独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
自分の日常や、四十五年来の先生や友人達の作品を写真や文で紹介します。

放蕩息子の更なる告白(百三十一話)Ⅳ  佐藤文郎

2019-05-11 17:33:51 | 日記
 Hさんは二廻りほど私より年齢が若い。校正もそうだが、校閲にむしろ厳しい。私が以前書いた「『自然とカミ』序」という文章が有るが、それの“カミ”に食らいついたことがあった。これは「いけない」というのである。ゴットならいいが“カミ”はいけないと言って、めずらしく感情をたかぶらせたことがあった。
 私はどちらでも良いような気がしたが、いざとなったら、“ゴット”も“God”もだめで“神”はもっといけない。そんな気持ちになる自分に驚いたぐらいだった。深い考えもなく“カミ”としたように思いたいが、彼のクレーム(異議)で、あらためて“カミ”しかないと思った。
 私は、五つほどの宗教に出入りした不信心ものである。若いころは特に、誘われれば付いて行くのである。そうやって上野先生にも、あの「女上野」と私が命名した(この事に就いては『放蕩息子の告白・後編』に書くつもりである)宗教の女性にも付いていった。しかし、しばらく経つと、どうしても許容できない場面にぶつかるのである。いや、思うのではない、それ以前というか寸前に、本能的にかんぬきのようなものが掛かるのである。
 青森市内で、小さいがフランチャイズの呉服業を営んだ。博多の大株主にいわれるまま法人にし、代表になった。日々の訪問販売や、一年に一度、二度の展示会を開いた。厳しかったが、東北ではどこの店にも負けなかった。展示会の売り上げは二日で三千万を下らなかった。
 しかし三年目の暮れに、大株主と対立し身を引いた。家族を置き、一時大株主の経営する名古屋の会社で運転手をしていたが、「アルバイトニュース」の情報から、新聞販売店に入り、やがて,岩倉市の老舗の販売店に転職し、朝夕刊の配達、集金、営業をするようになった。
 ある朝である。いつものように日の出を迎えていた。私は立ちすくんでいた。涙がにじんでいたが,心では,もっと泣いていた。原因はわからない。感謝という言葉が、漢字が浮かんだ。そのあとは、有り難い、という気持ちがわき上がってきて身ぐるみその感情に包み込まれた。「太陽」という事は知っているが、その言葉の前は「原始太陽」である。それも言葉である。その言葉の以前にもこの存在を見ていた人達がいた。頭を下げたり、掌を合わせたりしただろう。
 1985年の事であった。何日間かしてあの文章ができた。この文章の最後の言葉が,最初に浮かんだ言葉だった。『太初(はじめ)に愛があった 愛はカミと偕(とも)にあった 愛はカミだった』。ヨハネ福音書では『太初に言葉があった 言葉は神と偕にあった 言葉は神だった』である。私は,持っている語彙も少ないので、舌ったらずなので、何でも利用してしまう。持ち合わせの言葉で、その時の感情を精一杯、表しただけなのだ。愛という感情は、何処の国も共通する物である。H氏のいうことは間違ってはいない。神と書いても、神道と、キリスト教と、またイスラム教は異なるのだ。私がカミと書いて,特別その意義を述べる訳でもない。「こんないい加減なものはない」と思ったとしても不思議は無い。
 あの文章を書いたその時受けた霊感のままの偽らざる気持ちなのである。それが、私の身体や精神を貫く心棒である。心棒はゆらぐことはない。心棒が出来ないうちは、ぐらぐらと、クラゲのように方向も定まらず波間を漂うだけの信念クラゲであったが、今は理念や雑念は必要なく、動じないという意思さえ無い心棒となった。
 子供のころから、祖父、父,母、姉、私と一列に並び、始めに、恵比寿様、神棚、そして仏壇と、順々に手を合わせる仕来りだった。正月二日は御恵比寿様に、鮒を上げる習わしだった。鮒と言えば、私が小学二年の頃、鮒を捕って来て、母に見せた。母を喜ばせたかった。「よく捕まえたね」とか、「ずい分大きい鮒だ」とかいって褒めてもらいたかった。しかし、いつまでたっても、唯見ているだけだった。鶏だって、見ている前で、「ここは心臓、これが肝臓、ここは食べられない」と言いながら,あっという間に下ろしてしまう人だった。今思うに、恵比寿様に鮒を用意するのは母の役目で有った。じっと眺めて,私が遊びに気が向いていなくなるのを待ったのかもしれない。
 エホバの証人の方でも、他の宗教のかたも、熱心に戸別訪問をされている。公園でお話した事も有るし、茶店でお話しする事もある。最後に心棒の話をする。勧めたりはしない。彼の人達の信念は、また心棒はゆらぐことはない。H氏に“カミ”はいけないと言われ、自分では何でもよいと思い、書き換えようと試みたが“神”ではない、“God”でも“ゴッド”でもない。“ない”と、自分の中で拒否するのである。文章は拙いが、どの一字も変更は出来ないと,あらためて気づいたのである。思っているだけではだめで、文に定着させて、ゆるぎないものとなっていた。
 お話かわって、上野霄里先生の一番弟子である名久井良明先生から、上野先生からのお便りが届いたと、そのコピーが送られて来ました。とくに、私のブログに掲載してほしいという依頼原稿ではないのですが、おそらく先日の、[万葉讃歌]の文章の中に、上野先生のお便りを引用したさせて頂きましたが、日付に年号を付さなかったので、それを明確にするようにとの意向をくみとることが出来ました。この一年以上全くお便りはなかったし、私はと言えば電話でばかりでしたから、横着をしてしまいました。私は手紙が苦手で、何を書こうかと信号を見落としたり標識を見誤ったりで、あとでもめ事の種になりかねません。電話ならまちがいがないという安心が有ります。直に向かい合っての会話ならもっと安心ですし、特に,上野先生とは、何にも代え難いひと時として待ち望んでいることなのです。私は先生の声が良いので、若い頃から、落ち着いたバリトンのその声に励まされて辛いときも乗り越えて来ました。鼻髭を指先で触れながら目を細めた笑顔になり、やがて大きな口を一杯に開け、喉の奥まで見せながら,声は立てずに、呼吸は止めたまま、しばらく、笑い切った様にそのままでおり、抑揚をつけたうーん、うーんとか、三四回つづけ、感嘆符で落ち着くのです。
 しかし,こういう事が有って、先生のお手紙を,しかも長文の感動的なお便りを拝見する事が出来ました。令和の上野霄里先生です。厳密には、令和元年を数日後に控えた先生のお手紙を、この後公開致す事にします。ご期待下さい。


 




コメントを投稿