独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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  万葉讃歌(6)       佐藤文郎

2019-04-17 16:02:22 | 日記
「便乗はいかん」と言った竹さんが意味ありげに笑っている。何か言いたそうだったが、額の前で、罰点をしめした。「もうヨセ」と云うことか。小林さんは、その背後にいて静かに微笑んでいる。丸さんは短い腕で、マルをつくった。そして、マイクを口に唄うそぶりをしながら、しきりに私を手まねきしてしる。
 彼等は「じいさん、あまり張り切るなよ」と言っているようだ。
  上野先生の万葉体験で始まった「東北人論」を自分の事として深刻に受け取ったのは半世紀前だった。そういう意味での「讃歌」だった。しかし、現在は、私はまさしく“万葉党”として復活です。もうひとり国際的な“万葉党”として、米の作家、ヘンリー・ミラーがいます。この人が、ポルノ作家とは、きいて呆れます。
 当時、十七だったが、H・ミラーは、むしろ文学以前に相似する共感者、私の救世主として現れたと確信したものだ。なんと、其の「うえの」が、彼と、当時現在進行形で何百通も書簡を交わし合う友人だったとは! 万葉から産まれた、このときの「東北論」は、真っ直ぐ自分論だった。表現されている東北が、東北人が、その病める姿は、私怨をにじませた民主教育とやらで、ねじ曲がってしまった私自身だった。深刻というより総ての闇に光を点て心の奥底の生々しいひび割れを照らし出したのだった。
 故郷を出て半世紀が過ぎた。父も母もすでに逝った。現在も、今後もそこに戻ることはない。かつてあった熱狂も、より強力なエネルギーに変化した。あの暗がりから聞こえた呻き声はなんだったのか。幼少からの家出は感情から点火した衝動でしかなかった。だから気分が収まれば、安らぐ場所を求めて還るだけだった。
 それらとは全く違う“出立”だった。幼少期からの渦を巻きつづける憎念があった。東北論を読みこれがむしろ解決に結び付く行動を呼び覚ましていたのだ。
 「うえの」はどうだったか。何にも知らなかった筈だ。彼も又自分の事だけで手一杯だったからだ。それが、凄いのである。本物は万事それなのだ。見ているようで視ていない。視ていないようでいて観ている。
 何をしたらよいかわからぬ教師に、教えてやるなどと思う人間に、教わる事など、何も無いのだ。よみかき、そろばん、それだけでいい。できればよい方だ。自分が範を示してこそ、それが、どんなことであれ、熱となって伝わる。実となって結ぶ。「うえの」にはそれがあった。このひとの真の偉大さを今は誰にも分からない。真実が判るには、何年もの、気の遠くなるような年月を経るのである。
 数人は読んでくれたと思う。ありがとう。途中になりますが、予定を変更して今回で終了になります。

▲ 箱船の神話(万葉集のポエジーをメデアとして)
【ノアと彼の三人の息子達と、彼等の妻が箱船から出て地上に立った時、彼等につきまとっていた一切の伝統はなくなっていた。すべては全く新しくつくりだされなければならない状態におかれていた。これは、創造的に生きようとする人間にとって、必須の条件である。今日、果たして我々は、箱船から降り立った状態で、いっさいの伝統と、歴史の死滅した純粋環境の下で生活をはじめているだろうか。
 昨日の恥をきょうまで引きずっていることはないのだ。それは致命的な傷となる。昨日の名誉を、きょうなお誇っているような人間もまた、足下がひどく不安定になっていて、新しいことを敢行するに足る力はないのだ。
 ノアは、ノア自身の先祖とならなければならず、三人の息子達も、今後現れるであろう民族の先祖とならなければならなかった。一切の前例を失ったのだ。すべてのモラルや美徳も消滅した。すべての基準はなくなったのである。
 そこから出発する時、一切の行為は、創造的なもの以外ではないはずだ。何もあたりをキョロキョロ見まわして、人の顔色や、手つきを盗み見する苦労はいらなくなる。自分の言葉で自分の考えを語る自由こそ、唯一の美徳となる。心が裸のまま、言葉と直結して語られる時、どんな人間でも、最大の文学と、至高の宗教、哲学が表現できるのだ。技巧ではない。才能でもない。裸の魂が、何ら飾られず、前例や常識で化粧されることなく言葉に直結するなら、その人間の最も美しく、力にあふれた個性が発揮できるのだ。
 ノアは、今、この立場にたたされていた。この環境こそ人間は、どんなに重傷で苦しみ、不治の病で絶望していても、この環境に入る時にこそ、回生の機運にのることが可能なのだ。
 こうしたおどろくべき環境の中で、人間は、誰でも酔うようになる。感動が連続して彼をおそう。彼はこおどりしながら歓びに満たされ、涙を流して感謝し、嘆き、火を噴くような激怒に支配され、甘さこのうえない情緒に溶けこんでいける。酔うとは酒に酔うことではない。人生全般の事柄に、常識を超えた異常さで感動することなのだ。ぶどうづくりに精を出したノアは、そのことに依って、人生の苦悩を身をもって味わったことをしめしている。しかし、彼が飲んだのは、無責任に、祭りや集まりの際に口にする、いわゆる酒ではなかった。祭りや集まりは、もうどこにもない。それらは、大洪水ですべて姿を消してしまっている。彼は、自らの内部の神聖な感動に酔わなければならなくなってきている。そして、そういった感動は、日毎に彼の味わっているものであった。
 酔うとは興奮することである。感動が、大きく活動し始めることであり、魂が、やわらかく解きほぐされていくことである。人生が劇的になるところには、かならず魂が砕かれて、周囲に美しく華やかに飛散してかたちづくる華麗な徴候が、はっきりと観られる。
 ノアは、歴史を失っためぐまれ人間として、興奮し、発奮しないわけにはいかなかった。先祖をなくした者、親と縁を切ったものとして、どうしても、一種の創造者、一種のゼウス、一種の大先祖にならないわけにはいかなかった。彼は、激しく興奮のるつぼにたたきつけられた。何一つ、既成のモラルに囚われない人間として、自由自在に酔わないわけにはいかなかった。純粋この上ない人間と——————(中略)】

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