boban のんびり 株投資日記

備忘録です。ディトレードなどの短期勝負ではないので、日々の変化はあまりありません。

バブル許した「国際協調」の金看板 平成の30年

2017-10-14 | ブラックマンデーの記憶 1987/10/19
2017/10/14 7:00 日経新聞

 平成が始まった1989年は、年末に日経平均株価が最高値を記録した年である。地価はさらに2年ほど後にピークをつける。その後の平成の経済はバブル崩壊による後遺症に苦しめられた。なぜ日本は、バブルの膨張を許したのか。

重課税導入も焼け石に水

 バブルは、はじけて初めてそれとわかる。日本経済新聞朝夕刊で「バブル」の言葉が登場したのは89年は28回、年初から株価が急落した90年に一挙に252回に増える。

 地価は株価より早く高騰を始めた。85年は東京都心3区(千代田、港、中央)の商業地が前年比5割上昇した。ところが、86年以降は住宅地、首都圏全体、全国へと燎原(りょうげん)の火のように広がった。

 86年当時、国土庁(現国土交通省)の田村嘉朗土地局長は、土地税制見直しや不動産融資に絡む銀行への指導を求めて、大蔵省(現財務省)との調整に明け暮れた。2年以内に土地を転売した場合に利益に9割を超える重課税をする「超短期重課」を導入したが、焼け石に水だった。

 田村氏は88年春にがんで亡くなるが、手書きのノートを残している。「『国民に資産としての土地を与える』土地政策の目標は、『今や適正な土地利用の実現』が最優先課題になった」と記している。

 田村氏の思いと裏腹に、地価対策は簡単には動かなかった。東京の「国際金融センター化」など実需主導という見方も当初は有力だった。不動産融資の総量規制が導入されたのは、都心などで土地取引が落ち込み始めた90年4月になってからだ。

 時の政権にはもっと優先する課題があった。対米関係の改善・維持だ。首相は82年就任の中曽根康弘氏と、竹下登氏(87年11月就任、89年6月辞任)のころである。

 2つの「事件」がかかわってくる。プラザ合意とブラックマンデーだ。

■前川リポート「大幅な経常黒字は危機的」

 時計の針を85年3月に戻そう。「米国は開戦前夜のような雰囲気にあふれている」。大平正芳政権で外相を務めた大来佐武郎氏は、日米経済摩擦に最大級の警鐘を鳴らした。

 日本の輸出競争力は突出した強さをみせていた。貿易黒字は84年に442億ドル、85年に559億ドル、86年に928億ドルと増え続け、米国の反日感情は強まる一方だった。

 貿易不均衡を助長する円安・ドル高を是正しよう――。9月、当時蔵相の竹下がベーカー米財務長官ら5カ国蔵相と「ドル高修正」で一致したのがプラザ合意である。

 合意前の1ドル=242円が1年後には150円台まで円高が進み、輸出産業は大打撃を被った。「円高不況」である。

 そのさなか中曽根首相は前川春男元日銀総裁に経済構想のとりまとめを依頼。86年4月に発表された「前川リポート」だ。「大幅な経常黒字は危機的」と指摘。日本の目標を「国際協調」と「内需拡大」に定めた。

 2つの言葉は経済運営の金看板となり、意図せざるバブルの土壌をつくる。財政再建を掲げた大蔵省は財政出動を渋り、金融緩和や民活がど真ん中に押し出された。

 86年1月に5%だった公定歩合は5回引き下げられ、87年2月には2.5%に下がった。

 87年10月19日。ニューヨーク市場でダウ工業株30種平均が508ドル下げ、1929年を上回る大暴落を記録した。ブラックマンデーである。

■失われた富、GDPの2倍超す

 富士銀行(現みずほ銀行)の頭取、会長を務めた端田泰三氏(08年没)は遺著「落椿」でこう振り返った。「本来は利上げすべき時期だったにもかかわらず一段の金融緩和を進めたから、株式市場が戻ると、土地、ゴルフ会員権、絵画などが一斉に上昇に転じた」

 ブラックマンデーの世界連鎖暴落を止めたのは東京市場だった。利上げを模索していた日銀の動きはぴたりと止まった。

 金融の世界も大きな変化が起きていた。金利自由化で銀行間の競争が激化し、富士銀行と住友銀行(現三井住友銀行)が収益トップを競って「FS戦争」が勃発した。

 両行に限らず、不動産担保融資が急膨張した。地価の高騰で、通常なら土地評価額の70%を目安にしていた融資上限が100%を超えることも常態化。値上がり、借り入れ増、再投資という循環ができあがった。

 行員が担当エリアの土地登記簿を根こそぎ調べ、抵当に入っていない物件の所有者に「土地有効活用」を勧め、新規融資のノルマを達成することも普通に行われていた。

 土地資産のピークは90年末の2470兆円。大きく落ち込み、持ち直す時期もあったが、15年末でも1100兆円台にとどまる。国内総生産(GDP)の2倍を超す規模の富が失われたままである。


■円高恐怖症の克服、なお課題に
 バブル膨張の背景となった国際協調と内需拡大の二枚看板は、日本にとって急激な円高に防衛線を張ることでもあった。
 「1987年の局面で国際協調にこだわった理由として『円高恐怖症』の影響も大きいのではないか。国際協調の枠組みに乗らなければ、協調介入で円高を止めてもらうことができないという考えが浸透したのではないか」
 2000年8月に開かれた座談会で、香西泰・日本経済研究センター会長はこう指摘した。
 88年11月の参院決算委員会。宮沢喜一蔵相(07年没)も率直だった。
 「対米関係で、あるいは円があまりに急激な上昇をしないようにということから金利をなるべく低く置かざるを得なかった」
 本紙の「私の履歴書」でも宮沢氏は「バブルを招いたという批判は甘受する。(中略)当時の頭の中は急速な円高を何とか止めたいということでいっぱいだった」としている。
 米国が多額の経常赤字を出し、日本が米国債の引き受け手となって資金を穴埋めする構図はその後も続いている。日米関係が緊張すると、米政府高官の発言などで市場の円高圧力がかかる例も消えたわけではない。
 逆に、97年に橋本龍太郎首相が米コロンビア大の講演後の質疑で「米国債を売却したいという誘惑に駆られたことが幾度かある」と述べ、ニューヨーク株が急落したこともある。
 元号が平成に変わって、日本経済の構造も大きく変わっている。グローバル展開の進む製造業は工場の消費地立地を進め、円相場の多少の変動で輸出数量が大きく動くことはなくなった。
 それでも円高は海外子会社からの配当を目減りさせ、連結業績に影響する。「円高恐怖症」の克服は、日本の産業界の課題であり続けている。(原田亮介)

■キーワード

・ブラックマンデーと利上げ

 1987年10月19日月曜日、ニューヨーク証券取引所が発端の世界的株価大暴落。当時の澄田智日銀総裁(2008年没)は00年の取材で、これで利上げの機を逃したと認めたが、翌年も「日本ではまだ円高懸念が強かった」と話している。88年は米、西独ともに利上げをしている。日銀OBらに聞くと、ほとんど同じ答えだ。「88年が唯一のチャンスだった」。しかし資産価格の上昇だけで利上げは難しかった。物価がまったく動かなかったからだ。

・日銀と週刊住宅情報

 1980年代後半、日銀営業局では毎週、「週刊住宅情報」の物件価格をチェックする仕事があった。地価高騰に弾みがつき、物価にも跳ね返ると見込んでいたからだ。地価は「一物四価」といわれる。(1)実勢価格(2)取引実績や収益還元を基にした公示地価(3)相続税の評価額となる路線価(4)固定資産税の評価額。公示地価は実勢に近く、路線価はその8割とされる。バブル景気は、株式・土地売却益の増加で税収増を生み、国は一時的に赤字国債発行ゼロを実現した。

・「金融機関のつぶし方」

 1990年5月、日銀の組織改革で信用機構局が誕生した。金融システム監視が狙いだ。初代局長に本間忠世氏(2000年没)、信用機構課長は後に総裁となる白川方明氏が就任。翌月、2人は三重野康氏(写真)から総裁室に呼ばれた。「これからは金利自由化もあり、金融機関の競争が激しくなります。破綻するところも出てくるでしょう。金融機関のつぶし方を考えておいてください」。銀行が不良債権に苦しむのはまだ先のことだった。バブルつぶしで「鬼平」と呼ばれた手腕に毀誉褒貶(ほうへん)もあったが、先を読む勘は鋭かった。北海道拓殖銀行が破綻したのは7年後だった。

・不良債権と公的関与

 バブル崩壊は株価急落で始まり、地価下落が続いた。景気も勢いがそがれ、1992年8月、日経平均株価は1万5000円を割り込む。宮沢喜一首相(写真)は軽井沢のセミナーで「今の銀行の不良融資の状況の中で、場合によっては何か政府が公的な関与をする必要があるのではないか」(「宮沢喜一回顧録」(御厨貴、中村隆英編より)。実現はしなかった。当時の三重野康日銀総裁は自著で「もっと早く公的資金を導入すべきだと考えていた。(中略)首相もその気になったが、経団連首脳につぶされた」。当時、経団連会長は平岩外四氏だった。