須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

腋の下の岸辺に届く法華経─「豈」12号の拙作50句から text 242

2011-01-24 06:36:12 | text
毎月5回ある「ぶるうまりん」の諸句会については、このブログでさんざん書いてきているので、読者の方は「またか」といってウンザリするだろうが、やはりそこから今回も記述せざるをえない。1月7日(金)の集中講座、同12日(水)の歌仙の会の後は、めるはい(原則第2土曜日締切)、東京句会(1月15日)、大磯句会(1月22日)と続いたけれど、東京句会開催の日、私の個人的都合により別件の用事をこなすことになり、急きょメール句会に切り替えた。今月の「ぶるうまりん」の予定のほかに、いくつか大きな俳句の行事が東京であり、本来出席するはずだったのだが、珍しく昨年末からの風邪ひきがおさまらず、体調甚だ低調のため、残念ながら欠席をした。関係各位にこの場を借りてお詫び申し上げたい。

体調が復調し、予定がほぼ終了した1月下旬、家人の協力を得て、小宅の床下に収納してあった雑誌類20結束を取り出した。ところでこの家は2001年(平成13年)2月、大磯・高麗(こま)にある紀州徳川家(第14代藩主徳川茂承/とくがわもちつぐ)の別荘地跡の一角に完成したけれど、それ以前はこの地から歩いて約10分の同じ高麗地区内に家を持っていた。やや家が手狭になったことや環境の変化もあり、現在の土地を2年かけて探しあて、家を新築したのだった。「光と風と緑」を新しい家の基本コンセプトにし、設計の細部にもこだわり、それなりの家ができたと思っている。何よりも両親や妹の家族が暮らす家に、最至近の距離(スープの冷めない距離)にあることが最大の心の支えになった。新しい家の満足度は、現段階で95パーセント。足りない5パーセントは、書庫内の書籍がおさまりきれず、床下などに応急処置をとらざるをえなくなったことだ。2002年(平成14年)秋に、雑誌類20結束を、洗面所の床下収納庫に続く、空きスペースに移したのである。

ところが、いったんこの場所に雑誌類を移すと、そう簡単には取り出せない。結局約9年間も、ひっそりと20結束の雑誌類が、ここに暮らしたことになる。このたびいちばん取り出してみたかったのは、原稿依頼を受けた俳句同人誌「豈」の初期のバックナンバーだった。いずれにせよ、作業着に着替え、マスクをして軍手をはめ、また頭にタオルを巻いた完全防備のスタイルをして、決死の覚悟で床下に潜った。この家は、いわゆる「ベタ基礎」工法による、建築物直下が全面板状の鉄筋コンクリートの基礎のため、ほとんど湿気がないこともあり、20結束の雑誌類は、ぜんぜんカビもはえず、9年前とまったく同じ状態で取り出せたのには、いささか感動した。もちろんバランスのとれた、数多い通風孔のせいもあるだろう。私は寝たまま雑誌類を取り出し、それを床下収納庫の上にいる家人に渡すのだった。これを素早く20回ほど繰り返す。

取り出した20結束の雑誌類は、おいおい整理してゆくつもりだ。俳句同人誌「豈」の束は、1980年の夏に発行された創刊号(写真参照)はむろんのこと、名古屋の中烏健二編集時代のA5版など、だいたいがそろっている。しかし、少しの号数が欠けている。これは、家の書庫内のどこかにあるのかは、不明。創刊号には、「豈」の現編集人の大井恒行さん、昨年熊本でお世話になった野田裕三(現在は野田遊三)さん、私とは旧知の間柄である中烏健二、白木忠など16人が名前を連ねている。そして何よりも攝津幸彦(故人)が、発行人として控えているのが、すばらしい。「…私は、『豈』を通じ、いかなる工夫で俳句を書き続けていくのか、あるいは俳句を断念するのか、その有様をじっくりと見てみたいのである。いずれにしろ“豈”が近い将来、終刊を宣言する頃に、我々の胸に、はっきりした決意が表われているはずである。」と攝津幸彦は書いている。ちなみに私は中烏健二編集の「豈」12号(平成元年12月15日発行)から、同人として参加しており、同号に「坐蠱」(ざこ)50句を発表している。同号で50句を発表しているのは、私のほかに大屋達治さんと岸本マチ子さんの3名である。

鬼灯をふはっととべる大般若   須藤 徹
ガス管を銜えてするや大西日     同
腋の下の岸辺に届く法華経      同
モナリザの後頭に凝る古池か     同
頭韻のああ密教の洗面器       同


「豈」12号の「坐蠱」(ざこ)50句の中から5句を転載してみた。これらは、なんらかの理由で既刊句集に未収録であるけれど、将来別の機会で句集を編む必要が出た場合、ぜひ掲載してみたいと思う。

「虚空山河抄─あえかなる私記」─孤高なる巨星安井浩司さんの原稿が届く text 241

2011-01-15 23:22:43 | text
1月7日(金)は、第11回目の集中講座(マスターシリーズ)のため、横浜・石川町のかながわ労働プラザへ。今回のテーマは、「句会の方法と実際」。短冊、清記用紙、選句用紙を持参し、現物を前に、句会の歴史から、実践までを詳しく述べる。2月4日(金)は、実際に吟行句会を、同プラザ周辺の横浜の山手方面や中華街などで行う。これで、12回(1年)の集中講座の第1期を終了する。3月からは、第2期集中講座「俳人研究」(江戸編/1年)がスタートする。①初期貞門②談林③蕉風④享保⑤中興⑥化政天保⑦幕末・明治の7グループから、それぞれの代表的俳人と作品を取り上げる予定。やはり1年12回で講座は終了する。各回講座終了後の第2部(後半)は、第1期と同じく、俳句添削指導を近くの純喫茶「モデル」にて、精緻に行う所存だ。

1月12日(水)は、松杏庵(平塚市)にて、歌仙の会を行った。今回で13回目である。小宅から松杏庵まで、自転車で最短距離を走って約15分。途中、私の卒業した平塚市立浜岳中学校が見える。校庭の東南側(海側)に、まだ松林が鬱蒼と残っていることに驚く。(写真参照。)百本近くあるのだろうか。この中学で、私は神奈川県で優勝したこともある、男子バレーボール部(9人制)のキャプテンを務め、また生徒会役員でもあったのだ。今はまったくその面影がないけれど、私は当時れっきとしたスポーツマンであることに、ささやかな誇りをもっていたのである。この日、『おくのほそ道』における、新庄での7吟歌仙「御尋に」(澁谷甚兵衛宅で興行)の巻を、皆で読みこんだ。また歌仙実作は、第3巻目「秋空を」の巻を終了した。

俳句結社誌からの原稿依頼や市町村教育委員会及び美術館からの賞推薦依頼、さらに書評紙・Web媒体などからも原稿依頼を受け、この半月かなり忙しくした。順を追って記すと、『四季』(松澤雅世主幹)では、「松澤昭先生追悼特集号」のための「一期一会─松澤昭の俳句と思い出」、『阿蘇』(岩岡中正主宰)では、昨年末刊行された『虚子と現代』(岩岡中正著/角川書店)の書評、賞推薦は、小野市教育委員会の「詩歌文学賞」と雪梁舎美術館の「宗左近俳句大賞」だ。誰(の何の句集)を推薦したのかは、ヒ・ミ・ツ…。「週刊読書人」からは、『橋本夢道物語─妻よおまえはなぜこんなに可愛いんだろうね』(殿岡駿星著/勝どき書房)の書評依頼。さらに著名な俳句のWebサイト「週刊俳句 Haiku Weekly」から作品10句の依頼をいただいた。(2011年1月16日の第195号にアップ。)おおむね原稿を送稿(送信)しているものの、むろん未着手のものもある。ちなみに「週刊俳句 Haiku Weekly」のアドレスは、次のとおり。http://weekly-haiku.blogspot.com/


『ぶるうまりん』17号(2011年3月末刊行予定)の依頼原稿が、ぞくぞく届いているので、その一部を紹介しよう。同号の特集は「俳句・短歌における叙事と叙情」(仮題)だけれど、その巻頭記事を執筆されるのが、ほかでもない日本俳句界の孤高なる巨星安井浩司さん。玉稿のタイトルは「虚空山河抄─あえかなる私記」(書き下ろし)であることを、そっと本ブログの読者のためにお知らせしよう。おそらく安井浩司さんのこの原稿は、『ぶるうまりん』というレベルを離れて、俳句界全般におおきなサジェスチョンをあたえることになるだろう。いわゆる俳句総合誌では滅多に見かけることがないので、ぜひ本稿をお読みいただきたい。もう一本は、歌人坂原八津さん(故田中裕明夫人の森賀まりさんの、実のお姉さま)の短歌作品50首。タイトルは「薄眼をあける街」。歌人大久保春乃さんのエッセイ「坂原八津の世界─はて、その先へ。」も併載される。乞うご期待…。同号ご希望の方は、次まで。White4002cat@yahoo.co.jp
   
白湯吹くと半身はもう雪の中    須藤 徹      
侠客の死体半分青色ダイオード     同
     

2011年の幕開けに際し─印象に残ったことばの数々 text 240

2011-01-05 02:04:55 | text
新たな年の幕開けである。元日は、小宅のすぐそばにある高麗神社に初詣。私の前に数十名が列をなしているのに、いささか驚く。神社の境内に、書初めの墨書が張り出されていて、これは圧巻だった。お昼過ぎに、小宅からスープの冷めない距離にある、父親宅に年始の挨拶。妹夫婦とその子どもたち二人が、元気な姿を見せてくれて、うれしかった。奇しくも父親は大磯町の社会教育委員であり、私は行政改革推進委員会委員であるため、それぞれの仕事の役割の内容について、いろいろ話し合った。昨年12月には、新町長も私たちの高麗地区から誕生し、これからの大磯町の行政の舵取りを任せることになるけれど、総合的にはいろいろな意味で、かなり厳しいとの認識で意見が一致した。

新町長は、東海大学大磯病院の元院長で、消化器外科の教授だった。お宅は、小宅から数分ほどの至近距離にある。町長立候補にあたり、昨年2回ほど小宅に来訪されたので、少しばかりお話したことがある。どこもそうであるが、特に大磯町の財政状況は厳しく、これをどうクリアするかが最大の課題。新町長は、町長・副町長・教育長3役の「歳費+ボーナス」を、2分の1にカットする目玉施策を打ち出したけれど、さてどうだろうか。もしかすると、これはマイナス思考の賜物(方法論)であるとの考え方もないわけではない。そういう消極的な発想でなく、何はともあれ任期(4年)の途上、身を粉にして全身全霊で、町の財政が1円でも潤う、新プロジェクトをいくつか構築すべきであろう。

昨年から今年にかけて、特に印象に残ったことばをいくつかあげてみたい。1番目は、昨年11月末に行われた第15回「草枕」国際俳句大会で聴いたことばだ。出演間近の楽屋裏で、たまたま隣席に控えらえていた、某大御所女性俳人(86歳)と二言三言話したのだが、なんと熊本に来られる直前、受け持つ東京での俳句教室の指導があり、「一睡もしていない」といわれるではないか。そのことばに追い討ちをかけるように「私は俳句労働者なのよ」と述べられた。「うーん、俳句労働者ね」と私は心の中で呟くばかりである。ことばを換えれば、「まだまだ現役バリバリの俳人」であると宣言しているようなものである。この女性俳人は、一昨年の同大会終了後、娘さんとゴルフにも出かけた。名前を明かすわけにはいかないけれど、俳人中村汀女(故人)のご長女である。中村汀女は熊本の出身でもあるため、同大会実行委員会は、敬意を表して「中村汀女賞」というのを設けている。

2番目のことば。昨年12月中旬、NHKTVの「スタジオパーク」に、俳優役所広司さんが出演したのを、たまたま小宅で観た。司会はアナウンサーの住吉美紀さんである。役所広司さんといえば、1996年(平成8年)公開の大ヒット作『Shall we ダンス?』(周防正行監督)を、思い浮かべる方が多いだろう。さらに、『シャブ極道』(細野辰興監督)、『眠る男』(小栗康平監督)などの演技が高く評価され、主演男優賞を総ざらいしたのは、記憶に新しい。今村昌平監督の映画『うなぎ』(1997年)では、カンヌ国際映画祭で「パルム・ドール賞」を受賞され、いまや役者としての不動の地位を確立した。その役所さんが、番組の中でさらりと「役者は念力商売」といわれたのだ。ハッとした。「念力商売とはズバリ当っている」と私は咄嗟に思ったのである。このことばは、あるいは芸術に関わるすべての職業に通用するにちがいない。

岩波文庫で、マルセル・プルーストの『失われた時を求めてⅠ─スワン家のほうへⅠ』が、昨年11月刊行された。今後半年に1回の割合で、全14巻を7年の歳月をかけて、吉川一義の個人訳で刊行するという。この個人訳は、私のからだに自然に入ってくるので、今後の続刊が楽しみである。その書のはじめのほうに、紅茶に浸された、ひとかけらのマドレーヌのことが書かれている有名な文章がある。 

二度目になるが、私は精神の前方から余分なものをすべてとり払い、そこに、最初のひと口を飲んだときの、まださほど時間が経っていない風味を置いてやる。すると、私の奥底で、なにか身震いするのが感じられる。それが移動し、立ち現れようとするので、錨のように引き揚げようとするのだが、よほど深いところにあるらしい。なにかわからないが、ゆっくりと立ち上がってくるものがある。私はその手ごたえを感じとり、それが通過してきた距離のざわめきが聞こえてくる。」(同著113ページから114ページ)

3番目のことばとして、プルーストのこの「通過してきた距離のざわめき」をあげてみたい。たとえば、このことばを吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』に登場する「意識のさわり」と重ねあわせてもよいだろう。日本の「水中花」のように、徐々に開く「無意志的記憶」として、このことばをとらえても差し支えない。俳句言語が花開くとき、私はあたかも「通過してきた距離のざわめき」の只中に、全身が投げ込まれているような気がするのだ。 

麦秋の黒に極まる流離譚     須藤 徹
ほばりんぐの父の昼寝は絶壁なす  同
豆飯や明朝体の僧侶いて       同
なるしずむとう銀木犀の腫れ瞼    同
秋空を切るガラス屋の眼かな     同

*『ぶるうまりん』16号(2010年12月24日発行)の、「流離譚」50句のうちから5句を転載