毎月5回ある「ぶるうまりん」の諸句会については、このブログでさんざん書いてきているので、読者の方は「またか」といってウンザリするだろうが、やはりそこから今回も記述せざるをえない。1月7日(金)の集中講座、同12日(水)の歌仙の会の後は、めるはい(原則第2土曜日締切)、東京句会(1月15日)、大磯句会(1月22日)と続いたけれど、東京句会開催の日、私の個人的都合により別件の用事をこなすことになり、急きょメール句会に切り替えた。今月の「ぶるうまりん」の予定のほかに、いくつか大きな俳句の行事が東京であり、本来出席するはずだったのだが、珍しく昨年末からの風邪ひきがおさまらず、体調甚だ低調のため、残念ながら欠席をした。関係各位にこの場を借りてお詫び申し上げたい。
体調が復調し、予定がほぼ終了した1月下旬、家人の協力を得て、小宅の床下に収納してあった雑誌類20結束を取り出した。ところでこの家は2001年(平成13年)2月、大磯・高麗(こま)にある紀州徳川家(第14代藩主徳川茂承/とくがわもちつぐ)の別荘地跡の一角に完成したけれど、それ以前はこの地から歩いて約10分の同じ高麗地区内に家を持っていた。やや家が手狭になったことや環境の変化もあり、現在の土地を2年かけて探しあて、家を新築したのだった。「光と風と緑」を新しい家の基本コンセプトにし、設計の細部にもこだわり、それなりの家ができたと思っている。何よりも両親や妹の家族が暮らす家に、最至近の距離(スープの冷めない距離)にあることが最大の心の支えになった。新しい家の満足度は、現段階で95パーセント。足りない5パーセントは、書庫内の書籍がおさまりきれず、床下などに応急処置をとらざるをえなくなったことだ。2002年(平成14年)秋に、雑誌類20結束を、洗面所の床下収納庫に続く、空きスペースに移したのである。
ところが、いったんこの場所に雑誌類を移すと、そう簡単には取り出せない。結局約9年間も、ひっそりと20結束の雑誌類が、ここに暮らしたことになる。このたびいちばん取り出してみたかったのは、原稿依頼を受けた俳句同人誌「豈」の初期のバックナンバーだった。いずれにせよ、作業着に着替え、マスクをして軍手をはめ、また頭にタオルを巻いた完全防備のスタイルをして、決死の覚悟で床下に潜った。この家は、いわゆる「ベタ基礎」工法による、建築物直下が全面板状の鉄筋コンクリートの基礎のため、ほとんど湿気がないこともあり、20結束の雑誌類は、ぜんぜんカビもはえず、9年前とまったく同じ状態で取り出せたのには、いささか感動した。もちろんバランスのとれた、数多い通風孔のせいもあるだろう。私は寝たまま雑誌類を取り出し、それを床下収納庫の上にいる家人に渡すのだった。これを素早く20回ほど繰り返す。
取り出した20結束の雑誌類は、おいおい整理してゆくつもりだ。俳句同人誌「豈」の束は、1980年の夏に発行された創刊号(写真参照)はむろんのこと、名古屋の中烏健二編集時代のA5版など、だいたいがそろっている。しかし、少しの号数が欠けている。これは、家の書庫内のどこかにあるのかは、不明。創刊号には、「豈」の現編集人の大井恒行さん、昨年熊本でお世話になった野田裕三(現在は野田遊三)さん、私とは旧知の間柄である中烏健二、白木忠など16人が名前を連ねている。そして何よりも攝津幸彦(故人)が、発行人として控えているのが、すばらしい。「…私は、『豈』を通じ、いかなる工夫で俳句を書き続けていくのか、あるいは俳句を断念するのか、その有様をじっくりと見てみたいのである。いずれにしろ“豈”が近い将来、終刊を宣言する頃に、我々の胸に、はっきりした決意が表われているはずである。」と攝津幸彦は書いている。ちなみに私は中烏健二編集の「豈」12号(平成元年12月15日発行)から、同人として参加しており、同号に「坐蠱」(ざこ)50句を発表している。同号で50句を発表しているのは、私のほかに大屋達治さんと岸本マチ子さんの3名である。
鬼灯をふはっととべる大般若 須藤 徹
ガス管を銜えてするや大西日 同
腋の下の岸辺に届く法華経 同
モナリザの後頭に凝る古池か 同
頭韻のああ密教の洗面器 同
「豈」12号の「坐蠱」(ざこ)50句の中から5句を転載してみた。これらは、なんらかの理由で既刊句集に未収録であるけれど、将来別の機会で句集を編む必要が出た場合、ぜひ掲載してみたいと思う。
体調が復調し、予定がほぼ終了した1月下旬、家人の協力を得て、小宅の床下に収納してあった雑誌類20結束を取り出した。ところでこの家は2001年(平成13年)2月、大磯・高麗(こま)にある紀州徳川家(第14代藩主徳川茂承/とくがわもちつぐ)の別荘地跡の一角に完成したけれど、それ以前はこの地から歩いて約10分の同じ高麗地区内に家を持っていた。やや家が手狭になったことや環境の変化もあり、現在の土地を2年かけて探しあて、家を新築したのだった。「光と風と緑」を新しい家の基本コンセプトにし、設計の細部にもこだわり、それなりの家ができたと思っている。何よりも両親や妹の家族が暮らす家に、最至近の距離(スープの冷めない距離)にあることが最大の心の支えになった。新しい家の満足度は、現段階で95パーセント。足りない5パーセントは、書庫内の書籍がおさまりきれず、床下などに応急処置をとらざるをえなくなったことだ。2002年(平成14年)秋に、雑誌類20結束を、洗面所の床下収納庫に続く、空きスペースに移したのである。
ところが、いったんこの場所に雑誌類を移すと、そう簡単には取り出せない。結局約9年間も、ひっそりと20結束の雑誌類が、ここに暮らしたことになる。このたびいちばん取り出してみたかったのは、原稿依頼を受けた俳句同人誌「豈」の初期のバックナンバーだった。いずれにせよ、作業着に着替え、マスクをして軍手をはめ、また頭にタオルを巻いた完全防備のスタイルをして、決死の覚悟で床下に潜った。この家は、いわゆる「ベタ基礎」工法による、建築物直下が全面板状の鉄筋コンクリートの基礎のため、ほとんど湿気がないこともあり、20結束の雑誌類は、ぜんぜんカビもはえず、9年前とまったく同じ状態で取り出せたのには、いささか感動した。もちろんバランスのとれた、数多い通風孔のせいもあるだろう。私は寝たまま雑誌類を取り出し、それを床下収納庫の上にいる家人に渡すのだった。これを素早く20回ほど繰り返す。
取り出した20結束の雑誌類は、おいおい整理してゆくつもりだ。俳句同人誌「豈」の束は、1980年の夏に発行された創刊号(写真参照)はむろんのこと、名古屋の中烏健二編集時代のA5版など、だいたいがそろっている。しかし、少しの号数が欠けている。これは、家の書庫内のどこかにあるのかは、不明。創刊号には、「豈」の現編集人の大井恒行さん、昨年熊本でお世話になった野田裕三(現在は野田遊三)さん、私とは旧知の間柄である中烏健二、白木忠など16人が名前を連ねている。そして何よりも攝津幸彦(故人)が、発行人として控えているのが、すばらしい。「…私は、『豈』を通じ、いかなる工夫で俳句を書き続けていくのか、あるいは俳句を断念するのか、その有様をじっくりと見てみたいのである。いずれにしろ“豈”が近い将来、終刊を宣言する頃に、我々の胸に、はっきりした決意が表われているはずである。」と攝津幸彦は書いている。ちなみに私は中烏健二編集の「豈」12号(平成元年12月15日発行)から、同人として参加しており、同号に「坐蠱」(ざこ)50句を発表している。同号で50句を発表しているのは、私のほかに大屋達治さんと岸本マチ子さんの3名である。
鬼灯をふはっととべる大般若 須藤 徹
ガス管を銜えてするや大西日 同
腋の下の岸辺に届く法華経 同
モナリザの後頭に凝る古池か 同
頭韻のああ密教の洗面器 同
「豈」12号の「坐蠱」(ざこ)50句の中から5句を転載してみた。これらは、なんらかの理由で既刊句集に未収録であるけれど、将来別の機会で句集を編む必要が出た場合、ぜひ掲載してみたいと思う。