「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

夏のなごり

2005年08月30日 | 絵とやきもの

 季節の移ろいを感じて、身の回りの整理をしていて、ついでに今年の夏の作品の中から、手許に残っている作品を処分したり、取り分けたりしました。 

 今回は色紙を三枚ブログにUPすることにしました。私の気に入りは、大好きな大津絵のつもりで描いた私流「鬼の念仏」です。自分自身へのごくろうさまも少し気に入っています。友人は「ちっとも疲れていない。墨の色も濃すぎる。」と言っていましたが。もしかして怠惰に寝そべっているだけかも・・・・・
        (今はtableタグの練習中で、そのテストを兼ねて。)

  

 

 

 

 


つゆ草

2005年08月28日 | 歌びとたち

 このところ母の体調が安定していなくて、施設に通う日が多くなりました。おちついた時間が少なくて、気になっていた庭の草取りに今日やっと手をつけました。
 雨の日が続いたおかげで、草の抵抗も少なく、以前のように汗の悩みも減って、はかどります。
 草の中に、つゆ草がまじっています。白い常盤つゆ草に代わって、青い秋空の色です。水引草、金水引もまだ充分に花をつけているとは言いがたいながら存在を主張しています。季節は確実に「もう秋」へ移動していました。
 遠い昔、愛唱した三好達治の詩がふとうかんだひと時でした。

       かへる日もなきいにしへを

       こはつゆ艸の花のいろ                     

       はるかなるものみな青し 

       海の青はた空の青        


 

 

 


心づくしの秋

2005年08月24日 | 歌びとたち
ここ二、三日続いた夕立を思わせる雨のおかげで、33℃を超していた暑さが大分しのぎやすくなりました。「処暑」とはよく言ったものです。

先週末以来、月齢もよく秋の満月をと期待したのですが、厚い雲に覆われて、「雨にむかひて月を恋ひ」の状況でした。今夜あたりは暦どおりの秋の月がみられるのではないかと期待しています。
  
木の間より洩り来る月の光(カゲ)みれば 心づくしの秋はきにけり(古今集)
  秋の部に収められた読み人しらずの歌です。
心をつくす秋、心をつくさせる秋と言わずに、熟した言い方の「心づくしの秋」という表現は、かなり人気があったとみえ、源氏物語の [須磨]の巻の有名な一文は、「須磨にはいとど心づくしの秋風に・・・・」と始まります。その他にも心づくしのなになにと言う表現が多く出てきます。

  古今集以来、秋は物悲しい季節、新古今では寂しい季節という固定観念が生じたようで、歌もその線で詠まれています。現代の生活で「ちぢにものこそ悲しけれ」と季節に寄せる想いを愁いの感傷に埋没させてしまうことはないと思いますが、虫の鳴く音、風の気配、夕焼け空など、やはり夏の季節とは趣を異にした「もののあはれ」が漂います。

 枕草子冒頭の一段でも秋の情趣美を、「秋は夕暮れ」としていました。
 
 私の長年の習性は「心づくし」の「づくし」にとらわれて、その言葉のもつなめらかな味わいにそのまま浸りきることができないのを悲しみます。
 
 ものおもいの限りを尽くすと、受け取って過ごせばいいものを、心づくしの手料理の場合は心をこめるの意だし、まてよ、物づくし、花づくしなどの「づくし」は、同じ仲間になるものをすべて並べる意味のこれは接尾語的なもの、と分析している自分に「愛想をつかす」秋の夕暮れです。

煮物上手

2005年08月20日 | 塵界茫々
  
 野菜の和風煮物が得意な人はそんなに多くはないようです。義母にいわせると、煮物が下手になったのは戦争のせいだと言うのですが。

 確かに、材料も、燃料も不自由な時代、時間をかけてじっくり煮込む煮物どころではありませんでした。
 味は二の次、家伝もなにもあったものではなかった時代、その次にきたのは極度の空腹と栄養失調の時代で、次はその穴埋めのための、せっかちな栄養一点張りの実質主義の時代が来ます。
 そして今は見た目の美しさの段階に入ったようです。サラダも彩りよく小奇麗に盛りつけることに熱心です。こんな時代に醤油色の素朴な、おまけに手間と時間を要する煮物料理は疎んじられて当然、中身より見かけ、料理まで「おしゃれ」になりました。
 ただ、このところの健康志向で、自然食が喜ばれ、「おふくろの味」として、煮物も再認の傾向が見られるのは喜ばしい限りです。
 老健施設にお世話になっている母のひところの嘆きは、減塩と、ものの原形のわからないほどに刻まれた食事でした。私は料理自慢だったこの義母に煮物を教わりました。

 一口に煮物と言っても、醤油で煮あげた「煮しめ」、砂糖と塩だけで素材の色を引き立てた「白煮」、それぞれ別に煮あげて盛り合わせた「炊き合わせ」の華やかさ、その他、いため煮、ふくめ煮、揚げ煮、うま煮、などなど変化に富む調理法があります。とはいえ、火にかけた鍋に一定量の調味料を入れるだけですから、技術といえばただ「煮る」過程で煮える勢いを、材料と調味料に応じて加減するだけで勝負が決まります。経験と、注意力だけがコツということになります。

 火加減と、調味料をどのタイミングで、どの順に入れるかです。せっかちにしては味がそっけなくなること、小分けして調味料をいれ、じわじわと味をつけることを知りました。
 丁寧に出し汁をとる、物によっては煮こぼしの手数をかけ、落し蓋をしてと、ごくありふれた安い材料に手間を惜しまない、洗練された貧乏の味わいといったものが野菜の煮物でしょう。
 時間に追われる今日では一番の贅沢料理かもしれません。

よく似た漢字 その二

2005年08月17日 | ああ!日本語
 ひところ昔出た本をそっくりに製版造本することがはやりました。いわゆる「フッコク版」です。文部省発行の、「尋常小学 修身書」など、驚いて手にした記憶があります。このフッコクをどう書くかです。

 国語辞書でもこれが統一されていないのをご存知でしょうか。 「復刻」「複  刻」「覆刻」の三種類があります
  岩波国語辞典   覆刻      広辞苑 覆刻・復刻
  旺文社漢和辞典  複刻    小学館日本国語大辞典 覆刻、復刻
  大修館漢和辞典  複刻    YAHOO辞書  復刻・覆刻 

 手許にある辞書だけでも以上のとおりです。つまり、国語辞典の系統では復刻、漢和辞典の系統では複刻、(私のパソコンでは変換の選択肢の中に複刻はありません)「ふく」の意味をどう捉えるかで異なるのでしょうが、よく似た内容の複製、複写などの語が、復製、復写とは書かないので、私は複刻としたいのですが・・・・・・・・・・

粉・紛も、 大学紛争 粉飾決算 紛らわしい限りです。
音が同じ上に、老眼には文字の形が見定めがたいほど似通っています。一字、一字の字の持つ意味の違いはよく判っているのですが、フンソウ、フンショク、と熟語となると迷うのではないでしょうか。

慢 漫  綱 網  効 郊  裁 栽 そして日常よく工事現場などで目にする除と徐の間違いがあります。踏み切りの立て札に[危い!除行]とあるのを見たことがあります。 テロの疑いを持たれないように、危険視されるものは荷物の中から除いて置いて行け ということかもしれません。ついでに危いは危ないですよね。

こんな文句はどうでしょう「高慢、怠慢、我慢に自慢は慢性で、水は漫々、漫画に漫才、とりとめもなく注意散漫、漫然と・・・・・・」限りがありません。

60回目の終戦記念日

2005年08月15日 | 塵界茫々
 毎年8月15日はどこにも出かけることなく、何か忘れ物をしているような落ち着かない気分のまま、一日を家で過ごします。
 正午の日本武道館での全国戦没者追悼式も、どこか虚しい想いでテレビを観ています。
愛する祖国のためと信じて、散っていった多くの前途ある若者たち、家を焼かれ、無差別の爆撃の犠牲になった人々。そして偶然のなせるわざで生き残った者も、価値観の逆転する中で、とまどいながら焼け野が原からの復興に立ち上がりました。

 すべてに不自由な生活環境、特に食べ物の欠乏は悲惨なもので、今、飽食のこの国の状況からは、どう説明しても理解してはもらえないと思います。

 もう共通の想いを持つものは同世代の限られた人々になっており、遠からず伝承の過去の中に埋没する運命です。

 00年に1桁だった戦没者の親世代の参列者は今年0、戦没者の子供世代へと参列者の世代交代も進行しいています。
「過去の戦争への反省を示すとともに、戦後60年の歩みを踏まえ、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく」の言葉が真実であることを切に祈ります。
 今日もあの日と同様、蝉の鳴き声が降り注ぎ、容赦ない夏の日差しが照りつけています。

初盆のお参り

2005年08月14日 | 塵界茫々
 今年は私の友人、親族には亡くなる人がありませんでした。珍しく初盆参りがありません。
 連れあいの方は、毎月1回、会合を持っている8人ばかりのグループから、一人が欠けました。
 穏やかな笑顔の方で、大事な場面では、力強い調子で短く、低い声でご自分の意見を述べられていました。家族同伴の旅でご一緒したことがあります。
 家人にとっては、備前在任中以来の、下手な陶芸作品を愛好して、喜んで貰ってくださる貴重な存在でしたから、手術途中の急逝に、当座はかなり落ち込んでいる様子でした。お返しだと言って、よく手づくりの柚子胡椒や、さまざまな農作物を宅急便で送っていただいたものです。

 田舎住まいで不便な所なので私の車の運転でお参りしました。片道48キロの往復の間、アキアカネが飛び交う青田を眺めながら、ご健在の頃の思い出や、お互いの身の始末が切実な問題であることが会話の中心になりました。

 机を並べた級友との別れは,親との別れとはまた別の切ない寂しさがあります。

団扇を楽しむ

2005年08月12日 | 遊びと楽しみ
 先日の白地の団扇をグループの人々と楽しみました。
表と裏を、誰が当たっても文句なしということで、取り替えて描きこみました。
真面目な研鑽の日ごろ???と違って、表の絵に自分が感じたものを裏に描くということで、ゲーム感覚で、大騒ぎしました。以下はその作品です。
 涼風を感じていただけるといいのですが。・・・・・・・・・
 











待たれる九州国立博物館の開館

2005年08月10日 | 遊びと楽しみ
 永年の夢が程なく実現します。岡倉天心が『九州に博物館を』と提言して100年、やっと今年10月16日、いよいよ九州国立博物館がオープンします。

 開館記念特別展は「美の国日本」の表題を掲げて40日間の会期中、休みなしで2部の構成で開催されます。
 正倉院御物、東大寺、法隆寺の国宝などが展示される1部はもちろん、2部の蒔絵や、屏風絵といった風俗画,茶陶、能衣装など、桃山時代の華麗な完成度の高い芸術品の数々にお目にかかれそうで、今から指折り数えて待っています。

 2年前、九州歴史資料館から丘越えに太宰府天満宮へ歩いたとき、建設途中のドームをみました。天満宮から動く歩道ができると聞いて、あの山道をと驚いていましたが、トンネルで繋ぐのだそうです。内容の充実にこそ費用をかけて欲しいとは思いますが、多くの人が集まる天満宮から訪れるのが容易なのはいいことでしょう。

 個人や企業から1億1千万を超える善意の寄付が寄せられました
 市立博物館と国立博物館の二つを持つことになる福岡市が羨ましいことです。
大宰府通いの楽しみがまたひとつ増えることになります。


展示が予定されている正倉院御物です。
詳しくは下記の九博のホームページを覘いてみてください。

http://www.kyuhaku.com/pr/  この中の「ポップステップ九博」展関連企画『装飾古墳データーベース公開』は、コンピューターグラフィック技術を駆使したページでお薦めです。
全国の装飾古墳600余のうち約半数を占める九州の装飾古墳を網羅しています。
現地に出かけても、古墳は狭く、保存のため暗い照明で内部の詳細は見極め難いので、大変参考になりました。

同音語に迷う

2005年08月08日 | ああ!日本語
 今日、暑中見舞いを手書きしていて愕然としました。
 漢字の感覚がひどく鈍くなったような気がします。パソコンに向かうようになって、変換を選択するだけで「ああ、そうだった。」と片づけることが多いのも一因だと思います。
漢字そのものも、突き抜けていたか、止まっていたか。はねたか、はねないかも、すべてパソコンにお任せでは当然文字力は退化の一途を辿るしかありません。

「解」は、牛だったか、午だったか一瞬迷ってしまいました。そのすぐ後で、招待券と書こうとして、また力か刀かで考えてしまい、自分で驚いた次第です。
先日、公共機関のホームページの誤字(3字)を指摘したMAILをいれて、感謝の返信をいただき、いい気になっていたのが恥ずかしくなりました。

 加えて、同音語の書き分けも、かなりいい加減になっているのを自覚します。
「採決」と「裁決」のように使われる場面が明らかな語はともかくとして、「決着」「結着」。「原始」「元始」。「従順」「柔順」。また「降伏」か「降服」か迷うところです。「最低」を「最底」とし、「弱小」を「弱少」と書き誤る例は、ことパソコンにお任せする限り発生しません。
 
 これは漢字にとっていいことなのかどうか、ともあれ、私は慌てました