goo blog サービス終了のお知らせ 

constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

とび色と青色

2005年03月28日 | knihovna
いつものように『ガンダム・エース』連載の「機動戦士ガンダム・ジ・オリジン」を立ち読み。

まだ「シャア・セイラ編」。はやく本編に戻ってほしいと思う一方で、本編につながる数々の伏線が張り巡らされた前史をそれなりに興味深い。

今回の舞台は、テキサス・コロニー。シャア・アズナブルというのは、架空の人物ではなく、物語中の実在の人物で、目の色をのぞけば、妹のアルテイシアも見間違えるほど似ているという設定。キャスバルがシャアとしてサイド3に戻り、士官学校に入ることも、ありえないことではないと思わせる流れ。ただほぼ瓜二つということであれば、キャスバルがマスクをする意味はほとんどないような気もする。キャスバルの用心深さをあらわしているのか、単なる趣味として片付けられるということか。

その一方、本物のシャアのその後はどうなったのかも気になるところ。テキサス・コロニーに帰省中にルウム戦役に巻き込まれたということであっけなく記憶の穴に放り込まれるのだろうか(富野由悠季だったらやりかねない)。それとも「ターンAガンダム」のディアナとキエルの関係のような「とりかえばや物語」的ストーリーへと発展していくのか(ますますアニメ版とは異なる展開になりそうだ)。

ナッツのために…

2005年03月24日 | knihovna
"WAR is 'We Are Right'."

「恐竜家族」。ドラマの基調自体がアメリカ社会の風刺であるが、そのエピソードのひとつ「ナッツ戦争」で二足恐竜側が唱導したスローガンは、まさにアメリカ社会を取り巻く思想状況の一端を鋭く抉り出している。以下で、この言葉を手がかりとして、アメリカ社会の風景をめぐる書誌的マッピングを試みたい。

先の大統領選挙において、赤と青の鮮やかな対照性が見られたアメリカ社会は、「正しさ」を掲げる争いが起こっている空間であり、それは、市場化を通じて構築された戦場でもある。言い換えれば、ネオリベラリズムに基づく経済原理が全面的な浸透する「市場の社会的深化」によって、従来は市場の外部だった領域が消滅しつつある現代社会では(テッサ・モーリス=スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店, 2004年を参照)、市場と戦場は同じ空間を表象する言葉であり、その区別は限りなく曖昧化している。

あらゆる境界線を無意味化してしまう趨勢の最先端を体現しているのがファストフード産業に範を求めたシステムであろう(エリック・シュローサー『ファストフードが世界を食いつくす』草思社, 2001年)。市場が提供できないサービスであった社会保障もいまや商品化され、「金を生み出す」産業であり(ティモシー・ダイアモンド『老人ホームの錬金術』法政大学出版局, 2004年)、学校教育の現場もまた企業にとって有望な市場として捉えられ、マーケティングの対象となる(ナオミ・クライン『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』はまの出版, 2001年)。さらにL・アンドルーズ&D・ネルキン『人体市場――商品化される臓器・細胞・DNA』(岩波書店, 2002年)の書名が物語るように、人間が作り出したモノだけでなく、人間を構成する組織自体が市場の対象となっている。もちろん今まで経済領域とされてきたところでも、労働形態の変化が人間の行動型式に影響を与えている(ジル・A・フレイザー『窒息するオフィス――仕事に強迫されるアメリカ人』岩波書店, 2003年)。そして戦場と市場の交叉状況を表象している極北形態は、近年興隆著しい民間軍事会社だろう(P・W・シンガー『戦争請負会社』日本放送出版協会, 2004年)。

こうして、まさしく「外部はどこにもない」状況が生まれ(ネグリ&ハート)、すべてを包含する帝国の出現を目の当たりにする。その意味で、飽食社会アメリカを「デブの帝国」と形容するのもあながち誤りではないだろう(グレッグ・クライツァー『デブの帝国――いかにしてアメリカは肥満大国となったのか』バジリコ, 2003年)。

そして、こうしたネオリベラリズムが推し進める市場主義の趨勢の帰結のひとつがいわゆる「文化戦争」である(トッド・ギトリン『アメリカの文化戦争――たそがれゆく共通の夢』彩流社, 2001年)。文化戦争の開戦を求めるとすれば、すくなくとも1960年代のジョンソン政権が唱導した2つの戦い、つまり「貧困との戦い」と「ヴェトナム戦争」が指摘できるだろう。この時期を境に、国内的にはニューディール連合、対外的には冷戦コンセンサスによってその一体性を保持してきたアメリカに亀裂が生じ始めた。そして価値観をめぐる対立でもあった冷戦が終焉を迎えつつあった時期に、アメリカ社会は、冷戦の論理を内部に移植した。あるいは冷戦という対立様式こそがアメリカ特有のそれ、つまりアメリカの論理を対外的に投影したといえるかもしれない(1950年代の反共主義の猛威はその典型例だろう)。

文化戦争の戦線は、アメリカ社会のあらゆる側面に及んでいる。アンダークラスの創出と彼らを取り締まる警察行動の恒常化に伴って前景化した「要塞都市」は「不平等の建設」を推し進める。「要塞都市」を取り囲む地帯で、「ボディ・ウォーズ(中絶)」、「ガン・ウォーズ(銃規制)」、「エコ・ウォーズ(環境)」、「モンキー・ウォーズ(動物実験)」といったさまざまな戦闘が繰り広げられ、戦争に関連する言説で満ち溢れている。たとえば、これらの争点を扱った荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会――身体をめぐる戦争』(岩波書店, 2001年)デボラ・ブラム『なぜサルを殺すのか――動物実験とアニマルライト』(白揚社, 2001年)が、キーワードとして「戦争」を使っていることは示唆的である(ブラムの原題は、The Monkey Wars. である)。戦場は、こうした社会問題を超えて、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」という形でアカデミズムの領域にも拡大している。

冷戦終焉後、アメリカの戦う対象は、明確な外敵から、不明瞭な内/外の境界線を超越するものへと変容した。奇しくも冷戦の終焉の年として記憶される1989年に起こったパナマ侵攻とノリエガ将軍の逮捕は、「麻薬戦争」のひとコマであったが、それは同時に、アメリカ国内の社会問題と対外行動の融合が一段と進んだことを示唆するものであり、論理および実践の面において、「テロとの戦い」の前哨戦という意味合いも帯びていたといえるだろう。

たしかにアメリカだけを見ていては世界はわからないかもしれないが、現代世界が抱えている多くの問題群が如実に現出しているのがアメリカであることも確かである。それは、ある意味でアメリカが有しているソフト・パワーの一種なのかもしれない。

「ジャイアン w/o ドラえもん」の世界

2005年03月20日 | knihovna
最上敏樹『国連とアメリカ』(岩波書店, 2005年)

著者は、国際法を専門としつつも、片足を国際政治に突っ込んでいるため、法学的思考や文体に違和感を持つ者にもすんなりと読める。

20世紀は、「アメリカの世紀」であると同時に「国際機構の世紀」でもあり、主権国家システムの関数であった国際機構が独自の慣性を持ち始める時期であったことを考えると、国連とアメリカの関係の歴史的展開に考察の射程を広げることが求められる。

そうした視座から、本書は、国連などの国際機構に内在する原理「多国間主義/マルチラテラリズム」が、アメリカの外交思想およびその行動指針と折り合いの悪いこと、言い換えれば、17世紀半ば以降、徐々に制度化されてきた主権国家システムに対するアンチテーゼでもあるアメリカという国の紆余曲折した歴史を、国連という「多国間主義」の文脈で論じる。どうしてこれほどまでにアメリカと国連の関係は複雑化したのか、という疑問が、国際連盟発足にまで遡り、アメリカが、次第に苛立ちを抱き、距離を置き、それを迂回する形で、国際政治の方向性に影響を与えようとしていく過程が丹念に叙述されていく。国連/国際機構を主題としながらも、同時に「アメリカ問題」をめぐる議論への国際機構論的介入ともなっている。

圧倒的な軍事力と経済力、そして良きにつけ悪しきにつけ世界の人々を魅了するソフトパワーを有する現在のアメリカにとって、国連やそれに付随する正当性などに頼らずとも、その政策目標を達成できる。しかも多くの場合、国連は、アメリカの行動の自由を縛る厄介な機構として立ち現れてくる。こうした状況下において、アメリカの意に沿う国連へと変えていく試みよりも、国連の枠外に、自らの望むルール・規範を構築することが求められていく。本書でほとんど触れられていないが、1970年代以降、先進国サミットや世界経済フォーラムのように、国連の外側で、アメリカの世界観に適合する別様の「多国間主義」が登場し、実質的なガヴァナンス・システムとなっていることも、国連からの離反という方向性の一例であろう。

いわば、2種類の「多国間主義」が並存・角遂する状況が現在である。しかも、アメリカは国連型「多国間主義」だけでなく、別様の「多国間主義」からも距離を置き、行動の自由を確保しようとする。イラク戦争の開戦過程において、「有志連合」という名の「多国間主義」がとられたが、その内実は、著者の用語を借りれば、「偽装多国間主義」であり、限りなく「単独主義」に近いそれでしかなかった。「多国間主義」に対する「体質的な」違和感をもつアメリカの対外行動はいっそう「自己例外主義」の様相を強めていく。そのようなアメリカがいる世界を、藤原帰一は「ボスのいる世界」と形容したが(藤原帰一『デモクラシーの帝国』岩波新書, 2002年)、自分の気に入らないルールに従わず、独自のルールを設定する「自己例外主義」的態度をより的確に表現しているのは、ジャイアンの名言「俺のものは俺のもの、お前(のび太)のものも俺のもの」だろう(「ジャイアニズム」という造語があるらしいし、最近のアメリカにジャイアンを重ね合わせる発想は「ドラえもん」に触れたことがあれば別段違和感はないだろう)。

とはいえ、国連が正当性調達の場としてそれなりに機能しているのも現実である。その意味で、国連への期待など幻想に過ぎないと容易く切って捨てることはできないだろう。また「多国間主義」に対する懐疑性が根底にあるアメリカがサミットや「有志連合」のような「多国間主義」とも袂を分かつ可能性を持っている。今後の行く末を考えたとき、あえてアメリカを「多国間主義」に連れ戻し、つなぎとめておくことは無益な試みかもしれない。国連を毛嫌いするアメリカと、アメリカを厄介と感じる諸国が多数を占める国連との関係解消こそ、すっきりしたものに思われる。

しかし、著者が言うように、逆説的であるが、関係解消という選択よりも、あえて関係を維持するという困難な作業を引き受けることが求められる。国連型「多国間主義」から離脱していくアメリカは、先に述べたように別様の「多国間主義」を作り出すであろうし、それに失敗したとしても、アメリカという国家自体が、連邦国家という政体原理からも明らかなように、「多国間主義」の一種であるとすれば、「多」から離反するのは、そのアンチテーゼたる「単」ではない。アメリカが活動するのは、現存の「多国間主義」とは異なる空間ではなく、グローバル化した世界という棲み分け不能な、国連型「多国間主義」が先住している空間であることに変わりはない。つまり、必然的にアメリカと国連は関係を結び付けなくてはならない構造的条件が存在している。

「ドラえもん」のメタファーを使えば、国連がドラえもんになれないとしても、のび太たちと協力して、困難を切り抜ける、映画版のジャイアンのように、そんなアメリカへの期待を抱き続けることは、「多国間主義」を掲げる側の責務となるだろう。

歴史のアイロニー

2005年03月16日 | knihovna
村田晃嗣『アメリカ外交――苦悩と希望』(講談社, 2005年)

昨年秋に表紙カバーが一新されてから、講談社現代新書で購入した最初の本。

内容は、いたって「常識」的かつ平板。入門の教科書として、これからアメリカ外交を学ぼうかと思う人にとっては適しているかもしれない。逆に言えば、意外性や面白みにかけるとも言える。書店に並ぶ際物じみたアメリカ本を批判対象としている以上、「常識」的な論述となるのは当然の帰結といえるので、しかたのないところ。

ただ一面的なアメリカ「帝国」論ではない、アメリカ像の提示が目的であるにもかかわらず、どうもマイケル・ムーアに代表されるような通俗的な議論が批判対象になっている印象を受けるのは残念である。著者の力量を推し量るならば、藤原帰一『デモクラシーの帝国』(岩波新書)古矢旬『アメリカ――過去と現在の間』(岩波新書)に真正面から挑むような議論を展開できただろうし、そのほうが読み応えがあったように思う。

この点を若干敷衍すれば、1章で提示した分析枠組みあるいは視座が十分に後の行論で生かしきれていないのではないだろうか。国際政治学において「常識」ともいえる3つの分析レベル(システム・国内体制・個人)やパワーの3要素(軍事力・経済力・世論を支配する力)と、アメリカの外交思想の4潮流(ハミルトン・ジェファーソン・ウィルソン・ジャクソン)を組み合わせることで、アメリカ外交の特質を描き出そうとする試みにおいて、視座と事象の関連性が弱いというか、表層的な議論にしか見えない印象を受けた。たとえば、外交思想の軸は、結局のところ、ブッシュは…主義で、クリントンは…主義というように、個人レベルに還元して論じられ、せっかく提示した視座が単純化されてしまっている。

アメリカ建国やその存在自体が、ヨーロッパ国際社会(=ウェストファリア体制)のアンチテーゼ、つまり鬼子であるとすれば、もうすこし特殊アメリカ的対外観をめぐる深い考察が求められるだろう。そこに、アメリカを主権国家ではなく「帝国」という別様の政体概念で論じようとする理由があるのではないだろうか。アメリカを論じることが、否応なく既存の主流派国際政治学の前提を掘り崩してしまう契機を内在させているともいえ、とすれば、「常識」的な論述を試みることは必然的に破綻をきたすことになる。

この点は、著者がアメリカ帝国論の例としてほかの著作と一緒にハート&ネグり『<帝国>』(以文社)を扱った認識にも反映されている。すくなくともハート&ネグリの議論に接していれば、安易に彼らの議論を「アメリカ帝国」論として一括りにはできないはずである。またネットワーク権力としてのアメリカの政体構成の特異性を指摘する議論が提起する含意は、通俗的な議論よりも長い射程を持っている。たしかに「あとがき」で「帝国」論を否定したいがために、議論自体が別の意味で一面的になっているのではないかと著者自身も認めているが、批判対象を安易にカテゴライズしてしまう過ちに対してもっと敏感な姿勢が求められるのではないだろうか。「アメリカ外交」を論じる本書が、現実世界で、「テロとの戦い」を遂行するアメリカが、その手法において、ビン・ラディン/アルカイーダ的なるものを踏襲してしまうパラドクスに陥っている状況とパラフレイズしているのは、まさに皮肉である。

最後に、内容とは別に気になる点を2つ。まず大統領暗殺をめぐる奇妙な符合などの、週刊誌レベルの「トリビア」にページを費やすのはいただけない。また時に映画を例として引いているのは、一般読者をひきつける狙いのほかに、もしかすると藤原『デモクラシーの帝国』を意識しているのだろうか、と思ったりした。

まあ、新書に過度の期待を抱かないほうがいいということだろう。

要塞都市へようこそ

2005年03月10日 | knihovna
エドワード・J・ブレークリー, メーリー・ゲイル・スナイダー『ゲーテッド・コミュニティ――米国の要塞都市』(集文社, 2004年)

偶然アマゾンの検索で引っ掛かった。マイク・デイヴィス『要塞都市LA』(青土社)、酒井隆史や渋谷望の議論などに触発されて、都市空間の再編やセキュリティ強化との関連に多少の興味があったのだが、建築関係中心の出版社から刊行されていて、本屋に並んでいたとしてもおそらく建築関係の書棚だろうから、今までその存在を知らずにいたようだ。早速、図書館に入っているかチェックしたが、所蔵しておらず。週末あたりジュンク堂か丸善に出向いて確認することになるだろう。

ちょうど2年前の今ごろ放映された「NHKスペシャル:地球市場・富の攻防」でも、「要塞町の人々」と題して、この話題を取り上げていたことを思い出した。番組自体の主眼は、セキュリティではなかったが、セキュリティ感の変質をもたらす階層/階級による空間の分節化を伴うネオリベラル市場経済の一端を垣間見せてくれるものだった。

物理的な障壁を作らないまでも、メンタル面で、とりわけセキュリティの欠如/セキュリティへの執着に象徴される「過防備都市」(五十嵐太郎の言葉)的状況がここ最近の日本でも感じられるところ。「よき垣根はよき隣人を作る good fences make good neighbors」というロバート・フロストの詩の一節が牧歌的に響く時代が現在といえるかもしれない。

anarchy-hierarchy nexus

2005年02月16日 | knihovna
藤原帰一・李鐘元・古城佳子・石田淳編『国際政治講座(4)国際秩序の変動』(東京大学出版会, 2004年)

ようやく入手。世界政府が存在しない国際社会において、秩序がどのように形成・維持されているのか、昨今のトレンドであるグローバル化のインパクトは国家間秩序にどんな変化をもたらすのか、をそれぞれの論者の視点で考察。各論文とも、ブルの『国際社会論』にある秩序の定義を起点に議論を組み立てている。