習会の予定ははずせませんし、多くの人に迷惑をかけるわけには行きません。

そこで、朝はしっかり休んでおいて、学習会を終えてから息子二人と映画館のあるイオンモールへ。

夜の回だったんで少ない観客(アベックがくっちゃべってちょっと×だったけど)ゆっくり観ました。

時々横から聞こえてくるSくんのすすり泣き。

映画でも泣けますが、こういう映画を観て涙するSくんに心を寄せて私も涙します。

 

終わってから、たこやきつつきながら感動した場面を分かち合い。

とても喜んでくれたし、何度も「ありがとう」といってくれた息子。

 

目の前に横たわる問題が解決したわけじゃないだろうけど、お父さんとつながってることだけは感じてくれただろうか。

口先での、大人のごまかしでのつながりじゃなくて、応えることで示すつながりを実感してくれていたらこんなにうれしいことはないんだろうけど。

いや、どう思われていようと、今日の「ありがとう」の一言だけで十分です。

 

 

と、打ち込んでて恥ずかしくなってきたけど、言葉にしておかずにおれなかったので、そのまま流しておくことにしましょう。

 

 


どれだけの事をしでかしたかの自覚

2011-08-29 23:41:35 | 親子コミュニケーション

子どもの夏休みが終わりました。

うちの子の小学校は2学期制(前・後期)なので、私が子どものころのように「今日から新学期」ということではありません。

先日、校長先生とミーティングした際に「新学期と言えないとすれば、どう言ったら良いんですかね?」と尋ねると、「私は教職員には”前期の後半”と言っています」とのことでした。

ということで、今日から「前期の後半」が始まりました。

 

学校の休み(とはいえ、先生方は普通に出勤されてますが)の終わりとともに、私のPTA活動も活発化してきます。

 

夏休み中には、児童向けの「オセロ・将棋大会」があり、先週には地域のイベントでもある「夏祭り」があり、PTA役員としての活動もあることはありました。

そして今日は、朝一番にPTA役員は集合して「あいさつ運動」。

つづいて、学級委員さんたちも交えて「校内清掃活動」。

さらには、新学期…じゃなくて後期後半最初の「本部役員会議」と、午前中だけでもフル稼働です。

秋にかけて運動会や学芸会などイベントも目白押しですから、いろいろ忙しくなってきます。

 

 

そんな気分一新の日に、うちの息子が神妙な顔をして帰ってきました。

「あんな、いろいろ理由はあるんやけどな…○○ちゃんの手を怪我させてしもたん。」

最初に怪我させたことを言わずに、「いろいろ理由はある」と言い訳から入るところが息子らしいといえばらしいんですが…

息子は息子なりに、精一杯勇気を絞って報告しようとしてますので、ここは時間がかかっても息子の言葉で話させてやろうと、あいづちだけ入れて最後まで聞くことにしました。

 

自分もいやな目に合わされたこと、そんな強くしたつもりはないけれど蹴ってしまったこと。

そして、そのせいで相手の女の子が手の指を脱臼してしまったことを、話は行きつ戻りつしましたが報告してくれました。

少し確認はしましたが、怒ることと詰問することは避けようと。

 

このときの思いを振り返ってみると、「悪いことをした」「いかなる理由があろうと暴力はだめ」ということをわかってほしい思いがあったんでしょう。

 

頭ごなしに怒ることはしませんが、「先に向こうが…」という話に戻るときに「でも、手を出したのはどっち?」ということだけは、本人が受け止めるまで何度も繰り返してたと思います。

 

この考え方は私の思いであって、それ以外の考え方を否定することではない、ということをお断りした上で、ちょっと書いてみます。

 

 

怪我をさせたことで、この行為に関しては全面的にこちらに非があります。

息子としては、「先にいやな思いをさせられた」ということを理由にしますが、そのことで手を出したことが無かったことにはなりません。

何もないのに手を出したことに比べて、同情の余地はあるでしょう。

しかし、それは同情までのことで、罪を免れることとは違います。

 

極論かもしれませんが、殺人を犯した加害者に対してその被害者が目に余る行為をしていたとしても、そこに情状酌量の余地はあっても「殺人しても仕方ない」という「殺人行為を認める」ことはないのと一緒です。

いくら、被害者側に、加害者を追い込むことがあったとしても、その行為を「容認」することは出来ません。

もちろん、同情することはあるでしょう。

 

殺人まで行かなかったとしても、「自分を傷つけられることがあった」という理由があったとしても、それを越える報復行為(身体暴力に限らず、言葉の暴力や誹謗中傷なども)をしてしまえば、その行為は容認されないだけではなく、「もとは自分が被害者だった」という事実も吹っ飛んでしまいます。

 

「だからといって、やっていいわけじゃない」

 

人は、自分の行為に対して言い訳や擁護をしてしまうのも当たり前でしょう。

しかし、そこにいかなる理由があろうとその「行為」を無かったことには出来ないんです。

 

 

息子に対し、怒ってしつける方法もあるかもしれません。

しかし、私は、「怒られた」ということだけが心に残るよりは「だめな事をした」ということをわかってほしいと思っています。

 

自分自身振り返ってみても、怒られたことは覚えてても、何で怒られたかはあまり記憶に残ってなかったりします。

 

今日だけでも何度か息子とこのことを話し、「やったことは無かったことに出来ない」ということを何度も話しました。

怪我をさせた相手は、しばらく包帯をして登校することでしょう。

誤ることは十分にし、仲直りもしたと聞いていますので、これからは手が不自由な分、いろいろ手伝ってあげることを課しました。

どれだけのことをしてしまったのか、身をもって体験してくれればいいなと。


あなたは見たんですか?

2011-03-10 16:21:48 | 親子コミュニケーション

PTAのほうで来年度に向けた準備や打ち合わせが増えてきている。
しばらくは親子コミュニケーションをめぐるいろんな出来事が思考の中心線になりそうな予感。
でも一方で、月末に行われる広島WSに参加することも決まり、カウンセリングモードも刺激を受けそうだ。
そういえば、これも私が担当している「真宗カウンセリング研究会」のホームページも更新することが出来た。
ちょっと頑張って、いつものプログラム更新にプラスして、「創立50周年」のバナーを作ってみた。
小さいスペースで、いかにシンプルに必要なことを伝えるか…
素人としてはなかなかのものが出来たんじゃないだろうか。
(プロだと色使いなんかに指摘があるかも)

と、雑多なことを書きながら、今日書きたいと思ったことは、以前書いた「読み聞かせ」の先生から聞いた話で、記事にしてなかったもうひとつ大事なこと。
記事を書いてたときはすっかり忘れてたんだけど、娘とマスコミの問題を話してるときに思い出した。


講師の「大石進」先生は、小学校の教員をされていた時代、児童の色んな問題に関して保護者と話する機会が多かったらしい。
で、大抵は自分の子が受けた被害に関して、加害者のことを悪く言う。
まぁ、その気持ちは分かるし、我が子を親がかばわずして誰がかばうのかって事はある。
ただ、そういう加害者のことを話するときに
「○○さんはいつも問題を起こしている」というような言い方がでてくる。
単純に”問題”ということもあれば、具体的に「いつも○○をしている」というものもあるだろう。
問題は、その発言の根拠だ。
その多くが
「みんな言ってます」
というものだ。

こういうときに先生はこう尋ねるそうだ。
「あなたは見たんですか?」「いつ見たんですか?」
大抵はそう言われても「みんな言ってます」と繰り返すしか出来ないそうだ。
そう、自分で見たり確認したりしたのではなく、人のうわさを「真実」と思い込んでいる。
さらには、そのうわさの中から「自分側に有利」なものだけを頭にインプットして、それを根拠にする。

これはとても大事なことだと思う。

子ども同士が問題を起こすときに、一方が全面的に責任がある形で事が起こることはそう多くないと思う。
大抵は「どっちもどっち」なもので、売り言葉に買い言葉。
先に手を出して怪我させたりしたらもちろん悪いが、その前に見た目の傷が残らない心の傷もあるかもしれない。
どちらが先だとか、どちらのほうが傷が深いとか、そういうことではなくどちらも傷つくのだ。
だから一方だけを責めることは怖いことだと思う。


私自身、最近はいろんな問題の相談を受けるとき、その発言者の「気持ち」は今そこに在るものとしてそのまま受け止めるが、話題の中身に関しては「一方からの見方」としてとどめておく。
その話題に関わるもう一方の言い分もあるだろうし、一方の見方だけですべてが理解できるはずがない。
いや、理解という意味で言うと、双方の言葉だけ聴いても、実際にその体験をしていなければ理解は出来ないし、それでもってもすべてとは言えない。


「あなたは見たんですか?」「いつ見たんですか?」
少なくとも、発言者が自ら見て体験している話ならば、そういうこといが”あった”とは言えるだろう。
しかし、噂話や、又聞きした話には”他の意思”が混入され、想像が加わり、”あった”ことから離れてしまうことがほとんどだ。

こういうところにも、「聞く」態度ということにつながる重要な要素がありそうだ。
今ここにある”気持ち”と、”話題”とを分けて聞くことの重要さだ。

 


絵本に学ぶ子育て、絵本で考える人権

2011-03-03 23:39:38 | 親子コミュニケーション

PTAの「指導者研修会」なるものに参加してきた。
市内でいくつかの支部に分かれているうちの南支部としてのイベント。
研修会と名はついているが、その時々の担当校が講師を依頼して行うもので、講演を聞いて終わり。
分科会や座談会になれている私にはちょっと物足りない気がするが…

しかしこれも特権で、PTA役員だからこそ講演会に参加することが出来る。
今回は「おおいし すすむ」先生による「大人のための読み聞かせ会」

絵本を通じて子育てをする側が学ばしてもらうことがたくさんあるというお話だった。
そのほとんどは、カウンセリングなどを通じて、また今までの保護者会やPTA活動でいろんなお母さんやお父さんと関わってきた中で感じさせていただいていることを、再確認や新たな視点で教えてもらうものだった。

過去に「親子コミュニケーションのちょっとした心がけ」としてこのブログでも取り上げている話でもある。
そのうちいくつかをもう一度取りあげてみる。

○子どもは親の真似をして学ぶ
私も親が率先して「ありがとう」ということをしないで、子どもに「ありがとうといいなさい」と押し付けても無理だということを言ってきた。
買い物でつりせんを受け取るときに「ありがとう」
ファミレスで注文したものを持ってきてくれたら「ありがとう」
そうすることではじめて、子どもはなにかしてくれたときに「ありがとう」を言えるし、そうすることが当たり前で、恥ずかしいことじゃないと学ぶんだと思う。
今回おおいし先生は、また別の視点でこのことを教えてくださった。
「みなさん、最初から日本語をしゃべってましたか?日本語学校で学んでからしゃべるようになりましたか?」
そう、周りで家族が日本語でしゃべっているから、それを身体で学んで身に着けていったのだ。
親が関西弁だからあたりまえのように関西弁でしゃべってる。
悲しい話だが、親が乱暴な言葉遣いしか出来ていなかったら、子どももそれが当たり前になって乱暴な言葉遣いをするようになる。
直せと言われても、それが当たり前で学んできたのだから。

「靴をそろえたり、そんな些細なことでも親の姿を見て初めてできるようになるんです」
子どもに「ああしろ、こうしろ」という前に、わが身を省みることが大事かもしれない。

○心の声を聞いてあげる。
これはとても大事なことだけど、そのためには普段からの関係作りが大事になってくる。
「言っても大丈夫」と思える関係を作らずして、「ほら言ってごらん、やれ言ってごらん」と責め立ててもそれは無理ってもの。
話を聞くということを学ぶのはとても大事だ。

そのことを、おおいし先生が体験した、小学校での子どもとの関わりを題材にした絵本があるそうで、それを紹介していただいた。
先生は、その子どもの日記を通じて、自分の間違った関わりに気づいていかれた。
「いつも怒った顔をしている」
「一方の言い分だけ聞いて決め付けている」
なかなか聞けない心の声を、その子の日記を通じて知る。
そういう日記をつけさせて、聞かせてもらうという関係が作れたから知りえた心の声。
いろいろ手段はあるものだなと。

○まず伝えたいことを受け止める。
これも先生の経験談から。
よくこける子がいたそうだが、こけて痛がってるときに「そんなん大丈夫、痛がらんとき、泣かんとき」と対応された。
でも一向に泣き止まない。
あるとき、おばあちゃんから「痛いの痛いのとんでけ~」とされたことを思い出された。
一度「痛い」ということを引き受けてあげる…
そう、子ども訴えは「私は痛いと思っていることを分かって」ということで、他人の判断で「大丈夫」とされることではない。
こっちは大丈夫と思っていても、本人は「痛い思い」なのだ。
痛さへの対応よりも、気持ちを受け取って欲しいのだ。
痛がっていることを認めて、受け止めて、「そうか痛いんやな」と。
これはまさに、ミニカンで学ばせていただいていることだ。

他にもいろんな事例を、時には体験談で、時には絵本を読むことで教えてくださった。
ちょっと「?」と思う部分もあったが、それはまた別の機会に。

いろいろ絵本を紹介してくださったが、先に書いた先生と生徒の関わりをモチーフにした絵本が素敵だと思った。
どこかで見つけたらぜひご一読を。

「おこだでませんように」くすのきしげのり作 小学館

 

 


なんだかんだ気になるドラマ

2011-01-27 00:00:28 | 親子コミュニケーション

ドラマ「スクール」にはまってきた

偶然の感じで見始めたドラマ「スクール」
今回は見ようと思って録画しておいたので、ある程度先入観(これは所詮ドラマだから)ってのをもって視聴。

まぁ普通ありえない感じの校長像はドラマだからと割り切っておいて、また子ども同士のキスの話題もドラマゆえってんで。
っていうか、実際にこども同志の恋愛感情はそれこそ様々な形で存在してるだろうし、情報だけでいくともっとどろどろしたものもある。
こんなドラマみたいなきれいな、爽やかな恋愛って…なんていうのは”大人”のくすんだフィルターを通して見てるからですね。
うーん、純真じゃないなぁ。

で、やはり私が気になるポイントは一つ。
二つの家庭が(あいかわらず極端だけど)でてきた。
裕福で親も祖父母も子どもを好意的にかまっている家庭。
共働きで、夫婦間に問題があり、子どもにとって迷惑な親の家庭。
が、どちらも子どもに向き合っていない。
上のほうの親は、自分たちは精一杯向き合ってるつもりだろうけど、それは自分の感情(好意)の押し付けで、子どもが望んでいるものを受け止めようとしていない。
また、自分の子ども至上で、他を攻撃する。
下のほうの親は、自分こと中心で、自分の見方であるかどうかがまず子どもへの評価だったりする。

そういう意味では目いっぱい向き合おうとする主人公は輝いて見える。
というか、それが狙いだから親は対極に描かれてるんだろうけどね。


しかし、実際にこのドラマに出てくるような(あるいはもっと劣悪な環境の)子どもがこのドラマを見たらどう思うだろうか。
自身のもっている傷を、テレビドラマでまで見せ付けられるのは…

実際、私の両親は離婚していて、そういう場面をドラマで見るだけでいやなものが胸にざわめきだす。
そのざわめきは理屈じゃなくて、ドラマ的にあとでハッピーエンドが待っているとしても、そう簡単に心は晴れない。
まぁ、そういうのはフィクション・ノンフィクションに関わらずあるんだけど。
今の私はかろうじて、そういういやなものでも、目に触れるのはそれなりのわけ・縁があって、そういうざわめいている心もまた「今・ここ・わたし」だと受け止めるだけの根っこはいただいている。


とはいえ、こういうドラマを「まだましじゃん」と見るか、「これは極端でありえないよな」と見るかは、そのときの個人個人のありようってことで。
ただ、こういうドラマを鏡にして、ただひとつ「私は子ども(親)と向き合ってるかな?」って考えてみるきっかけになればいいかなと。
で、とくに子どもには「向き合ってみて欲しい」なと。
たいしたことは出来なくても、子どもが話したいと思っているときに、まずは一度、聴いてあげる事からでもね。


「スクール」(学校)にまつわる話題と雑感

2011-01-20 23:46:54 | 親子コミュニケーション

ここ数日、学校に関係する話題なんかが目に飛び込んでくる。
”思わず”意識することになるこういうタイミングって、偶然のようであって、実は無意識のレベルでそういう話題にアンテナを張ってるのかなって気がする。

日曜日の夜、食事時に録画してあったテレビ番組を見ていて、それが終わったときに「スクール」というドラマがやっていた。
特に見たいと思ってたわけじゃないんだけど、ドラマ「ジェネラルルージュの凱旋」でなかなかいい役者だと思ってた、西島秀俊が出てたんで何気なく見てた。
すると、そこで繰り広げられる教育・親子の関係がいろいろ気になりだして…

とりあえずは「ドラマ」だから、そこでのいろんなトピックの描き方が”極端”なんだろうなってことは頭にいれている。
しかし、困った感じは味わってしまう。

いわゆる”熱血型”の主人公が、現代の学校問題に立ち向かっていくってことなんだろうけど…

まずは「男女間格差」の問題で、男児・女児ともに「さん」付けで呼ぶことを皮肉っている。
確かに親近感を持って、名前の呼び捨てがいいこともあるかもしれない。
しかし、そういう接し方が出来る子と出来ない子が出来てしまうなら、差別のないように苗字+「さん」がいいんじゃないかと思ってる。

次に「頑張る」ってことに対して「今の子に頑張らせると”体罰”になるんです」なんていう表現をしている(ほんとにそういう指導があるの?)
私も「頑張れ」と言う言葉の扱いにはいろいろ想いを持っているのだが、「頑張らせるのが駄目」とは思ってない。
「今の精一杯」をしている子に対して、「今・ここ・わたし」を認めずに、「それじゃ駄目」というニュアンスを含めての「もっと頑張れ」ということに対して「そうじゃないだろう」って思っている。
でも、このドラマの「頑張らせない」ことを「おかしい」という描き方を、私の「”頑張れ”否定」につながってしまうといやだなって事で。

あと「一人の子に向き合えないで、どうして100人の子に向き合えますか」という考え方。
うーん、これはうなづける。
うなづけるんだけど、そのセリフの元で「ひとり」に関わることが、残りの99人を置き去りにしてる状況だと話は違ってくる。
まぁ、ドラマなんで1話に付一人を取りあえげて行くしかないんだろうし、こういう描き方になるんだろうけどね。

もう一個気になったのは、これは今後どういう描き方をするのか分からないんだけど、なんとなく「PTA役員」が、学校に一言持ってる「選ばれた人」的な雰囲気をぷんぷんさせてるところ(笑)
まぁ、ドラマとして面白くするには「熱血校長vsクレーム父兄」って感じにされるんだろうけどねぇ。

でも、「男女間差別」の問題でも、「頑張るをめぐる」問題でも、現場ではとてもデリケートに取り組んでるであろうことを、盛り上げのために揶揄されるとちょっと困るなぁ。

一方、今回のドラマで取り上げてる「親子関係」もちょっと痛々しい。
「九九が出来ない」事を隠してうそをついていた子が、熱血校長と触れ合うことで勇気を出し、うそをついていたことを表明して、出来るようになった事を訴えるんだけど…
まず、忙しいから向き合おうとしない。
嘘をついていたことを責め、できるようになったことを認めない。
一生懸命働いて子育てしてるのは分かるけど「誰のために一生懸命働いてると思ってるの」と言ってしまう。
しまいには「あんたは私の子じゃない」と責め立てる。

極端ではあるけど、きわめてありそうな話。
なんか、親子コミュケーション問題を浮き彫りにするモデルだ。
嘘を駄目だと言うのは大事だが、同時にある「褒めて欲しいこと」を受け止めてあげることはもっと大事。
それが子どものためではあっても「子どものために働く」と決めたのは自分なんだから、それは「自分のため」で、その責を子どもに押し付けるのは駄目。

まぁ、ドラマなんで、最後に母親の元に駆けつける子と、受け止める母の姿を描くための確執なんだろうけど…ね。


今後、どういう描き方をされるかとても気になってしまったし、表現のもととなる風潮がまったくなければドラマは成立しないだろうから、現代の教育を見る1つの側面として注目してみようかと思ってる。


もう1つは、ネットのニュースで見て、その後たまたま見てた番組で取り上げられていた「教諭が保護者を訴えた」と言う話題。
これに関して問題の大元は「報道のされ方」にあると思うんだけど、双方の事情や経緯を知らず、マスコミに取り上げられる表面の部分だけで「学校が悪い」「親が悪い」と情報通になったつもりの人のなんと多いこと…
この話題をいろいろ触れたかったけど、長くなりそうなんで今回はパス。
ただ、この手の話題は学校を悪者にする傾向があるなと。
そして、親と教師が対立し、周りが煽る中で、子どもが置き去りにされていく。

学校に一言の前に、親としてやるべきことをしているかどうか自戒することが抜けてないだろうか。
親がしつけせずに、学校に多くを求めるのはおかしいんじゃないだろうかね。
と言うことを考えると、先のドラマのケースも含めて、親と子が向き合う時間がない…そうせざるをえない、社会の状況など、持ってる根は深いなと。


そんなことを思いながら、昨日小学校の参観日に行ってきた。
問題が無いことはないだろうが、笑顔の子どもらがいた。
これが当たり前じゃないってことも感じながら。

親子も、先生と保護者も、みんなじっくり向き合ってわかりあえたらいいね。


他の親御さんとの交流

2011-01-15 19:50:19 | 親子コミュニケーション

連休を報恩講で終え、明けて火曜日から子どもらの学校が始まりました。
その次の水曜日の朝は、「あいさつ運動」で、PTAの役員は朝から校門で「おはよう」の声かけです。
白い息を吐きながらも、朝から大きな声で挨拶するのはとても気持ちいいもの。

週に数回夜勤の仕事に行く私は、その帰りがちょうど通学時間になることもあり、知っている顔を見かけて目が合ったら「おはよう」と声をかけるようにしています。
通学路的に、その時間にそこを歩いている子はみんなこの学校の生徒なんで、むこうは私のことを知ってるかもしれないんで、みんなに声かければいいんですけどね。
返事が帰ってこないと寂しいってのと、今ひとつ勇気がないってんで、ついつい目があって反応がある子だけになっちゃいます。

でも、こうやって役で校門入ってくる子みんなに声をかけると気持ちいいですから、次からできるだけ声をかけてみたいなと。

そう、自分が気持ちいいからやるっていう、これも損得の判断で動いちゃいますねぇ。

そのあと、PTAの役員会。
つい先日お手伝い始めたと思ってましたが、もう次年度の役員を考える時期になってます。
ほとんどの仕事を、昨年から引き続き役員してる2年目さんに任せてましたから、これからどうなるかちょっと不安だったりします。

いろんな作業をしながらいろいろ雑談になるんですが、やはり十人十色で、子育てのポリシーもそれぞれ。
でもそのことが大いなる学びになります。

特に、しつけとして「手を出す」という事に関しては、自分自身がどういう育てられ方をしてきたか、自分の連れ合いの考え方はどうか、自分の育てられ方を模範とするのか反面教師とするのか…
私自身は、「しつけ」と「暴力」の境界線がないことと、与える側がどういうつもりであろうと、受ける側が傷つく(肉体的だけではなく精神的にも)ことがある限り、それは暴力だと思ってます。
そしてそれは、言葉により傷つけられる場合も含みます。

とはいえ、私自身「手は出さない」と言う自分なりのポリシーはありますが、言葉で子どもを傷つけることはよくあります。

このあたりは以前も「親子コミュニケーション」のカテゴリーで何度か取り上げてますが、一度、今の私のところでまとめてみたいですね。


明日は「聞き方・伝え方の学び」の学習会があります。
実践では、このあたりのこともはなししたくなるかもしれませんね。


おやこであそぶデー

2010-12-11 23:33:02 | 親子コミュニケーション

更新をサボってますが、この2週間結構いろいろありました。
その記録も残していきたいんですが、いろんな出会いを浴びるように感じているので、なかなか振り返る暇がないという…

と言い訳ばかりしててもはじまりませんので、少しでも言葉にして振り返ろうかと。

で、直近の今日の出来事を。

今日は、息子らの小学校のPTAイベントでした。
私は役員なんで当然お手伝い。
というか、今回は結構中心の位置で動いとりました。


小学校では年間にいろんなイベントがあるんですが、例年行われている卓球大会が、部員数が少ないと言うので卓球部が休部状態のためイベント中止。
しかしそのまま無くすのはもったいないと言うことで、新しいイベントを立ち上げることにしました。
新しいことを始めるのは、既存のイベントをする数倍、手間と苦労があります。
当然、旗振りにその負担はかかるのですが、PTAの役員仲間の理解と協力で、私がやりたいことを実現する方向で動きました。

このブログでもよく話題にする「親子のコミュニケーション」を一番中心にすえ、押し付けがましくない感じで参加してもらえればなと。

一つ目のテーマというか、メインテーマが親子なんで、まずは親子で楽しめるものを。
元となった「卓球大会」や「バレーボール大会」は、ママさんの部活を中心とした対抗戦の意味があるので、PTA内の交流の意味合いは強くとも、子どもらは応援だけになります。
もう1つの「オセロ・将棋大会」は逆に子どもらのイベントで、親は運営の協力になります。
ということで、今回は一緒に楽しめるものを。

正味の話、イベントには何かしら費用がかかるので、当然予算が必要になります。
なので、今回は卓球部イベントと言うことで卓球部の予算を活用。
そこで、卓球台を用意し、試合ではなく、時間性でピンポンを楽しんでもらうのが一つ目の企画。
実際、お父さんが息子と台を囲んだり、子ども同士で楽しんだり。
”卓球”というには、ルールも無視だし技術もつたないですが、ピンポンを楽しむことは出来たようです。
来年、またこの企画をするなら、もうちょっと低学年の子が楽しめる工夫を。
(すでにいくつか案をいただきました)

もう1つの目玉に、「手話体験」を用意しました。
PTA仲間の人脈で、大学の手話サークルのおにいさんおねえさんに来てもらって、1回30分のコーナーを3回。
1回目は名前を手話で覚えて自己紹介。
2回目は歌に合わせて、歌詞を手話で。
ファンモンの「あとひとつ」を楽しそうに教えてもらってました。
(ファンキー・モンキー・ベイビーと聞いて、キャロルの歌が先に出てきた人も親の中には…ベイビーズですので)
3回目は手話ではなく口の動きとジェスチャーで言葉を伝える伝言ゲーム。

ひとつの手段としての手話になじむことと、伝達方法を体験することを、楽しく教えてもらいました。
子どもらも好評で、うちの息子もしっかり自己紹介を覚えたようです。
また、おかあさんおとうさんも一緒に参加してくれてましたし、初めてのことを教えてもらって覚えるというところでは、大人も子どももなく、一緒になれる…いい心のふれあいになったかなと。

と、ここまでは大成功でしたが…

もうひとつ目玉企画があったのですが、イベントの日程が変わったためにお願いしてた方が別予約のために参加不可になりました。
来年はうまく日程を合わせてお願いしたいので、内容は内緒のままで。

で、これらのイベントの合間を埋めるために、私がいくつか企画を担当することにしてたのですが、私が欲張りすぎてコントロールしきれず、失敗に終わりました。

1つはキャンプゲーム。
子ども大会なんかでやってるゲームをするつもりですが、「一旦集まる」ということが出来ず、手話コーナーが終わったら卓球へ、という感じで子どもらの流れがまとまらず。
開会直後と閉会前に集合させるときだけは出来ましたが…
まぁ、これも反省点は明確なんで、来年やるならばやりようがありそうですね。

で、もう1つは「お母さんたちの交流スペース」を作って、そこで簡単なコミュニケーション・ワークをする企画があったんですが、私がばたばたしてたので出来ませんでした。
まぁおかあさん・おとうさんが子どもらと一緒に楽しんでいたので、そちらがメインの主旨ということでOKなんですが。


この企画を考えたときに、1つの思いがありました。
PTA活動を手伝いだして見えてきたことがひとつあります。
いろんなイベントや行事を見ていると、積極的に参加していたり、集まって話してるお母さんがたはほとんど同じ顔ぶれなんですね。
ということは逆に、そういう輪に入りきれないお母さんたちがいるはずです。
私自身、お父さんたちですでに出来上がっているグループには混じりにくい感じがありますから。
でも、場所と機会があれば、関わりあうことは出来るはずです。
そのお一人お一人のペースに合わせて、ゆっくりとした関わりを時間をかけてしていくことで、変わってくるものがあります。
それこそ、わたしがカウンセリングの場で学んできたものが活きる場ですから。

今回のイベントだけでそれが実現できるとは思ってませんが、一人でも二人でも関わりがもてたら、そこから動き出せるかなと。
でもそのためには、その場所に私が常時いて、お待ちする必要がありましたね。
そこに無理があった。

やっぱり、これはそのためだけに場所と機会を用意して、じっくり腰をすえるもんだなと。

と、いろいろ気持ちが欲張っていましたが、それが失敗の元。
こういうイベントは、旗振りに徹して、いろんな企画を任せておくほうがいいようです。

でも、失敗と言う感じはなく、むしろ成功したでしょうね。
(開会式時点では参加が少なく、青ざめてましたが…笑)

なにしろ、「やってみないとわからないこと」がいっぱい分かりましたから。
来年は、もっと良い感じに出来ますとも。

もし可能なら、小学校の枠を超えて、私と関わりのあるいろんな方にもお勧めして参加していただける道が開ければと言うことも考えてます。

まぁ、一番の問題は日程調整ですね。

 

とはいえ、あくまで小学校PTAのイベントですから