コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

お礼参りツアー 2019晩夏 その4

2019-09-18 20:08:44 | お礼参り

 

 

本州に戻って、まずは六連島へ
目的は、浄土真宗の妙好人「おかる」さんに出会う旅
妙好人っていうのは、浄土真宗の世界で使われる言葉で、お坊さんじゃないけど熱心な信者・門信徒で、下手すりゃそこらの「お寺の息子なんでお寺継ぎました」ってお坊さんよりはるかに「信心」深い一般人(失礼があればお許しを)

この「おかる」さんは、お経を読んだり、難しい言葉を残すことはなく、ご自身が感じたことを平易な歌にして残された
(自身は文字をかけないので、お世話をしたお坊さんが書き記したとか)

聞いてみなんせ まことの道を
      無理な教えじゃ ないわいな   

きのう聞くのも 今日また聞くも
         ぜひに来いとの および声

仏法をお経などを”読み解く”難しいものと思っている人が多い中で、「そうじゃない、難しいことは阿弥陀さんがしてくれてるので、凡夫の私は聞かせてもらうだけだ」と、そして「難しいとか、学がないとか言ってないで、それが明日になろうとそんなに偉くなるもんじゃないから、”今”聞けばよい」と言うことを「昨日聴いたことと、今日又聞いてもおんなじ”仏に任せて浄土においで”」という呼び声だと。
なんと、確信をついた言葉でしょう
お坊さんの何十分かけたご法話より、端的に表してます(たびたび失礼があれば…以下略)

ということで、そんなおかるさんの育った地の空気にぜひ触れるべく、六連島連絡船の船着き場に向かいます

当初の予定は、一日目にいろいろ寄り道して下関で宿を取り、午後に知人と約束なので二日目午前中に六連島へ…だったのですが、一日目に九州まで行き、その流れで午前中九州巡り(前回までのレポート)となったので到着は午後

船着き場がなかなか見つからず、ナビを頼りにやっと着いたので駐車場らしきところで藩士を聞くと…

「今から行くんですか?
 行ったらもう帰ってくる便ありませんよ」

とのお言葉
観光で六連島に行くなら、朝6時ごろの便に乗ってゆっくりするのが”定番”なんだとか


ということで、渡航は諦め、六連島が望める場所を求めて彦島(橋で渡れる)へ
うろうろしてたら「ナイスビュー彦島」なるスポットに偶然たどり着き、スマホのMAP見ながら景色観てたらしっかりと六連島を望むことができました
なので、ここでおかるさんに思いを馳せてしばし海風に浸ります

更に車を走らせ、今まで仕事で来るときは効率考えて高速道路前提のルート選びしてたところを、「のんびり景観重視」モードでルート選択
海沿いの国道を軸に、目的地の仙崎に向かいます
途中、前日の台風で「災害迂回」なんて目にも会いましたが

都会にいると「迂回」って言われても、まっすぐ行きたいところを2・3回曲がれば元の位置に行くのですが…
地元らしい前の車について迂回路走ってたら、最初の曲がり角まで10分以上、どんどん山の中に入っていって、なんだかんだで30分以上…
やっと元の国道に戻ってきました
途中、ナビ派違う道を示しだしたんですが、あとで見たらそこまで山の中に入っていったならそのまま山を突っ切るショートカットのルートがあったようです

まぁ、そこはのんびり旅
途中で見つけた道の駅に停まったら、ちょっと回り道したら絶景のポイントがあったのですが…
さすがに、午前中ののんびり旅と、先の迂回で結構時間が経過してたんで断念
今思えばもったいないことしたと後悔してます

仙崎に行く前に寄りたかったポイント「元乃隅神社」へ
ここは何気なしに見ていたテレビ番組で取り上げられてた絶景ポイントで、海に向かっていくつもの鳥居が連なっているというところ
国道から外れて、離合の難しい道を数十分走って到着
駐車場が観光地っぽくなっていて(普通の道に「この先通行止め」なんて看板だして誘導している 怒)躊躇しましたがここまできたので
まぁ、京都の観光地の駐車場よりは安いですけどね
台風の影響で、「青空に赤い鳥居が映え」とまでは行きませんでしたが、確かに素敵な景観です
鳥居は123本あるとか
一つくぐるごとに煩悩一つ滅してくれたらおつりがくるのですが…(笑)

Img_20190829_164534 

そういえば、連れ合いと出会った時に北野天満宮に初詣に誘ったとき
「私はお寺の娘だから鳥居はくぐらないの」
などと言われ、鳥居の外側を通ってお参りに行ったことを思い出したりして
(うーん、甘酸っぱい思い出だ)

ここは通路がこの鳥居くぐりしかないんで(それでも足元おぼつかない私には苦難の道)全部くぐりましたとも
海側は切り立った岩場
東尋坊などにも似た感じ
そういえば、ここも日本海なのには変わりないですね

ちょっとのんびりした後、再び仙崎に向かいます

仙崎にも深い思いがあるので、それはまた次回に

 


お礼参りツアー 2019晩夏 その3

2019-09-12 21:25:27 | お礼参り

 

K君たちとの楽しいひと時の余韻にひたり、電車で関門海峡をくぐり下関のお宿へ
世間は台風で電車も運休だらけ…なんてことも酔いで気づかず
ほんと真酔って(迷って)いるわが身です
ただ、夜中にひっきりなしに「避難警報」がスマホからなりまくってたのはつらかったですが

明けて二日目、まずは小倉まで戻ります
ホテルの送迎者で下関駅まで戻ったら、本州側のJRはすべて運休
小倉行きはなんとか動いてました

駅で車を引き取り、お礼参り再開
まずは北九州市にある「善定寺」さんへ

私が求道を始めたころ、ここのおばあちゃんに「若いのに熱心やね」とほめてもらったことは今も忘れられず、ほめられること大好きな私はその期待の応えるべく求道に励む…そんな思い出のおばあちゃんの旧跡です
また前住職の先生は、求道や伝道で同じ時代を過ごした仲間であり、その姿からは多くのことを学ばせてもらいました
先生と組んで座談法座のお世話をさせていただいたことは、ファシリテーターということを実体験で学ばせていただく機会でしたし、のちのカウンセリングの学びに通じるものがあります
さらにこのお寺の三姉妹、同じ年代ということもあり、「青春と求道」という裏テーマで様々な考え方を実感した仲間でもあります
思い起こせば、それらすべては、家族に対して、いや家族だからこそ、(嫌われても)妥協せずに仏法の厳しさを説いたおばあちゃんの「願い」にあります

先生の体調のことや、すでに新しい世代に変わっていることもあり、お声かけはせずに外からそっとお参りさせていただきました

こういう「人」を通じてのご縁がなければ、今の私はない
当たり前と言えば当たり前ですが、決して当たり前ではない「有り難い」ことです

南無阿弥陀仏

お寺にお参りさせてもらうのは2度目かな
娘さんらとは連れ合いもご縁が深いので、連れ合いも一緒の旅行で九州も設定したいな
来年くらい元気が残ってれば実現させましょう


帰り道、せっかくだからと「とんこつラーメン」の店を探して楽しんで、九州を後にしました


お礼参りツアー 2019晩夏 その2

2019-09-10 20:25:13 | お礼参り



今回、言葉にしてみたことを細かく掘り起こしても、文章だけだとなかなか伝わらないだろうなって思いもありますが…

私自身のところで言葉にしてみましょう

まず、私は
間違いなく浄土真宗とのご縁で「阿弥陀仏」との直接的な関係を築いています
これは私と阿弥陀様「1対1」のことであり、それを他人に置き換えたり、標準化するものではありません
ただ、そのことを”味わう”のは、人間として生きる中での多くの方との出会いであり、その関わりで起こる”こころのひだ”のうごめきです
だから、引きこもって一人でいると、言葉にすると”ズレ”につながってきます

その上で
私の大問題は”死”であり、それはそこで終わりではなく「迷い続ける」というところにあります
それは祈りや行ではいかんともしがたく、ただ阿弥陀様の「お前を救わずにはおかない」という誓願を受け入れること
それは”信”であり、そこで起こる「南無阿弥陀佛」という称名です

「南無」とは、こちらから阿弥陀様に頼む「一念」であり、阿弥陀様からの”頼む”の叫びです
「阿弥陀仏」とは、その誓願が成就した証であり、「必ず救うぞ」に誓いが成立した証です

ということで、私の「迷い続ける」ことを断ち切るのは、私と阿弥陀様の「1対1」の問題です
だから、その他のものは必要ありません
たまたまそれが私に届いたのが、人間の時であり、仏教であり、浄土真宗であり、様々な善智識との出会いによるものだった

阿弥陀仏の思念を人間の言葉にしたお釈迦さまがおられ
インドの言葉から中国の言葉を経て日本語として伝わってきた
そのさなかで、この私に合っているのは修行ではなく、より簡単な方法であり、ただ「誓願を成就」した阿弥陀様の名前を呼ぶだけで良いと
ただ、漫然と呼ぶのではなく、そこに「救うぞ」という願いを受け入れる「信」を問うことは大事だと
それが私にとって、仏教であり、浄土教であり、浄土真宗だった由縁ですね


と、浄土真宗から阿弥陀様を尋ねるとあきらかになります
救われるのは「そうでしかない」と


ここで、カウンセリングが身に染みてくるともう一つの視点が表れます
相手を尊重するということ
私自身は「そうと思えない」ということも尊重します

そこに引っかかるのは、かつての私が「そう思えない」という人に対して否定・批判の態度で接していたことにあります
「阿弥陀様の救い」を純粋に突き詰めると、そこに対する「疑い」は一切認められません

私に対して「信」を示してくれた「善智識」のように、「親鸞聖人」のように「法然上人」のように
そう、生き様のほうに目が行ってしまい、そうなれない人をさげすんでしまいます

そのことがしんどくなってきて、「そうは思えない」という人も尊重したいという思い

私に対してお救い示してくださった阿弥陀仏は、「すべての生きとし生けるもの」に願いを立てておられます
ならば、浄土真宗じゃなくとも、浄土教じゃなくとも、仏教じゃなくとも、あるいは人間じゃなくとも
阿弥陀仏の願いは無条件ですから


まぁ、このことに対する落とし穴も明確になっているのですが

そのあたりが、前回の旅で
神様を畏れ大事にする人たちや
幽霊など怖れる心境の人たちや
パワースポットなどに頼る人たち
に触れて、こういう人たちにも「願い」はかかっていることを感じるにつながりましたし
それが
「信」ということに対して、「そう思えない目の前の人も尊重したい」ということにつながります

むしろ今は、そういう人たちが愛おしく、押し付けではなく「わたしはこう信じさせていただいています」と語り合いたい気持ちがあります

そのとき、私の中で「真宗 と カウンセリング」として、そこにいる存在が「真宗」と「カウンセリング」をつなぐものにあるんだな、と。

来月、真宗カウンセリングについて語る機会がもらえるかもしれないので、このことをひと月かけてもうちょっと深めてみたいと考えてます

K君、S君とのほんの数時間でこういうことが言語化されてきました
期待以上の時間でした


お礼参りツアー 2019晩夏 その1

2019-09-08 16:56:21 | お礼参り

 

 

この夏、世間がお休みのお盆は普通に仕事だったんですが。少しずれた8月終わりに8月分、9月頭に9月分のお休みが来るというラッキーな状況で「6連休」とすることができました

7月のお休みは連れ合いと日程があったので、山陰へのお礼参り小旅行としたのですが、今回は平日からスタートし、土日もあるけど連れ合いは忙しいとのことで、おひとり様のお礼参りツアーへ

その山陰旅行でいろいろ感じたことがなかなか言語化できずにモヤァっとしてたこともあり、今回は私の中にある、真宗・仏教に対する思いと、カウンセリングに対する思いを「誰かに語る」ことで言語化しておきたいなということをテーマに、この両極のことを分かち合える貴重な友人に会いに行くことに
空いてる日程を提示したところ、快く日程調整してくれたので連休最初の3日間を旅行にあて、そのまんなか29日に会うことに
彼のいる北九州を目指すことにしました

28日にあちこち寄り道しながら九州へ移動し、二日目に彼と会い、3日目にまた寄り道しながら移動
道中は車で、3日間中国地方のインターチェンジを定額で乗り降り自由のプランを使います

で、直前のやり取りで、もう一人いっしょに会う予定の知人が28日の方が都合が良いということで、。初日に一気に九州まで移動することに
先のプランの関係で、夜中2時に出発
途中、道の駅などで休憩と温泉を楽しみながら、約束の15時に小倉で落ち合います

 

 
道の駅むいかいち温泉

 

北九州で僧侶をするK君と、山口で僧侶をするS君
二人が京都にいるころ、一緒に語り合った仲間ですし、真宗カウンセリングに関しては彼らが先輩になります

初日の宿は下関で取っていたので、小倉の駐車場に車を停めて、二人と呑んだ後は電車で下関に移動、翌日また電車で小倉に車を取りに来るということに決めて、心置きなく小倉の夜に(まだ昼間のスタートですが)繰り出します

SNSなどで私の体調を心配してくれていた両名に近況を報告し、私の終活に向けた思いなどを話します
そして彼らの近況や、直面している問題などを聞き合います

そこには、仏教的なものやカウンセリング的なものを「いちいち説明せずとも」共有し尊重しあっている時間と空間がありました

何をどのような順番で話したかは忘れていますが、私の中のモヤっとしたものも言葉にすることではっきりとしてきたし、その根っこにあるものも「ちょっと重い言葉になりますが」と指摘してくれます

まさに目的としていたことを明らかにしてもらえた時間でした

その中身は次回にでも