「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

英彦山散策 2

2008年10月30日 | 歌びとたち
 

 英彦山には、古くから、多くの文人墨客が訪れています。小杉法庵、野口雨情、吉井勇などの足跡が著名です。この項では英彦山の文学関係を中心に記すことにします。

 今回のコースでは最初の訪問地が豊前坊でした。私には昔からの呼びかた豊前坊のほうがしっくりきます。神仏分離で廃仏毀釈が行なわれる前の呼び名です。
 ここが豊前坊天狗の本拠で、今年も、もうすぐ11月3日この境内で、山伏達の吹き鳴らす法螺貝の音が紅葉を震わせるなかで護摩焚きが行なわれ、火渡りがあることでしょう。
 今では高住神社と呼ばれる社の背後の巨岩、天狗岩に食い込んだ形の社に祭られている天狗の面は昔のままでした。此の境内の大きな橡の木の傍らに、杉田久女の句碑がひっそりと建っています。
橡の実のつぶて颪や豊前坊」 この句が日本新名所俳句 英彦山の部で銀賞受賞の句です。(写真)
 杉田久女の名前が俳句界に広く知られるようになったのは、ここ英彦山を詠んだ句で、最優秀賞の金牌賞と銀賞を受賞してからです。
 眼前にしきりに落ちてくるトチの実を「つぶておろし」ととらえた斬新さが目をひきます。
 一方、最優秀賞の句は、「谺して山ほととぎすほしいまま」で、彼女の代表句の一つとしてよく知られるところです。
 こちらは、スケールの大きい空間が描かれ、ホトトギスの澄んだ音色の鳴き声が木霊として反響する壮大な舞台が鮮やかです。
 この句碑は、奉幣殿のすぐ下の石段脇にひっそりと建っていました。俳句を嗜んだ伯母と見た幼い日の記憶とは場所が違っているように思いました。(写真) 
 小倉の禅寺、円通寺には英彦山で得た「三山の高嶺つづきや紅葉狩り」の句碑も建っています。

 棟方志功の版画「天狗の柵」の原点は小杉法庵の「此の山に棲むといふなる天狗共あらはれて舞へわれ酔ひにたり」や私の好きな吉井勇の歌にあるようです。この版画は一時持っていましたが、海外にも持参して、帰国の折に人にあげて、今は手元にありません。
 高千穂峰女にも、「観楓や英彦山天狗いで舞へよ]という句や、「老杉に鬼棲み夏の雲かける」の句があります。
         
今回初めて訪ねた英彦山権現神社(滝の坊)の境内にも峰女の句碑が建てられていました。
権現のえにしにつどふ岩もみぢ
 歌舞伎の“彦山権現誓助剣”はご当地もので、博多座でも上演されていました。
 謡曲「花月」の舞台もここ彦山から始まります。彦山で天狗に攫われたわが子を探す父親が、清水寺で再会を果たすといった筋書きです。

 最後に吉井勇の歌をあげます。
 「寂しければ酒ほがひせむこよひかも彦山天狗あらはれて来よ」 
 「英彦山はおもしろき山杉の山天狗棲む山むささびの山」 
 「彦山に来て夜がたりに聴くときは山岳教もおもしろきかな」

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久女の句碑2枚

峰女の句碑 権現のえにしにつどふ岩もみぢ

英彦山散策 1

2008年10月29日 | 旅の足あと
 ITサークルの若い人たちに誘われて、バスハイクに参加しました。英彦山(ひこさん)は福岡県と大分県の県境に聳える標高1200mの信仰の山です。山形の羽黒山、吉野の大峰山と並ぶ修験道の三大修験の霊山として知られています。その昔は山中に坊舎が800もあったという山伏のメッカです。
 遠賀川沿いに上って車で1時間半の行程、汽車の便もあり、身近な山なので、幼い日から何度も訪れていますが、上宮のある山頂までは女学生のころに1度登っただけです。何時も奉幣殿(註1)まで800段の急な不揃いの階段を登るのが精一杯です。5年前の秋、ここで催された同窓会に出席するあるじを、麓の”しゃくなげ荘”まで送った時以来です。
 その折にはなかった瀟洒なスロープカーが銅の鳥居(註2)の下から奉幣殿までを結んでいるのは一驚でした。年寄りにもお参りが可能になっていますが、ありがたい反面、何かそぐわない感じはぬぐえません。
 紅葉の盛りにはまだ1週間ほどはありそうな様子でしたが緑を残しながら色づいてゆく彩りは、私の好みです。
  註1 元和2年(1616年) 小倉藩主細川忠興の寄進したもの。国重文
  註2 寛永14年(1637年)佐賀藩主鍋島勝蔵の奉納による。 国重文

 英彦山といえば、古くから県内に住む者には、この画像のように、素朴な「英彦山がらがら」と、悪者を懲らしめ、正義のものを助ける「英彦山天狗」がまず浮かびます。
 魔よけの「がらがら」は、昔は大抵の家の門口に下げられていました。「英彦山がらがら口ばっかり」の里諺はよく知られています。振るとガラガラと軽い音のする土鈴です。昔どおりの姿かたちを懐かしんで、魔除け、厄除けの鈴を買って帰りました。

 子供心に天狗が棲む恐ろしい山という思いは、吉井勇の「寂しければ酒ほがひせむこよひかも英彦山天狗あらはれて来よ」に置き換わるまで、かなり長く私のなかにあったように思います。「毛谷村六助」の“英彦山権現誓助剣”ヒコサンゴンゲンチカイノスケダチの、英彦山権現に授けられた怪力のヒーローの敵討ちを聞かされて育ったせいもあるのでしょうか。

 誘いに思い立って出かけたのは、奉幣殿裏の坂を下った所にある修験道館に行ってみたい思いがあってのことでした。俳句吟行の方たちと一緒の時は、句碑探訪が中心ですし、家族と一緒の時は修験道に関心のあろうはずもないので訪れる機会もありませんでした。

 訪れる人もなくひっそりとした前庭の(政所坊跡、昌千代姫の奧御殿庭園)には、神事に使用されるらしい稲藁が束にしてテントの中で乾燥されていました。
 館内には、陶製や木製の役の行者像、霊元法皇の院宣や勅額、四段積上式経筒(国指定重要文化財)、秀吉の朱印状、彦山神事絵巻といった珍しいものが展示されていました。
 かつて英彦山天狗よろしく、山伏達が駈けたであろう杉林の中を縫う石畳を辿りながら、あらためて明治の廃仏毀釈のもたらした文化革命の破壊の根の深さを思ったことです。

(明治元年の神仏分離令と、明治4年の修験宗禁止令の発布により千数百年に及んだ英彦山修験道の歴史は閉じられました。)

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英彦山神宮奉幣殿(彦山霊仙寺大講堂)と銅の鳥居クリックで。(いずれも修験道館のパンフレットより)


中央の割れ目が奉幣殿への参道、下の方に銅の鳥居が見えます。”つわものどもが夢の跡”


修験道館
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霊元法皇の院宣 これより英彦山と呼ばれる
英彦山神事絵巻 部分 神輿休め
四段積上式経筒
庭園に干された稲藁
腹を鋸引きされた仁王
杉木立の中の修験者の墓
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Sakuraの散歩道(2) Sakuraの散歩道(1)

10月の習作より

2008年10月27日 | 絵とやきもの
 方向の定まらない模索を続けています。今月の習作の中から、次の模索のための手がかりを残しての記録です。
 一枚目は最近発見した散歩コースの蓮池の蓮です。日に日に姿と色を変えて深まってゆく季節を教えてくれています。
 枯れ屈まり、首うなだれ、葉を水面に浸し、やがて水の中に消えてゆく姿に感じたものを留めました。

 西東三鬼の「枯蓮うごく時きてみなうごく」の世界です。今まで動かずに死んだような枯蓮が、わずかな風で揺れ動くのは、何か異様な恐れを感じます。
 一周が300mほどの池には小さな鯉の姿も見えます。中州に群生していた紫式部も大方は紫の粒を落としました。
 2枚目は「旬の吹き寄せ。」をイメージして。





仙さん

2008年10月25日 | 遊びと楽しみ


 さわやかな秋の風に誘われて、門司港までドライブです。目当ては出光美術館の“仙名品展―禅画にあそぶ―”です。
 
 自画像と題した洋梨風ののっぺらぼうの形に顔らしきものが少しだけ張り出した絵の画賛は「仙そちらむいてなにしやる」です。虎を描いて、「猫に似たもの」と書き込んでありました。
 出光では、仙和尚(註1)の命日の10月7日前後の約1ヶ月間は、毎年出光コレクションの基礎ともいうべき仙作品を何かの形で展観しています。今年の秋はここ門司港の出光での名品展です。この企画は、昨年の秋、東京の出光美術館で評判になった仙展を縮小して再構成したものです。

 地元の博多っ子が「仙さん」と親しみをこめて呼ぶ禅僧の自由奔放な書画には、思わず笑ってしまいます。
 厳選された仙作品は、数が少ない分、たっぷり拝見に時間を掛けることができます。
 かの「指月布袋」の意味する奥深い寓意を解説板から引用します。「布袋の指し示すものを見つけようとしても、何も見えない。禅の修行も同じ」つまり、指(経典)にとらわれていては、月(悟り)には至らない。といわれてみれば、おのずと、無邪気に子どもと月を楽しむ布袋と見た認識も異なってきます。
 坐禅蛙の画賛の、皮肉もなかなか辛辣です。ただ坐禅さえすればいいかのような修行のあり方へ痛烈な一撃です。蛙の蹲る姿は確かに坐禅を組む僧の姿に似ています。賛にいわく「坐禅して人か仏になるならば」
 いつまで経っても蛙のまま。蛙ならそのうち、ぽんと跳ねることもあろうに、上手く描こうと思ううちはまだまだと、私の作画を笑われた気がしました。

 達磨の絵には「直指人心 見性成仏 更問如何 南無阿弥陀仏」と至極真面目に記した横には「達磨忌や尻の根太が痛と御座る」と洒落ていますし、花見の賛は、「楽しみは花の下より鼻の下」と読めました。
 絶筆碑に「墨染めの袖の湊に筆棄てて書きにし愧をさらす白波」と記しながら依然として書き続けた人らしい処しかたです。
 何度目にしても笑ってしまうのが「老人六歌仙」です。鋭い目でとらえた老い姿なのですが不思議に、六人とも穏やかに微笑んでいます。(註2)

 ―禅画にあそぶ―真骨頂を楽しんで見ました。お蔭様でこの日ごろの肩のコリが少しほぐれる思いです。紅葉にはまだ早い関門海峡を見下ろす山上のレストランで遅めのお昼をいただいて、潮風を窓にいれながら、帰途は高速を使わずに走りました。仙さんの余韻でしょうか、私の運転へのお小言もありませんでした。

註1 仙(1750~1837)はわが国最古の禅寺、博多の聖福寺の123世の住職だった名僧で、晩年は数多くの「画無法」とよばれる禅画を描いた。

註2 老人六歌仙
1. 皺(しわ)がよる 黒子(ほくろ)ができる 
 腰曲がる 頭はげる ひげ白くなる
2. 手は震う 足はよろつく 歯は抜ける
  耳は聞こえず 目は疎(うと)くなる
3. 身に添うは 頭巾襟巻 杖眼鏡 
 たんぽ温石 尿瓶(しびん) 孫の手
4. 聞きたがる 死にともながる 淋しがる
  心は曲がる 欲深くなる
5. くどくなる 気短くなる 愚痴になる
  出しゃばりたがる 世話焼きたがる
6. またしても 同じ咄に 子を誉める
  達者自慢に 人は嫌がる

<堪忍柳>
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筆順

2008年10月23日 | ああ!日本語
 

 万事いい加減な性格から、私は文字の筆順も、余り頓着しないで書いていた部分が大きいのです。ただ、右はノを先に左は一からは、さすがに自分の名前の中に含まれているので幼い日に教えられて書き分けます。
 それでも、右も一から始めても不都合はないように思っています。ただし、右はノから書かないと一筆で続けることはできません。ほとんどの人がそうしていると思います。書道に関わってきた人なら、当然筆の運びの合理性から筆順を体得しておいででしょう。(秋きぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる 光悦書)

 この筆順ということで一番驚いたのが、「必」です。私は長年、心を書いてノを最後に入れて、それ以外にないと思っていました。ところが、ソに襷をかけて、最後に両脇に点を打つのが当世流だと知ったときです。
 同年配はまず大抵が私と同じ筆順です。連れ合いも同様でした。
 もともと、筆順は確固とした決まりがあるわけではなく、時代によって変わってきていますので目くじらを立てるほどのことではないのかもしれません。
 それでなくても、日本語を学習する外国人に「悪魔の文字」といわれる国語の表記です。この上、筆順などをあげつらうこともないと、自分に都合よく考えています。
 ただし、片仮名の書き順では、若い人のそれを見て驚くことばかりです。「メ」は、今は点が先で、ノが後というのが大勢のようです。「ヲ」をフの下に一を足している省エネの合理化にもびっくりしました。
 考えてみれば、平仮名の「め」は点が先です。女と言う漢字からきていて、片仮名の場合も同じ漢字からです。その始めは当然点が先だった筈で、メを点から書くのは原初に戻っただけのことかもしれません。筆順は絶対的なものではないのですから。昔は小学校1年では片仮名から教わりました。平仮名は2年生からでした。平仮名から入るので丸文字になるのだといった人もいました。

 もっとも今の時代、ワープロや、パソコンのワードが主流で、活字体の楷書の時代ですから、行書や草書を書くことはほとんどないので、昔のように筆順を知っていなくても、生活してゆく上で何の不自由もないわけです。
 筆順の必要性が極端に減っているのですが、片仮名は、どうも昔教わったのと違う書き方には違和感をぬぐえず居心地が悪いのです。

 かくて、私は流麗な仮名書きに変体仮名が交じる古文書は、全文を読みとれずに途中で投げ出して、ただ線の流れの美しさに見とれているばかりです。
関戸本古今和歌集を、古典文学全集の活字と見比べながらしか読むことができない情けなさをかこっています。

ふちはらのさたかたのあそん
あきならてあふことかたきを
みなへしあまのかはらにおひぬ
ものゆえ
きのつらゆき
たかあきにあらぬものゆえを
みなへしなそいろにいてて
またきうつろふ

関戸本古今和歌集より

泣き笑いして

2008年10月19日 | 歌びとたち
 昨日から仕事をしていて、口をついて出てくる歌があるのですが、それが誰の詩だったのか、途中の1節が思い出せず、繰り返してもそこで止まってしまうのでもどかしい思いをしていました。若い日に繰り返し歌っていた歌なのです。
 ほろ苦い思い出と共に浮かぶ青春の日の思い出の歌をネットで検索してみることに気づきました。
 たちどころに全容解明です。氷解を感謝する後から、過ぎ去った日々が丸裸で人目に晒されているような、何か不安で空恐ろしい思いがこみ上げてきました。
 検索の結果は歌の背景が、作詞者堀口大学の経歴のおまけつきで出てきました。 男声合唱のための曲だったのを知りました。朧になってゆく記憶のために、”泣き笑い”の足跡をとどめておくことにしました。  

秋のピエロ        堀口大学作詞 清水脩作曲
  
  泣き笑いしてわがピエロ
  泣き笑いしてわがピエロ
  秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり 歌うなり


  O(オー)の形の口をして
  Oの形の口をして
  秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり

  月のようなる白粉(おしろい)の
  顔が涙を流すなり

  身すぎ世すぎの是非もなく
  おどけたれどもわがピエロ ピエロ ピエロ

  月のようなる白粉の
  顔が涙を流すなり

  身すぎ世すぎの是非もなく
  おどけたれどもわがピエロ ピエロ ピエロ

  秋はしみじみ身に滲(し)みて
  秋はしみじみ身に滲みて
  真実(しんじつ)なみだを流すなり 流すなり
  真実なみだを流すなり

 若冲讃歌

2008年10月17日 | 絵とやきもの
 今までしばしば絵が小さい、線が弱いと指摘されてきました。
 どうしても画面の中でなんとか纏めようとする生真面目が働いて、自分でも自覚している欠点です。何とか抜け出したくて色々と試みてきましたが、常識へのとらわれで思いが形になりません。そこで好きな琳派の先人に学ぶことを思いつきました。

 雪佳へ行き着くはずの道の途中で、今は若冲の癖の強い装飾性にとりつかれています。

 抱一の作品の持つ気品は、生まれながらの氏育ちのなせる風雅と、仰ぎ見るだけですが、若冲のほうは癖があるだけに取り付きやすいと思ったのです。それに、わたしの好きな虫食いの誇張や、尾を振りたてる鶏の群像は、真似ていても面白いのです。似て非なるものになっても、とにかく形になります。
 友人達に「ケバイ!」とか、狂気とか言われながらも、今までのこじんまりと“美しく”?まとめようとする小技から抜け出るための一つの試みと、ひそかに自分では納得しての模索を続けています。時々口直しに描く花や、野菜が少しだけ変化してきているのを一人で喜んでいます。
 これでもかとばかりに極端な習作を続けています。
 幾分控え目の2枚を、いささか気がひけますが記録のためとどめておくことにしました。






「源氏物語の色」

2008年10月15日 | みやびの世界
 源氏物語千年紀の今年は、各地でさまざまな源氏物語に関しての催しが行なわれています。学ぶ機会にも恵まれているのですが、人ごみの中に出かけてゆくのが億劫になっています。
 今日は「源氏物語の色」創刊60号記念の別冊太陽で目の法悦にひたりました。(初版は1988年)
 登場する女君たちの衣擦れの音や、うすぐらい灯明のもと、着物に掛かる黒髪の流れが衣装を際立たせるといったイメージを重ねあわせて、重ね着のファッションが生み出す色の“あやかし”の世界に遊ぶのは、夜長の秋をすごす最高のときです。
 絵巻物と見比べながらの王朝世界への散策は私にとっての贅沢な充たされた時間でした。

 幾重にも襲ねる衣装は、そのうちなる人の情念を、重ねる衣で包みかくすためのものかもしれないと、宇治の浮舟の女君を想ったことでした。

 創刊60号記念のこの号では、十世紀に編纂された古代法典「延喜式」の染織に関する記述に拠る色の再現という気の遠くなるような作業が行なわれています。それは、伝統染織研究の第一人者である吉岡常雄氏によって植物から採集しての再現が丹念な手作業で行なわれていました。
 便覧などで見る色紙をずらして貼り合わせた襲の色目の説明とは異なり、織り上げた有職の布でそれを提示してあるので、疑問を持っていた“かさね“が視覚的にも理解できるありがたい企画でした。自然界の植物染料がかもしだす色を、伝統の手法で再現した色の余韻は、物語の世界にも反映して、その色を身に纏う登場人物像を豊かなものに膨らませてくれます。

 今宵は月も望月。お誂え向きの雲を伴って中天にかかっています。しばし王朝物語の世界にさすらい、琵琶の音が聞こえてくるような錯覚を喜んでいます。


上から順に
「櫻の唐の綺の御直衣、葡萄染エビゾメの下襲、裾いと長く引きて、・・・」花宴
光源氏20歳。桜襲(表白・裏紅)若い人が着る。綺は薄物の唐織。直衣は貴族の平常着

「曇りなく赤きに、山吹の花の細長は、かの西の対に奉れたまふを、・・」玉蔓
源氏が正月の晴れ着を玉蔓に贈る。山吹襲(表薄朽葉・裏黄)の細長と赤い袿

「袖の重なりながら長やかに出たりけるが、川霧に濡れて、御衣のくれないなるに、御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを・・・」東屋
薫が浮舟を車に乗せて宇治に連れてゆく場面。直衣袖がすだれから長く外へ出ている。霧にしっとり濡れて、直衣の花色(薄い藍色)が、下の袿ウチギの紅に重なって、二藍フタアイに見える。  画像および引用文は別冊太陽より

片見月の十三夜

2008年10月12日 | みやびの世界


 仲秋の明月は台風13号の接近で雨月となってしまい、待つ宵も十六夜も、雲に向っって月のありかを探っていました。
 昨晩の十三夜は、いかにも秋の月らしい明るく冴えた十三夜の月が澄んだ空高く天心に冴え、「貧しき町」を照らしていました。
 後の月のみの片見月となりましたが、栗ご飯と、庭の瓶一杯に投げ入れた薄がかろうじての風流です。
 折りしも出光美術館では「仙名品選」(門司)を開催中です。また指月布袋の飄逸に会いに行って、この世の憂さをひととき忘れるとしましょう。


金銀泥下絵和歌色紙 月図 光悦筆・宗達下絵 五島美術館蔵

秋は琳派

2008年10月10日 | みやびの世界


 総じて琳派が琳派らしさを際立たせるのは秋の風物を描く時のように思えます。 木の葉のもみじする姿の色の混じりあいは、“たらしこみ“の技法がもっとも活かされるところでしょう。素材としても哀歓を漂わせる草花の多い季節で、月の色もどの季節にも増して風情を表現できるとなれば、王朝物語の世界への回帰も容易となります。
 琳派を代表する作品も春に劣らず秋のものが多いのも当然でしょう。


 虫食いの穴のあいた葉に、寂びの美しさを感じることができる美意識は日本独特のものかと思います。中国の草花を描いた画譜にあたっても、虫食いの病葉は滅多にお目にかかれません。(黄茎のように虫食いの穴の向うに色づいたうす紅の実を描いた人もいますが)
 わが琳派ではこの虫食いがアクセントになり景色になってリズムを生むのです。若冲などは積極的に強調さえしています。私の好きな切り口で、よく真似をしてみるのですが、必然ではなく行き当たりばったりに打つ私の虫食いの点は、汚れと識別しがたいものになってしまいます。よく見ると若冲のそれは、計算されつくした虫食い穴なのです。
 琳派との出会いは昭和47年(1972)、東京国立博物館が創立百年記念特別展「琳派」を開催した折です。手元に分厚い図録が残っています。表紙は琳派の金箔をなぞった一色に、墨で琳派とだけ記されています。初めて目にする「琳派」の呼称と解説を胸をときめかして繰り返し読んだ記憶があります。今とは違って、266ページの中に、カラーページは僅かに10枚ほどです。画家も、酒井抱一、鈴木其一までです。若冲や雪佳は含まれていません。この出会いを今に至るまで引きずっていることになります。
 洋の東西を問わず、デザイン性の強い作品に惹かれる私は、“悪女の深情け”と、口さがない酷評をされようとも、当分琳派から離れられそうにもありません。

 光琳よりも宗達が、そして若冲、雪佳が好みです。
 宗達の「蔦の細道」には現代に通用するモダンさがあります。(最初の画像、1双屏風の左隻)車のコマーシャルに使われる「風神雷神図」や、光琳の「紅白梅図」、「燕子花図」ほどは持て囃されていませんが好きな大作です。先だっての「対決 巨匠達の日本美術」の終わりの週に、光琳の「白楽天屏風」と合わせて対決されていたようです。
 折りしも、東京国立博物館では7日から「大琳派展~継承と変奏」と題した展覧会が始まっています。(会期は11月16日まで)出かけたいのですが、どうなりますか。



註 琳派とは  上記の東博図録より抜粋

 「琳派」というのは光琳の「琳」をとって名づけられた呼称である。流派名は創始者に因み名づけられるのが一般だが、桃山末期の光悦・宗達に始まり、江戸中期の光琳・乾山を経て末期の抱一に至る系譜の中間に位置する光琳をして代表させたことは異例に属する。光琳画にみられる極めて個性的な表現のうちにこの派の様式上の特色が顕著に認められるためである。
 光悦・宗達から光琳まで約百年、さらに抱一までは百年の時が流れている。隔世の師を求めながら流派的潮流を形成している。
 最近では、最も日本的なるがゆえに広く海外においても評価が高まっていることは、琳派の芸術性が民族的美意識と深い結びつきがあるためと見てよいであろう。 芸術創作の態度においても一つの画派としての域を超えて自由かつ積極的であった。師風に拘束される狩野、土佐派などの御用絵師の世界とも、また中国画に範をとる文人画の立場や時世粧の風俗画とも異なり、古典の伝統を踏まえながら彼らの生活環境にふさわしい多彩な創作活動を展開した。
 戦乱の癒えた桃山以降、都市生活者である上層町衆の高尚な趣味生活を通じての発想が純度の高い装飾的な芸術様式として実を結んだのが琳派の芸術である。