constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

グローバル・ガヴァナンス(論)の憂鬱

2006年07月11日 | nazor
グローバリゼーションとともに、「長い21世紀」の世界を表象するジャーゴンとして広く流通しているのがグローバル・ガヴァナンスである。急速に進展するグローバリゼーションによって引き起こされる諸矛盾を是正・管理し、より好ましい秩序のあり方としての役割を期待されているグローバル・ガヴァナンス(論)は、グローバリゼーションと表裏一体の関係にある。その意味でグローバル・ガヴァナンス(論)はすぐれて現代的な概念であるといえる。しかしグローバリゼーションが現代のあらゆる現象を指し示す言葉になっているのと同じく、グローバル・ガヴァナンスも概念としての有用性を確立しているとは言い難い。換言すれば、グローバル・ガヴァナンス(論)は、その名称の浸透度に比して、理論的内容はきわめて貧しく、「単にグローバル化時代の国際秩序といった程度の意味として使われる」のが現状である(大芝亮「グローバル・ガバナンスと国連――グローバル・コンパクトの場合」『国際問題』534号, 2004年: 15頁)。

しばしば国際関係論では、アメリカの知的流行から10年遅れで新しい概念が日本で流通するといわれるが、グローバル・ガヴァナンス(論)に関してもそのような傾向が見られる。しかしその多くは1996年に大芝亮と山田敦が整理したグローバル・ガヴァナンス概念の分類を言い換えたものであり(「グローバル・ガバナンスの理論的展開」『国際問題』438号, 1996年)、「ヨコをタテにした」輸入代理店的な紹介論文の域を出ていない。大芝と山田の整理によれば、グローバル・ガヴァナンス(論)が規範的アプローチと分析的アプローチに大別される。すなわちグローバル・ガヴァンスという言葉を人口に膾炙させる契機になった、1995年刊行の「グローバル・ガヴァナンス委員会」報告書『地球リーダーシップ――新しい世界秩序をめざして』(日本放送出版協会, 1995年)が規範的アプローチの代表と挙げられる一方で、世界政府が存在しない状況にある国際社会においていかに統治を確立するかという視点を提起したジェームズ・ローズノーの議論や、レジーム論から発展的に登場し、リベラリズムの系譜に連なるオラン・ヤングのガヴァナンス論を分析的アプローチとする構図である。

いわばグローバル・ガヴァナンス(論)をめぐる論争軸を整理しただけで満足し、たとえばレジームや制度といった既存の概念ではなく、ガヴァナンスという新しい概念を用いることによって明らかにされるのは何であるかの探求が不十分なままである。たしかに環境や人権といった個別分野における事例研究もいくつか見られ、実証的な研究の蓄積が進んでいる。しかしそれらの研究の多くがあえて「ガヴァナンス」に注目する必要性があるとは思われず、とりわけレジーム論の道具立てを洗練させることによって分析上の課題は解決されるのではないだろうか。たとえば大芝と山田が今後の課題として提起した3つの問題点(大芝・山田: 11-14頁)、すなわち重層的システムを構成する諸枠組みの目的や機能を分類し、それらの相互関係を明らかにすること、ガヴァナンスに参加する主体の利益が適切に擁護されているかという規範的位相、そしてグローバル・ガヴァナンスと主権国家体系の関係を正面から取り上げ、有効な分析概念としてグローバル・ガヴァナンスを精緻化する作業はほとんど手付かずなままである。

大芝・山田論文以降、日本において本格的な研究書といえるのが渡辺昭夫・土山實男編『グローバル・ガヴァナンス――政府なき秩序の模索』(東京大学出版会, 2001年)である。その序章で編者の渡辺と土山は、グローバル・ガヴァナンスの論点として、主体、政府との違い、領域性、レジーム論との関連の4つを指摘している。これら4点において秩序やレジームといった既存の概念ではなく、ガヴァナンスを使う意義が明らかにされている。しかしながら、編者たちの整理にもかかわらず、後に続く論考においてガヴァナンスの定義や理解は統一されているとはいえない。たとえばジョン・アイケンベリーの議論では、「大国における基本的な規則、原則、そして制度を含む政治秩序を律する取り決め」と、ほとんど秩序と同義に見えるグローバル・ガヴァナンスの定義を示しながら、さらにそれを「国家間相互の関係と継続する相互の交流に関する相互の期待を明確にする国家間の取り決め」と限定するとき(「制度、覇権、グローバル・ガヴァナンス」渡辺・土山編『グローバル・ガヴァナンス』: 73-74頁)、そこにガヴァナンスを積極的に用いる意味はほとんど存在しない。

河野勝が指摘するように、「政府なきガヴァナンス」の可能性を探る試みは国際関係論の基本的な課題であり、したがって「今日『グローバル・ガヴァナンス論』とあらためて命名することで、それがこれまでの国際関係論と本質的に異なる問題に特化する知的営為であるかのような印象」を与えてしまう危険性がある(河野勝「ガヴァナンス概念再考」河野編『制度からガヴァナンスへ――社会科学における知の交差』東京大学出版会, 2006年: 5-6頁)。つまり秩序やレジームといった既存の類似概念との相違点を十分に明らかにしないまま、言葉の新奇性に惑わされてグローバル・ガヴァナンス(論)が消費される状況は学術的な観点から好ましいとはいえないだろう。それこそ今日のグローバル・ガヴァナンス(論)をめぐる知的状況は、ちょうど1970年代から1980年代にかけての国際レジーム(論)のそれを想起させる。そしてスーザン・ストレンジがレジーム(論)に対して行った5つの批判("Cave! Hic Dragones: A Critique of Regime Analysis," in Stephen D. Krasner ed., International Regimes, Cornell University Press, 1983)、とくに時代の趨勢を反映した一種の流行現象にすぎないという第1の批判は、そのまま現在のグローバル・ガヴァナンス(論)にも当てはまる。別の言い方をすれば、すくなくとも分析概念としては、洗練度の高いレジーム(論)によっても、グローバル・ガヴァナス(論)が対象とする問題の大部分が十分に探求でき、あえて新しい言葉を用いる積極的意義は乏しい。

この点を敷衍するならば、しばしばレジームとガヴァナンスの違いとして指摘される参加主体の多様性や争点領域の複数性は、レジーム(論)の欠点というよりも、むしろステレオタイプ化したレジーム理解を前提にした議論である。レジームの定義として至る所で引用されるクラズナーの定義を字義通り解釈すれば("Structural Causes and Regime Consequences: Regimes as Intervening Variables," in Krasner ed., ibid.)、レジームが国家に限定されるとは必ずしも言い切れない。たしかにストレンジが批判するように多くのレジーム(論)が国家中心的な傾向を示しているが、それはレジームそれ自体に内在する問題ではなく、レジームを分析概念として用いる研究者のパースペクティブの問題に属するといえる。つまり山本吉宣が論じるように、レジームに参画する主体、そしてレジームによって影響を蒙る客体の双方において、国家のみを対象とするのはきわめて狭いレジーム観といえる(「国際レジーム論――政府なき統治を求めて」『国際法外交雑誌』95巻1号, 1996年)。ほとんど分析概念としての意味を果たしていないガヴァナンスを使うメリットと比して、曲がりなりにも多くの事例研究で用いられてきたレジームを精緻化させるメリットのほうがその前途は明るい。

また今日のグローバル・ガヴァナンス(論)に関して無視しえない問題として指摘すべきなのは、グローバル・ガヴァナンスのイデオロギー/規範的位相である。あらゆる概念や用語がそうであるように、ガヴァナンスも本質的な論争性を孕む概念であるとすれば、それを用いる者の世界観や信条が投影されることは当然だろう。この点は、御巫由美子が論じるところのガヴァナンス(論)の価値中立性、あるいは強者の論理としてガヴァナンスが作用する可能性をめぐる問題と関係している(「『ガヴァナンス』についての一考察」河野編『制度からガヴァナンスへ』: 215-218頁)。御巫が引用しているように、「理論は常に誰かのため、何かの目的のために存在している」(ロバート・W・コックス「社会勢力、国家、世界秩序――国際関係論を超えて」坂本義和編『世界政治の構造変動(2)国家』岩波書店, 1995年: 215頁、強調原文)点を考慮に入れた場合、グローバル・ガヴァナンス(論)は単なる学術概念以上の意味合いを持ち、日々の実践を通じてその内実が形成されていく行為遂行的な側面があることに注意を払う必要がある。

その意味で、グローバル・ガヴァナンス(論)の代表的研究として必ず言及されるジェームズ・ローズノーが「秩序プラス意図」とガヴァナンスを定義していることは示唆的である("Governance, Order and Change in World Politics," in Rosenau and Ernst-Otto Czempiel eds., Governance without Government: Order and Change in World Politics, Cambridge University Press, 1992.)。すなわち自生的に形成されるような秩序ではなく、参画主体の「意図」が媒介する点にガヴァナンスの特質があるとすれば、グローバル・ガヴァナンスを論じるとき、参画主体がどのような世界観を抱いているのかを分析の射程に組み込むことが求められる。この点に関して、ローズノーのガヴァナンス(論)に対する最も早く、かつ根源的な批判を加えたリチャード・アシュリーの議論("Imposing International Purpose: Notes on a Problematic of Governance," in Ernst-Otto Czempiel and James N. Rosenau eds., Global Changes and Theoretical Challenges: Approaches to World Politics for the 1990's, Lexington Books, 1989.)が今日のグローバル・ガヴァナンス(論)において脚注においても言及されずに、ほとんど忘れ去られてしまっていることは、ガヴァナンスの孕む問題点を裏書しているだろう。ガヴァナンスを個人の意図や主観性とは関係なく、一定のパターン化された相互作用をもたらす「ガヴァナンスI」と、合目的的に進展し、人間の意志が介在する周期的パターンとしての「ガヴァナンスII」に区別して論じるローズノーに対して、アシュリーは、ローズノーのガヴァナンス(論)が暗黙裡に所与のものとしている構造や間主観的な関係、それらの形成に果たす知の役割を組み入れた「ガヴァナンスIII」を提示する。

一般にグローバル・ガヴァナンス(論)が地球的問題群に対するひとつの回答として位置づけられるのに対して、アシュリーの「ガヴァナンスIII」はそれ自体を「問題」と把握するものであり、論文タイトルが物語るように、何らかの国際的な目的を課す(imposing international purpose)機能がガヴァナンスに備わっていることに注意を促す。たしかにアシュリーの論文自体が省みられることはほとんどないが、彼の提起した問題意識は受け継がれている。たとえばグローバル・ガヴァナンス(論)の自由主義的性格に焦点を当てたマイケル・ディロンとジュリアン・リードの研究などは、新自由主義的グローバリゼーションの行き過ぎに対する歯止め役とみなされることが多いグローバル・ガヴァナンス(論)の共犯性を明らかにしている("Global Liberal Governance: Biopolitics, Security and War," Millennium, vol. 30, no. 1, 2001)。こうしたイデオロギー/規範的位相を視野に入れてはじめて、今日の地球的問題群に対処する意味でのグローバル・ガヴァナンス(論)の有効性が主張できる。一部の先進国の「利益により作られたシステムなりルールなりを持続させ、再生産させることを是認する無意識の合意により形成されている」(御巫, 前掲論文: 218頁)事実に気づかないまま、関係主体の多様性や対象領域の包括性を喧伝するだけのグローバル・ガヴァナンス(論)は学術的に無意味な概念に留まり、それこそ一過性の「流行現象」と後年記憶されるだけだろう。
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