独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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放蕩息子の更なる告白  (百三十三話) 佐藤文郎

2019-07-20 10:13:35 | 日記
  闇と光
 光と闇でもよいのですが、光と闇は、いたる所で、勢力争いを演じていると思います。それも昔から、歴史的にもずっと以前から、地球規模で演じられて来たのです。そしてこれからも、決して無くならないでしょう。そのように一貫して自分の意見として云ってきた。自分の心の中も同じで、組んず解れつやりあっているのです。最近判った事は、その勢力がどちらかに偏らずにいるときはよいが、一方的に片寄ると、どうも調子が悪くなることがわかった。
 誰だって、光の当たる方がいいと思うに決まっている。しかし、文学を六十年もやってきて解った事は、文学は、闇を研究し、体験し、その奥にある光を発見する事だったのです、部屋一杯に光で溢れているだけだったら、不安でいたたまれなくなるだろう。
 それはともかくとして、その両陣営の争いは、個人の心の中はもちろん、家族の間でも、学校でも、町内や,会社でも国でも世界規模でも、表面はともかく、内部では闇と光が争っているのです。しかし、個人の心の中から判断する限りだが、どちら側か一方になるということはないのではないか、このアンバランスこそが、究極の結論ではないか。そう思ってみたくなる。でもそれはないだろう。どんなに、アンバランスで居心地がわるかろうと、心地よさを求めて勉強し、汗をかき、努力することが大切なのだろう。
 彼等は、バランスを突き崩し、落ちて行こうとするのはなぜだろう。とりあえず幸せでいようという気持ち、それがもっとも不安定な場所なのだが、みんなが、喜んでくれるから、不安な姿をみなくてすむから。
 だが、運命としか呼べない出来事に遭遇することがあるのです。私もそのクチでした。幼年期に、少年期に、思春期に、いずれも天地がひっくり返る様な目に合ったのです。そして人生の後半に、ぎゃふんとさせられる様なことを招いてしまった。普通はそこで息を引き取り、誰もが、こんどこそ、こいつは、これで終わりだったかと思われる。しかし私は、蘇生し、不思議にバランスが甦った気持ちがしているのです。そんな中、上野霄里先生のメッセージが、あの、「令和を前にした書簡(2)」が名久井先生によてもたらされました。この次に、掲載させて頂くことに、予定しています。

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