「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

ご挨拶

2009年03月31日 | ご挨拶
 予ねて決めていたことでしたが、三月末日をもちまして、当ブログを閉じることといたします。

 四年半にわたりご閲覧をたまわりましたこと、心よりお礼申し上げます。
 満80歳を期に、思うところもあって身辺の整理を始めています。お世話になっていたITサークルも、会計係をお礼の奉仕として今月で退会いたしました。
 整理すべきものの一つとしてこのブログも、ここらが潮時と心得ますので、一応、閉じようと思います。

 長命の家系にあって周辺の老いを看取ることも祖父、両親をはじめ五指に余ります。その中で、経験したことは、普通の人たちである私の周りでは、やはり高齢には抗えず、身体機能のタガがゆるむのは当然として、ものの考え方、判断力の衰えといった頭脳の方のタガも緩んでくるのは、どうやら今の私の年齢のあたりが境界線であるのを身にしみて感じていました。後は急速なカーブを描いて坂道を下ってゆきます。
 実際に自覚症状としても、ひどくなる一方の物忘れはともかく、自分中心でしか物事が見えなくなっており、判断も誤りがちになっております。後悔することもしばしばです。
 これ以上見苦しい姿をお見せするのは顰蹙ものとの判断があるうちに幕引きをするのがせめてもの粋というものではないでしょうか。
 4年半という時間の中ではさまざまな出来事もありました。103歳で生涯を閉じた姑を送り、肩の荷を降ろした後、間もなく夫に病変が見つかり、大手術となりました。この間に、温かなコメントをお寄せくださった方、Mailで激励くださった方々には感謝の言葉もありません。本当にありがとうございました。
 お目にかかったこともない方々との、ブログを通じての出会いが、時には旧友以上に気持ちが通じ合い、隔てなく語り合うことができ、教えを頂くこともできました。えにしの不思議もしみじみと感じました。

 振り返ってみれば、ブログでは、顔や姿が見えないのをよいことに、中途半端な知識で勝手な思いを陳述して参りました。この期におよび、老子の言う「知る者は言わず。言うものは知らず」にこめられる言葉の重みを慙愧の思いでかみしめています。
 俗に「雀百まで」とも申します。また形を変えて登場することがあるかも知れませんが、こうした思い込みの放談はもう止めにするつもりです。
 これからは、一人で絵を楽しみ、古代への旅を温め、命ある限り明るく生きてゆこうと思っています。
 皆さんのブログには時折お邪魔してコメントもさせていただくつもりです。そちらでお会いすることもあろうかと思います。この際ネームも”ふくら雀”と改めましてお伺いしますのでよろしくお願いいたします。
 長い間本当にありがとうございました。



春三題

2009年03月29日 | 絵とやきもの
 今日は先日急逝した義弟の忌明けの法要でした。みつき越しは身に付くといって、当地方では三ヶ月にまたがる満中陰を忌む習慣があります。それにしても月日の経過を早いものに感じています。

 午後から始まる法要までの時間を静かに絵筆を執って机に向っていました。
このところ書き溜めていたものの中から三題をUPします。ご笑覧ください。











今年の桜

2009年03月27日 | 遊びと楽しみ
 毎年出掛ける小倉城のお花見です。
 朝方は暖房が要る冷えでしたが、午後は気温も上がり、どこか出かけようという話になり、今年は夜桜見物にしようと言い出したので、遅くなってから出かけました。夕食にお酒が入るので車は置いて久しぶりにJRでの小倉行きです。

 歩くのを億劫がる人に、歩いてもらうのも目的の一つですから、魚町の繁華街を散策して、鴎外橋をわたり、先ずは昼間の桜を見て引き返し、一休みを兼ねて夕食です。
 鴎外ゆかりの湖月堂で夕食にしました。本来は甘味所で有名ですが、あるじがここの奧の食事もできる場所が気に入りです。何時も人すくなで、客筋も年配の人が多く物静かです。
 冷酒をたっぷりいただいて、夜桜を見に繰り出しました。明るい時とは様変わりで、昼間に花見の場所取りがしてあったところは集団の賑わいで、人を避けての花見でした。
 平日で満開は明後日ぐらいと間があるので、昼間の人出はさほどでもなかったのですが、甘かったようです。これが満開の日曜ともなれば、花を見るのか、人を見に来たのかといった状況になるのでしょう。
 冷えても来ましたので早々と引揚げました。晶子の「今宵逢ふ人みな美しき」を期待したのでしたが・・・。
 夜桜は改めてゆっくりと、近所の小学校の校庭で散歩を兼ねてやり直すとします。

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画像は昼間と夜の小倉城の桜が入っています。各2枚です。

漢字の遊び

2009年03月26日 | 遊びと楽しみ
 病院で妹の透析が終わるのを待つ間、「漢字の鉄人」岡田光雄で遊んでいました。
春の季節の出題から選んでみましたので、お時間がある方は挑戦してお楽しみください。中級程度のものばかりです。真似て追加した自作もあります。

問一  空所に漢字を入れてください。その後でこの問題がそこらの学校のテストとはひと味ちがっている点を発見してください。
 
 1改□の情   2他□の縁   3□炊の夢   4□白の差
 5□吽の呼吸  6□岸の火事  7□見の明   8□皇の志士

 全部入れ終わったらその文字だけをにらんでください。仕掛けがわかります。

問二  1~4、5~6の二組の上下の空所の漢字をうまく繋ぎ合わせて俳句の春の季語を四つ作ってください。

 1□草物語   2□俵入り   3□泥の差   4□刻届

 5前頭□頭   6舌切り□   7侍□本    8宣戦□告

 こんな問題だと国語のテストも苦にならないのではないでしょうか。物足らない
向きには、次の問題をどうぞ。

追加問題
 例題の答えは「相合傘」です。このように同じ読みが二つ続き、しかも異なる漢字を入れてください。アイウエオ順に並んでいます。

 例 □□傘

 1□□宣言  2□□車  3□□癖  4□□株  5□□塩
 
 6□□行進曲  7□□選挙  8□□契約  9□□論  10□□式




蛇足の解答
  問一 悛 生 一 黒 阿 対 先 勤  春宵一刻値千金
  問二 若 土 雲 遅 筆 雀 日 布  若布 土筆 雲雀 遅日
 追加問題  開会 救急 収集 上場 精製 葬送 町長 売買 方法 命名

籠ぬけ鳥

2009年03月24日 | 遊びと楽しみ
 野鳥観察に余念のない、いつもの方からの画像の配信をお福わけします。

 これは置物ではありません。あまりにも美しい造化の神の贈りものです。
 記事によると、「箕面公園で幸運にも撮影できました」のだそうです。

 中国南部に棲む野鳥が輸入され、飼育されていたのが籠脱けして野生化し増えたものだそうで、ソウシチョウ(相思鳥)という素敵な名前を持っているようです。
全長15cm位。羽色も鮮やかですが鳴き声も美しいとか。つがいの鳥を別々に分けると鳴き交すのでこうした名前がついたのだそうです。中国名は”紅嘴相思鳥”(幼鳥のときは嘴は黒)
 籠で飼育されるより、籠脱け鳥となったほうが鳥にとっては自由が得られるのでしょうが・・・・・。

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クリックで画像3枚をお楽しみください。

国宝に

2009年03月21日 | みやびの世界
 昨日の新聞に“国宝新たに二点”として、文化審議会の答申が出ていました。(20日日経)
 青森県八戸市の風張遺跡出土の「土偶」―縄文時代―と、与謝蕪村の「紙本墨画淡彩 夜色楼台図」―江戸時代―の二点です。

 若かりし日、萩原朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」に始まった蕪村への傾倒が、やがて蕪村の画家としての二足の草鞋を知ることとなり、年齢を重ねるとともに俳句の好みも“篭り居の詩人”蕪村への共感と変化してきました。
 油絵から転じて自分でも墨彩画を楽しむようになってからは、詩情溢れる洒脱な蕪村の世界に強く惹かれています。この重く垂れ込める雪空の下、ふわりと雪を被った低い屋根の連なりと、温かな灯火の色がかもし出す世界に、蕪村の一枚といわれれば躊躇なく選ぶのはこの一枚です。

夜色楼台図 部分

 昨年は、この一枚に会うために、はるばる信楽の山深く、MIHOミュージアムまで出かけました。5月の終わりから6月初めへかけての旅では紫香楽宮跡で、“万葉集の歌 初の木簡“にお目もじの付録もついていました。夜色楼台図の前からはしばらく動けないでいました。実寸は28×129,5cm.の小さな長幅が大きく見えました。
 
 墨彩画の仲間達からも、琳派でなければ蕪村を口にしてやまない私にお祝いの電話が掛かってきました。私がお祝いを受ける筋合いではないのですが、一緒に喜んでくれる仲間がいることは嬉しいことです。
 改めて分厚い図録の折込になったページを開いて、もう一足の草鞋に確たる陽が当たることになったのを心から喜んでいます。これで蕪村の国宝指定は「十宜帖」と二点となりました。このブログでも毎年のように取り上げた「夜色楼台図」であってみれば、ことのほかの嬉しさです。

 今年は他にも、海外の競売で宗教法人が落札して話題になった雲慶作とされる木造の大日如来像はじめ美術工芸品など38件が重要文化財の指定を受けることになるようです。
 重要文化財は10350件、うち国宝は864件になると報じられています。
わが憧れの蕪村のために、“先ず祝へ梅を心の冬篭り”と、芭蕉の句を借りて祝杯を傾けるとします。

帰省

2009年03月18日 | 絵とやきもの
 このところバイオリズムの低調からなかなか立ち直れない私を気遣ってのことだと思いますが、仕事が一段落したからと三連休を挟んで、突然娘が帰省してきました。
 一便早い飛行機に乗ったからと、到着早々お彼岸だしと草取りをしてくれました。
 私には、ゆっくりするようにと何かと労わってくれます。

 気分が色に出ていると笑いながら、描き溜めていた墨彩画をお世辞半分で褒めてもくれました。
 帰ってきたのが分かると友達から誘いの電話がしきりです。高校時代の仲良しグループは格別でいいものです。
 身辺整理の私の決心を知ると、5月にはまた手伝いに帰るからといってくれました。
 若い人の判断は小気味よく、整理するまでもなく、捨てればいいことなのでは。とさっぱりしたものです。その通りなのですが、迷いがあるのは、まだ覚悟のほどが中途半端なのでしょう。ゆっくり取り掛かることにします。

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画像は各2枚です。




K君の車

2009年03月16日 | 遊びと楽しみ
 朝の散歩から帰る時間に、決まって車を駐車場から出しているK君と挨拶を交すようになって、3ヶ月ぐらいになります。
私がいつも足を止めて彼の車を眺めているのがきっかけでした。それは見事に3箇所、イラストが描き込まれています。

 1月の終わりごろ、YAHOOのトップページに「イタ車」なる記事が小さく写真つきで出ていました。あ、これだ。K君の車も”イタ車“と呼ぶのだと知りました。痛車とも表記されていました。
 なんでも、イタリア車のデザインの派手なのと、痛々しい車とをかけたネーミングのようですが、異論もあるようです。
 Wikipediaによると、「痛車(いたしゃ)とは漫画・アニメやゲームなどに関連するキャラクターやメーカーのロゴをかたどったステッカーを貼り付けたり、塗装を行った車。ネーミングは、2002年頃、当時最大規模のチーム(解散)内での「外見が痛々しい車だから痛車じゃないか?」という発言が基になっている。当初は愛好家同士のみで通じる隠語のようなものであったが、雑誌等への投稿により広く認知されるようになった。また、イタリア車を示す「イタ車」にかけたとする説もあるが誤りである[要出典]。ちなみに同様の改造を施した原付やバイクは「痛単車(いたんしゃ)」と呼ばれ、自転車の場合は「痛チャリ(いたチャリ)」と呼ばれる。」とあります。
 ラリーの車もかなり派手にデコレーションされていますが、企業のネームが書かれている車を痛車とは呼ばないのでしょう。幼稚園の送迎バスもかなり眼を引くキャラクターが描いてありますが、こちらもイタ車とは呼ばないと思います。

 こんな派手な車のオーナーなら、どんな若者かと思われるでしょうが、むしろ平均的な“今時の若者”より、きちんと挨拶のできる、服装も、髪形も至極普通の、好感の持てる青年です。内装関係の仕事をしているのだそうです。これだけのペイントをやれば、相当な金額になるでしょうと尋ねると、友達が描かせて欲しいといって描いたので、それ程掛かりませんでした。といって笑っていました。写真に撮らせて欲しいというと、私が気付いていなかった天井を、僕が撮ってあげます。と3箇所のペイントを撮影してくれました。

 何にお金を掛けるか人それぞれですが、見事な徹底ぶりです。いくら私が派手ずきでも、こんな車に乗って走ることはできませんが。   画像はクリックで3枚です。

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春の風に誘われて

2009年03月14日 | 遊びと楽しみ
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 九州は桜が例年よりも1週間も早く開花しました。慌しい世の中、桜までせかせかと急ぎ足です。

 今日の午後は、郷土史会の講演会「山鹿兵藤次秀遠と山鹿城」を聞きに出かけました。会場が山鹿城の直ぐ下にある菩提寺だったこともあり、敬意を表して参加を決めていました。
 山鹿兵藤次秀遠は、源平争乱の歴史の中で、太宰府をも追われた安徳天皇を城に迎え、山鹿水軍を率いて果敢に戦った武将で、「平家物語」や「吾妻鏡」でもその戦ぶりを讃えています。(兄は平将門を討った俵藤太秀郷)
 壇ノ浦で平家が滅びると山鹿秀遠も運命をともにしました。

 この城は天慶年間、純友の乱で戦功のあった藤原藤次によって山鹿の地に築城され、以後、藤次は山鹿姓を名乗り、居城としました。歴史の古い山城です。
 本丸、二の丸、三の丸、出丸、曲輪、土塁、掘り切りの遺構もよく残っていて、小高い丘の上(標高約40m)の城址は今は城山公園になっています。
 (本丸は、東西18m、南北37mほどの長方形で、西側と東側は高さ50mほどの絶壁となっている。二の丸は、本丸の北に位置し3mほどの落差があり、東西23m南北64mほどの広さを持つ。そのほか三の丸や出丸などを備えた規模の大きなまとまりのある城址である。)

 櫻の咲くころは城址に花見を兼ねて登る人もありますが、日ごろは訪れる人も稀です。
 謡曲「砧」の悲しい物語の舞台でもあります。

 講演会が終わっての帰り道、遠賀川の河川敷に車を止め、しばらく堤防で土筆を摘みました。今夜は卵とじで一品増えます。


金印の島 三

2009年03月11日 | 旅の足あと
 休暇村周辺の史跡の一つに白水郎荒雄(アマアラヲ)の万葉歌碑があります。
老いた友人の代わりに対馬の防人達に食糧を運ぶ舟を出し、嵐にあって遭難し海底に消えた海人です。山上憶良をはじめ万葉集巻16には10首の歌が残されています。
 荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出でたち待てど来まさじ    山上憶良
 大船に小船引き副え潛くとも志賀の荒雄に潛き遭はめやも      山上憶良
 沖つ鳥鴨とふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ      志賀の白水郎


 文永の役(1274)と弘安の役(1281)の二度にわたる元の大軍の襲撃は、博多湾一帯が主戦場になりました。文永の役で、折からの台風の到来のため座礁して、この地で捕らえられ、処刑された蒙古兵の供養塔が蒙古塚です。

 万葉集から志賀島ゆかりの歌を抜粋します。小さな島に10基もの万葉歌碑が建てられています。

1号碑 ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神  志賀海神社
2号碑 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすがの山を見つつ偲ばむ   憶良
3号碑 志賀の白水郎の釣りし燭せるいさり火乃ほのかに妹を見無よしもか裳
4号碑 志賀の浦に漁りする海人明けくれば浦み漕ぐらしかぢの音きこゆ
5号碑 大船に小船引きそへかづくとも志賀の荒雄にかづきあはめやも
6号碑 志賀のあまの塩やく煙風をいたみ立ちは昇らず山にたなびく
7号碑 かしふ江にたづ鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちしくらし毛
8号碑 志賀の浦にいさりす海人家人の待ちこふらむに明しつる魚
9号碑 沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎民手漕ぎ来と聞えこぬかも
10号碑 志賀の海人は藻刈り塩焼きいとまなみ髪梳の小櫛取りも見なくに

 そのほかにも、大伴百代の「草枕旅行く君をうつくしみたぐひてぞ来し志賀の浜辺を」
 石川少郎の「志賀の海人のけぶりやきたてやく塩の辛き恋をもわれはするかも」などもあります。
詠み人知らずの多くの歌の中で名前の伝わる人たちです。
 今は見ることのない塩焼く煙も、防人達の望郷の悲しみも、すべてを飲み込んで、玄界灘の波が絶えることなく寄せては返しています。

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<荒雄の碑>



おまけの画像でお楽しみください。
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<河豚刺し>

画像は各5枚入っています。