コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 39

2009-04-23 00:37:28 | 親子コミュニケーション

「37回目」のときも書きましたが、ほめて育てるということについて。
(かなり親ばかの部分もあります)

先の日曜日、京都駅から東山・岡崎を経て銀閣寺まで走るバスに乗ってきました。
目的は京都観光…ではなく、そのバスに息子の絵が飾られるという通知を学校からいただいたからです。
京都には「京ちゃんバス」という企画車両があり、主に観光コースをはしる市バスに外観をイラストで飾ったり(ラッピングバス)、他とは違う桜色に塗装されたものがあります。
今回は、その桜色のバスに、市内の小学校の絵や書を展示するという企画です。

同じ系統にも何台かのバスが走ってますから、確実に見れるように事前に交通局に確認し、目的のバスに乗ることが出来ました。
ちょうど乗り口の正面に息子の絵が飾ってあります。

同じ小学校からは、書を含めて3人だけですから価値があるかもしれません。

さて、何も自慢しただけでこのブログを書いているのではなく、ここからが本題。

うちの息子はどちらかというと「自信のない」タイプの子です。
運動も苦手、友達も限られた友達とはOKだけど、あまり社交的じゃない。
勉強もまぁ普通でしょうか。
そんな彼も唯一絵を描くことは大好きです。
自分でストーリーを考えながらイラストを書き綴っています。
(「まんがの達人」という本も購読して一生懸命読んでいます)

親が芸術系なら遺伝的要素もあるかもしれませんが、ふたりともそんなに熱心に芸術に向いていることはありません。
じゃあ、どうしてこれだけ絵に関心を持っているのか…。

振り返ってみると、保育園時代にいろんな先生から絵をほめてもらっていました。
自由に書かせてもらったものを、上手い下手で評価するのじゃなく、「素敵な絵だね」と。
確かに、他の子と少し違った着眼点で絵を描いていたようですが、それを「みんなと同じように」と型にはめるのではなく、個性を個性として受け止めて、ほめてくれます。
きっと、それがうれしかったんでしょう。
個性的だということを気に書けることなく、自由に絵を書き続けています。
教えて出来ることじゃないと思います。


私たちはどうしても「他と比べる」というくせから抜け切れません。
「うちの子は成長が遅いんじゃないだろうか」
「うちの子は食べるのが遅いんじゃないだろうか」
「うちの子は普通に出来ない」
「うちの子は走るのが苦手」
どうしても、出来ないことを苦にして、「ああしなさい、こうしなさい」と指示をして引き上げようとしてしまいます。

ほんのわずかでも出来ていることを大事にしてほめてあげることは、それらとは真反対で、本人のペースで進むことを後押しする方法です。

なんでもかんでも許してほめまくるということではなく、「少しでもほめてあげたことがあるかな」と自分を振り返ってみて欲しいのです。
で、ちょっとだけ意識して、出来ないことを責めるのをやめて、出来ていることをほめてあげる。

すぐには効果はないかもしれませんが、長い成長の中で、そのときほめられたことが種となって、やがて才能の芽を出すかもしれません。

これはとても時間の必要なことですが、あせって親の目指すラインに引き上げるより、ゆっくりでも自分で歩んでもらえれば…きっとうれしいですよね。

 38-「見本がわるいと…」
 37-「ほめることは大事」
 36-「目と目を合わせよう」
 35-「流れていく思い」
 34-「まず家庭で話し合ってみる」
 33-「親の6大NGワード」
 32-「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

  31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ


日曜礼拝 4月

2009-04-20 17:41:54 | 真宗

日曜礼拝でした。
この日の午前中、用事も兼ねて東山の大谷本廟、西本願寺にお参りしてからの参加です。

4月と言うことで、新たに進学した子もいるし、今回初めて参加した子も。
先生陣も、就職して参加しにくくなった先生もいれば、代わりに新たに先生として手伝ってくれる人も。
大人のほうも、北陸からのお参りの方や前日の「輪読会法座」(私は残念ながら不参加)から続けてお参りの方も多数。
とてもにぎやかな日曜礼拝でした。

これだけの多くの人が、何をしにこの場に集まっているのか…
そんなことを思わしてもらえる法座です。

先生のお話は「こころのべんきょう」と言うテーマで。
新学期、新たに小学生や中学生になった子らは、今までと違うものを勉強し始めます。
そういうことを確認した後で、この日曜礼拝はそういうお勉強とは違います、というお話。
大人の場合でしたら、「勉強」と言われるとどうしても知識のことになるので、聴聞と勉強の間に違和感を持つのですが(逆にそこに違和感がなくて問題のある人もいることでしょう)子どもらにとっては、こうやって先生のほうに向かって、そこから伝えられるものに心をかけていくというのは「こころのべんきょう」と言う言葉がぴったりだと思います。

いろんな心の状態を道具を使ってビジュアル的に見せてくださったあと、先生自身にとっての「辛い体験」を通して「こころ」ということを教えてくださいます。
そういう「辛いこころ」を直面することも、仏さまがいてくださることでできると言うことも。

私自身は、このご法話を通して結構いろんなことを味あわせてもらえました。

午前中に行った浄土真宗の本丸とでも言うべき場所には、納骨堂にお参りされる方や本堂に参拝される方が、それこそ何千人もいたんじゃないでしょうか。
供養と言う形だったり、参拝という形だったり。
その中でどれだけの人が「自分自身の問題」として、「機」に向き合い、「法」に向き合いしているのか…
いや、そんな不特定多数の他人のことはどうでも良くて、そういう人の姿を通じて、私は「こころのべんきょう」に出会わせてもらっていることのありがたみを感じずにおれません。

法に照らされるから、自分自身の闇も見ていくことが出来る。
法に護られているから、自分自身に向き合っていける。
そんな機(自分自身)があるから、法が光り輝いている。
機という中にある「恩・おかげ」そして「罪悪」が大きく、深ければ深いほど、それをまるまる受け止めるという「法」が頼もしくなってくる。

無理に、自分の「機」を探ったり、責めたりすることじゃなく、知らされることで、「法」に立ち返っていける。
これがまさに「機」と「法」が一体になった姿なんだと。

がんばって計ったり、量ったり、しなくても無量の命であり、無量の光であり。
自分の持ち物が、計り知れなくても、それをまるまる抱え込むだけのものがある。
「機」と「法」を別々に理解して合わせようとしたり、比べたりすることなど必要なく、「機」が知れるということは「法」が働いているし、「法」が感じられるということはおめあての「機」がハッキリしてくる。

うーん、こちらに出来ることは何もないなと。

普段はなかなか触れようとしない「仏法」ではあるけれど、こちらが向いていないだけで常に法は働いておられる。
ふとしたことで、いただいた目、いただいた耳が、それに触れたときに「あぁ恥ずかしいな」「あぁ勿体無いな」「あぁ申し訳ないな」と…そう思わせていただいたなら、責めるでも、悔やむでもなく、「南無阿弥陀仏」と返させていただくだけ。

日曜礼拝の最初に、聖典の使い方とお念珠の使い方を先生が教えてくださっていた。
最初は知らないで当たりまえ。
そうやって教えてもらって、いつの間にか当たり前のようにしているだけ。
だから、「南無阿弥陀仏」と教えてもらったら、そのまま返させてもらう。
その「南無阿弥陀仏」をどうこう計る力も知恵もないのだから。

そんなことを、座談会でご一緒させていただいた皆様と、深めていけた気がします。


真カ研 月例会 4月 (関わりの振り返り)

2009-04-16 23:51:45 | 真宗カウンセリング

昨晩は真カ研の月例会でした。
4月は総会、じつは総会は初めての参加です。

例によって後れていった私、ちょうど最後の方がチェックインをしていたので、その方が終わるといきなり自分。
あまり気持ちが落ち着かないまま、その日の出来事を通して感じているところと、真宗カウンセリングとのご縁を話しました。
初めてお会いする方も居られたので、「どういういきさつで」という話になったんだと思います。

総会自体は、昨年度のプログラムを追いながらの報告と今年度の予定の確認となっていきます。
ただの連絡会ではなく、ところどころで世話役の方の思いや、それに触発されての様々な話になっていくところが良く、ひとつのエンカウンターとして入り込んでいく感じがあります。


チェックインのときに話をしながら、私の真宗カウンセリングとの関わりを思い返すことがありました。
もしかしたら、今までいろんなところに書いたり、話したりしてきたことと変わらないかもしれませんが、昨晩の時点の「今の私」が感じていたことです。

私は、具体的に真宗に触れたのが華光会に参加してからですが、華光会の法座にはすでに「カウンセリング」を学ばれ、実践されている先生方が居られました。
いや、単に学ばれていただけではなく、「真宗カウンセリング」を立ち上げ、研鑽していかれた先生方なのですから、当たり前のように参加していた法座が「真宗カウンセリング」に触れさせてもらっていたことになります。
ただ、その時点ではカウンセリングということに関心もなく(自分のことで精一杯でしたし)自分では一線を画していたつもりです。

その後、法座の中にカウンセリングのワークを取り入れた物に何度か触れることもありましたが、感覚的に体感しただけです。
逆にカウンセリングのイベントにも参加しましたが、それはワークではなくあくまでイベントでしかありません。

次第に、私の周りの若者たちが積極的にカウンセリングを学びだすに至って、出遅れた感を持ち出し、逆に「自分は法座の立ち位置」と思い込み、カウンセリングと相反しているように思っていた時期もあります。

しかし、そういう意識とは裏腹に、先生方や先達方の背中を見ているうちに、カウンセリングと深く関わってきていることになっていました。
本人は全然気づいていませんが。

やがて、西光先生が逝去され、松岡先生が会長に就任されたのを機に、一歩踏み込んでみようという気持ちが出てきました。
そしてまずは研究会会員になることからはじめ、ミニカンやエンカウンターグループの研修会に参加することで、意識的にカウンセリングのことを考え、また体感的にカウンセリングを味わっていくことになります。
そこにいたって初めて、いままでずっと育てられていたということが判りだしました。

しっかりと体感し、経験していくにつれて、その奥深さが知れることになりますし、月例会で学習(一番苦手な分野です)することで、自分が育てられていたものの正体に触れていくことになります。

そして、昨年のワークショップの世話役に続き、今年のワークショップや研修会の世話役、事務局の手伝いと、気がつけばどっぷりと浸かっています。

何かを目標に積極的に関わっているのかというと、そうではない感じです。
”流れに乗っている”というのが一番近い感じですね。
今までも、知らず知らずに育ててもらい、これからも流れに任せて出来ることをしていく。
とても私らしいと思います。

思い返せば、いくつものターニングポイントとなる出逢いがありました。
強く勧めてくれる人もいましたし、反発することで逆に関心を持たせてくれた人もいました。
それらすべてが関わりとなって、作られた流れの中にいます。

年々、体調などの不安要素が増えてきますが、まぁ、いけるところまで。
まずは、5月からミニカンの連続研修会が始まります。
平日夜、10週連続なんで、会場の京都近郊の方でないと難しいかもしれませんが、ぜひご参加ください。

ミニカン研修会案内

その後、7月の京都のワークショップ、8月の金沢のワークショップと続きます。

自分の力では、とてもこんなムーブメントは起こせませんね。
ほんと、乗っけてもらって大きな得をしています。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 38

2009-04-14 00:06:24 | 親子コミュニケーション

これまで何度か話題にしていることですが、大人が見本になるというお話。

先日、学校の卒業式に参加したのですが、とんでもない光景を目にしました。

まず、卒業式中にもかかわらず、保護者席での私語が絶えないこと。
「最近の子どもたちが落ち着かない」という話を良く聞きますが、じゃあそう言っている大人はどうなのか。
もしかしたら「式典はすべての参加者が厳かに」なんてものはもう幻想なのかもしれません。
しかし少なくとも、子どもの態度をどうこう言うのなら、大人がまず模範を示さなければ、子どもに伝わるはずがありません。

さらに、式後、教室に戻ったときに見た光景は…

卒業式後、教室に戻って卒業証書を一人ずつ受け取るというのは、学校生活で最後のイベントです。
先生には先生の想い、生徒には生徒の想い。
大事な瞬間なんだと、私は思っていました。

しかし、そこで親が何をしていたかと言うと…写真やビデオの撮影です。
まぁ、これはある程度仕方ないでしょう。
今しかない瞬間を、何らかの形で残しておきたいと言う親の思いですから。
が、私が見たのは”ある程度”を越えていました。

子どもの正面顔を撮ろうと、教室の前のほうからカメラを構える人…
子どもに声をかけて、こちらを向かせピースサインをせがむ人…
ビデオを構えながら、教室を徘徊して様々なアングルを狙う人…

当然、先生の最後の話なぞ聞いていません。
親が聞かないうえに、うろちょろする。
子どもが落ち着いて先生の話を聞けるはずがありません。

うーん、私の考え方が古いんでしょうか。

まぁ、そのことを疑問に思ったのなら、私が声をあげて批判すれば良かったのかもしれません。
が、そうできなかった私もいます。
そんな私が批判するのもおこがましいのですが。

後日、参加した入学式では、とても静かな式を見せてもらうことが出来ました。
新しい環境で、子どもも親もまだ緊張しているせいもあるかもしれません。
しかし、その学校は伝統文化などを通じて、礼儀作法を大事にすることを前面に押し出している校風です。
そこには礼儀作法の見本を見せてくれる大人がいます。


私たちがどのような見本を見せるか…
子どもたちは、まず身近な親の態度を見て「それが正しい」と思い込みます。
こどもに「ああしなさい、こうしなさい」という前に、自らの言動をちょっと見直してみることが必要かもしれません。
人を批判する前に、まず自分が出来るかどうかですね。
このことは自戒を込めて。

 

 37-「ほめることは大事」
 36-「目と目を合わせよう」
 35-「流れていく思い」
 34-「まず家庭で話し合ってみる」
 33-「親の6大NGワード」
 32-「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

  31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ


光と華

2009-04-08 01:29:29 | 真宗

昨日の小学校入学に続き、今日は娘の中学校入学式でした。
本人の性格的に、ゆったりと学ぶほうがいいかなと、京都の私立中学を選び、なんとか無事入学です。

私立だけあって、とても広くきれいな講堂での式。
時間ギリギリになった私は、4階の桟敷席まで誘導されてしまいました。
高校と合同の入学式だし、結構両親とも参列している(中には祖父母まで)ので、保護者のほうが多いくらい。
まぁ、おかげで上のほうからゆったりと見せていただきました(壇上の諸先生方の顔は全然見えませんでしたが)

この学校は、東本願寺系の学校です。
最初に(私にとっては)余計な歌の斉唱がありましたが、その次には恩徳讃。
最初の歌は無視しましたが、恩徳讃はどうどうと歌わせていただきました。
もちろん、周りで歌っている人はいませんでしたが…(すぐ前には衣を着た僧侶の方もいたんですけどね)
また、式典の合間合間に合掌礼拝があります。

だからどうということはないのですが、私には大きな安心感があります。
世間的には礼儀作法を重視した学校なので選んだ人も多いのでしょうが、やはり根底に真宗の教えを持っているところで教育してもらえることは大きいです。
私たちが家庭で教えていることと、同じ流れの考え方で教えてもらえる。
いろんな面で大変ですが、この一点だけでも大きな意味があります。

学校長の挨拶にも、真宗の言葉がたびたび現れていました。
校規として「真実心」がうたわれています。
(聞いたときは「真実信」だと思って身震いしましたが…笑)
「慈悲の心」と説明されていました。


思えば、同じような考え方で選んだ真宗寺の保育園に4人の子どもを育てていただき、この3月に最後の子を卒園させて、ひとつのご縁が終わりました。
それが、間をおかずに新しい形で、また真宗に触れるご縁が出来たのです。
形は普通の入学式参列ですが、そこには恩徳讃が歌われ、お念仏(まぁ、周りの人は声に出していませんでしたが)があり、私のまえにこれでもかと真宗の関わりがつながれていきます。
子どもらを通じて、私が育てられているんですね。

学校の入り口には写真の句が張り出してありました。
ほんとうに、油断しているところにいろんな方面から飛び込んできます。

そして気がつけば、今日は「はなまつり」
2500年前から綿密に紡がれたものが、今日また私の前に届けられます。
2500年前というのは、ほんのひとつの(でもとても大きな)通過点ですが、もっともっと昔に、今の私に向けて発せられたメッセージ。
南無阿弥陀仏

私自身は忘れっぱなしのやつですが、南無阿弥陀仏が先回りし、周りを満たし、常に共にあります。

南無阿弥陀仏


新たな一歩

2009-04-06 23:35:49 | 日常雑感

入学式でした。

青空、桜の花びら、真新しい服の群れ…
様々な思いが去来します。
これからの6年間、何を見、何を聞き、何を感じるのか。

式典に関してはいろいろ思うことはあるのですが、まぁめでたい日に野暮は言わないでおきましょう。

明日から、身の丈に不相応なランドセルを背負って通います。


入学式が終わってから、お世話になっていた保育園にお披露目に行きました。
ちょうど他の小学校に入学した仲間も数人集まっています。
ついさっきまでは、「あぁ、成長したんだなぁ」と思っていた子が、なじんでいない学校から、なじんでいる保育園に戻ることで、とても生き生きしてました。
知らない顔がいっぱいの学校より、先生も仲間もなじみの保育園。
はしゃぎまわっていました。

帰ってくるところっていうのは、こういうことなんですねぇ。
こういうベースがあるからこそ、一歩踏み出していける。
なにも、過去を捨てることはないんですね。
いままですごしてきた出来事を糧にして、次に進んでいきます。
消えてなくなることはありません。


あたらしく年長組の担任になった先生が声をかけてくれました。
「いろいろ考えていたけど、お父さんの謝辞に感動してクラス便りを『ありがとう』にしました」って。
いやぁ、社交辞令でしょうけど…うれしいです。

こちらこそ、ありがとう。


保育園謝辞 - ありがとう・有り難い・当たり前じゃない

2009-04-01 18:36:49 | 親子コミュニケーション

先週の土曜日、息子の通った保育園の卒園式でした。
今、高校生の長女が1歳になる前から通いだしていますから、15年と少し、私も送迎で通い続けました。
さらに、何のご縁か、保護者会の役員も10年。
思い入れたっぷりですね。

そんな役員としての最後のお勤めとして、保護者代表の謝辞を担当することに。
今までも2回、役員として子どもを卒園させる機会があったのですが、「男がするより、お母さんが情感たっぷりに謝辞を読むほうが雰囲気いいでしょ」と断ってきました。
が、さすがに最後の機会ということで引き受けることに。

そのことは4月の役員から決まっていたのですが、謝辞の内容に取り掛かったのは2週間ほどでしょうか。
しかし、それ以前からその最後の言葉に向けての思い入れはどんどん募ってきます。
まぁ、私がするのですから、当然普通の型どおりのものはしない…というのは決めています。
じゃあ、どうするのか。
自分の思い入れを探ることからはじめました。

まずは、主役は子どもだから、子どもも一緒に聞いてわかるようにしたい。
もしかしたら、卒園したら真宗とのご縁が遠のく家庭もあるだろうから、できれば真宗の教えを印象付けたい。
保育園が取り組んできたことを芯にすえたうえで、あまりかけ離れないように。
なにより、先生方への感謝の気持ちを、保護者代表として、そして私個人として伝えたい。

いやぁ、欲張りすぎました。
考えれば考えるほど、枝葉が広がって…

そこで、思いをできるだけひとつのテーマに乗せようと。
そうやって決めたのが「ありがとう」という言葉でした。
思いを全部そこにつなげようと。

幸いなことに、担任してくださった先生が最後に子どもたちに伝えてくれたのも、「ありがとう」のこころでした。

ありがとう
有り難い = 当たり前じゃない
かけがえがない

そういうことを、「今、ここに、私が」居るということから感じてもらえればうれしいなと。

 

どこまで伝わったか、はたまたすぐに消えていくのか…
でも、私は言葉にして外に出すところまでです。
あとは、ご縁のある方々に自由にしていただければ…というより、そうでしかありませんよね。

せっかくなんで、ここにその言葉を記しておきます。
途中、一人一人の先生の名前を呼んで、その一人一人に「ありがとうございます」を言わせてもらいました。
ここはちょっと演出が入ってますけどね。
そこは省いておきます。


子どもたちの卒園という喜ばしいときに、保護者の代表として謝辞を述べさせていただきます。

「謝辞」というのは「ありがとうの言葉」ということです。
君たち、今日卒園するみんなのおとうさんやおかあさんから、保育園の先生方に「ありがとう」の気持ちを伝えるための言葉です。
いっしょに聞いていてください。

今日の卒園にあたり、ありがとうの気持ちを伝えたいと思います。
この子たちが生まれたとき、おとうさんやおかあさんはとてもうれしく思いました。
ずっとそばにいて、いろんなことを教えたり、いろんな楽しい時間をすごしたり、いっしょにいたいと思っていました。

でも、仕事をしたり、家のことをしたり、おとうさんやおかあさんの時間も必要でした。
だから、このZ保育園で、おとうさんやおかあさんのかわりに先生方にいろんなことを教えてもらいたいと思いました。

 

それから数年間、子どもたちはいろんな経験をして、今日卒園の日まで育てていただきました。
ありがとうございます。

考えてみると、こうして無事卒園することは当たり前のことのように思ってしまいます。しかし、そうやって当たり前だと思える裏には、どれだけ先生方のご苦労があったか計り知れません。
ありがとうございます。

今ここにこうして居る子どもたちの中には、先生方に教えていただいた多くのことが詰まっています。

言葉を当たり前のように話します。
文字を当たり前のように読みます。
歌を当たり前のように歌います。
踊りを当たり前のように踊ります。
計算を当たり前のようにします。

それらは先生方に教えてもらったことです。
ありがとうございます。

多くの先生との関わり、その中のほんのひとつでも欠けていたら、今のこの子たちはありません。
ありがとうございます。

多くの行事の思い出、その中のほんのひとつでも欠けていたら、今のこの子たちはありません。
ありがとうございます。

当たり前のように過ごして、当たり前のようにやってきた今日という日。
そのことが一番有難いことだと思います。
ありがとうございます。

ここに当たり前のようにZ保育園があること。
そこには多くの人の関わりがあって、ここに在り続けてくれています。
ありがとうございます。

園長先生 ありがとうございます。
○○先生 ありがとうございます。



今はここに居ないけれど、この子達の歴史の中に関わってくださったたくさんの先生方もありがとうございます。

そして、卒園し小学生に巣立っていく難しい一年を、大事に大事に育ててくださったT先生。
本当にありがとうございます。

皆様が居てくださったこと。
この子たちがここに居ること。
そのことが、おとうさん、おかあさんは一番うれしく思います。
ありがとうございます。

このZ保育園で教えてもらったたくさんこと。
仏参や行事や食事の言葉を通して教えてもらった
おかげ・ご恩・感謝のこと
きっとこの子たちの中に刻まれています。
ありがとうございます。

最後にひとつだけお願いがあります。
Z保育園として、ずっとここに在り続けてください。
出来るだけ先生もここに居続けてください。
これからこの子たちの節目や、何かを感じたときに、帰ってこれる場所であってください。

この子たちの成長していく中の一部分がここにあったこと。
かけがえのない場所であり時間であったこと。
いつでも帰ってこられる場所であること。
そういう場所がいつまでもあれば、こんなにうれしいことはありません。

ありがとうございます。