「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

椿谷哀愁

2008年03月31日 | 塵界茫々

 先週から、古い2階建てのアパートの取り壊し作業が始まっているのは気づいていました。
 彼岸のお寺参りから帰宅して、裏城戸から入ろうとして、足が止まりました。見晴らしが変わって、今まで見えなかった谷の向うの家々の全景が、あからさまに目に入ってきました。一瞬目を疑いました。思いもかけなかった出来事で、桜が全部伐り倒されて、影も形も見当たらないのです。

 谷の縁に沿って、いつごろの人が植えたものか、等間隔に並んでいた二抱えもある櫻の古木が伐り倒されて、もうその姿さえもないのです。この櫻はJRの列車の中からも目印になるほどで、花見にやってくる人もありました。
 裏の傾斜地の大きな櫻も咲きはじめており、この木の足許を埋め尽くす借景の櫻が、うすくれないに煙る眺めも間もなくと、楽しみにしていました。
 お風呂に入ってこれを眺める贅沢は、何物にも換えがたいものと、花盛りの時期には朝からのお風呂が習慣でした。
 人様の地所のことで文句をつける筋合いではないのですが、せめて最後の春を、花を咲かせて見届けてやりたかったと、よしない嘆きを繰り返しています。

 これ以上の変化はないように願っていますが、ブルトーザーの動きが呪わしいことです。工事の人が帰った後、谷に下りて、未練がましく遠くから切り株を写真に収めました。椿はまだ健在です。私たちがこの地を去らない限りは。
 それでも、周辺の変化は止めるすべもなく、やがて景観もみすぼらしものに変貌するのかもしれません。
 心なしか今日の弥生尽は、いつもにまして哀愁にとらわれています。

色も香もうしろ姿や弥生尽   蕪村

<<>
<椿谷の藪椿>

花にまつわる言葉

2008年03月28日 | ああ!日本語

  今年も櫻の開花宣言が出ました。九州の花の名どころは、すべて開花のようです。日本人ほど桜の花が咲き、散ることに関心を寄せる民族は、他にないのではないかと思います。
 平安朝の昔から数知れぬ和歌に、咲くを待ち、散るを惜しむ歌が詠い続けられてきました。
 したがって、花にまつわる言葉もゆかしい言葉が数多く紡ぎだされています。

 古典における「花」は、特に櫻の花の代名詞として使われたと教わりました。古今集や後撰集では、梅の花を指すこともありますが、時代が下るにつれて花といえばもっぱら櫻を指すようになります。
「花の兄」は、多くの花に先駆けて咲く梅、「花の弟」は遅れて咲く秋の菊。「立てば芍薬、・・・」と花にたとえられる女性ですが、なぜか花の姉、妹はいないようです。  

 花の雲、花の雪、花の笠、花筏、花の浮橋、花の笑みと際限もなくみやびな比喩を生み、花衣 花の雫も多くの歌や伝説を誘い出しました。
 さくらがり雨は降りきぬおなじくは濡るとも花の蔭にかくれむ   よみびと知らず
 “どうせ濡れるなら花の雫に“という風雅の心意気です。説話では実方の歌とされて、行成との確執になった歌とされています。
 また、同じ争いでも、花合せや、花軍(はないくさ)で、花の優劣を競う優雅な遊びもありました。
「花ごころ」は、今は陽気な、花を咲かせようとする華やいだ気持ちで用いることが多いようですが、古くはやがて散ってしまう移ろい易い心という意味で使われていました。
 「花心におはする宮なれば」源氏・宿木



 鎌倉時代には、しばしば「花の下(もと)連歌」が行われています。
 櫻色に空さへとづる梢かな
  花に洩りくる鶯の声    無生法師
 花鎮めの祭りは花の散るころ、「のどかなる春の祭りの花しづめ風おさまれと猶祈るらし」二条良基

 この季節は、徒然草にいうように、「青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます」もの。しばらくは、花に引き回されて、「世の中に絶えて櫻のなかりせば」と、のどかに過ごしがたい落ち着かぬ日が続きます。

茶人 如春庵

2008年03月25日 | みやびの世界
  お彼岸参りに出かけた弟のところで、名古屋の知人から贈られたという図録を見せられました。「茶人のまなざし 森川如春庵の世界」と題した300ページ大判の分厚い図録です。
 名古屋市博物館が、開館30周年を迎えて、記念事業としての特別展です。

 茶道の世界には遠いので、この中京地区を代表する茶人、如春庵を私は知りませんでした。

 図録を借りて帰って、ページを繰るうちに、世の中にはこんな人もいるのかと驚きの連続でした。(上の画像はバーナード・リーチ筆の如春庵像)




黒樂茶碗 銘「時雨」重要文化財 本阿弥光悦作 17世紀



赤樂茶碗 銘「乙御前」本阿弥光悦作 17世紀


 まず、この本阿弥光悦の黒樂「時雨」と、赤樂「乙御前」の所持者だったことです。しかも、この天下の名碗「時雨」を招かれた茶会で拝見し、養父にねだって手に入れたのが、16歳のときと言うのです。その3年後には、鈍翁が「たまらぬものなり」と箱裏に記した愛らしい限りの「乙御前」をも入手しているのです。恐ろしいまでの目の持ち主です。
 さらには、益田鈍翁(註1)に出会ってから、40歳近くの年の差がありながら、茶の湯を介しての忌憚のない親交は、鈍翁の他界(昭和13年の)直前まで続いています。
 この鈍翁の推挙で「佐竹本三十六人歌仙絵巻」切断の折の審議委員を務め、鈍翁はじめ名だたる数寄者に混じって抽選に応募して、執念の一番籤を引き当てる強運にも恵まれています。
 このころ、「紫式部日記絵詞」一巻も発見し、今では切断されたそれぞれが国宝や、重文指定を受けています。そのほかにも「元暦校本万葉集切」「狭衣物語断簡」と数々の蒐集品が出ています。


紫式部日記絵詞断簡 第2段


 茶人としての道具の蒐集は如春庵の蒐集の中で最大のもので、光悦の「蓮下絵百人一首和歌巻断簡」はじめ、光悦の短冊など。桃山時代の黄瀬戸、織部,青磁花入(南宋時代)茶入、茶杓(註2)茶釜と網羅しており、この道の人にはまさに垂涎の展覧会と思われます。


 驚きはこれら優れた蒐集品にとどまりません。古書の鑑識が一流であっただけでなく、数寄者の多くがそうであるように、如春庵も、書画、和歌俳句。作陶を手がけていますが、どれもがそれを専門とする人に引けを取らない作なのです。特に光悦の「時雨」の写しは優れたものがあり、作陶には熱心だったようです。

 昭和42年、80歳を迎えて、如春庵は、蒐集品の88件を、翌年には100件を追加して名古屋市に寄贈しました。その保管場所を名古屋城に指定しています。
 平成18年、幻の森川コレクションと呼ばれていた蒐集品は、一括名古屋市博物館に移されました。
 今回の展覧会は、このコレクションを中心に、「茶人であり、古美術品蒐集家でもあった如春庵がかつては所持し、今は他所にあってそれぞれ高い評価を得ている茶道具・美術品を一堂に会し、森川如春庵の人とその蒐集の精華を再考しようとするもの」と記されているとおり、みごとな集大成がなされていました。


志野茶碗 銘「大海老」森川如春庵作

黒樂茶碗 銘「初時雨」森川如春庵作



 記事は名古屋市博物館の図録に基づくものです。
註1、三井財閥の根幹を築いた実業家で、旧三井物産初代社長。近代を代表する茶人の一人。多くの古美術品を蒐集。
註2、古田織部の手製の茶杓。共筒。写真を参照ください。
註3、展覧会会期
   名古屋展 4月13日まで。  会場 名古屋市博物館
   東京展  10月4日から11月30日 会場 三井記念美術館


春の月

2008年03月22日 | 絵とやきもの
 今宵は十五夜です。車で15分ほど走った住宅街の中にある行きつけのお食事どころで、創作料理の夕食を味わいました。
 東京から娘が仕事に一区切りがついたからと半年振りに帰省しています。

 今日は朝7時、庭の、ゴルフの打ちっぱなしのネットを取り外した跡に、2週間がかりで掘った、小さな穴窯の火入れを行いました。作家の方がするのを真似て、お神酒をお供えし、塩を撒いて窯の安全をお祈りをしての、火入れ式です。
 テスト運転なので、試作の作品を数点入れて、並んで拍手を打って、火入れです。
 一日中、薪を焚き、夕刻6時に火を止めました。このまま徐冷を待つので、火入れのお祝いを兼ねて三人での夕食会です。

 ノン・アルコールのジンジャエール・アルコールの私に気兼ねしてか、二人とも、もっぱら料理に集中して、酒量は少しだけでした。
 8時過ぎ、空に掛かった月が、黄色みを増し、雲は見えないものの、にじみを持って朧の感じがするのを、春の月独特のものと、めでながら帰ってきました。


日田二日目 おおやま梅林

2008年03月19日 | 旅の足あと
 日田の宿の朝、有名な「日田の底霧」と民謡に歌われる朝霧が、盆地の底に立ち篭め、露天風呂からの景観を楽しみました。

 この日はロビーで見かけた「おおやま梅林」のポスターの"梅2000本"の誘いに乗って、阿蘇小国方向に車で20分ほどの山中の梅林に出かけました。梅祭りが昨日で終わったばかりで、人影もなく、夫の言を借りると「桃源郷」を思わせるのどかな風景でした。
 大分の梅の名所で、紀州の梅に劣らないと土地の人は胸を張ります。夫は4年目という苗木を、収穫は誰がするのと、私に笑われながら買っていました。

 日田市外に引き返し、お目当ての「いたや本家」のうなぎの昼食です。せいろ蒸しの好きな食材を,ご飯を残しはしたものの、7分どおりの量を食べられることに感慨がありました。

 帰途は、耶馬渓を経由して山国川沿いに中津に抜けて、北九州都市高速というコースでした。

<<>
<大山梅林の見渡す限りの梅>


   画像はマウスONで替わります。

天領 日田散策

2008年03月18日 | 旅の足あと
 何度も訪れている日田ですが、かつて天領の地だった落ち着いた雰囲気が、夫のお気に入りです。手術から一年半の検診でも、異常がなく、回復も順調だったので、お祝いにどこか近くで温泉にでも、と誘いました。選んだのが日田でした。
 一瞬、3月末までは雛祭りで、豆田町を中心に人出が多いのではと思いましたが、別の方向を歩けばいいと思い直して宿を三隅川べりの亀山亭に取りました。

 今回は民陶の里として知られる小石原の山越えで、夜明けダムに出るコースをとりました。
 途中、この地で唯一穴窯で焼成している今鼓窯の梶原梁山を訪ね、穴窯を見せてもらい、話がはずんでいました。記念にと茶碗を一碗選んで箱に入れていただきました。 
 快晴に恵まれて心地よいドライブでした。
 豆田は、予想通りの賑わいでした。広瀬淡窓(宗家6世)を生んだ広瀬家がそのまま資料館になっている一所だけに絞って、ゆっくり見學しました。
 広瀬家は御用達商人で、掛屋(天領からあがる年貢米や物産を取り扱うところ)を営み、近隣各地の物産を日田に集め、中津から船荷で上方へ運び、戻り荷を各地に販売して、経済的繁栄を築きました。九州諸藩にも、求めに応じては貸付(日田金)をしていました。

 1号館には、江戸期の雛人形が展示されていました。享保雛、天保雛と奥ゆかしげな面輪を見せる人形たちが並んでいました。2号館は、土蔵の1階と2階を使って、歴代使用されてきた商用の道具類や、資料、茶道具類、特に樂家との親交から、富士山の茶碗や、黒樂、赤樂と並んでいました。香道の諸道具、化粧道具と多彩です。3号館は門脇の小さな建物で、受付と書物など、少量のものを置いた売店になっていました。ここの奥に一対だけ飾られている享保の内裏雛が今回もポスターに使われています。
 何度訪れても日田では何か新しい出会いがあります。

 三隅川が三つに分かれる亀山公園のすぐ傍の川畔が日田温泉街です。この地区も豆田と並んで古い町ですが、町並みの保存はありません。旧家の雛飾りもあるのですが、雛飾りを目指して訪れる人は少ないようです。宿の亀山亭でも特別に雛の部屋が設けられており、ここでは、段飾りのほかに、小さな「おきあげ雛」の手の込んだものがありました。
 おきあげは、人形を買えない庶民のための雛飾りに使われたものと聞いています。今も羽子板の装飾に使われています。

 川に舫う鵜飼舟を眺めながら、川風が心地よいのを感じる露天風呂にゆっくり浸かり、食べきれないほどの料理の贅沢でした。

  
享保雛
時計は江戸時代末期 香港製


縦2cmほどの小さな雛道具の百人一首。

沈丁花

2008年03月13日 | 季節のうつろい


 雨露を”花の父母”とはよくいったもので、雨が上がり、気温も上がってくると、一斉の下萌えです。
 お彼岸も近いので、草取りをしていて、憶えある強い香りがあたりに漂うのに気がつきました。
 沈丁花です。我が家のは白丁花です。この花は、お茶席では禁花として用いないと聞いていますが、さもありなんと思う主張のある芳香で、茶室に焚かれる用意のお香が台無しになるからでしょう。

 原産地の中国からは比較的遅く渡来し、室町時代に「尺素往来」1490年に“沈丁華“として記載されたのが最初だそうで、道理で古今集にも新古今集にも登場しないはずです。
 漢名は「瑞香」。輪丁花とも呼ばれるそうです。瑞というからには、めでたい香、春の訪れを告げる香と捉えたのでしょう。(一説には沈香と丁子の香を併せ持つところからの命名ともいわれています。)

 宋の時代の画家たちに、「名花十二客」や、「名花十友」にそれぞれ取り上げられて、南画に、そして日本画でもよく描かれる画題です。
 これらはそれぞれの客や、友を当時の人に持てはやされていた美しい花になぞらえたもので、重なっている花が多いのも、特に愛されていた花々であることが分かります。
 (沈丁花は十二客では「佳客」良い客という意味。十友では、「殊友」とされて特別に愛されています)

  沈丁の葉ごもる花も濡れし雨  秋櫻子
  
  庭石に花こぼしをり沈丁花   風生
 

 学名のDaphne odoraのほうは、ギリシャ神話に登場する森の妖精、ダフネのお話です。
 太陽神アポロンがダフネに恋をして追っかけまわすので、逃げ惑うダフネをゼウスが沈丁花に変身させたということになっています。
 こちらのほうがロマンがありますか。



椿

2008年03月11日 | 絵とやきもの
 椿谷は藪椿が咲きそろい賑やかです。この時期にはどうしても椿を描いてみたくなります。

 熊谷守一の画集を繰り返し眺めては、イメージをなぞってみました。
 守一にとって椿はしばしば描かれた重要なモチーフでした。肉厚の花弁の椿を青空を背景に描いています。
 真似てみて、やはり、到底取り入れは叶わぬことと納得しました。赤い輪郭線で、せめて自分なりの”もどき椿”です。

 諦めは早くて、そこで季節に一足お先に、守一の「さくら」を掛けてみました。もちろんリトで、板に描かれた油絵ではありませんが、楽しむには充分です。
 櫻の花びらを示すピンクと「うそ」の鳥が描かれています。

 下の絵は自分で勝手に「つらつら椿」と名づけてみました。





義経千本櫻

2008年03月08日 | みやびの世界


 昨年の文化庁後援の巡回公演の文楽、「曽根崎心中」に続いて、今年は「義経千本櫻」の四段目”道行初音の旅”が上演されました。この演目中、最も華麗な舞台で、昨年から期待していました。

 兄頼朝に追われて吉野に身を隠した義経、その愛妾静御前が、忠臣佐藤忠信(実は源九郎狐)に伴われて吉野への道行きです。
 (上の写真は手もとの古いパンフレットからお借りしたものです。今回の舞台はもっと奥行きを感じさせる華やかなものでした。)

 幕が上がると紅白の段幕が掛かっていて、、「恋と忠義はいづれが重い」の置浄瑠璃ではじまり、「大和路さして」で段幕を振り落とすと静御前が中央に、満開の桜を背景にして旅装束で立っています。
 興にのって踊る静の打つ鼓に白狐が現れ、鼓の音に聞き入ります。(人形遣いの衣装は白地に赤の火焔)
 さらに「遅ればせなる忠信が旅姿」の短い語りの間に狐を忠信に持ち替え、さらには裃も静の人形遣いと対の色に引き抜かれます。

 静が義経の来し方を語る振りから、二上がりの「雁と燕はどちらが可愛い」の踊り地の見せ場になり、二人が同じ振りで踊ります。

 全体に戦物語らしく、きっぱりと語られ、「源氏の強者」の棒足の型では諸肌を脱いで赤地に白の源氏車の襦袢になってみせます。継信の働きを語るところで、上手に行った静が、矢に見立てた扇を後ろ向きの姿で投げ、下手の忠信がそれを受け止めるところでは、大きな拍手がおこりました。
 千本桜は、歌舞伎が役者を中心に展開するのと異なり、文楽では、当然とはいえ、戯曲本位で、物語中心で上演されます。語りの言葉のあやを、床本で確認してみるのも嬉しい早業です。

 舞踊劇の中に数々の趣向がちりばめられて、派手な見せ場があり文楽の醍醐味を示す演目でした。

 東京歌舞伎座で、市川猿之助の演ずる狐忠信が、ふさふさの長い毛の白い”毛縫い”での宙乗りに驚いた記憶があります。文楽では写実的な狐人形が使われ、狐忠信も人形なればこその動きです。
 この義経千本櫻は、歌舞伎でも「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」と並んで三大時代物の一つになっていますが、書き下ろされたのは人形浄瑠璃のためでした。初演は延享4年(1747)大阪竹本座です。翌年には歌舞伎に取り入れられました。


一勇斎国芳画 嘉永元年三月市村座





梅に鶯

2008年03月06日 | 季節のうつろい

 ここ三日ほど、ぐずついた雨の日が続いたので、早咲きの株は半ば落花の雪で、枝もみすぼらしくなってしまいましたが、遅いほうの梅はただいま満開で、盛りの春を謳歌して鶯を誘っています。

 やってくる鶯のほうは、家あるじに似て、学習の効果が一向にあがらず、囀りはまだまだですが、いかにも似つかわしい取り合わせです。古くからの画題ですが、あまりに納まりがよすぎて陳腐になってしまいます。
 もっとも、「猫でない証拠に竹を描いておき」の川柳のように、私の描く梅の絵の役には立ってはくれるのでしょうが。

  鶯の笠に縫ふてふ梅の花折りてかざさむ老かくるやと 東三条左大臣

  散るとみてあるべきものを梅の花うたてにほひの袖にとまれる 素性法師
<