須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

書評に光を─ミシェル・ロスタン著『ぼくが逝った日』について text 280

2012-05-31 00:13:50 | text
「ぶるうまりん」22号の入稿が漸く終わり、校正待ちの状態である。このまま順調にいけば、6月下旬の発送になるだろう。今号の特集は「書評の光①」。内部より3本の書評が発表される。俳誌の書評といえば、句集評が相場だけれど、「ぶるうまりん」はそれに限らない。むしろ俳句の外延部に積極的にスポットライトを当て、それによって、俳句の光を浮び上がらせようというもの。俳誌だからといって、徹頭徹尾俳句だけでは、必ずマンネリに陥り、行き詰まってしまうにちがいない。この特集は、何回か続けたいと思っている。

このほど週刊読書人より、ミシェル・ロスタン著『ぼくが逝った日』(白水社/2012年5月15日発行)の原稿依頼があり、電子メールで送稿した。編集部から折り返しPDF版のゲラが届く。掲載日は、6月8日(金)発売号とのこと。ご興味のある方は、ぜひ主要書店に行って、手にとってほしい。この本は、1942年生まれの著者が、息子の死について書いた処女小説で、昨年度のゴンクール処女作賞を受賞した。小説と拙稿の内容を、ここで述べるわけにはいかないけれど、一つだけいえるのは、この小説が父親ではなく、息子の視点で書かれていること…。それがどんな意味をもっているのか、週刊読書人の拙評をお読みいただければ、幸いだ。

週刊読書人から俳句外の小説の書評を依頼されたのは、最初、阿刀田高の短編集『こころ残り』(角川書店/2005年2月25日発行)だった。以来、佐藤洋二郎『腹の蟲』(講談社/2010年8月30日発行)、池上永一『統ばる島』(ポプラ社/2011年3月14日発行)、椎名誠『そらをみてますないてます』(文藝春秋/2011年10月15日発行)と続く。ご覧のように、今まで、日本の小説に絞られた書評依頼を受けたのであるが、今回はフランスの現代小説。それもほぼリアルタイムに書かれたもので、筆者としてもおおいに十分な期待をもって、精読したのだった。ミシェル・ロスタンはオペラ演出家で、1995年~2008年カンペールの国立コルヌワイユ劇場の舞台監督を務めた。

第17回「草枕」国際俳句大会のリーフレットが送付されてきた。筆者は、一般選者を務めることになっている。熊本で行われるこの大会に筆者がかかわったのは、2009年(第14回)、2010年(第15回)である。昨年(2011年)は熊本の同大会が「ねんりんぴっく」(全国健康福祉祭)と併催されたので、筆者は選者を務めなかった。今年の大会の募集要項は、「草枕」国際俳句大会のWebサイトに詳しく掲載されているので、ぜひご覧ください。ここにポイントを記せば、①締切=2012年8月31日、②投句料=2句1組で1000円(定額為替または現金書留)、③選者=今井千鶴子、岩岡中正、宇多喜代子、大岳水一路、岸原清行、倉田紘文、須藤徹、寺井谷子、坊城俊樹、山本洋子(敬称略)、④賞=大賞10万円(1人)ほか。当然のことながら、応募作品は「雑詠」未発表です。(一般部門のほかに、ジュニア部門、外国語部門、俳画部門、当日投句部門があります。)

五月を縫う艦載機なら白飯を    須藤 徹
林の中タブレット端末燃えている    同

*写真は浦上天主堂

風に笑む生絹(すずし)の二人─万緑の長崎から text 279

2012-05-30 00:58:48 | text
2012年の5月29日現在で、ブログ開設より2584 日、つまり7年有余が過ぎたことになる。ブログの開設日は、2005年5月3日。よくも細々とここまで続いたものである。これもひとえに、このブログを熱心に読み続けてくださる読者の皆さまのお蔭にちがいない。あまりアクセス数には興味と関心を寄せない筆者であるけれど、いちおうお知らせしておこう。365560…。この数字が多いのか少ないのかは、よくわからないが、いずれせよ、とりあえず50万アクセスまでに届くように地道に努力したいと思う。それには、何よりも読者の後押しが必要なので、静かな応援(アクセス)をお願いしたい。

5月12日(土)、姪の華燭の典が長崎のグラバー園内オルト邸にて行われた。披露宴は、同日夕刻、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルで盛大に開催された。素晴らしい五月晴れで、グラバー園内からは眼下に長崎の街が一望できた。(写真参照。)披露宴終了後は、筆者の家族を中心に、親戚の一部の人たちと連れ立ち、夜景の美しい稲佐山山頂展望台へ行く。ANAクラウンプラザホテルに一泊した翌日は、筆者の家族だけで、出島、崇福寺、眼鏡橋、平和公園、原爆資料館、浦上天主堂などをめぐる。30歳そこそこのときに、G社の取材でカメラマンと一緒に回った事実は、ほとんど風化して記憶にない。

1678年(延宝6年)、35歳の芭蕉は<かぴたんもつくばゝせけり君が春>(江戸広小路)と詠んだ。「カピタン」(甲比丹)とは江戸時代、東インド会社が日本(出島)に置いた商館の最高責任者「商館長」のことである。毎年1回春に、貿易免許のお礼に江戸に赴き、将軍様に貢物を捧げた。将軍様は、その「カピタン」も這い蹲わせるほどの、ご威光あまねき絶大な権力をもつ、めでたい春だというのが句意。反体制の鋭い切っ先がなく、お上従順の芭蕉のこの句に対し、筆者はやや不満をもつけれど、あるいは芭蕉はラディカルな愛国主義者であったのかもしれない。そう考えれば、筆者の不満も少しは軽くなる。

出島のそのかぴたん部屋(館)を隈なく見学した。当時、日本の役人や大名などが出島を訪れたとき、接待の場所としても使用されていたという。運よく地元のボランティアガイドさんが、筆者の家族に付き添って、懇切丁寧にそのかぴたん部屋を案内してくれたのだった。驚いたことに、ボランティアガイドさんが案内してくれたものに、まったく窓のない「女中部屋」というのがある。出島に着任する商館員たちは、妻子を同行することが許されない。出島に出入りを許された唯一の女性は、丸山町や寄合町の遊女たちだった。その遊女たちがお相手するところが、この「女中部屋」にあたるのである。

出島の門をくぐった其扇(そのおおぎ/そのぎ)は、禿(かむろ)とともに広い道を歩いて行った。西の方向で遠雷の音がしている。/道の左側は菜園になっていて、日本ではみられぬ西洋の野菜が栽培されていた。右方の建物の屋根の上にはオランダ国旗の三色旗がみえたが、微風にわずかにゆれているだけであった。出島には、商館長をはじめ主だった館員たちの居宅や玉突場、倉庫、豚舎など六十五の建物がならび、ほとんどが二階建で、木造の洋館であった。」(吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』より。)

2006年に亡くなった吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』において、出島はこのように描かれている。「商館長をはじめ主だった館員たちの居宅や玉突場、倉庫、豚舎など六十五の建物がならび、ほとんどが二階建で、木造の洋館であった」とするが、筆者たちが実際に見た復元建造物は、それよりはるかに少ないものだった。引用文中の其扇は、本名楠本滝で、10代のとき、オランダ商館医であった20代後半のシーボルトと出会い、みそめられた。その後生まれたのが、楠本イネであり、彼女は日本初の産科医となった。「ふぉん・しいほるとの娘」とは、このイネのことである。

ひとごえもすずめ隠れにオルト邸    須藤 徹
万緑や生絹(すずし)の二人風に笑み   同
万灯の帯がしゃべるよ稲佐山        同