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須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

ばっく・とぅ・ざ・ふゅーちゃーその3 痕跡を消す俳諧言語─服部嵐雪と『玄峰集』

2013-04-02 18:42:40 | extra B

<主> 今日は、よくお越しくださいました。服部嵐雪の『玄峰集』に登場する句について、予定どおり、お話したいと思います。 

<客> 嵐雪は、芭蕉の高弟ですね。 

<主> 嵐雪は、承応三(一六五四)年の生まれですから、松尾芭蕉より十歳後輩になります。芭蕉に入門したのは、延宝三、四年頃といわれていますから、二十歳はじめのころです。寛文元(一六六一)年生まれの宝井其角より七歳年長ですが、芭蕉入門は、だいたい同じ時期です。この二人は、芭蕉の弟子としては、ほぼ最古参になり、大変な実力もありましたから、やがて蕉風のリーダーになります。 

<客> 「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と芭蕉が称えたというエピソードがありましたね。 

<主> さて、今日はその嵐雪の『玄峰集』に掲載されている句について、話すことになっていましたね。『玄峰集』について、少しお話しましょう。俳諧撰集『玄峰集』は、嵐雪著で、小栗旨原という人が編集し、寛延三(一七五○)年に板行されました。つまり嵐雪没(一七○七年)後ということです。編者の旨原は、嵐雪と其角に深く傾倒し、『玄峰集』のほかに、其角の『五元集』と『続五元集』を編集しています。 

<客> 其角の『五元集』と『続五元集』は今に読み継がれている名著ですから、それらを編集するだけで、後世に名を残しますね。 

<主> 旨原は編集者としても優秀でしたが、清水超波について学んだ人で、『風月集』という俳諧撰集もあります。この撰集には、旨原の発句が一千余句収録されています。

<客> 嵐雪の『玄峰集』は、どんな内容ですか。

<主> 嵐雪の発句が、四季類題別に四百二十三句と俳文一編、巻末に辞世吟一句が載ります。<一葉ちる咄(とつ)一葉ちる風のうへ>という辞世吟です。嵐雪は、宝永四(一七○七)年十月十三日に、五十四歳で亡くなるのですが、その日、門人に看取られながら、この句を遺したのです。 

<客> 嵐雪には、<うめ一輪一りんほどのあたたかさ><夢に似たる夢哉墓参り>など、ことばをリフレインさせる作品が少なからずありますね。<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>の句も、「一葉」がそうでしょう。 

<主> そうですね。私が少しこの句に触れ、それからあなたに、嵐雪の辞世吟について、あなたらしい解釈を聞かせて欲しい。一句のポイントである「咄」は、黄檗宗に学んだ嵐雪らしい禅的なことばです。「喝」とおなじで、人を叱るときのことばです。宮本武蔵の『五輪書』の「水の巻」には、「喝咄」ということばが出てきます。 

<客> 「咄」のご説明を聞いて、この句の真髄が少し分かってきたように思います。 

<主> 『玄峰集』には、この句の後に、こういうエピソードも掲載しています。「…此初の一葉ちる咄とは世をはぜぬけたる所にて是よりは皆風塵を出し物なりといふ事とかや或禅師の曰何事も道に最ぬけざればいで大事の場合に臨みて心おくるゝ物なり嵐雪いま此の所に及びて一句みだれず殊に咄の一字宗學たけたるものにても容易に出ぬ事なりと此真跡を見られたる折深く賞賛してやまざりき」。 

<客> お話を聞いて、<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>の句の奥行きが理解できました。「今、私は末期にあり、桐の一葉が大地に落ちるように死ぬように思われようが、そうではない。私は、咄の一語で、弾みがついて澄みきり、風の上のさらに上方へ空(くう)となって光かがやいてゆくのだ」というような意味でしょうか。いずれにせよ、「咄」と「風のうへ」が、一句の生命線になっていると思います。凡人では、「咄」と「風のうへ」のことばは、なかなかいえないような気がします。 

<主> なるほど…。ところで、あなたは、マルティン・ハイデガー、ジャック・デリダ、ポール・ド・マンなどの哲学者の思想に親しんでいられます。この句を、それらの哲学的言説で解釈することは、可能ですか。 

<客> さあ、どうでしょうか。数年前に、ある雑誌で、モーリス・メルロー=ポンティの身体的考え方で、歌仙を解釈したことがあるのですけれど、俳諧そのものをデリダやド・マンなどの思想を抽出して、句に当て嵌めるのは難しいかもしれません。 

<主> そういわないで、少しお話を聞かせてください。歌仙と俳諧(発句)は、通底するでしょう。 

<客> 私は、基本的には、一句は連続的に「痕跡」を消す営為だと考えています。その前提として、歌仙の36句は、それぞれが緊密なリンケージを形成するものですけれど、しかし長句・短句のそれぞれは、前句の「痕跡」を大胆に消してゆくものでもあります。 

<主> 「痕跡」ということばは、デリダの「差延」の考え方の根幹をなすものですね。 

<客> たとえば、「紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌ」(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』)を食べておいしいと思ったとき、その直観は、「痕跡」となって、私自身を浸襲します。私は、これを幽霊的現前といっているのです。 

<主> 嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>句にそくして、解釈してほしいのですが。 

<客> 「一葉ちる」と最初に嵐雪が呟いたとき、瞬間的にその「痕跡」に侵襲されることに、彼は気づいたのです。そのことばの幽霊的現前に、我慢がならなくなり、「咄」と喝を入れて、そのことばをいったん全否定したのでしょう。この時点で、彼はハイデガー的「現存在」を、無意識的ながら探ったのだと思います。つまり、内容を絶対的に確保しながらも、意味を派生させない純粋言語を求めたのでしょう。そこで「一葉ちる風のうへ」といったのです。 

<主> ド・マン的に解釈することは可能ですか。ド・マンの著作の翻訳は、2012年9月に、『盲目と洞察』(月曜社)、同年12月に、『読むことのアレゴリー』(岩波書店)と立て続けに出ましたね。 

<客> たとえば、ド・マンは、「レクチュール」(読み)における「誤読」を示唆します。「テクストはそれ自身の様式の「修辞性」を説明しつつ、それ自身が〈誤読〉される必然性をも前提としている。それは自らが誤解されるであろうことを知っており、かつそう主張しているのである。それが語るのは、自らが誤解される物語、その誤解のアレゴリーである。」と、彼は、その本の中でいっています。 

<主> 「テクストは、必ず誤読される」ということですね。私も、その意見には賛成します。しかし、「誤読」というより、「別解」というべきではないですか。 

<客> いや、ド・マン自身は、「誤読」といっています。彼は、テクストそれ自体が内包する「誤読」について、明晰に言及しています。引用した箇所をよくお読みいただければ、それがフランツ・カフカの『城』や『変身』に、よく当て嵌まるのではないでしょうか。ご承知のように、カフカの『城』は、官僚機構の矛盾や人間の不条理をテーマとしていると、よくいわれるけれど、果たしてそうなのだろうか。カフカ自身は別段そのようことを意識して、小説を書いたわけではないし、テクストもそうしたことをつよく主張しているわけではありません。 

<主> カフカの『城』は、わが家にあるので、冒頭のところを読んでみましょう。「Kが到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。Kは長いあいだ、国道から村へ通じる木橋の上にたたずみ、うつろに見える高みを見上げていた。」原田義人の訳です。 

<客> 結局、「城」は姿を現さず、その全容が最後までわかりません。この冒頭のところだけでも、十人読めば、十人の読みがあり、ド・マン流にいえば、すべて「誤読」されましょう。まさに「誤解のアレゴリー」ですね。 

<主> 嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>に戻りましょう。私見を述べると、芭蕉の病中吟<旅に病んで夢は枯野をかけ廻る>は、辞世吟としてとらえていいのかどうか、意見が分かれるところです。私は、この句について、昔から、芭蕉の「妄執」の極致の句と思っています。これは、ド・マンにならっていえば、私の「誤読」ですが…。嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>について、さきほどあなたは、「内容を絶対的に確保しながらも、意味を派生させない純粋言語を求めた」はての一句といいましたね。その考え方に即していえば、芭蕉の「枯野」の句は、あまりに意味があり過ぎるにように思います。俳諧師としての「妄執」によって、毎日をギリギリに生き、そして死んだのではないでしょうか。嵐雪ほどには、達観できていなかったのではと、直観的に「誤解」(ド・マン)します。(笑。) 

<客> 先ほど二人の話がスタートする前に、書庫の中に入って、嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>の句が載っている本を探したのですが、小学館と岩波書店の『近世俳句俳文集』、明治書院の『俳句大観』、また乾裕幸の『古典俳句鑑賞』(富士見書房)には、非掲載でした。堀切実の『蕉門名家句選』(上)(岩波文庫)・『芭蕉の門人』(岩波新書)には、掲載され、解説も充実していました。竹内玄玄一の『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫)にも、嵐雪の項に、出ていました。さて「誤読」の一例を、お話させていただきます。『玄峰集』には、<一葉ちる咄一葉ちる風の上>と表記されていますけれど、じつは、『蕉門名家句選』(上)には、<葉散る咄ひとはちる風の上>と、二番目の「一葉」は、「ひとは」と平かな表記でした。これは、もちろん根拠があって、編注者がそうしたのでしょうが、この平かな表記を見て、とっさに「人は散る」と「誤読」したのです。(笑。) 

<主> それは、あまりいい「誤読」とはいえないような気がします。しかし、そうはいっても、それもたしかに、「誤読」の一例ではありましょう。 

<客> 俳諧や俳句は、そのレクチュール(読み)において、千人読めば、千の「誤読」が生じるのではないでしょうか。つまり、ド・マン流にいえば、レクチュールする側に責任があるのではなく、言語あるいはエクリチュールそのものが、必然的に内包する意味的構造の「ずれ=偏差」があるからです。 

<主> その話は、どこかで聞いたような気がします。柄谷行人が『隠喩としての建築』(講談社学術文庫)の中の「形式化の諸問題」に出てきたように思いますが。 

<客> おっしゃるとおりです。柄谷行人は、早くから、ド・マンを読んでいます。なにしろ、『隠喩としての建築』が最初に出版されたのは、一九八三年ですからね。その中に、ド・マンが示唆したものとして、アーチー・バンカーとその妻のボーリング・シューズの紐の結び方についての話が載っています。上結びか下結ぶについて、妻から尋ねられた夫は、<What’s the difference?>(どうちがうんだい?)というと、妻は懇切丁寧に、上結びと下結びのちがいについて、説明を始め、夫はそれを聞いて怒りを倍増させた、という話です。このように一つのエクリチュール(パロールも)は、グレゴリー・ベイトソンが一九五○年代に定義した「ダブルバインド」(二重拘束)を孕んでいるのです。レトリカルな「決定不可能性」が、それらに常につきまとっているのでしょう。 

<主> 本当は、嵐雪の別の句<夢に似たる夢哉墓参り>も、お話したかったのですが、残念ながら、予定の時間がオーバーしてしまいましたので、別の機会にしましょうか。 

<客> いろいろと勝手なことをお話しました。またお話できることを楽しみしております。

 *『玄峰集』は、東京博文館の俳諧文庫第七集『嵐雪全集 全』(雪中庵雀志校訂/明治31年6月30日発行)に拠ります。

 


〔ばっく・とぅ・ざ・ふゅーちゃー/その2〕俳諧から悟道へ─田捨女と貞閑尼 extra B- 02

2013-01-20 16:55:49 | extra B

田捨女(でんすてじょ)は、1634(寛永11)年、丹波国氷上郡柏原藩(兵庫県丹波市柏町)に生まれた。柏原は「かしわばら」でなく、「かいばら」と読む。松尾芭蕉より、10歳年上である。俳諧は、北村季吟に入門したから、芭蕉と同門であるけれど、ほぼ同世代の二人に面識があるわけではないし、書簡のやりとりもない。柏原藩(藩主は織田信勝)の庄屋で代官も務めた田季繁の娘である。正式には、田ステ。藩主の信勝が、28歳の若さで死去し、子供に男子がいなかったため、幕府から改易(更迭)され、当地が天領となったので、実質的には、捨女の父季繁が、柏原藩を差配していたという。

 捨女6歳のとき、〈雪の朝二の字二の字の下駄のあと〉を創作したという、有名な伝説が残っているけれど、現存する自筆句集にはない。十八歳にして、継母の連れ子季成と結婚した。季成も捨女に劣らず、文雅の嗜みがあり、夫妻ともに北村季吟門に入り、歌俳の道に精進する。けれども不運にも、延宝2(1624)年、夫季成の病没(捨女41歳)の後、思うことあって剃髪し、妙融尼と号し京都に行く。(捨女46歳。)仏門修行のかたわら、得意の俳諧と和歌の道に励むが、経済的には苦しく、世の辛酸をなめたといわれる。

彼女は52歳のときに、齢ひとまわり上(12歳上)の高僧盤珪禅師に就き、名を貞閑とした。盤珪は、正しくは盤珪永琢(えいたく)といい、いわゆる「 不生禅」(形式的な座禅修行ではなく、生活そのものが座禅に通じるとする教え)を平易なことばで説き、その結果門徒は、千数百人に及んだ。その盤珪の開祖した臨済宗の龍門寺(兵庫県姫路市網干浜田)のそばに、捨女は草庵不徹庵を結んだのである。盤珪禅師弟子入り後、貞閑は65歳で、その人生を終えた。

捨女の家族は、つぎつぎと亡くなってゆく。人物伝研究家の森繁夫(1883-1953)の『田捨女』(昭和3年2月11日発行/青雲社)によると、彼女は37歳(寛文10年)までに、6人(5男1女)を産んだものの、生きている間に、長男と次男及び長女を亡くすという逆縁に見舞われる。すでに実父と継母、それに夫を失っているので、身内は三男・四男・五男を残すのみであった。(三子もまた、母の影響を受けて盤珪門などに入る。)

 こうした家庭の不幸の一方で、捨女の俳諧の実績と声名は高まる。寛文3年に捨女は、33歳になったけれど、この年寺田重徳の『俳諧独吟集』が板行され、そこに彼女の独吟歌仙が掲載される。また北村湖春の『続山の井』に36句の発句が入集したのは、34歳(寛文7年)のときである。芭蕉の発句入集は28句で、捨女のほうが上回る。43歳(延宝4年)のときに、村季吟の『続連珠』に、31句入集。57歳(天和3年)のときには、宝井其角の『いつを昔』にも、捨女の句が入集した。

 ぬれ色や雨のしたてる姫つつじ  田捨女

 折からの雨に濡れて、「姫つつじ」が、美しくも優雅に濡れて光っている、というのが句意。「雨」に「天」をいい掛け、さらに「下照姫」を含意する。いうまでもなく、「下照姫」は、大国主命の娘である。貞門や談林の洒脱な言語操作を駆使した句であるけれど、その実、「姫つつじ」と「下照姫」のダブルイメージになり、十分に趣のある句になった。『続山の井』所収。

 夏またで梅花の雪やしらがさね  田捨女

 梅の花に雪が積もっているけれど、それを見ると、まるで更衣のときの「白襲」のように見える、というのが句意。この句も、貞門流の知的見立ての技法であるが、女性ならではの鋭い繊細さに満ち溢れていよう。『続山の井』所収。

 


〔ばっく・とぅ・ざ・ふゅーちゃー/その1〕現代に生きる寓言─岡西惟中と『俳諧蒙求』 extra B- 01

2012-11-17 06:58:03 | extra B
岡西惟中という、今ではほとんど話題にならない江戸期の俳人がいる。寛永16(1639)年に因幡(鳥取県)に生まれ、正徳元(1711)年に亡くなる。73歳だった。(松尾芭蕉より、4歳年上だが、彼より17年も長く生きた。)因幡から備前(岡山県)に移り、儒と医で身を立てる。年少時より、俳諧の道に進み、やがて歌道を烏丸資広、書道を青蓮院尊証法親王、連歌を里村昌程、漢詩を南源大和尚に習うという、大変な秀才である。寛文9(1669)年に、西山宗因の弟子となる。延宝3(1675)年、『俳諧蒙求』(はいかいもうぎゅう)を板行して以来、談林俳諧の一大勢力となり、論客の中心人物になった。同5(1677)年頃、大坂(大阪府)に移住。

芭蕉も延宝期江戸市中に住んで、宗因の談林俳諧の影響を受けていたから、とうぜん惟中と評判の『俳諧蒙求』を知っていただろう。しかし、両者がこの時期歌仙などで同吟した形跡がないし、ましてや書簡のやりとりもしていない。惟中の『俳諧蒙求』は、半紙本2冊で、大坂の深江屋太郎兵衛の版。いうまでもなく、『荘子』のつよい影響を受けた内容で、いわゆる「俳諧寓言説」を主張する、高度な理論書である。

『荘子』の「寓言」は、たとえば次のようなもの。「北冥(きたのうみ)ニ魚アリ。ソノ名ヲ鯤(こん)ト為(イ)フ。鯤の大イサ、ソノ幾千里ナルヲ知ラズ。化シテ鳥トナルトキ、ソノ名ヲ鵬(ほう)ト為フ。鵬の背(そびら)、ソノ幾千里ナルヲ知ラズ。怒(ふるいた)ッテ飛ベバ、ソノ翼、天ニ垂ルル雲ノゴトシ。」

これを受けて、岡西惟中は、『俳諧蒙求』の中で、このように書く。「俳諧も、方寸の胸中より顕出て、天地の外にうちむかひ、自由変化の趣向をおもひめぐらし、ある事ない事とりあはせて、活法自在の句躰をまことの俳諧としるべし。」また、惟中は次のようにも記す。「虚を実にし、実を虚にし、是なるを非とし、非なるを是とする荘子が寓言、これのみにかぎらず、全く俳諧の俳諧たるなり。」「俳諧寓言説」を旗頭とした惟中の面目躍如であろう。要するにこの著は、貞門俳諧の硬直した保守性を浮き彫りにし、自由闊達な談林俳諧の象徴的な一書となった。惟中のみならず、芭蕉も『荘子』の影響を受けた一人である。影響を受けたというより、むしろ『荘子』に傾倒していた、といったほうが正確かもしれない。

芭蕉は当初、談林内の誰彼と同じように、惟中のアピールする「寓言」を支持するのは当然で否めないけれど、やがて、『荘子』哲学の「心」に心酔するようになった。「おろかなる者は思ふこと多し。煩悩増長して一芸すぐるる者は、是非のすぐるる者なり。これをもて世の営みに当てて、貪欲の魔界に心を怒らし、溝洫(こうきょく)におぼれて生かすことあたはずと、南華老仙のただ利害を破却し、老若を忘れて閑にならむこそ、老いの楽しみとは言ふべけれ。」(松尾芭蕉「閉閑の説」より。)

いうまでもなく「南華老仙」は、荘子の別称である。江戸において、俳諧宗匠の地位を確立し、点者生活に多忙をきわめた芭蕉が、やがて深川の一隅に居を定め、さらに元禄6年、50歳の芭蕉が、「貪欲の魔界に心を怒らし、溝洫におぼれて生かすことあたはずと」と静かに決意した「閉閑の説」のマニフェストは、荘子の心を追い求めた真摯な詩人の息遣いに溢れていよう。文中の「溝洫」は、本来「田の溝」をあらわすが、ここでは本当の詩人の心を忘れて、目先の利害を追求する、点者生活などの邪道な心を示唆しているのだろう。

惟中の『俳諧蒙求』の下巻には、『荘子』外篇「至楽篇」の引用がある。荘子の妻が死んで、恵子が弔うと、荘子は足を開いて、土の瓶(盆=ほとぎ)を叩いて、うたを歌っていた。「これを希逸が註して、『即是死生一貫の理を発明する所也。ほとぎをうつの説も又寓言也』と註す。」「死生一貫の理」とは、荘子哲学の根本原理の一つで、死後の生は、いわゆる霊魂不滅とか永生ではなく、生命の種々相が分散離合しつつ、果てしなく永遠に変化を続けていく、ということ。惟中も芭蕉も「死生一貫の理」としての「寓言」を、骨の髄までしみじみと理解していたにちがいない。

惟中の『荘子』外篇「至楽篇」のこの引用は、私には、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザの「様態」をとらえて説明した、「すべてを内包する単一実体の構造の中では、局所的・時間的要因から構成されるものは布地のしわのように突然生じるのです。彼は、こうしたしわを様態と呼びます。」(アンソニー・クイントン)を想起させる。さて惟中の『俳諧蒙求』には、彼自身の独吟百韻も載る。

文をこのむきてんはたらく匂ひ哉
 一より十にとぶはうぐひす
くじどりにあたひ千金の年越て
 ふとものとなるあし引の山
よいきれや古を尋てのこるらん
 さびてもかたなの作はありけり
月も御存うかとかまへの地さぶらひ
 とつておさへやらぬ初厂

『俳諧蒙求』より、初折の表八句を引いた。発句の〈文をこのむきてんはたらく匂ひ哉〉の「文をこのむき」とは「好文木」のことで、梅の異称である。晋の武帝が学問に励めば、梅の花が咲き、学問をやめると開かなかった、という故事による。その「木」に、「気転」をいい掛ける。知性的な岡西惟中ならではの、エスプリの効いた句であろう。『俳諧大辞典』(明治書院)によれば、『俳諧蒙求』は「談林派の寓言論を代表するのみならず、近世文芸論における虚実思想の展開上にも注目すべき一資料」とある。その著者岡西惟中は、同じ『俳諧大辞典』において、「彼の俳人としての活躍は大体天和元(一六八一)年頃で終り、その後は連歌会に出たり、漢詩を作ったりして余生を送った模様である。」と記されている。

<註1>岡西惟中の『俳諧蒙求』は、『古典俳文学大系4』の『談林俳諧集二』(集英社)によります。

<註2>本稿は、「ぶるうまりん」24号(2012年12月下旬発行)に掲載する内容の電子版(「渚のことば」extra版B-1)です。なお、「ぶるうまりん」24号には、本電子版を改稿したものが掲載される予定です。