コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

自分と向き合う流れ

2011-03-25 23:49:42 | 真宗カウンセリング

先週は真宗カウンセリング研究会月例会。

今週はミニカウンセリング継続学習会。

ここ二ヶ月ほど、ゆっくりとカウンセリングの集まりに出られていなかったが、ロジャースさんの論文に触れ、ミニカンに触れすることで、位置つける場所に帰ってきた気がした。

ミニカンでじっくり話をすることはとても大きな事で、祖母の死以来、自分の奥底に触れることをしないようにしていたことや、いろんな面で普通に振舞おうと無理していたことに気づく。、

ある程度想像していたことだけど、あらためて言葉にしてみることで「ちゃんと向き合った言葉にしていない」ことがあからさまになる。

でも今はそれでも良いって感じもしてる。

 

明日は「聞き方・伝え方の学習会」

月曜からは広島のワークショップ。

広島のワークショップは、本来は別の方が担当だったがスケジュールの都合で8月の私の担当と交代することになった。

この時期に、じっくり三日間、ゆったりした時間をもらえる。
しっかり向き合うことが出来るかどうかわからないが、時間と場所は用意されている。

流れというのは、事前とおこってくるもんだなと。

さてさて、この流れの中で何が生まれてくるか…できれば力を抜いて、なすがままに。

「聞き方・伝え方の学習会」

広島真宗カウンセリングワークショップ」


広がりと深まりと

2011-03-20 00:50:46 | 日常雑感

昨日、「南P連」の今年度最後の会議と、その前の打ち合わせに参加してきた。
「南P連」は京都市の「南支部PTA連絡協議会」の略だと思う。

息子が通う小学校のPTA役員を引き受けたのが1年前。
その後、様々な事情で来年度のPTA会長を引き受けることとなり、その来年度はうちの学校が南支部内での4つの担当校のひとつということで、会議の前にその4校が集まり、担当役職を決めることになる。
で、その4校のうち3校は様々な事情があり、結果として我が校の校長と私が「南支部の会長」ということになった。
ついてはさらなる上部組織の「京都市PTA連絡協議会」の会議に参加して、活動をすることになるようだ。

カウンセリングの学びをしていると、目の前にいる一人の存在との関わりの大事さが身にしみる。
クライエントとカウンセラーの関係。
これがいかに深まっていくか。

そして、”わたし”にとっては、自分の子どもとの関係が一番の関心ごとになる。
だからこそ、子どもが所属している学校のPTA役員を引き受けることとなった。
そうすると、否応でも”この学校の子どもたち”という単位で物事を考え決めていく機会が増えていく。
私自身のエネルギーはたかが知れているので、そのままでは”思い”が薄まってしまう。
広がることは、深まりが浅くなることだ。

だが、この一年、新しく関わりを持つことになった役員の皆さんといろいろ話す機会が増えたことで、私の中にある”学んだこと”が少しずつ伝わっていって、私一人のエネルギーだけではなく、そのキャパが増えた。
そう、何もわたし一人で数百人の子どもたちを抱えることはない。
広がっていくところに任せていくことで、深まりも伴っていけるのだ。

今回、「南P連」の会長を引き受けることになりそうだということは事前に内示されていた。
すでに検討も考慮もする余地のない状況ではあったけど。
なので、この機会に新たな名刺を作った。
こちらから強く働きかけることはしないが、このブログやホームページを紹介することで、相手側が興味を持ってくれたら、私が大事にしてきている”関わり”のことが伝わるかもしれない。
カウンセリング的にも、真宗的にも、いやそういう分類関係なしに、この”わたし”に伝わってきているものが、新たな広がりの中につながっていけば…

思いもよらぬ展開だが、これも今の私に必然な流れなのだとしたら、その流れに乗っかり、さらにはこのご縁を大事に広く深く。

そう、私一人が大勢を相手にするのではなく、縁があって広がっていく人たち一人一人が、目の前の一人を大事にして、関わっていくこと。
これこそ、ロジャース氏が私に教えてくれた、社会への対しかただと思う。
そしてその底には、”私一人”をめがけて願いをかけている阿弥陀仏の働きでもある。


その会議から学校に戻ったら、他の役員さんがまだ遅くまで打ち合わせをしていた。
本来4人でやる役割を、私が会長を引き受けたことで3人でまわしていかなければいけない。
まだそれだけなら私も出来る限り手伝って、3.5人くらいになるのだろうが、今回更なる役割を引き受けたことで3人への負担は大きいままだ。
しかし、そういうことを理解して、逆に私のことを気遣ってくださる素敵な仲間でもある。
彼女らのおかげで、広がりと深まりが伴っていける実感を持たせてもらえた。
打ち合わせの最中でも、近づいてきた子どもをさっと抱きしめる姿…目の前の我が子を大事にする姿を見せてもらった。
うん、そういうことだよね。

私が、あまりにも広がりのほうに目を向けてしまっていたら、お叱りをお願いしますね、みなさん。


今だから…ではなく

2011-03-16 16:40:02 | 日常雑感

震災報道がいつしか原発問題や停電問題の報道に比重がかかってきた気がする。
そう、報道の中心にいる首都圏の人にとっては、迫り来るかもしれない放射能や、日々の生活に支障を起こす停電問題のほうが切実だ。
支援をするにしても自分の生活基盤が整う前提で考えるものになる。
当然、食料や備品が不足してくるならば、まず自分の分を確保してからの話になる。

こういう考え方は非難されるべきものだろうか…

今回、東北地方で被災になっている方々のために何かできることがあればと思う。

そう考えて、節電しましょうというメールを送って停電の順番が回ってきたら甘んじて受ける。

食料・医薬品が不足しているのなら、何らかの形で寄付をしたりして役に立てて欲しいと協力する。

とてもすばらしいことだと思う。

ならばこの際、もう一歩深く考えてみて欲しい。

今回の地震が来るまでは、電気が供給されないことで困る人や、食料や医薬品が不足して困っている人はいなかったのか?
なにも国内に限る事ではない、善意ということを考えるのならば、人種や国境など何の障害にならないはずだ。

目に見えるところで、自分により深く感じられるところで、そういう気分の時だけ動くことで”何かを成しえた”と満足するのならば、それは少し怖いことだと思ってる。

いや、なにもそういう気持ちを起こしたことを責めているのではない。
先にも書いたが、困っている人にほんの少しでも役に立つことが出来るのならば、とてもすばらしいことだ。

だから、これを一時的なものにするのではなく、今までは出来ていなかったかもしれないけれど、これを機会に”普通のこと”として、困っている人に思いをはせてみることが出来れば。

実際、今は東北の被災者が数が多く切実だから、その情報ばかり飛び込んでくる。
しかし、そういう情報に載らないところで、この寒さに凍えている人は東北以外にもいる。
食べるものがなくて困っている人は世界に一杯いる。
ニュージーランドで被災にあったひとがいなくなったわけでもないし、中東のデモで怪我をした人がいなくなったわけでもない。

比較の問題で、より身近に問題が起こってきたときに、そういう情報が遮断されてしまうだけだ。


仏教の教えにあわせていただいていると、「もったいない」という考え方に出会わせてもらえる。
なにも食事を取らずに他に施せということはない。
目の前に出された食事を、しっかりと残さずいただくことだけでも大切なことだ。
そこに出された食事はもともと命会ったもの。
その命を、自分が生きながらえるためにいただいているのだ。
命を奪っていることを自覚し、無駄にしないこと。

食べ物だけではない、普段から電気の節約に努め、資源を無駄にしないことは「冥加」という考え方にかなう。

震災を機会に少しでも「限りあるもの」に意識が向けられたならば、はるか昔にそのことを教えてくださっていることをも意識してみて欲しい。

その上で、一人一人が、流行で動くのではなく、流行を機縁として、できることをしていくだけでいいんだと思う。


いろんな活動がある中、縁あって知ることとなったアーチストが活動をしていると情報を得た。
まずはこのアーチストの気持ちに乗ってみようと思ったので、皆様にもご紹介。
このご時世、いろんな動きの情報がありすぎて、どれが効果的だとかどれが胡散臭いとか、かえって分からなくなってるので、身近なところからと思ってる。
もちろん、強制ではなく、皆様お一人お一人の感覚と意思でもってお考えください。

 

 

 

トクマルシューゴ、配信曲の利益を義援金として寄付

関連記事


大丈夫、間違ってない

2011-03-15 12:33:57 | 日常雑感

接的な被害のなかった関西に住んで、様々な情報や、人の声を受けるだけの日々だ。
チェーンメールに代表されるように、善意の連鎖もあれば、その善意が今すぐ必要なものに連結してない場合もある。

そういうとき、一方の考え方の人が他方を批判・非難する場面に多々遭遇する。
コミュニケーションを考えたとき、そういう風に相手の考え方を受け入れられず攻撃する声に、とても辛いものを感じる。

あるスポーツ選手が「こんなときに試合をしていていいんだろうか」とつぶやく。
もう一方では「こんなときだからこそ、選手としてできる姿(いつもどおりの姿)を見せるべきだ」とつぶやく。
この時点では個々の思いだけど、それを受けた支持者が発言者を”善”とし、相手側を”悪”として、相手の考え方を攻撃する。

どうして、どちらかだけを”善”として、それ以外を排除しようとしなければならないんだろうか。
自分の姿は晒さないで、、自分の考えを守るために言語武装するネットの世界では顕著に現れる。
また、できるだけ多くを”見方(視聴者)”につけて行こうとするマスコミにもその姿は見られる。
マスコミは対応が100%じゃない政府や業者(東電)のエラー部分を見つけては攻撃する。
さらに、そういうマスコミや政府を攻撃することで、自分は民意の代表だという”一般市民”も多く現れる。

責められた側は、責められないように別の対象(スケープゴード)を探して、非難の矛先を変えようとする。
あるいは、自分は”駄目”と閉じこもって、そんな考え方をしてしまったことを自分自身で責めだしてしまう。


大丈夫、どんな考え方を持ってもいいんだよ。
相手も責めなくていいし、自分も責めなくてもいい。
違った考え方があってもいいんだ。

 


念仏者としてこういう事態に遭遇したときにもいろんな考え方がある。

無常を感じました。
これでも無常と思えません。

感じた人に対して、「そんな一時の感情の変化を無常”観”と思うな」と非難する声が上がる。
思えない人に対して、「そんなことで法に出会わせていただいているんですか」と非難する声が上がる。

他人が非難しなくても、自分自身の中で「これでいいんだろうか?」と疑念がわきあがり、不安になり、困窮してしまう。

感じた人は感じた、思えなかった人は思えなかった…
それを他人が検証したり、操作したり、誘導したりする必要はない。
また、自分自身で、自分の常識の物差しで判断する必要はない。

無常なんて”感”じはしても”観”ずることはできない。
でも、縁に触れて”無常”があることを教えられる。
自分で観るのじゃなくて、観た人の言葉を聞かせてもらうことで”ある”んだと。
自分の判断では漠然とした不安であっても、そこには”ある”事を知らせる力が働いている。
ただ、そんなことはコロコロ変わる私の本性ですぐに薄れたり消えたりしてしまうだけだ。
そうなったらまた、「末通らないと」不安になって、自分の心の修復に走ってしまう。

大丈夫、わたしってやつは、そのコロコロ変わる揺れ幅の中で、色んな考え方が次々にやってくるだけだ。
「末通る」ものは、こちら側じゃなく、頂き物のほうにある。

揺れ幅の中で、どちらかの考え方になったときに、そうじゃないほうを”良し”として今を責めなくてもいいんだ。
いろんな考え方、思い方になってもそんなところに救いの条件はない。


と、まったく末通らないはちゃめちゃの書き込みになったけど、その瞬間瞬間で書きたいことが変わっちゃうのが私だから、せめて自分ではこの自分を責めないでおいてやろうと。


死 ということ

2011-03-14 13:15:25 | 日常雑感

予想だにしない震災により、多くの命が失われた。

そのことについて、何をどう言葉にすればよいか・・・

いろいろ巡る思いは多々ある。
そんな中、昨日も祖母の七日ごとの逮夜を行ってきた。

私の中では、祖母の死も震災での死も、その経緯は違えど”死”という意味では同じ。
ここ1ヶ月の間だけでも、知人が病死したり自殺したりもしている。
それらも同じ”死”だ。

その誰もが望んで死んでいったわけじゃない。
たしかに一瞬で何千の命が奪われるのは驚くべきことだし、悲しいことだ。
でも、同じ日に別の場所でひっそり”死”をむかえた命もある。
残された方の悲しみも、震災が原因であろうがほかの原因であろうが、その深さに差があるわけではない。
悲しいのは悲しいのだ。

そして、いくら祈りをささげようと、なんの力もない。
誰かが祈ってくれていることで、残された方の気持ちに何かの灯をともすことはあるかもしれない。
しかし、亡くなった命に何かの影響をあたえる力はない。
わたしは無力だ。

そしてひとつだけはっきりしていることはある。

どのような原因・経緯かはわからないが・・・私にも”死”はやってくる。

その”死”の前に、私は無力だ。

 

そんな無力なものに、願いはかかっている。
わたしに願う力はないが、超世の願いが。

他人のための祈りでもなく、心の安定のためでもなく、
無力な私自身のために・・・
南無阿弥陀仏


あなたは見たんですか?

2011-03-10 16:21:48 | 親子コミュニケーション

PTAのほうで来年度に向けた準備や打ち合わせが増えてきている。
しばらくは親子コミュニケーションをめぐるいろんな出来事が思考の中心線になりそうな予感。
でも一方で、月末に行われる広島WSに参加することも決まり、カウンセリングモードも刺激を受けそうだ。
そういえば、これも私が担当している「真宗カウンセリング研究会」のホームページも更新することが出来た。
ちょっと頑張って、いつものプログラム更新にプラスして、「創立50周年」のバナーを作ってみた。
小さいスペースで、いかにシンプルに必要なことを伝えるか…
素人としてはなかなかのものが出来たんじゃないだろうか。
(プロだと色使いなんかに指摘があるかも)

と、雑多なことを書きながら、今日書きたいと思ったことは、以前書いた「読み聞かせ」の先生から聞いた話で、記事にしてなかったもうひとつ大事なこと。
記事を書いてたときはすっかり忘れてたんだけど、娘とマスコミの問題を話してるときに思い出した。


講師の「大石進」先生は、小学校の教員をされていた時代、児童の色んな問題に関して保護者と話する機会が多かったらしい。
で、大抵は自分の子が受けた被害に関して、加害者のことを悪く言う。
まぁ、その気持ちは分かるし、我が子を親がかばわずして誰がかばうのかって事はある。
ただ、そういう加害者のことを話するときに
「○○さんはいつも問題を起こしている」というような言い方がでてくる。
単純に”問題”ということもあれば、具体的に「いつも○○をしている」というものもあるだろう。
問題は、その発言の根拠だ。
その多くが
「みんな言ってます」
というものだ。

こういうときに先生はこう尋ねるそうだ。
「あなたは見たんですか?」「いつ見たんですか?」
大抵はそう言われても「みんな言ってます」と繰り返すしか出来ないそうだ。
そう、自分で見たり確認したりしたのではなく、人のうわさを「真実」と思い込んでいる。
さらには、そのうわさの中から「自分側に有利」なものだけを頭にインプットして、それを根拠にする。

これはとても大事なことだと思う。

子ども同士が問題を起こすときに、一方が全面的に責任がある形で事が起こることはそう多くないと思う。
大抵は「どっちもどっち」なもので、売り言葉に買い言葉。
先に手を出して怪我させたりしたらもちろん悪いが、その前に見た目の傷が残らない心の傷もあるかもしれない。
どちらが先だとか、どちらのほうが傷が深いとか、そういうことではなくどちらも傷つくのだ。
だから一方だけを責めることは怖いことだと思う。


私自身、最近はいろんな問題の相談を受けるとき、その発言者の「気持ち」は今そこに在るものとしてそのまま受け止めるが、話題の中身に関しては「一方からの見方」としてとどめておく。
その話題に関わるもう一方の言い分もあるだろうし、一方の見方だけですべてが理解できるはずがない。
いや、理解という意味で言うと、双方の言葉だけ聴いても、実際にその体験をしていなければ理解は出来ないし、それでもってもすべてとは言えない。


「あなたは見たんですか?」「いつ見たんですか?」
少なくとも、発言者が自ら見て体験している話ならば、そういうこといが”あった”とは言えるだろう。
しかし、噂話や、又聞きした話には”他の意思”が混入され、想像が加わり、”あった”ことから離れてしまうことがほとんどだ。

こういうところにも、「聞く」態度ということにつながる重要な要素がありそうだ。
今ここにある”気持ち”と、”話題”とを分けて聞くことの重要さだ。

 


授業参観 懇談会

2011-03-06 10:53:36 | 日常雑感

 

今年度最後の授業参観があった。

来年度、PTA会長を引き受けることになったのもあって、懇談会まで参加した。

次男のクラスの懇談会は最初の参観日に行ったが、その後参観はしても懇談会まで出ることはなかった。
ある会議で、教務主任の先生が「先生もいろいろ工夫してるんですが、なかなか懇談会まで残ってくださる方が少ないんです。」とおっしゃっていた。
確かに、それは気になる問題だし、人に勧めるには自分がやらなければ。
ということで、今回は長男のクラスの懇談会へ。

懇談会まで残っておられたのは参観した親の三分の一くらいか。
ほとんどの時間は、先生からのいろんな説明だが、その端々に先生の気持ちがあふれてくる。

何度か授業参観してるが、私としては何人かじっとしてられない子がいたり、後ろを向いて話す子がいても、「あぁ、これぐらい大した事ないな」と思って言た。
しかし、先生はかなりそのことを気にしておられ、「2月半ばでやっと落ち着いてきた気がします」と。
私は気にしてなくても、気にしてる親もいただろうし、そういう親への対応も苦心してこられたんだろう。
私が見るに、ベテランの域に入っているだろう先生でも、苦心し悩んで教育されてるんだなと。

懇談の後はコーラス部の集まりへ。
私はコーラス参加してないけど、発表会のビデオ撮り係だったんで、その上映に。
雑談でお母さん方がいろいろ話してるのを聞くのは楽しい。
最近、字を書くことがなくなったって言う話題で、日記を書くのがいいよって話。
紙の日記に書いて、文字を書くことに親しむってのは苦手なんだけど、こうしてブログやSNSなんかに書くことで、自分の思いを言葉にすることはなじんでるほうかもしれない。

コーラスの集まりの後は残った役員でいろいろ相談。
いよいよ年度末で、来年度に向けての準備がいろいろと慌しくなってきた。
効率よく物事を進めて行きたいねってことで意見一致。
大事なことですね。

 

PTA役員となることで、今までとはかなり違った関心の持ち方をしている自分がいるし、来年度の会長を引き受けたことで、さらにそれらの問題の解決をも視野に入れる事になると思う。
ただ、私のスタンスで、急いで問題解決をすることよりも、問題があることを感じているそれぞれの立場が、(相手を否定することなく)その問題を共有することから、自ら問題が解決されていくことを望んでいる。
違う言い方をすれば、問題があるってことを「それじゃ駄目」と頭ごなしに忌み嫌うのではなく、「今は問題があるんだな」って受け止めることから。

実際に困っている人もいるんだから、悠長なことは言って居れないのかも知れないけれど、表面の解決よりも根本の変化につながればいいなと。

まぁ、私のこのスタンスが現状に即さなければ、役を降ろされるか、私抜きでことが進んでいくだけのことだろうしね。

もしかしたら、このタイミングで私が選ばれたのは、何かしらの役割が私にあるってことだろうなと。


先生は「もうちょっとやり方を工夫したかった」とおっしゃってた生徒の「作品展」が体育館で飾られていた。
うん、十分すばらしいものでしたよ、先生。


絵本に学ぶ子育て、絵本で考える人権

2011-03-03 23:39:38 | 親子コミュニケーション

PTAの「指導者研修会」なるものに参加してきた。
市内でいくつかの支部に分かれているうちの南支部としてのイベント。
研修会と名はついているが、その時々の担当校が講師を依頼して行うもので、講演を聞いて終わり。
分科会や座談会になれている私にはちょっと物足りない気がするが…

しかしこれも特権で、PTA役員だからこそ講演会に参加することが出来る。
今回は「おおいし すすむ」先生による「大人のための読み聞かせ会」

絵本を通じて子育てをする側が学ばしてもらうことがたくさんあるというお話だった。
そのほとんどは、カウンセリングなどを通じて、また今までの保護者会やPTA活動でいろんなお母さんやお父さんと関わってきた中で感じさせていただいていることを、再確認や新たな視点で教えてもらうものだった。

過去に「親子コミュニケーションのちょっとした心がけ」としてこのブログでも取り上げている話でもある。
そのうちいくつかをもう一度取りあげてみる。

○子どもは親の真似をして学ぶ
私も親が率先して「ありがとう」ということをしないで、子どもに「ありがとうといいなさい」と押し付けても無理だということを言ってきた。
買い物でつりせんを受け取るときに「ありがとう」
ファミレスで注文したものを持ってきてくれたら「ありがとう」
そうすることではじめて、子どもはなにかしてくれたときに「ありがとう」を言えるし、そうすることが当たり前で、恥ずかしいことじゃないと学ぶんだと思う。
今回おおいし先生は、また別の視点でこのことを教えてくださった。
「みなさん、最初から日本語をしゃべってましたか?日本語学校で学んでからしゃべるようになりましたか?」
そう、周りで家族が日本語でしゃべっているから、それを身体で学んで身に着けていったのだ。
親が関西弁だからあたりまえのように関西弁でしゃべってる。
悲しい話だが、親が乱暴な言葉遣いしか出来ていなかったら、子どももそれが当たり前になって乱暴な言葉遣いをするようになる。
直せと言われても、それが当たり前で学んできたのだから。

「靴をそろえたり、そんな些細なことでも親の姿を見て初めてできるようになるんです」
子どもに「ああしろ、こうしろ」という前に、わが身を省みることが大事かもしれない。

○心の声を聞いてあげる。
これはとても大事なことだけど、そのためには普段からの関係作りが大事になってくる。
「言っても大丈夫」と思える関係を作らずして、「ほら言ってごらん、やれ言ってごらん」と責め立ててもそれは無理ってもの。
話を聞くということを学ぶのはとても大事だ。

そのことを、おおいし先生が体験した、小学校での子どもとの関わりを題材にした絵本があるそうで、それを紹介していただいた。
先生は、その子どもの日記を通じて、自分の間違った関わりに気づいていかれた。
「いつも怒った顔をしている」
「一方の言い分だけ聞いて決め付けている」
なかなか聞けない心の声を、その子の日記を通じて知る。
そういう日記をつけさせて、聞かせてもらうという関係が作れたから知りえた心の声。
いろいろ手段はあるものだなと。

○まず伝えたいことを受け止める。
これも先生の経験談から。
よくこける子がいたそうだが、こけて痛がってるときに「そんなん大丈夫、痛がらんとき、泣かんとき」と対応された。
でも一向に泣き止まない。
あるとき、おばあちゃんから「痛いの痛いのとんでけ~」とされたことを思い出された。
一度「痛い」ということを引き受けてあげる…
そう、子ども訴えは「私は痛いと思っていることを分かって」ということで、他人の判断で「大丈夫」とされることではない。
こっちは大丈夫と思っていても、本人は「痛い思い」なのだ。
痛さへの対応よりも、気持ちを受け取って欲しいのだ。
痛がっていることを認めて、受け止めて、「そうか痛いんやな」と。
これはまさに、ミニカンで学ばせていただいていることだ。

他にもいろんな事例を、時には体験談で、時には絵本を読むことで教えてくださった。
ちょっと「?」と思う部分もあったが、それはまた別の機会に。

いろいろ絵本を紹介してくださったが、先に書いた先生と生徒の関わりをモチーフにした絵本が素敵だと思った。
どこかで見つけたらぜひご一読を。

「おこだでませんように」くすのきしげのり作 小学館