「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

特別展「国宝 天神さま」

2008年11月05日 | みやびの世界
 すっきりと晴れた秋空に誘われて、今日は九州国立博物館の特別展に行ってきました。
 福岡県に住んでいると宰府詣り(さいふまいり)と、彦山参りはたいていの人が何度も機会があります。ことに学問の神様となった「天神さま」を祀る太宰府天満宮は、就学するころに親に連れられてお参りした経験を持つ人が多いと思います。進学を希望する学生達の奉納する「合格祈願」の絵馬はその時期には毎年おびただしい数に上ります。九国博は天満宮のすぐ上の丘に建っていて長いエスカレーターで結ばれていますので、深いご縁がある企画です。

目的にしていた○北野天神根本縁起絵巻はじめ菅家文草、(菅家後集は11月18日から展示)○寛平后宮歌合せ十巻本巻第一のほか、歌舞伎三大名作の一つで人気の「菅原伝授手習鑑」の錦絵までも網羅した展示で、いつもながらの楽しめる企画もあり、クイズも用意されています。
(○印は国宝)

波乱の生涯に遺された国宝の生活用具、菅家の文華、天神縁起の世界、天神信仰、と分類がなされ、さらに、ゆかりの芸能、祭りにと展開されていました。
 道真公の流謫は、無実の配流であることは、当時からすでに取りざたされていました。この地で病弱の身を謫居二年、冤罪の失意無念の中に亡くなられた怨念が雷神となったと信じられたものでしょう。

 宇多天皇が極めて篤い信任を寄せられ、破格の昇進を遂げたことが原因のすべてのようです。道真公の真っ直ぐな性格と、あまりに鋭い見識が、外戚として執政を独占してきた藤原氏をはじめとする貴種公卿たちの危惧を呼び、失脚を画策させたものでしょう。

 配流の太宰府へ向う途中、明石の駅で、驚く駅長を見て詠んだ詩句「駅長驚く莫れ時の変改 一榮一落これ春秋」に、誠実さと気丈な達観をみます。(大鏡巻二)

 道真公の没した延喜三年(903年)以来、京都では雷雨が続き、5年後には藤原菅根の疫病による死、ついで張本人の左大臣藤原時平の39歳での病没、飢饉、疫病の蔓延。さらには道真の後任で右大臣となった源光と、相次いで死に、道真配流に反対した時平の弟だけが順調に栄進を続けました。時平に関わる皇太子達も次々に若くして亡くなり、延喜8年の清涼殿の落雷では、配流にかかわりのある人達が黒こげとなって死ぬに至っては平安時代の人々が怨霊のなせる業とさやき交すのも当然でしょう。

「丞相は現身に七日7夜、天に仰ぎて身をくだき、心をつくして、あなおそし、  天満大自在天神とぞならせ給ける。」  北野天神絵巻より

 道真公が死後怨霊となったということは、平安世人の常識でした。朝廷では道真の官位を二位に昇進させ、元の右大臣に戻し、左遷の詔勅を取り消します。
 道真公の遺骸を納めた安楽寺は太宰府天満宮として、庶民に信仰されていきます。
 天神とは雷のことで、農耕にかかわり、雨乞いの神なのですが、時の流れのなかで、学問の神、書道の神と変身してゆきます。復讐の激しい神よりも柔和で知的な「天神様」のほうが道真公には似つかわしいようです。

(文章博士大江匡衡も北野天満宮に捧げる願文のなかで、学者としての道真を「文章の太祖、風月の本主」と讃えています。)

 会期が二ヶ月を超えるとはいえ、10期に細分され、短い期は5日間です。文化財保護や、所蔵者の都合もあることでしょうが、もう少しゆとりがあるとありがたいと、これは欲深かな願いです。
 国宝の十一面観音は、道真公御自作と伝承されています。おどろな絵巻物が眼を惹く中で優雅にやさしい木造のみ仏でした。(大阪 藤井寺市 道明寺の本尊 平安時代 1m位)

<怒りの天神坐像 荏柄天神社・重文
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画像はすべて九州国立博物館の提供によります