「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

謡初め

2005年01月19日 | 遊びと楽しみ
 例年,謡初めは、15日の小正月が過ぎた一番近い日曜日と、仲間内での決め事になっていました。今年は16日が該当なのですが、幹事さんの都合で一週間の延期になりました。

「鶴亀」で始まり、「高砂」で「相生の松風、颯々の声ぞ楽しむ」と、謡納めます。謡の後の酒宴もふくめての会が予定されていて、心待ちに楽しみにしています。

 新しい年が始まる想いを強吟でうたいあげることで、一つの区切りとなります。
 三年まえから、車の運転と、天候不順を口実にして、洋服での参加ですが、扇を構えてもサマにならず、やはり私の謡の中途半端な、しまりのなさは、この形から来ているようです。

 今更のように形の大切に思いをいたすことですが、一旦手に入れた「楽」は放しようがありません。

「袖のボタン」

2005年01月18日 | みやびの世界
 今日の朝日新聞「袖のボタン」に丸谷才一さんが、「日本文学の原点」と題して、かねての持論を展開されています。
 中国文学との比較の中で、「唐詩選」465首のうち、男女の仲に触れるものは10首弱、しかもエロチックな味は淡い。一方、勅撰集は恋歌と四季歌が中心だが、春夏秋冬を扱っても恋がらみが多い。と述べておられます。そして、ほかの事柄ではみな先輩に従ったのに、この一点では、日本文学は万葉以来強情を通してきているとして、この難問の解答には、大野晋さんの、日本語は南インドのタミル語を起源とするという説をひいて、古代タミルと日本古代の習俗の類似や、文学における恋愛詩の尊重、5音と7音の多用などを挙げて、日本文学の原点は3000年前の南インドにあったとされています。
 難しいタミル文化の刷り込み説はロマンの香に満ちていますが、それはさておいて、私たちの先人は、漢字を借りて仮名をつくったにもかかわらず、中国文学に支配されることなく個性を守ってきたのは確かだし、百人一首にしても、部立が恋であるものは43首、恋に絡めたものを入れればその数はもっと上がります。
 人の生涯の一大事を文学が数多く取り上げるのは必然のことで、中国のほうが特殊であるのは西洋文学を例に引くまでもないことだと思います。多くのすぐれた恋歌は、人の心を潤いのあるものに満たし、時を越えて共感を呼びます。

祈りの日

2005年01月17日 | 塵界茫々
 今日は阪神、淡路の悲劇の日から10年目の追悼の日、生かされてあることを感謝し、亡き人へ鎮魂の祈りを捧げます。あの日から時間が止まったままの方もあると思います。
昨日から続く冷たい雨の一日、身を固くしながら、去年の冬の暖かさを思い返しています。いま、さむ空に手を伸ばす木々の梢は、勢いを見せる梅も,桜も、つい先ごろ葉を落とした紅葉までも、,けなげに芽ぐんでそれぞれの季節の準備をしています。あと少し、あと少しと思ってしまいます。
  漱石の 腸に春滴るや粥の味
      塩辛を壷に探るや春浅し   
ともに、身も心も春を探る思いが切実で、「春滴る」はねたましいほどの感覚です。酒の肴を探るとき、探せばある、というほどの春も一緒に探し当てて、そのもどかしさを楽しむ風情が好きです。被災地のかたがたが、希望の芽を探り当てられますように切に祈ります。

歌会始の儀

2005年01月16日 | みやびの世界
 皇居正殿、松の間で行われた歌会始の儀の中継をみました。
 室町時代以来の宮廷行事であったものが、戦後は広く一般人の詠進歌も参加できるようになっています。今年は27000余首が寄せられたそうです。選歌10首の披講を聞いていて、まだこんな世界が残されていたのかと驚きました。
 「としのはじめにーーーー、同じくーーーー「歩み」-ーーーと言うこと、仰せごとによりて詠める歌」,「中田の久美子」と独特の節回しで読師が読み上げ、歌も一句ごとながく語尾をのばしてゆったりと講頌されてゆきました。姓名の読みも柿本の人麻呂という言い方と同じです。
 選ばれた歌はそれぞれの暮らしをうたった優れたものでしたが、読師(どくじ)、講師(こうじ)、召人(めしうど)など、王朝の歌合せそのままの用語がつかわれて進行する儀式の,みやびの世界に現実を一とき忘れました。
 同じ日、小型探査機ホイヘンスが土星最大の衛星タイタンの大気圏に突入、地表に着地したニュースがもたらされました。350年ぶりにその素顔があきらかになるかという、こちらも宇宙の壮大なロマンの世界です。来年のお題は「笑」です。

日本画名品展

2005年01月15日 | 絵とやきもの
 北九州市立美術館で開催中の京都国立近代美術館所蔵の「日本画名品展」を観にいってきました。出品点数は70点と少ないのですが、それだけにゆったりとした展示で楽しめました。
 明治以降の作品に絞られていましたが、西洋絵画の新しい視点を消化して、その上で、伝統的な日本画の自然観を表現しようとする意欲が感じられ、意外な若々しさを漂わせる大観、
 竹内栖鳳の水彩画かと思える作品、稲垣仲静の小品「太夫」には素材の内面を描くような不気味な迫力さえ感じました。福田平八郎の「花菖蒲」の構図の斬新さ花の表現のモダンに感動、2室の中では小倉遊亀のかわいらしい「舞妓」や森田耕平の大作、山頭火の句を題材に描く池田遥邨の「あすもあたたかう歩かせる星が出ている」にも会えました。至福のひと時を過ごすことができました

自分の時間

2005年01月14日 | 塵界茫々
 こころ豊かに生きてゆきたいとは誰しもが願うことでしょうが、現実はなかなかそれを許してはくれません。どこまであるのか天のみぞ知る時間を、美しくエンジョイしなくてはもったいないとhは思うのですが。・・・
 生きていくうえでの浮世のしがらみに縛られてのよんどころない時間以外の、自分の時間は、同じ時間なら,「踊らにゃ損々」の論理でいくのが楽しいと思っています。
 つまり、中身が同じコーヒーでも、紙コップに入れて飲むのと、それをお気に入りのカップで味わうのでは、そこに流れる時間の豊かさが違うはずだということです。
 惰性で日を送るのは人生の浪費だと思ってはいるのですが、何に対しても興味が湧かない時があります。本にも入っていけず、絵筆も走ってくれない時、外に出て歩くことにしています。季節の移ろう姿に元気を貰うことが多いようです。
 私にとっては、未知のものに好奇心をそそられる時が一番充実を感じる時間です。いまはパソコンに傾斜して、少しの時間があれば、キーを打っています。次から次への疑問と発見は、これまで知らなかった世界を提示してくれます。こうした時間を過ごしていると、マスコミの騒ぐ報道の多くがばかばかしく、タレントの動静などに構ってはおれません。同じ時間を使うなら、密度の濃いものに使ったほうが意味のある生き方だと思うのは、残り時間の少ない年寄りのひがごとでしょうか。

漱石の俳句

2005年01月12日 | 歌びとたち
 作家としての漱石は、旧札の顔同様馴染み深いと思いますが、2500句を超える俳句のほうはあまりもてはやされることがないようです。でも、松山時代から熊本時代にかけては,子規の影響もあって句作にかなり熱心だったようですし、新進の俳人として評価もされていたようです。のちの小説の持つ雰囲気とはかなり違った一面もうかがえます。冬の句の中から二句あげてみます。
   親展の状燃え上がる火鉢哉

 まさか滞納の督促状ではないでしょう。もはや姿を見ることのない火鉢ですが、じっと燃え尽きるまでの余韻に、秘密めいたものを感じます。恋人からの内緒の手紙でしょうか。燃え上がるのは手紙だけではなさそうです。

   雪の日や火燵をすべる土佐日記

 上五は気になりますが、「男もすなる日記」を読みさしての、うたた寝なのでしょう。蕪村の世界です。大漱石の意外なしなやかな、ときめきを垣間見ます。

臘梅

2005年01月11日 | 季節のうつろい
 12月の初めから咲き出した臘梅が今年はもう盛りです。いつもより一ヶ月は早いようです。
 この季節、生ジュースに喜ばれる甘夏柑を送るとき、決まって一枝同梱します。荷物を開けた時、梅の香に似たよい香りが漂うと、いたく感謝されて以来の習慣になっています。
 葉を落とした枝に、本当に臘細工を思わせる2㎝ほどの半透明の黄色の花をつけます。臘細工状なのは寒さから身を守る知恵なのでしょうか。花の少ない時季だけに、香りとともに嬉しい花です。私の庭の臘梅は素心臘梅で、花の中心部まで全部黄色です。花言葉は「先導、先見」と聞きました。唐梅、南京梅の別名は、中国がその故郷だからなのでしょう。

  臘梅や雪うち透かす枝のたけ     芥川龍之介
  臘梅のかをりやひとの家につかれ   橋本多佳子

残心

2005年01月10日 | みやびの世界
 「残心」という言葉は辞書では「心残り、未練」と言う具合に解されていますし、弓道では、矢を放った後、的をじっと見つめる動作をいうと父に聞いたことがあります。私は全く違った意味で「余情」と似通った意味合いに解して、好きな言葉の一つにしています。

徒然草の中に、お月見の帰途、ふと立ち寄った人の家を程よく辞去するとき、送って出てきた家人が、客を見送った後、さりげなく「月見るけしき」で戸を掛けこもらずに佇む姿を兼好法師はゆかしいと見て讃えていますが、まさに、それです。めまぐるしく動く時代ですが、せめて心のゆとりだけは、いつまでも失いたくないものです。

 徒然草第三十二段の中から・・・・・荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。よきほどにて出で給ひぬれど、なほ事ざまの優におぼえて、もののかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸を今少しおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、くちをしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ朝夕の心づかいによるべし。

酒を勧む

2005年01月08日 | 歌びとたち
お正月気分も、お屠蘇の気もだいぶ抜けて、新しい年になじんできたようです。 酒に親しむこの季節思い出す詩があります。
唐の詩人干武陵に「勧酒 」と題す五言絶句があります。
  君に勧む金屈巵   満酌辞するを須ひず
  花発いて風雨多し  人生別離足る
この,本の詩の端的さも並みではありませんが、この詩を翻訳した井伏鱒二の訳がたまらなく好きなのです。それも三、四句目の訳が。かれは、次のように訳しています。
ハナニアラシノタトヘモアルゾ  「サヨナラ」ダケガ人生ダ   この軽妙、洒脱は、到底たどり着けない境地です。
金の杯でなくても、なみなみと注がれた杯を、心許した友と挙げ、しんみりと語り合う至福のときにあって、なお人の生涯には別離ばかりが多い、その嘆きなのですが、あなたは、こう粋に突放せますか。