constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

「ジャイアン w/o ドラえもん」の世界

2005年03月20日 | knihovna
最上敏樹『国連とアメリカ』(岩波書店, 2005年)

著者は、国際法を専門としつつも、片足を国際政治に突っ込んでいるため、法学的思考や文体に違和感を持つ者にもすんなりと読める。

20世紀は、「アメリカの世紀」であると同時に「国際機構の世紀」でもあり、主権国家システムの関数であった国際機構が独自の慣性を持ち始める時期であったことを考えると、国連とアメリカの関係の歴史的展開に考察の射程を広げることが求められる。

そうした視座から、本書は、国連などの国際機構に内在する原理「多国間主義/マルチラテラリズム」が、アメリカの外交思想およびその行動指針と折り合いの悪いこと、言い換えれば、17世紀半ば以降、徐々に制度化されてきた主権国家システムに対するアンチテーゼでもあるアメリカという国の紆余曲折した歴史を、国連という「多国間主義」の文脈で論じる。どうしてこれほどまでにアメリカと国連の関係は複雑化したのか、という疑問が、国際連盟発足にまで遡り、アメリカが、次第に苛立ちを抱き、距離を置き、それを迂回する形で、国際政治の方向性に影響を与えようとしていく過程が丹念に叙述されていく。国連/国際機構を主題としながらも、同時に「アメリカ問題」をめぐる議論への国際機構論的介入ともなっている。

圧倒的な軍事力と経済力、そして良きにつけ悪しきにつけ世界の人々を魅了するソフトパワーを有する現在のアメリカにとって、国連やそれに付随する正当性などに頼らずとも、その政策目標を達成できる。しかも多くの場合、国連は、アメリカの行動の自由を縛る厄介な機構として立ち現れてくる。こうした状況下において、アメリカの意に沿う国連へと変えていく試みよりも、国連の枠外に、自らの望むルール・規範を構築することが求められていく。本書でほとんど触れられていないが、1970年代以降、先進国サミットや世界経済フォーラムのように、国連の外側で、アメリカの世界観に適合する別様の「多国間主義」が登場し、実質的なガヴァナンス・システムとなっていることも、国連からの離反という方向性の一例であろう。

いわば、2種類の「多国間主義」が並存・角遂する状況が現在である。しかも、アメリカは国連型「多国間主義」だけでなく、別様の「多国間主義」からも距離を置き、行動の自由を確保しようとする。イラク戦争の開戦過程において、「有志連合」という名の「多国間主義」がとられたが、その内実は、著者の用語を借りれば、「偽装多国間主義」であり、限りなく「単独主義」に近いそれでしかなかった。「多国間主義」に対する「体質的な」違和感をもつアメリカの対外行動はいっそう「自己例外主義」の様相を強めていく。そのようなアメリカがいる世界を、藤原帰一は「ボスのいる世界」と形容したが(藤原帰一『デモクラシーの帝国』岩波新書, 2002年)、自分の気に入らないルールに従わず、独自のルールを設定する「自己例外主義」的態度をより的確に表現しているのは、ジャイアンの名言「俺のものは俺のもの、お前(のび太)のものも俺のもの」だろう(「ジャイアニズム」という造語があるらしいし、最近のアメリカにジャイアンを重ね合わせる発想は「ドラえもん」に触れたことがあれば別段違和感はないだろう)。

とはいえ、国連が正当性調達の場としてそれなりに機能しているのも現実である。その意味で、国連への期待など幻想に過ぎないと容易く切って捨てることはできないだろう。また「多国間主義」に対する懐疑性が根底にあるアメリカがサミットや「有志連合」のような「多国間主義」とも袂を分かつ可能性を持っている。今後の行く末を考えたとき、あえてアメリカを「多国間主義」に連れ戻し、つなぎとめておくことは無益な試みかもしれない。国連を毛嫌いするアメリカと、アメリカを厄介と感じる諸国が多数を占める国連との関係解消こそ、すっきりしたものに思われる。

しかし、著者が言うように、逆説的であるが、関係解消という選択よりも、あえて関係を維持するという困難な作業を引き受けることが求められる。国連型「多国間主義」から離脱していくアメリカは、先に述べたように別様の「多国間主義」を作り出すであろうし、それに失敗したとしても、アメリカという国家自体が、連邦国家という政体原理からも明らかなように、「多国間主義」の一種であるとすれば、「多」から離反するのは、そのアンチテーゼたる「単」ではない。アメリカが活動するのは、現存の「多国間主義」とは異なる空間ではなく、グローバル化した世界という棲み分け不能な、国連型「多国間主義」が先住している空間であることに変わりはない。つまり、必然的にアメリカと国連は関係を結び付けなくてはならない構造的条件が存在している。

「ドラえもん」のメタファーを使えば、国連がドラえもんになれないとしても、のび太たちと協力して、困難を切り抜ける、映画版のジャイアンのように、そんなアメリカへの期待を抱き続けることは、「多国間主義」を掲げる側の責務となるだろう。