「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

美術館の庭

2008年05月31日 | 旅の足あと
 大和文華館を3時半になって、辞去しようとした折、受付で、いま笹百合が見ごろです。といわれました。自生しているのを見るのは初めてなので、斜面を降りてみました。
 一面の笹原の中にひっそりと佇んでいる笹百合の姿は、見てきたばかりの仏画の世界に連動して、高貴な香の漂う中、ひととき清々しい気分に浸っていました。

 帰り道なので、寄り道して松柏美術館を覗いてみようということになりました。近鉄名誉会長の邸内にある日本画家上村三代、(松園、松篁、淳之)の作品を展示している美術館ですが、ここも今は特別展の開催中で、松園の作品にはお目にかかれませんでした。

 「小野竹喬の世界」は、一人の画家の14才から89歳までの画業を辿るもので、見応えのあるものでしたした。
 スケッチ、挿絵も展示されていて、妹も小品に気に入ったものを見つけて立ち止まっていました。
 私は文化勲章を受章したころの一枚、日本の自然を物静かに描かれる画家にはやや異色の”樹間の茜”に目が留まりました。

 ここの庭も眺望の広い池を借景にしています。下野草が愛らしく揺れていました。


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<大和文華館の蛙股池<1/5>
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奈良散策 大和文華館

2008年05月30日 | 旅の足あと

 日曜日、9時の新幹線に始まった旅は、奈良西大寺に1時半に到着しました。
 時間があるので、疲れてなければ、明日は月曜で美術館がお休みだから、行ってみたい所に案内すると出迎えた妹にいわれました。
 言葉に甘えて、そのまま大和文華館へ直行しました。あまり大きくない分、頃合いと思って近鉄で二駅の近場を選択しました。前回の訪問以来、すっかり気に入った場所になっています。

 入り口で、山法師の白い花が盛りの顔を見せて出迎えてくれました。入り口までの長い道の畔には卯の花が枝垂れていました。

 今の特別展は「高僧と美術」展と聞いて、あまり期待もせず出向いたのですが、祖師の御影や遺墨、画僧の絵画、聖をめぐる人々と分類され、円相に描いた一休像や高僧たちの墨跡は、やはり伸びやかで気品と迫力がありました。

 入り口正面のケースには、国宝の一字蓮台法華経が展示されており、すぐ隣には中国渡来の、石仏が出ていました。これだけでも充分と思いました。

 中央の吹き抜けの竹の植えられた中坪を囲んで一周する展示は適量で、途中、目を休める蛙股池にかかる借景の橋を眺める場所も、大きいスケールで開けています。2週して、帰りに許可をいただいて、写真を撮影することができしました。

大和文華館所蔵品展
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大和文華館正面

国宝 一字蓮台法華経

栄西の書簡

六曲一双 山水図屏風 周文

石造四面仏 唐

“高僧と美術”ー聖をめぐる人々ー
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 右上の画像は雪村周継の描く中国の仙人、呂洞賓。雪村は室町期の画僧。日本の水墨画を代表する作品の一つとされています。

 そのほかにも、重文・竹雀図(可翁筆・南北朝)、笠置曼荼羅図(鎌倉)、根来塗り諸道具。伝光明皇后という写経切れは、上下に丁子を吹き付け、鳥や花、蝶を描いた華やかなもので、金泥の罫線が引かれていました。念仏踊りの遊行上人縁起絵断簡、雪村の自画像など、珍しいものがありました。

補注 一字蓮台法華経・平安後期、26×322cm 普賢菩薩勧發品を書写したも  の。鳥の子紙に金銀の砂を撒き、切箔の料紙に金で罫線を描き、1行12字を  金の輪で囲み、彩色した蓮台に乗せている。これは経文の文字そのものを仏身  とみなしたもの。上下には柳、櫻が着彩で書き込まれ、吹き抜け屋台の屋内で  経を読む大勢の僧と、貴族の男女が描かれている。厳島神社の平家納経と並ぶ  装飾経の名品。



 


蕪村への旅

2008年05月23日 | 旅の足あと

 MIHOミュージアムで、与謝蕪村―翔けめぐる創意―と題した特別展が(3月15日から6月8日まで))開催されています。
 青春の日、萩原朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」に出会って以来、蕪村への傾斜は年を重ねても、ますます強くなっています。
 ブログでもよく蕪村にお出まし願っていますが、これは別所沼だよりの蛙さんや、雪月花さんなどに教えていただく新しい蕪村関係の書物に触発されることも多いせいです。(ブックマークより)
 「道路に死なん、これ天の命なり」とまで、求める一筋の道に繋がり、野ざらしの己が姿を想い浮かべながら、身にしむ風の中を、留まることなく突き進む芭蕉の厳しさとは異なり、蕪村の場合、肩が凝らずにその洒脱を楽しめます。絵と俳句の二筋道を悠々と生きたようにも思えます。王朝趣味も私の好みです。
 妹の都合もあって、旅程を前倒しにして、25日に出かけることになりました。

 MIHOは本当に不便な所にあります。琵琶湖線の石山寺からバスに乗り換えて約1時間の山の中に忽然と現れるのです。今回も奈良に住む妹に、車の世話になることにしました。
 信楽の狸たちの出迎えを受けるのは27日か28日の予定です。
 月が改まりましたら、ご報告をいたします。ブログは明日より1週間のお休みです。



        かりぎぬ(狩衣)の
        袖のうら這ふ
        ほたるかな
              蕪村

鮎漁解禁

2008年05月22日 | 季節のうつろい
 太公望たちが待ち焦がれる鮎釣りの解禁日は、日本各地、大体6月1日なのでしょうが、日田地方では、一足早く20日、解禁になりました。
 テレビに映し出される釣果は、15センチから18センチのやや小ぶりの鮎で、元気にタモで跳ねていました。
 鰹と並んで初夏の到来を告げる魚です。源氏物語のなかに「西川(大堰川のこと)より奉れる鮎、・・・御前にて調じてまゐらす。」とありますから、御前でどのように調理したのか興味があります。
 現在のように、串を打って、化粧塩をつけての塩焼きにしたのでしょうか、それとも鮎なますにして、庖丁捌きの見事を見せたのでしょうか。これに冷酒、水飯ですから、暑い日でも食は進むというものです。

 万葉集にすでに詠われる鮎漁は、鵜飼はもとより、筑紫松浦川で若鮎を釣る乙女と、大伴旅人は洒落た歌を詠み交わしていますから、乙女たちも釣りをしたものでしょう。(巻五 註1)
 また、「やなほこり」「敷き網」が詠われていますが、日田地方では、やなば漁が見られますし、敷き網漁は想像もできますが、ひどい漁に、「蓼流し」(註2)という方法も詠われています。
 人々は、あらゆる手立てを工夫して、古くから鮎を賞味し続けてきた証しといえるでしょう。
 都府楼址の資料館展示にも献立の中に鮎の焼き物がありました。
 養殖ものではない天然の若鮎の美味を求めて筑後川畔の温泉にでも出かけましょうか。

  註1 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾ぬれぬ
     春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに

  註2 蓼タデを搗いた汁を流して、仮死状態になった鮎をすくう漁法
     み山川のぼる子鮎の蓼流しからくも濁る世に生まれけむ 藤原知家


    古い絵ですが鮎を描いたことがありますので。

古都の王朝絵巻二題

2008年05月19日 | みやびの世界
 折々の京都の風物詩を映像でお届けくださるOさんが、古都の優雅なお祭りの映像を送ってくださいました。
 一つは先日15日に行われた、京都三大祭の中で、もっとも優雅な賀茂祭の映像です。
 私はまだこの祭りにご縁がありません。
 応仁の乱や、東京遷都などで中断があったとはいえ、平安朝以来続く伝統の祭りです。王朝装束に身を包んだ500人の行列が、京都御所から下鴨神社を経て上加茂神社へ8キロの道のりに繰り広げる王朝絵巻は、今日では、古趣に富む祭りの筆頭ではないでしょうか。

 源氏物語、葵の巻に描かれる車争いはあまりに有名で、能にも登場します。枕草子、徒然草でも「祭り」として取り上げられています。単に「祭り」という時はこの賀茂祭でした。応仁の乱で200年の中断のあと、元禄期に復活した時から、賀茂祭を葵祭と呼ぶようになったようです。枕草子などで記されるように、御簾、車、冠などをはじめ、すべての家具調度などに葵の葉を飾ったところからですが、同じフタバアオイを紋所とする江戸幕府の後援もあったからでしょう。
 一人占めで見ているのは勿体ないので掲示します。前にも記事にしました。


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<齋院代 祭りのヒロイン>


 あと一つは三船祭(ミフネマツリ)の模様です。車折神社(クルマザキ)例祭の延長神事として行われているそうです。
 このような祭りが今も行われているとは。さすが1000年の都です。
 大鏡の中に、嵐山の麓、大堰川に三艘の舟、(和歌、漢詩、管弦)を浮かべ、その道に堪能の人を、それぞれの舟に乗せて遊んだ記事は“三船の遊び”として古典の教科書にも登場していました。その折、道長が藤原公任に「どの舟にお乗りになるか」と尋ね、公任は和歌の舟を選ぶのですが、要するに「三舟の才」で、どの道にも卓抜であったということでしょう。「小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき」がその折賞賛された公任の歌です。
 同じ大井川、渡月橋のほとりで昨日催された「三船祭」の映像です。今、名称は「三船祭」でも、三舟どころか20艘もの船が出て、流扇船や、長唄、常磐津、今様、尺八とそれぞれの舟で芸能の奉納がなされるのだそうです。
 画像4枚でお楽しみください。

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<奉納される舞樂>

水墨画の巨匠たち

2008年05月18日 | 絵とやきもの

 五月晴れの好天に、小倉で所用があるから、ついでに門司港の出光美術館まで足を延ばさないかと、運転手に御用の声がかかりました。
“水墨画の巨匠たち”と題した展覧会が、後期の展示替えになっているのに気づき、折角のお誘いなので出かけることにしました。

 土曜日で、いつもよりは人が多かったようです。サブタイトルにいうように、「雪舟・長谷川等伯から富岡鉄斎まで」、ほかにも、浦上玉堂、谷文晁、田能村竹田、宮本武蔵、狩野元信、俵屋宗達、おまけが、博多の代表、仙和尚の小品3点で、端渓の硯、翡翠の筆洗といった文房具なども出ていました。

 宗達の虎と龍を描く双幅は、墨一色の世界でも圧巻です。虎が上から下を大きな目玉でにらみ、龍のほうが下から上を仰ぐ逆転の配置も面白く、表情が独特の親しみやすさです。よくみると、たらしこみの技法もなかなか細やかな配慮がありました。(チラシの右下)もう1枚の小品「神農」は、異容の風貌を、見慣れた宗達とは異なる繊細な表現で描きこんでいました。谷文晁の大幅も大胆な斜めの白地を残した風雨の表現が印象に残ります。
 鉄斎の豪放な、「居無如静図」「高士弾琴図」竹田の線描の菊、等伯の竹に鶴を配した屏風絵の余白の訴える力など、学ぶところが多い小さな展覧会でした。
 例によって、鑑賞の緊張を、会場の仙和尚の小品、蛙、や、田植え歌がほぐしてくれました。招待券をくださった朝日新聞さんに感謝です。

宗達の虎はここから。

台北点描

2008年05月15日 | 旅の足あと

 3日目も快晴に恵まれました。台北から出ている淡水線の終点の小さな港町、淡水の観光です。淡水河の河口に沈む夕日で有名です。
 台北から車で僅か1時間足らずの郊外です。かつては貿易港として栄え、スペイン、オランダ、イギリス、そして日本と激変する権力支配の、台湾史の舞台になってきたため、どこか異国情緒の残る町並みです。
 途中、関渡媽祖宮に立ち寄りました。道教寺院の、これでもかといった満艦飾の色彩に、前日の、龍山寺同様、民族性の相違を味わいました。
 どの寺院も、伸びやかな明るいリズムで大合唱される祈りの読経の声と、何の隔てもなく神様と仏様、あらゆる仏たちが大らかに同居されていて屈託がありません。これなら効率よくあらゆる願い事、悩み事にも対応していただけるというものです。道教の女神と、千手観音様が同居されています。
 長い線香を手に、人々はあくまでも現世利益の願いをこめて祈を捧げているようでした。面白いと思ったのは、お供えの品々は、願い事をした後で、持参した者がそれぞれ持ち帰るしきたりになっている合理性でした。神様や仏様は召し上がらないのですから。

 台北市内に引き返し"飲茶"の昼食ののち、台湾の北端のリゾート地、北門へと向いました。
 三日目は北門のリゾートホテル泊りです。4日目は用意されていたどのオプションにも参加せず、このホテルでゆっくり旅の疲れを癒すことにし、私は午前中を水の美しいプールで過ごすことにしました。

<關渡媽祖宮 海の女神、天王聖母を祀る
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おまけの画像 5枚
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<開運竹 初めて見ました。>


故宮の至宝

2008年05月14日 | 旅の足あと


 この旅での最大の目的にして、私が楽しみに期待した故宮博物院を訪ねる日は、空模様も快晴のご機嫌となりました。

 到着した晩、夫は10年ぶりに逢うのを楽しみにしていた周さんに電話を入れていましたが、1昨年膵臓癌で亡くなったという奥様の話に驚いて、どうやら眠りも浅かったようです。
 そういえば、ここ2,3年はカラフルな賀状も届いてなかったようです。

 10年一昔とはよく言ったものと、故宮への道筋で、台湾の近代化の変貌に目を瞠っていました。故宮も10年前とは見違えるほど展示方法も変わっているし、建物も改装されて便利になっているということでした。
 9時に到着。12時半までの3時間半が見学の時間に当てられました。
 台湾人の現地ガイドの案内をイヤホーンで聞きながら、1時間半を遅れながらついて歩き、後の2時間は自由に集合時間までを解放されました。
 当初から、陶磁器と、書画の部屋に焦点を絞って見学しようと心づもりしていましたが、青銅器を主体にした古代の祭祀器を目の当たりにすると、こちらも興味があり、時間が足りないことになりました。
 青磁の前から動こうとしない夫と待ち合わせ場所と時間を決めて別れ、好きに動きました。
 もっとも、3時間を超えると、足のほうも、目のほうも思い通りには言うことを聞いてくれず、手の甲にスタンプを押してもらって、一旦外に出て、ミュージアムショップで気分転換をし、5分だけ休憩、絵画は大急ぎで見学ということになりました。書画は10,11月に、いいものが展示されるようです。
 2階の部屋は、3階の玉や翡翠の工芸品の前のような人だかりもなく、ゆっくり好きに動けました。図録でみるのと違い、筆の勢い、墨の継ぎ、色の微妙な変化も活き活きとしています。
 出発前に故宮は20年かけても見果せないほどの宝物だから、一度ではとても無理だよと夫に釘を刺されていましたが、その意味が納得できました。

 時代の篩を通って遺されたものだけに、どれも存在感を持って迫ります。歴代の権力者たちの飽くなき美への欲求と、工人たちの誇りと研鑽が痛いほどの迫力で見るものに訴えかけます。と同時に、近代中国の混乱期によくぞこの世界的な遺産が破壊、略奪を免れてきたものと感動しました。

 4階建ての本館は、1階から3階までが展示室で、70万点余の収蔵品のうち、約2万点が展示され、数百点の常設展示のほかは、半年ごとに入れ替えられます。
 1階のパネルで世界史と対比しながら概略を把握、教科書で目にしたことのある甲骨文や、ユニークなデザインの青銅器は、気の遠くなる8000年もの歴史を経たものたちです。
 2階は書画と陶磁器で、当初から目指した階です。さすがCHINAの国です。陶磁器をいうと同時に中国を意味するのも肯けます。最高のものが集められ、唐三彩、白磁の定窯、青磁の汝窯、貫入の哥窯、淡青の官窯、時代と共に芸術的に洗練されてゆく青花や粉彩の技術が歴然と展開されていました。宋の時代のものは今も目に焼きついています。
 3階は、一番人気の絢爛豪華の、宮廷世界が生み出したきらびやかな宝物の会場で、人だかりが絶えることがありません。
 故宮といえば「翠玉白菜」を思う人も多い翡翠の最高傑作(清)はここにあります。翡翠の色と質の自然を巧みに利用して作られています。思ったよりも小ぶりのものでした。
 この階での私の1点は、玉器の「荷葉筆洗」(宋)でした。枯れかけた蓮の葉を、玉の色を活かし、向うが透けるほど薄く削り、葉脈を浮き出させた技に感じいりました。紫檀の台座もモダンです。
 人気を集めていたのは、今日でもどのようにして彫られたかわからないといわれる清朝晩期の、1本の象牙から掘り出された、気が遠くなるほどの精緻を極めた細工物などでした。

 故宮は一日や二日では到底回ることは叶いません。折りをみてまた訪れるに値する逸品の山でした。

故宮の至寶 1階
商 亀甲卜辞

 この亀甲には右に「征戎に行くべきか」左に「征戎はやめるべきか」と記されているのだそうです。どちらが選択されたのでしょう。
西周中期 師湯父鼎
 
鼎は礼器の一種で権威の象徴。殆どが三本足のついた円形の青銅器です。
「鼎の軽重を問う」という故事もありました。
戦国早期 鳥首獣身尊
 
祭祀に用いられた酒器で、首から上が鳥、体は獣。頭を外して酒を入れ、嘴から酒を注ぐ構造です。
商晩期 大理石虎首人身虎爪形立調雕
 
帝王の陵の、昼の守護神。頭が虎、体は人という不思議な生物。明日香の猿石をおもいました。
唐 灰陶加彩仕女俑

かすかに残る彩りと、ふくよかな顔立ちが見るものに安らぎを与えます。
宮中に仕える女性を模った副葬品のひとつ。天平美人そっくりです。


故宮の至宝 2階・3階
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順に、故宮を代表する翠玉白菜  
   象牙透花人物套球         
   荷葉筆洗                
   秋鷺芙蓉 呂紀           
   蘇軾 前赤壁賦 
   顔真卿の書

台北の旅

2008年05月12日 | 旅の足あと
 台北3泊4日の小さな旅のツアーに二人で参加しました。長期の旅が可能かどうかのテストです。
 快晴の福岡空港を11時に飛び立って2時間10分、台北桃園国際空港は雨で濡れていました。1時間の時差が生んだ差異は、そろそろ梅雨入りを思わせました。(台湾が1時間遅れ)

 空港からの道すがら真っ先に気づいたのが、当たり前ながら、賑やかな看板はじめ文字がすべて懐かしの旧漢字が用いられていることでした。今では直ぐには書けなくなっている、國、號、寶、臺、灣、などなどが生きて使われていました。
 次がすさまじいバイクの洪水です。町に自転車の影はなく、自動車は日本車が主流ですが小型車は走っていません。スクーターバイクに二人乗りはごく普通です。(右側通行)この2点は中国との大きな違いでした。

 ホテルに荷物を入れ、近くの、戦いで国に殉じた人たちを祀る忠烈祠で1時間を過ごし、儀仗兵の衛兵交代を眺める所から観光の開始でした。台湾人ガイドのいう「日本の靖国神社です。」を複雑な思いで聞いていました。
 中国宮殿様式の大殿を囲む回廊や山門には戦いを描くレリーフや絵画が飾られ、日本語の解説もついていました。後の見学地の寺院などに比べてみると、かなり厳粛な雰囲気です。衛兵は1時間ごとの交代で、お立ち台では次の交代まで直立不動なのはここも同じです。説明によると、儀仗兵は、陸、海、空軍のエリートで、年齢、身長にも規制があるとか。

台北点景
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■度肝を抜く三人乗りの家族。悠々と通り過ぎてゆきました。■町を行くスクーター。シャッターの遅れ。各馬一斉にスタートといった実際はもっと迫力があります。■駐車されているバイクのおびただしい車列■看板の文字は旧漢字。隆は一画多く、宝も寶らしく、斉も「いつく」の意が良く解ります。■忠烈祠の入り口。門の中央入り口には左右に衛兵が立っています。■一番奥の大殿。ここにも、もう一組の衛兵が直立不動で立っています。■衛兵交替。隊長以下5人の儀仗兵が1時間ごとに交替のセレモニーを行います。■衛兵。何が起ろうと微動だにしない見事さ。銃は本物です。■夜市風景。果物は種類も多く、安価でした。1元=3,4円。■夜市で夜食をとる台北っ子の逞しい食欲を見ました。治安も悪くはないようです。
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 その後は、九份へと向いました。台北の北東、バスで1時間。基隆から10キロの山間の小さな険しい崖の町です。
 鉄道工事の折、偶然見つかった金鉱に、殆ど無人だった地が一躍ゴールドラッシュに湧いた所です。日本の統治時代には基隆港から積み出されていた金が、1970年代掘り尽されて廃鉱となって以来、再びさびれて行きました。
 脚光を浴びるようになったのは、1989年、ベネチア映画祭の金獅子賞を取った「非情城市」の舞台となって以来のことです。古い町並みと、地形がかもし出す異空間は、さながら「千と千尋の神隠し」の世界です。実際に、宮崎駿監督もこの地を訪れているのだそうです。
 映画の「油屋」のような、そして、非情城市の撮影でも使用されたレストラン“阿妹茶酒館”での夕食となりました。
 紹興酒の酔いが醒めるころ、「雨と霧の町」と呼ばれる九份が、お情けで遠い島影と、基隆の港の灯りを覗かせてくれました。








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<霧が晴れて>


九份の町 5枚。 マウスオンでどうぞ。

木の葉

2008年05月03日 | ああ!日本語
 朝の木の葉掻きをしていて、新聞配達のおにいさんに、「毎日、きの葉が大変ですね」とねぎらわれました。「ええ、もうしばらくのことでしょうから」と挨拶を返して、「木の葉」が少し気になりました。
 「木の葉」は、「きのは」ではなくて「このは」と読みたいのですが、木を「こ」と読む場合は随分少なくなってきているようです。

 木の葉がくれ、木の葉髪、木漏れ日、木陰、木霊、木立。まだまだ健在のようです。ただ、“木の芽和え”は、サンショウの芽を、「きのめ」と呼んで賞味してきました。ですからこれは「きのめあえ」です。

 伝統的に単独で木をいうときは「き」と読みますが、木の・・と複合するときは、「こ」と読んできたと思います。
 なにはづに咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くや木の花
 散りかふこの葉の中より青海波の輝き出でたるさま (源氏物語 紅葉賀)のように。また、お能の小道具で、三輪や釆女でシテが手にする榊や、しきみも”このは”といいます。木の実、木の葉猿、木葉鰈、木葉木菟コノハズク。みんな「こ」です。木っ端微塵もありました。

 一方、木から落ちた猿、木に竹を接ぐ、樹静かならんと欲すれども風やまず。と、木は「き」です。

 木漏れ日、木の下闇、木の間隠れ、こうした言葉も、自然の環境が変化して、木の下闇や、木漏れ日をしみじみと味わう余裕も失くした暮らしでは、こと葉もどこかに散りうせて、片隅におしやられて忘れられているのではないでしょうか。
 いまや、多勢に無勢、「こ」は「き」に取って代わられ、次第に化石となる運命を辿るのでしょうか。

 昨年正しい名前が判明したナニワイバラがただいま花盛りです。