独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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  公園で法然と親鸞を想う         公園小父さん

2017-03-30 15:44:19 | 日記

『親鸞 教科書記述に変化』(朝日新聞3/17朝刊)を読みました。これは、このことに異を唱える文章ではないことを最初に言っておきます。教科書に関心があるわけでもない、最近たまたま散歩途中、公園で読んだ文庫が、親鸞と法然だったので多少興味を覚え思うことを記してみたのです。私はこのような様々なものをもっと掲載して貰えればと思っています。
 高校の倫理の教科書に今まで、親鸞について、師の法然の教えを「徹底」「発展」させた弟子とあったそうです。これではどちらかと云えば法然のほうが親鸞より劣ると誤解を与えかねないので、教科書の表記を見直す動きができたと書いてあります。
 そして改められた記述の変化をみると、親鸞は「独自に」「新たな教説を生み出した」また別の教科書も、親鸞は「法然の教えを継承しつつも、独自の道をあゆむことになった」「法然の教えを独自に展開して」と修正されたそうです。
 二人の宗祖は師弟の間柄であるが、私は、二人の違いはむしろ明瞭だと思いました。だから、独自の道をあゆんだし、独自に展開した、で間違いではないと思います。はじめにあった優劣という解釈や見方はおかしいと思います。生徒達は教科書での出会いの後に認識や体験を経て、興味が深まれば自分達で探求、考究を深めていくのだと思います。
 親鸞が叡山を下りて法然のもとを訪れたのは29歳の頃でした。69歳の法然に弟子入りしています。40の違いです。一大決心の末のことでした。師弟には、やがて流罪(直接関わった事件ではなかった)が待っていました。法然は75歳、讃岐へ、高弟はじめ弟子のほとんどが死罪または流罪になりました。親鸞はこの時35歳でした。やはり越後に流罪になっているので京都で師弟共に過ごしたのは六年弱です。その後再会する事はありませんでした。
 親鸞がいかに法然に傾倒し帰依してたかは、親鸞の『歎異抄』(弟子、唯円が師の言葉を聞き書きしたもの)の二段に、
 《たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、地獄におちたりとも、さらに後悔
 すべからずさうらふ》とあり、覚如著『執持鈔』は親鸞の語録だが、そこに
 も 《故聖人(黒谷源空聖人御ことなり)のおほせに、源空があらんところ
 へゆかんとおもはるべしと、たしかにうけたまはりしうえは、たとい地獄な
 りとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり》
 
 法然聖人は『選択本願念仏集』という〝仏教の全骨格〟を記したと云われる著書を書きました。その書写(書写を許されたのは、三百八十余人の門弟のうち、直弟子十人足らず)を許された中でも新参者で末席の親鸞が許されたということを、親鸞は後年涙にくれながら内容を讃嘆し、感謝とともに語ったと云われています。その書について法然は「源空(法然)存生の間は、秘して他見に及ぶべからず」というぐらい、この書について誤解を恐れていたらしいのです。「庶幾(ねがわ)くば、一たび高覧を経たる後、壁底に埋め、窓前に遺(わす)るる莫(なか)れ。恐らく破法の人を悪道に堕(おと)しむるなり」と。
 
 法然は当時、仏教改革者としてヒーロー的存在だったと云われている。
 『青年法然は気を負うたる求道者、修学者であって、書を読むにも自分の批
 評眼をもって読み、叡空*(比叡山で師事)と議論の際のごときも──』一歩
 も引かなかったという。『──また三百五十年間偶像視されて何人も一指を加
 えなかった弘法大師の十住心論(じゅうじゅうしんろん)さえ非難している。
 これは当時一青年僧の態度としては恐るべきものであった。彼は常に「学問
 は、はじめて見立つる時はきはめて大事なり、師の説の伝習はやすきなり」
 と言った。いわゆる要求を持って書を読むので、鵜呑みにするのではなかっ
 た。故に叡山の書庫を漁り尽くしても、彼の要求を充たすに足るものが見つ
 からなかった。』
                  (法然と親鸞の信仰─倉田百三)
 
 法然に関するものも、親鸞に関するものも幾らでもこの公園内の図書館で目にする事ができる。これは法然の青年期の挿話だった、そして法然にとって恵心(源信)僧都の『往生要集』との出会いこそ決定的だったといわれている。
  
  『法然が往生要集を読んだのはもちろんこれが初めてではない。叡空とも
  往生要集について議論しているし、二十六歳の時、関白忠通の前でこの書
  を説いて知者第一の称を得た。しかしその時にはまだ法然の心境が逼迫し
  ていない。余裕がある。充分貧しくなっていない。ホコリがある。まだ「智」
  をたのんでいて、それに絶望していない。まだどうにかなるだろうと思っ
  ている。しかしいったん心機が熟するや、全く新しい、神来的な光明をも
  って、新天地、新世界をひらいて見せたのである。その文字は散善義の、《一
  心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨て
  ざる者、これを正定の業と名ずく、かの仏の願に順ふが故に》
                   (法然と親鸞の信仰)                  
 読んでいるといくらでも孫引きしたくなるところが出て来る。最後に配所に向う法然の有名な誰でも知っている遊女とのエピソードがある。
 一行は室津に着くと、当時港には廓(くるわ)があって、船が入ると、屋形船で遊女達が来て客の疲れを慰めるのが常だった。
  
  『法然上人様のお舟だという事は知っている。妾たちは引き出物を貰いに
  来たのではない。卑しい稼業をしている身ながら、尊い上人様の御勧化(ご
  かんげ)にあずかりたいのだ」と言って、なかなか退こうとせず、御座舟
  のまわりを廻っていた。
   法然はあわれに思って、船にあげてやって、女人往生の話しを聞かして
  やった。
  『あなた方は運拙(つた)なくしてそういう稼業に身を沈めているのだ。
  人間は宿業(しゅくごう)次第で誰がどんな境遇に陥(おちい)らないと
  も限らない。念仏というものは、そういう運の拙いもの、宿業の深いもの
  のために設けてある法門なのだから、心配する事はない。あなた方は出来
  るなら、今の稼業をやめてしまって堅気になって、念仏するに越した事は
  ない。しかしどうしても、止められぬ事情があるなら、今の稼業のままで
  よろしい、ただこんな卑しい稼業をしている罪深いものでも、お救い下さ
  ると信じて、念仏を唱えれば、必ず往生疑いない』
   遊女達は法然から目のあたり、自分たちの境遇をちゃんと承知の上で、
  掌の上に受け容れてくれる弥陀(みだ)の救済の話を聴いて涙をこぼして
  喜んだ。
                   (法然と親鸞の信仰)ヨリ

 文庫から目を転ずると、公園の桜もおおかた見頃を迎えていることに気が付く。先日認知症予防のためには同じ散歩でも早足のほうが効果的だと言っていたが、精神衛生のためにはゆっくりと歩を進めながら草花や昆虫や風や匂いや人達の立ち居振る舞いなどに、こころを向けるでもなくむけながらそぞろ歩く方が私は好きだ。つまり何にも目的のないあゆみである。それでなくとも、ひたすら、目的にむかってただ歩きに歩き続けてきた反動であろうか。
 だが、公園内ならいいだろうが、街の通りを散策する時に気をつけなくてはいけないのは、立ち止まって家の軒先や二階の窓や花壇の花に見蕩れたりジロジロ見たりするのは、見とれていると間違われるのは気をつけなくてはいけない。
 早足で通りすぎるにかぎる。
 
 法然は、“目から鼻にぬける”秀才タイプだったが、親鸞は、一時期法然だけには見所があると思われたふしもあるが、総じてその生涯を通じて挫折と絶望の連続だったらしい。法然と出合う直前のようすを紀野一義著「名僧列伝(三)念仏者と唱題者」は書いている。「この頃の親鸞は、抑えても抑えても湧き上がって来る烈しく身を焼く愛欲の情念に苦しめられていたに相違ない。その頃の僧には妻帯している者も多かった。表向きは清僧でも、ひそかに女との愛欲に耽(ふけ)る者が多かった。親鸞はそれができなかった。精神的に深いものを求める者は、反面において甚だしい性欲に苦しめられる。抑圧されているだけにその性欲は毒気となって親鸞を苦しめるのである。
 思うに、際立っていいこともせぬ代わり際立って悪いこともしない男は、生命力が弱いのであろう。生命力が弱いから性的欲望も淡く、いわゆる、やさしいいい人で世間を通り抜けて行くのである。そして、いてもいなくてもよかったような人生を哀れにも細々と送って果てるのである。
 親鸞はそうは行かぬ。後に「愛欲の広海に沈没し」と告白したのは、比喩的な言い方でもなんでもない。性欲そのものに苦しめられ通したのである」。

 紀野先生は、立場があるので書けなかったでしょうが、親鸞の弟子唯円の「書き止めの書」『歎異抄』(明治の末年までは教団の一部のものにしか知られていなかった)や、最晩年の『和讃』を読めば解るでしょうが、他の僧は女遊びをした、親鸞は性欲が他僧より烈しかった云々、一体偽善者はどちらなのだろう。
 親鸞がなぜ苦しんだのか。ひと密れず、誰にも気付かれずに女を抱いていたからであろう。破戒僧であるから苦しんだのである。私はそう確信している。でなくば前述した二著の中の語りや言葉はありえない。
 







 

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