「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

金印の島 三

2009年03月11日 | 旅の足あと
 休暇村周辺の史跡の一つに白水郎荒雄(アマアラヲ)の万葉歌碑があります。
老いた友人の代わりに対馬の防人達に食糧を運ぶ舟を出し、嵐にあって遭難し海底に消えた海人です。山上憶良をはじめ万葉集巻16には10首の歌が残されています。
 荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出でたち待てど来まさじ    山上憶良
 大船に小船引き副え潛くとも志賀の荒雄に潛き遭はめやも      山上憶良
 沖つ鳥鴨とふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ      志賀の白水郎


 文永の役(1274)と弘安の役(1281)の二度にわたる元の大軍の襲撃は、博多湾一帯が主戦場になりました。文永の役で、折からの台風の到来のため座礁して、この地で捕らえられ、処刑された蒙古兵の供養塔が蒙古塚です。

 万葉集から志賀島ゆかりの歌を抜粋します。小さな島に10基もの万葉歌碑が建てられています。

1号碑 ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神  志賀海神社
2号碑 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすがの山を見つつ偲ばむ   憶良
3号碑 志賀の白水郎の釣りし燭せるいさり火乃ほのかに妹を見無よしもか裳
4号碑 志賀の浦に漁りする海人明けくれば浦み漕ぐらしかぢの音きこゆ
5号碑 大船に小船引きそへかづくとも志賀の荒雄にかづきあはめやも
6号碑 志賀のあまの塩やく煙風をいたみ立ちは昇らず山にたなびく
7号碑 かしふ江にたづ鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちしくらし毛
8号碑 志賀の浦にいさりす海人家人の待ちこふらむに明しつる魚
9号碑 沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎民手漕ぎ来と聞えこぬかも
10号碑 志賀の海人は藻刈り塩焼きいとまなみ髪梳の小櫛取りも見なくに

 そのほかにも、大伴百代の「草枕旅行く君をうつくしみたぐひてぞ来し志賀の浜辺を」
 石川少郎の「志賀の海人のけぶりやきたてやく塩の辛き恋をもわれはするかも」などもあります。
詠み人知らずの多くの歌の中で名前の伝わる人たちです。
 今は見ることのない塩焼く煙も、防人達の望郷の悲しみも、すべてを飲み込んで、玄界灘の波が絶えることなく寄せては返しています。

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<荒雄の碑>



おまけの画像でお楽しみください。
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<河豚刺し>

画像は各5枚入っています。


金印の島 二、

2009年03月10日 | 旅の足あと
 九州国立博物館が開館した折、開館記念特別展で、人垣ができていた一つが、この志賀島で、発見された金印の展示でした。
 その折には、戦後、中国雲南省での発掘調査で、1世紀ごろの古墳から出土した金印も並べて展示されていましたが、「漢委奴国王」の金印とそっくりの姿形で、寸法も同じものでした。
 (金印の寸法  方形で、タテヨコ2,3㎝、(後漢初の1寸)印台の高さ平均0,887㎝。108,729g。つまみには蛇の彫り物)
 二千年の眠りから覚めたこの金印が、かつての綿津見三神を祭る志賀海神社に替わって、今では志賀島を歴史上有名にしています。

 金印発見に纏わる話は面白いので、知っていることを少し記します。
 掘り出したのは志賀島の百姓、甚兵衛さんということになっていますが、彼は土地の所有者で、実際は仙和尚が書き残しているように、秀治と喜平という小作人と思われます。(志賀島資料館)
 天明4年。田の溝の流れが悪いので手入れをしていて、大きな石にぶつかったので、二人がかりで掘り起こしたところ、その石が屋根になっていて、三方が石で囲ってあり、真ん中に光るものがあったのだそうです。
 何分にも当時のこと、「こまかのに重たかばい」ということで、持ちまわられる騒ぎとなり、黒田藩の藩校、甘棠館館長、亀井南冥が、後漢書に記載されている金印と気付くわけです。
 南冥先生がいなかったら、いまや国宝となった金印も、地金として鋳潰されて武具の飾りにでもなっていたかもしれません。

 ただし、これにはおまけがあって、南冥先生は、自分に譲ってくれといって、徐々に釣り上げ、百両まで出すとせり上げたため騒ぎが大きくなり、黒田藩に噂が聞こえ、甚兵衛さんに褒美をやって藩に納まったという経緯があります。

 この光武帝に朝貢した奴国のボスとはどのような人だったか想像はつぎつぎの夢を齎します。統一王朝もない弥生中期、海山を渡り越えて行ったのはこの地の海人、安曇族をを束ねた人でしょうか。
 博多は大陸文化に直結した文化圏だったことだけは確かです。

 金印公園のすぐ前に横たわる能古島には防人達の数々の望郷の歌が残されています。霞む中に也良崎の灯台も見えていました。穏やかな春の波が悠久の時を変わることなく寄せています。



金印の島

2009年03月09日 | 旅の足あと
 飛行機が福岡空港へ向けて着陸態勢に入るとき、大抵は志賀島の上空から下降してゆきます。
 博多湾を玄海灘の荒波から守るかのように伸びた海の中道の先端に、雫をたらしたように拡がっています。周囲12キロ余り、5,87平方キロの古代史跡の小島です。

 この志賀島にある国民休暇村に出かけました。気分がすぐれない私を誘っての気遣いで近場での行楽でした。
 もう一つの目的は今年最後の河豚を食べることにあったようです。ここのデラックスコースは、白子豆腐と、鍋にも白子が付いてくるのが特徴です。平成18年にリニューアルしたとはいえ、休暇村ですから、部屋食ではなく、レストランの中の奥まった別室で、椅子席です。雰囲気に欠ける分割安で助かります。
 鰭酒のお変わりをして、コース料理は十分の量で満足しました。

 露天風呂も新しく設けられていて、向かいの玄界島を眺めながらの掛け流しの源泉「金印の湯」は潮の味がしました。
 広い敷地内には昔からの場所に、外観だけは新しくなった資料館が建っていて、古民具や、金印出土に関わる資料を中心に、志賀島の史跡として志賀海神社、万葉の歌碑、元寇関係の資料が展示されています。
 休暇村の敷地内には、そのほかにも嵐の夜、対馬へ糧食を運ぶ途中、海底に沈んだこの島の海人荒雄の碑と荒雄を悼む歌碑(5号歌碑)が建っています。
 前回志賀島を訪れた時は地震の後、まだ先端のこのあたりまでは道の修復ができていなくて、蒙古塚のところから引き返しました。今は島を1週することが出来ます。
 志賀海神社大宝篋印塔も修復され、その偉容を見せていました。
 蒙古塚は倒壊のあと、山上から下に移されて、海岸線に沿って建てられていました。

画像 志賀島神社編
 
志賀海神社
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志賀海神社入り口 島の入り口に鎮座
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階段を上った境内 祭神は綿津見三神
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上代より「海神の総本社」「龍の都」と称せられた。
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玄界灘に向う遥拝所
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奉納された鹿の角の鹿角庫 1万本以上
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万葉歌碑 1号碑
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大宝篋印塔
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海蔵寺の馬頭観音

2009年02月18日 | 旅の足あと


 海蔵寺は、福聚山と号す臨済宗の禅寺で、大徳寺派に属す古刹です。
 創建は正慶年間(1330年)ごろ大暁禅師を開山として創建されたとされていますが、南北朝戦乱によって廃れていたのを、開創約百年の後、竺裔玄中和尚を中興開山として再興したものとされています。

 湯川山の山ふところにひっそりと建っています。寺宝の秘仏、馬頭観音像は話には聞いていましたが、まだ拝んだことはありませんでした。
 以前は50年に1度しか開帳されていませんでした。昭和38年に県の文化財に指定されてからは、1年に1日だけ、今日、2月18日に御開帳がおこなわれています。

 用を済ませた午後、好天に恵まれたので、車を走らせました。
 近くの高倉には、室町時代の後期1500年ごろ、岡城主、麻生彈正弘繁によって創建された竜昌寺もあります。こちらは曹洞宗の寺で、黒田二十五騎の一人井上周防が再興に力を尽くし、隠居後は毎日この寺で黒田如水の肖像画と長政の位牌に礼拝していたといわれ、大祭には参道には露店が並び、臨時バスが運行されるほどの隆盛です。母の実家の菩提寺でもありよくお参りします。
 3キロくらいしか離れていない海蔵寺のほうは、お堂といったほうがいいくらいの小さなお寺になってしまっていました。麻生氏が大友氏に背いたため。天文15年(1546年)大友宗麟は瓜生左近太夫貞延に岡城を攻めさせました。麻生弘繁の子、隆守は岡城を守りきれず、ここ内浦の海蔵寺に逃れ、妻子を殺した後、家臣ともども自害しました。

 目当てのご本尊、馬頭観音像は、胎内に嘉吉元年、(室町時代・1441年)に、三条猪熊仏所・祐尊が造ったと書かれているそうです。
 高さ62センチほどの檜の寄木造りで、馬頭を頭上に戴き、炎髪を逆立てた正面の顔は、三つの目を見開いて、やや開いた口は歯牙をむき出していて、側面の顔も憤怒相です。六臂のうち、一手は掌を合わせ馬口印をむすんでいます。二手は、ひじを曲げて上に立て、右手に斧、左手に宝棒を持ち、三手は、下に垂らして左手には数珠を握り、右手は開いて掌を前に向けています。右ひざを立てて座し、少し合せた足裏と足先が衣の裾から見えています。
 秘仏として厨子の奥にいますだけ、560年の歳月を経たとは思えない瑞々しいお姿です。天衣の漆地に金泥で描いた蓮華唐草文様もかすかに見られます。仏前の狛犬にも彩色の跡が見えます。

 境内の椿の艶やかさが歴史の悲話を語るかのようで、午後3時、人影ももう他にはなく、境内に出ていた地元の人の店も1軒だけで、檀家の人と思しい人たちが、テントの片付け作業中でした。

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         画像は海蔵寺と築地です。 

和布刈神社

2009年02月12日 | 旅の足あと
 出光美術館のあとはお定まりのコースで、関門橋の直ぐ下の海辺の公園ノーフォーク広場の一角にあるレストランでお昼をいただきます。
 以前は、フランス料理のフルコースも提供していたレストランで、海峡を行き交う船を眺めながらのディナーは、何かの記念日には稀に訪れていました。今は和食の店に変わっていますが、調度や、部屋のしつらえは昔のままなのでちぐはぐの感をぬぐえません。夫につきあってお昼は河豚ミニ懐石にしました。

 食後の散策に、旧暦大晦日の深夜に(今年は午前3時)古式のままに行なわれる和布刈神事でしられる和布刈神社まで、早鞆の瀬戸の波打ち際に設けられた和布刈観汐公園の遊歩道を歩きました。写真は神事が行なわれる場所です。

 神社境内は昔の面影はなく、直ぐ上を高速道の関門大橋が架かり、昼夜の別なく走る車に見下ろされて、窮屈なものになっています。
 神事から半月も経っていないだけに、注連縄なども神事の名残を見せて新しく、社務所もどこか華やぎがありました。

 脇能「和布刈」の謡い出しは、「今日早鞆の神祭り。けふ早鞆の神祭。尽きせぬ御代ぞめでたき」と始まります。「十二月晦日の、御神事をば。和布刈の御神事と、申し候。今夜寅の刻に到って竜神、うしほを守護し。波四方に退いて平々たり。其時神主海中に入って。水底の和布を刈り神前に、供え申候。」とあるとおりに、今も神官が松明の灯りの中で若布を刈り取り神前にお供えします。随分前に一度、雪の舞う中で拝見したことがあります。

 九州最北端のお社は、仲哀天皇9年(200年)の創建という由緒ある神社で、和銅3年神事で刈り取った若布を朝廷に献上した記録が残っています。

 古くから多くの文人墨客が立ち寄り、歌や句を残すお社です。もちろん源平の合戦も目の当たりにみそなわしたことでしょう。
 近くには、平家の一杯水の遺跡もあり、壇ノ浦の合戦前夜、平家一門の人々はここで酒宴を開いたといわれています。

 さらに古き世の旅人達はノーフォーク広場の入り口あたりにあった”門司が関”を通り、この社で旅路の安全を祈願して旅立っていったことでしょう。
 明治、昭和の戦の折にも、多くの兵士達が故国への想いを胸にこの湊から大陸へと出征してゆきました。
 今日も大型コンテナ船が水先案内の舟に導かれてひっきりなしに通っていきます。


和布刈公園界隈
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ノーフォーク広場には人力車で観光の人も。
海への道
和布刈神社案内板
高浜虚子の句碑
松本清張文学碑
謡曲「和布刈」解説板
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飯尾宗祇の句碑 舟みえて霧も追門(セト)こすあらしかな  室町時代の連歌師

高浜虚子の句碑 夏潮の今退く平家亡ぶ時も

松本清張文学碑 小説「時間の習俗」 和布刈神事をアリバイ工作に使ったもの

紅葉の秋月

2008年12月04日 | 旅の足あと

 日田経由で秋月の紅葉を見て帰ることに相談が纏りました。
 昨年に続いて今年も秋月の紅葉に逢うことが出来ました。平日ながら櫻の馬場や、黒門のあたりは紅葉狩りの人で賑わって露店まで出ていました。
 今回は車なので眼鏡橋まで下ってみました。御影石の頑丈な橋は歴史を生きて今も使われています。
 帰途に弟が選択したスリルのある八丁峠越えの尾根道は、自分では運転したくない道でした。飯塚へのこの道を辿った昔の旅人の苦しい旅を偲んだことです。

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<秋月城址の紅葉<1/5>
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杖立温泉にて

2008年12月03日 | 旅の足あと
 鯛生金山を後にしてくだり、下筌ダム(しもうけ)を右に見て松原ダムの堰堤を渡り、杖立の温泉街までは40分足らずです。
 ここは下筌ダム建設反対を掲げて、蜂の巣山の急傾斜に多数の小屋を建て反対闘争がなされた「蜂の巣城」の砦があった古戦場です。車中でもひとしきり昭和32年から,10年を越える室原知幸氏を中心に展開された抵抗運動の昔話が賑やかでした。
 いまは静かな緑のダム湖に紅葉の山々がその影を落としているばかりです。

 杖立温泉は杖立川の渓流に沿って渓谷の狭い両岸にへばりつくようにひっそりと小さな旅館が1キロにわたって並んでいます。熊本県と大分県の県境にあり、古くからの湯治場で今も長逗留で湯治する人もあるようです。
 今夜の宿は、その中では一番大きな“ひぜんや”の別館「大自然」です。

 
 5月にはこの両岸に渡したロープに吊るされた無数の鯉幟が泳ぐことで有名で、その時期にはTVでもよく報道されています。
 日曜日の夕刻とあって、人も少なく、5時を回って外からの入浴客も帰ってしまったようで、露天風呂“吉祥の湯”は貸し切り状態で、妹と二人ゆっくりすぐ傍を流れる渓流の音を聞きながら5箇所の湯を楽しみました。

 ほんの少しぬるっとした湯は高温でたっぷりとして神経痛やリュウマチ、胃腸病に効能ありと書かれていました。
 宿も、数奇屋造りの室内は広々とした12,5疊に愛らしい化粧の間と、2畳の踏み込みが付いていて、玄関の下駄箱の上の壁にはシャガールの小さな複製が掛けてありました。窓際の応接セットもゆったりと上品で、川沿いに高く上がる湯煙を眺めながら、温泉に来ていることを実感して気分もゆったりとくつろぎます。
 
 翌朝は、向かいの山上の方は真っ白に霜の花で彩られて、下の紅葉とよいコントラストを奏でてくれました。
 
 人の気が全くないので、引き返して、お風呂を撮影してきました。ブログでゆっくり露天風呂を楽しみおくつろぎくださいませ。

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<紅葉の吉祥の湯>


杖立への道すがら

2008年12月02日 | 旅の足あと
 久しぶりの晴天で心地よく南下すること87キロ、八女インターで下りて花宗窯に向いました。
 長くご無沙汰している間に立派な道路ができ、近くには新幹線の工事も進んでいて、かつての長閑な田園風景は窮屈なものになっていました。

 花宗窯でお昼を一緒にと勧められましたが、車から降ろした素地を一応の窯詰めにして、家庭画報12月号で使用した菓子皿のお礼に送られてきたというお菓子だけいただいて辞去しました。
 八女の市街も、日曜日のせいもあってでしょう、シャッターの下りた店の多い商店街を抜けて西から一路東へ、大藤で有名な黒木から山中を矢部村に抜けるコースを取って杖立温泉を目指しました。

 矢部川沿いの両岸は杉林と段々畑で、トンネルが続きます。長いトンネルを抜けると日向神ダムが姿を現しました。ダム特有の深い緑色に赤い鉄橋と鮮やかな銀杏の黄色が映えます。
 山また山の行程は、今は銀杏の黄葉の盛りで黄金色の輝きが強烈な印象です。
途中、どこかで昼食をというので注意していると、お洒落な小さな看板が目に入りました。
「温人」というネーミングも風変わりで、狭い橋を渡って真っ黒の建物に目星をつけました。手打ちの蕎麦専門のお店でした。私達のほかには人もなく、国道の対岸の集落の中で、営業は趣味としか言いようもない場所です。店内の装飾も気の利いたものが置かれていました。

 店内に、今晩はシャンソンのライブがあると小さな貼紙が出ていました。歌手は今年1月、新春音初めライブの時に歌った“TAKAKO”さんでした。こんな山中でこうした出会いをするものかと奇縁に驚きました。手打ちの蕎麦は腰があって申し分のない味わいでした。

 予約のチエックインの時間には間があるので、道の途中だから鯛生金山に寄って行こうということになりました。
 何時も素通りで、坑道に入ったことがないという弟に夫が勧めて、かつて日本一の産出量だった金鉱山の訪問です。数年前に来た時は紅葉の盛りで、その折の紅葉のトンネルの美しさを見せたかったようでしたが、残念ながらすでに葉を落としていました。
カメルーンがここでサッカーのキャンプを張ったことで全国版になった中津江村です。駐車場には道の駅ができていました。

 この鉱山が80年の歴史を閉じたのは昭和 47年のことです。松本清張が長編の「西海道談綺」を、隠し金山を軸に日田とここを舞台の中心に設定して書き、これは映画化されています。以前にはなかったマグシーバーが入場券についてきました。約1キロのコースをわかり易い解説を聞きながら1時間かけて歩きました。石見銀山と違って見学コースの距離も長く、かなり設備も整っています。

鯛生金山
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坑内入り口”一棒一条痕”の文字
金鉱石
支柱の種類の説明版
坑内・延長110km.地下540m.の坑道
酒の貯蔵では現役
黄金の洞窟に純金の鯛二匹
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詳しくお知りになりたい方は鯛生金山のホームページでどうぞ。

おのぼりさん その二

2008年11月18日 | 旅の足あと
<新宿御苑の秋色>
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 笑われながら,35階からの眺めをカメラに収めました。新宿御苑が目下に広がっています。紅葉がはじまって樹木の色がさまざまの彩を見せています。高島屋の下を僅かの間隔でつぎつぎに入ってくる列車を上から眺めていて、よくこれで事故が起らないものと、おのぼりさんは感心していました。
 「大琳派展」はどう切り取ったものか、まだ考えが纏りませんので、つなぎに旅の記念のスナップです。

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<東京国立博物館正面>


 東京博物館の庭園は、年2回、春と秋に一般公開されます。公開の時期に行き逢いました。展覧会会場にはなるべく遅い時間に入場しようと思って、先にお庭を拝見することにしました。ただし、肝心の展覧会への余力を考えて、余り奧のほうのお茶室までは回らないことにしました。入り口近くの春草庵と、転合庵を見て、六窓庵や、十輪院校倉跡は、遠望して引き返しました。他にも応挙館、九条館といったお茶室もあるようです。
 何度か訪れている博物館ですが、本館の北に隣接してこのように広いお庭があるのを知りませんでした。博物館の敷地はもと寛永寺の境内ですから、このお庭も寛永寺の庭だったのでしょう。池の枯蓮の周りには水鳥達が遊んでいました。

おのぼりさん

2008年11月13日 | 旅の足あと
 羽田で京急に乗り継いで品川まで出るという私と、モノレールがいいという連れ合いの間で早速食い違いが出て、ここは私が譲り、無事新宿駅南口まで辿りつきました。
 2泊の宿はただ利便性を考慮して、駅に最も近い宿というので新宿駅サザンテラス口から徒歩1分のセンチュリーサザンタワーを予約していました。
 移動する距離と時間の釣り合いは、この10年ほどで極端に短くなっています。北九州空港を発って、1時間15分で羽田空港です。快晴の秋空に五合目近くまで冠雪の富士山が裾を曳いていました。

 4年ぶりの東京は、また変貌していて、この不気味な大都市はどこを目指してゆくのかと思います。35階の窓からは東京タワーのオレンジ色の明かりがビルの間に見えています。足元の新宿の夜は、きらびやな灯りが眠らないで瞬いています。
 旅情をいとおしむ、しっとりとした時間はここには存在しません。自分の足で峠を越えて他国に入ったときに、いにしえ人が抱いた旅の情感などとは全く無縁の空間が、世界の大都市の何処とも格別に異なることのない風景で拡がっています。
 落ち着けないのがせめてもの旅情と言うべきでしょうか

 サザンテラスには、クリスマス・イルミネーションがすでに点灯されて、静閑な暮しとの甚だしい格差で、人の数と非日常の幻想世界に戸惑います。

 明日は下の尾形光琳筆 波図屏風 (メトロポリタン美術館)にも逢えます。