constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

ソフト・パワー論とマゾヒズムの共鳴

2005年06月12日 | knihovna
ジョセフ・S・ナイ『ソフト・パワー――21世紀国際政治を制する見えざる力』(日本経済新聞社, 2004年)

1980年代、ポール・ケネディの『大国の興亡』の刊行が火をつける形で、アメリカ衰退論が学界や論壇を賑わせた。アメリカ発の理論・議論に過敏で、無批判に追従する傾向がある日本のアカデミズムの世界でも、ギルピンの覇権安定論やモデルスキーの覇権循環論を翻訳・紹介する「ヨコをタテに」した「輸入代理店」的な論考が溢れ、バブル前夜の楽観的雰囲気と相俟って、一部には「パクス・ニポニカ/ジャポニカ」の到来を声高に宣言する、現在から見れば視野狭窄的な論調が受け入れられる時代であった。

そのような状況に対する反論の意味合いとして提起されたのが、ジョセフ・ナイによる「ソフト・パワー」概念であった(初出は『不滅の大国アメリカ』読売新聞社, 1990年)。アメリカ衰退論の多くが、軍事力・経済力といった物質的側面に注意を向ける傾向に対し、文化など非物質的な側面を考慮に入れれば、アメリカの覇権は喧伝されているように衰退しているわけではないという主張を提起した。

それ以降、「ソフト・パワー」は単なる学術用語にとどまらず、あらゆる領域/分野で使用されるようになった。とくに、軍事力に象徴されるハード・パワーに制約が課されている日本政府にとって、殊の外「ソフト・パワー」は外交理念として魅力的に映り、とくにアニメやマンガなど「サブカルチャー」の振興・海外発信に積極的に動いている(『外交フォーラム』2004年6月号参照)。

ナイによれば「ソフト・パワーとは、自国が望む結果を他国も望むようにする力であり、他国を無理やり従わせるのではなく、味方につける力」と定義される(26頁)。したがって、「ソフト・パワー」を発揮する基盤として、軍事力よりも文化などの重要性が強調される。その意味で、現在のブッシュ政権がハード・パワーに固執することで、「ソフト・パワー」を有効に活用できていないと批判するのは当然の論理だろう。

以下、「ハード/ソフト」という形容詞が暗に醸し出すジェンダー・イメージは「サディズム/マゾヒズム」にみられる関係性との共通点を示唆しているのではないかという問題意識から、そこにセクシュアリティ/ジェンダー的解釈の余地があるように思われる「ソフト・パワー」概念に関する些か強引な議論を展開してみたい。

おそらくその外観から、サディストが支配し、マゾヒストが服従するという関係の構造が一般的にイメージされる。また人口に膾炙する両者の視覚的イメージであるマッチョなサディストと弱々しいマゾヒストという表象は、「ハード・パワー」の非対称性に基因するという解釈が成り立ちうる。

しかし、こうした表象レベルの関係性からその深層レベルへと目を向けるならば、サディスト・マゾヒストの関係性は逆転してしまう。すなわち、両者の関係において、イニシアティヴを握っているのは、攻撃しているサディストよりも、攻撃するように仕向けているマゾヒストの方であり、サディストの加虐行為は、サディストの自由意志というよりもマゾヒストが作り出した環境/構造によって規定された行為としての側面が強くなる。ナイの表現を借りれば、サディストの行為は「所有目標」に属す一方で、マゾヒストのそれは「環境目標」とみなすことが妥当だろう。

この「環境目標」の達成、あるいはアジェンダ設定において、より効果的なのが「ソフト・パワー」であるならば、マゾヒストは、被虐による快楽を得るために、サディストがマゾヒストを加虐するような環境/構造を作る「ソフト・パワー」を行使しているともいえる。言い換えれば、サディストが持つ加虐行為への衝動は、マゾヒストによる強制ではなく、その魅力(加虐を誘/挑発する仕種など)によって充足される点で、サディストとマゾヒストの関係性は、一方的な支配・従属関係に還元できない潜在性を持っている。

たとえば、映画化もされた喜国雅彦『月光の囁き』(小学館)で描かれる拓也と紗月の関係を「ソフト・パワー」論の観点から解釈することもできるだろう。「普通の」恋愛関係から出発した関係は、拓也の性癖の発覚によって、変質していく。紗月にとって忌避・唾棄すべき対象である拓也の存在が、それまで以上に紗月の中で大きくなっていき、最終的に拓也が望んでいた関係性に落ち着くストーリーは、拓也が設定した環境/構造に紗月が取り込まれていくプロセスでもあり、紗月のサディスト的性向を引き出した点で、拓也の「ソフト・パワー」が発揮された事例ともいえるだろう。

一方で、「戦後最大の奇書」とされ、マゾヒズム文学の域を越える射程をもつ沼正三『家畜人ヤプー』(幻冬舎)の場合、「ソフト・パワー」が行使される場裡は、クララと麟太郎という当事者間の関係性においてよりも、むしろ二人を取り巻く環境/構造にある。ポーリーンなどのイース帝国の人々やその社会規範が、麟太郎に対するクララの態度を恋人同士から主人と家畜の関係に変容させてしまう点で、マゾヒスト化する麟太郎による「ソフト・パワー」の行使を看取することは難しい。しかしイース帝国の規範/文化構造に社会化されていくクララにとって、そのプロセスは強制や報酬によってではなく、まさに魅了されたものであることに注意を向ければ、『月光の囁き』のそれとは別次元において「ソフト・パワー」が作用していると理解できる。

以上の点を踏まえたとき、現在のブッシュ政権が「ソフト・パワー」を軽視してしまい、ナイの批判を招いている理由の一端が見えてくるのではないだろうか。マスキュリニティを誇示し、「強いアメリカ」を体現する衝動に囚われているブッシュ政権は、「ソフト・パワー」論が含意するジェンダー的位相を無意識的に嗅ぎとっているため、自らのアイデンティティー基盤を掘り崩す可能性を秘めた「ソフト・パワー」に基づいた外交政策のオプションが先験的に排除あるいは否定的に評価されているという解釈もありえるだろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「環境問題」の非論争化する... | トップ | 脱=指定席 »

コメントを投稿

knihovna」カテゴリの最新記事