「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

母を送る

2006年01月27日 | 塵界茫々
 行年103歳、明治36年生まれで、4代の御世の激動の1世紀を生き抜いた母が彼岸へ静かに旅立ちました。
 まだ、ぼんやりとして、気持ちの整理がつかず、喪失の実感も、通夜から葬儀へと慌しくながれる時間の中で、さほど切実に感じることがありません。

 棺へ納める思い出の品に添えてしたためた、孫に当たる娘の手紙を、引用します。

 おばあちゃん、長い間ありがとう。
 お疲れ様でした。
 大事なこと、たくさんおばあちゃんに教わりました。きびしく言われたこともたくさんあったけど、今、とてもありがたく思っています。私の子供たちにも伝えています。

 私にとっては、母のようにいつもそばにいて、やさしくしてもらって・・・・
雨が降ると、いつも学校まで傘を持ってきてくれるのは、おばあちゃんでした。
 ありがとうばかりです。

 美味しいお料理も、気がついてみると同じ味です。みんな、けっこう、美味しいと言ってくれますよ。

 おばあちゃんの人生ってどうだったのかな、とか思ったりもするけど、私はおばあちゃんの孫で幸せでした。
 ほんとに、ありがとう。

 たくさんやさしくしてもらって、可愛がってもらったのに、遠くに嫁いでしまって、ごめんね。
 いつか送ってもらった二人で写っている古い写真、台所のいつも見える所に貼ってあります。
 
 ずっと 忘れないから。   ありがとう。       (原文のまま)  

 本人は、祖母への想いを、公開のつもりは全くなく、棺に入れるために、通夜の夜中にしたためたものだからと固辞しましたが、コピーを渡す司会の方からの、たっての希望で、名前を公表しないのでと、他の孫たちからのメッセージとともに、しみじみとした口調で読み上げられました。

 書いた者の飾りのない率直な気持ちが、会葬の縁戚のものの共感をよび、弔辞もない葬儀のよい「はなむけ」になったようです。

 私には書けない気持ちのよい文章だと思い、あとで叱られることを承知で勝手に引用しました。

水鳥

2006年01月20日 | 歌びとたち
 母の入院する病院の裏手には、かつては暴れ川として、大雨の折には災厄を齎すことで知られた川が流れています。今はすっかり改修され、高い護岸工事が施され、安全と引き換えに殺風景な流れに変貌を遂げてしまいました。

 その殺風景も、地域の人々によって植樹された桜の並木が大きく育ち、根元に植えられるチューリップや、コスモスが季節を彩って、ウォーキングや散策する人の目を楽しませています。

 この季節は、冬鳥たちが悠然と流れに浮かんでいます。水鳥に押されてもりあがる水のきらめきに目を放っているうち、自然に今は亡き柴田白葉女さんの句が浮かびました。そういえば水鳥は、冬の季語でした。
  水鳥のしづかに己が身を流す 
 冬の水面をしずかに進む水鳥の悠揚迫らざる姿に、自らを重ねて眺める作者自身の姿ともみえてきます。
 冬の寂寥と自愛の情を漂わせた秀句と思います。今日は孤独なアオサギのお洒落な立ち姿もみられました。

 




描き初め

2006年01月18日 | 絵とやきもの
 今年最初の会合に、道具なしで参加しました。
 午後は、妹との病院の付き添いの交替がありましたので、途中で中座することを前もってお断りしての参加でした。

 寒さの厳しかったお正月のことで、みなさんもあまり作品の提出がなく、歓談に花が咲いていたようです。
 それでも、海老や水仙を描いて一月の例会らしくなっていました。今回は皆さんの作品です。
 蓮根と、縁起物の鯰は、私の昨年のものです。













茶化す

2006年01月14日 | ああ!日本語
 中国から伝来したお茶を、「茶道」にまで高めて日本文化を代表する風雅なものにした先人たちは、お茶に深い尊敬の念を持っていたのは確かでしょう。
 榮西禅師は、持ち帰ったお茶を、したためた「喫茶養生記」と共に源実朝に送っているのですから、明らかに一種の漢方薬の扱いです。

 ところが、この「茶」という言葉、あまりいい意味に用いられることはないように思います。
「茶化す」「茶目っ気」はともかく、「無茶苦茶」「茶番」をはじめ、「茶坊主」「お茶をひく」など、どうも冗談、ふざけの用法や、嫌われる場面での登場が多いようです。

 「お茶にしましょう」というのは、休憩して一服するの意味でも使われますから、お茶を飲むことで緊張をほぐして、冗談を楽しむというところから転じたものでしょうか。
 あるいは、厳しい約束事を持つ「お茶」の風雅の道は、庶民のなじむところでも、手の届く世界でもない、その『お上品』な世界を、「下品」な庶民が反撥,あるいは反感をこめて、ふざけた意味に用いだしたのかもしれないと考えられないでしょうか。

 元来、言葉はいつも「堕落」することで、つまり、「茶化す」ことで変化させられて育ってきました。「悪貨は良貨を駆逐する」で、上品な言葉は常に引きずり落とされるのがその宿命のようなものです。「貴様」も「お前」も価値を引き下げられたかっての敬語だったはずです。

「お茶を濁す」ように言葉も濁されてゆくこの情報社会にあって、言葉は実体を失って、イメージを膨らませる記号、乃至は、目新しさだけで使われるおおかたのカタカナ語を思うとき、その変質の速度のあまりの速やかさに「茶化す」などと暢気なことを言って「お茶を濁し」ておれない気がしています。

器用貧乏

2006年01月07日 | 塵界茫々
 

 昔から聞く言葉に「器用貧乏」というのがあります。貧乏だから器用になるのか、器用だから貧乏になるのか、両方考えられます。
 
 辞書には「何事についても一応はじょうずにできるため、かえって一つのことに集中できずに終わること。」とあります。吾が身に照らして「上手に」を除いて、納得できる当を得た説明です。

 それもこれも、ナイナイづくしの時代に育って、なによりも発想の貧困が土台になっています。手当たり次第に、それまでの飢餓状態を埋めるべく読み漁った書物。世の中が、習い事が出来る状況になると、真っ先に油絵、次が謡曲、これは仕舞、囃子へと拡がり、木彫、様々な手芸も同時進行、琴は尺八との合奏のため、それと乗馬、この二つは連れ合いの影響からと際限もなく、興味と関心が次から次へと移り変わりました。
 
 生来、欲深で、何事につけても自分でやってみなければ納まらないのです。時には自分でも呆れるほどの手の拡げようで、その軽薄を反省することもありました。
 何事についても、ある程度習得すると、興味の対象はすでに次なるものに移っています。その上、思いつくと直ぐ実行というせっかちな質ですし、もとより貧乏性ときています。気概をもって取り組みたいと、頭の中では常々考えているのですが、一つのことに徹しきれないでは、大成のあるはずもなく、いつもそこそこの中途半端で終わってきました。

 自分では「この道一筋」の人の持つ、奥深い凛とした筋の通しように、こよなく憧れるのですが、持って生まれた本性は矯正のしようもなく、それからそれへと展開していきました。

 よくしたもので、年を重ねるということは、もはや体が気持ちのように動いてはくれなくなり、針の耳が糸を受け付けなくなると、連れて根気も無くなっては、自然消滅するものが次から次です。
 膝を痛めて、正座ができなくなれば、人と合わせる囃子とも縁が遠くなりました。
 短期で決まりのつく墨彩画と、謡、リハビリ代わりの水泳だけが残ったものです。が、この水泳も車の運転ができなくなれば、プールに通うことも困難になります。「あはれ」の物語です。
 
 代わって新たに登場したのが、パソコンとの巡り会いです。3年の月日が速やかに過ぎ去り、この頑固で、頭脳明晰な愛すべき「つわもの」に、楽しく振り回されています。
 
 マイナス思考に縁のない私は、この今までの道草が、ささやかな暮らしを自分なりに味のあるものにしていると思うことにしています。
 
 芭蕉翁も死を前にしてなお「かけめぐる夢」を抱えていました。次元に雲泥の差があるとはいえ、私も器用貧乏を今しばらく楽しむことにしました。
 

源氏物語絵巻の修復

2006年01月07日 | 絵とやきもの

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 テレビのお正月番組で、偶然、源氏物語絵巻の修復が、19切、全て完成したと報じているのを目にしました。

 名古屋の徳川美術館の分と、最後に東京の五島美術館の分四図。1999年から始まった、現代科学の技術を駆使した精密調査に基づいての、日本画家による復元作業が紹介されていました。

 東京オリンピックの折、馬術競技を見るためと、併せて日本を代表する品々が展示された東京博物館の見学を兼ねて上京しました。そのとき、上野毛の五島美術館を予定に組んだのは、ひとえにこの源氏物語絵巻に会いたいためでした。
 閑静な住宅街の中、美術館とは思えない佇まいの、奥深いこじんまりした建物の中で、静かに観賞できました。

 今回の調査と復元作業のなかで、「鈴虫」の、従来、女三の宮とされてきた女性像が、どうやら三の宮に仕える女房らしいと判断されたようです。(髪が長い、装束の色、裳をつけている等、画像の左、柱の影の女性)
 源氏に贈られた鈴虫の音に耳を傾けるうつむいた女房と、後姿の尼姿の女房の身を起こした姿、これらの意味する、俗世にあるものと、出家したものの、象徴的な人物の心理、それは中心をなす女三の宮をわざと描かず、源氏もその一部のみといった伝統的な、高度に洗練された手法と受け止めました。

 最近発見された、歌麿の肉筆画とされる(朝日新聞1月四日)「月見」も、月を描くことなく、端近に活けられた秋草と、顔を上げた母子の視線で月の存在を暗示する表現手法の洗練と同質のものでしょう。
「御法」の紫の上の死の場面を描いた図も、大きく風にたわむ萩に源氏の心情を託しています。平安時代の画家たちの、高度な洗練された感覚に学ぶところが多いようです。

 今日は七草、春の気配は遠い今年ですが、それでも庭の若菜を摘んで刻みました。





青という色

2006年01月05日 | ああ!日本語
 戌年の今年、年賀状に青い犬を描きました。馬なら「あお」は聞くのだけれど、青い犬とは何か意味が?というお尋ねが二、三ありました。
 中国では青はおめでたい春を意味する色だからという、単純極まりない私の好みの色を択んだだけのことでした。

 以下は、お尋ねをうけてのいわばこじつけです。
 古くから明治初年まで続いたとされる、宮中行事の1月7日の「青馬の節会」は、年の初めに青馬を見ると一年の邪気を除くとされ、大伴家持も「水鳥の鴨の羽色」(4494)と詠んでいますから、古くは辞書のいうように青馬は青みを帯びた黒だったと思います。いわゆる「あおこま」でしょう。

 日本人好みの白い馬が用いられるようになっても、「白馬節会」と表記して「あおうまのせちえ」と読んでいます。別に「黒を白という」のではありませんし、黒白をつける気など毛頭ありませんが。
 
 ところで、日本固有の色の基本は、赤、黒、白、そして青の四つとされています。形容詞に転じることのできるのもこの四色です。これは現代語でも同様で、赤い夕日、黒い墨、白い雲、青い空、とはいえますが、緑い草はありません。他の色をいうときには、色という語を足しています。
 そして、厄介なことに、青という色の持つ古くからの融通無碍の幅の広さです。今でも、芝生の形容に「あおあお」という表現が使われます。どうやら、赤、黒、白以外の色を漠然と呼ぶのに使われた節さえあります。

 海外で暮らしていた折、信号の色を「青」といって、「緑」だと訂正された思い出があります。山藍で染めた色は濃い緑だったはずで、例の「青は藍より出でて藍より青し」の発酵させた藍染の青とは違っていたと思います。
 あの清少納言さんが好んだ「蔵人の青」の袍は、本当はどんな色だったのでしょう。

お年賀

2006年01月01日 | 絵とやきもの


あけましておめでとうございます。
2006年の元旦はおだやかな光につつまれて明けました。

 迷走を続けるブログですが、今年もよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。

 年賀状2枚、お好みのほうをお受け取りくださいませ。

    2006年1月1日