映画「ローレライ」が順調な興行成績らしい(封切り1週間で10億円突破+観客動員79万人)。
ローレライ公式HP
まだ映画を観ていないし、おそらく観に行かないだろうと思われるにもかかわらず、「ローレライ」について書くという無謀さを以下で、あえて試みたい(なお小説は一昨年夏に読了)。
映画についての感想をいろいろ見てみると、やはり「ガンダム」との類似性/関連性に言及したものが目に付く。登場人物やストーリー展開など様々な点に「ガンダム的なるもの」が散りばめられていることはすでに小説刊行時から言われてきた。この点をどう評価するかは好みの問題になるだろうが、製作者というか、プロモーターの側は、いわゆる「ガンダム」世代を取り込むことを意図しているのも確かだろう。たとえば、『ガンダム・エース』4月号が巻頭特集を組み、古谷徹(アムロ)、池田秀一(シャア)、鈴置洋孝(ブライト)らに映画の感想、そしてガンダムとの共通性を語ってもらうなど、その意図がありありと感じられる。またチョイ役で、ガンダムの生みの親とも言える富野由悠季が出演していることもこうした流れに位置づけられるだろう。
もちろんこれには、小説を執筆した福井晴敏の存在あるいは個性も大きく反映しているといえる。インタビューなどで彼の発言に触れたことがあれば、富野由悠季の小説版『機動戦士ガンダム』に、小説家としての彼の原点があることは周知の事実だろうし、「戦後日本で戦争における人間をきちんと描いてきたのはガンダムに代表されるアニメだった」という発言、さらに『亡国のイージス』などほかの小説作品にも見受けられる「ガンダム的」匂いなどがすぐに思い出されるだろう。
とすれば、「ローレライ」、とりわけその世界観を評価するに当たって、「ガンダム」との共通性や相違点を取り上げるだけでなく、さらに一歩進んで、「ガンダム的なるもの」がどのように吸収・昇華されているのかという点を視野に入れる必要があるのではないだろうか。あるいは、先に述べた福井の発言に倣えば、「ローレライ」が描こうとしている「戦争の中の人間ドラマ」をこれまでアニメというメディアの中で経験してきた世代にとって、実写とアニメという境界線を設定することがほとんど意味を成さなくなっているかもしれない。
ローレライ公式HP
まだ映画を観ていないし、おそらく観に行かないだろうと思われるにもかかわらず、「ローレライ」について書くという無謀さを以下で、あえて試みたい(なお小説は一昨年夏に読了)。
映画についての感想をいろいろ見てみると、やはり「ガンダム」との類似性/関連性に言及したものが目に付く。登場人物やストーリー展開など様々な点に「ガンダム的なるもの」が散りばめられていることはすでに小説刊行時から言われてきた。この点をどう評価するかは好みの問題になるだろうが、製作者というか、プロモーターの側は、いわゆる「ガンダム」世代を取り込むことを意図しているのも確かだろう。たとえば、『ガンダム・エース』4月号が巻頭特集を組み、古谷徹(アムロ)、池田秀一(シャア)、鈴置洋孝(ブライト)らに映画の感想、そしてガンダムとの共通性を語ってもらうなど、その意図がありありと感じられる。またチョイ役で、ガンダムの生みの親とも言える富野由悠季が出演していることもこうした流れに位置づけられるだろう。
もちろんこれには、小説を執筆した福井晴敏の存在あるいは個性も大きく反映しているといえる。インタビューなどで彼の発言に触れたことがあれば、富野由悠季の小説版『機動戦士ガンダム』に、小説家としての彼の原点があることは周知の事実だろうし、「戦後日本で戦争における人間をきちんと描いてきたのはガンダムに代表されるアニメだった」という発言、さらに『亡国のイージス』などほかの小説作品にも見受けられる「ガンダム的」匂いなどがすぐに思い出されるだろう。
とすれば、「ローレライ」、とりわけその世界観を評価するに当たって、「ガンダム」との共通性や相違点を取り上げるだけでなく、さらに一歩進んで、「ガンダム的なるもの」がどのように吸収・昇華されているのかという点を視野に入れる必要があるのではないだろうか。あるいは、先に述べた福井の発言に倣えば、「ローレライ」が描こうとしている「戦争の中の人間ドラマ」をこれまでアニメというメディアの中で経験してきた世代にとって、実写とアニメという境界線を設定することがほとんど意味を成さなくなっているかもしれない。
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