2012年の5月29日現在で、ブログ開設より2584 日、つまり7年有余が過ぎたことになる。ブログの開設日は、2005年5月3日。よくも細々とここまで続いたものである。これもひとえに、このブログを熱心に読み続けてくださる読者の皆さまのお蔭にちがいない。あまりアクセス数には興味と関心を寄せない筆者であるけれど、いちおうお知らせしておこう。365560…。この数字が多いのか少ないのかは、よくわからないが、いずれせよ、とりあえず50万アクセスまでに届くように地道に努力したいと思う。それには、何よりも読者の後押しが必要なので、静かな応援(アクセス)をお願いしたい。
5月12日(土)、姪の華燭の典が長崎のグラバー園内オルト邸にて行われた。披露宴は、同日夕刻、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルで盛大に開催された。素晴らしい五月晴れで、グラバー園内からは眼下に長崎の街が一望できた。(写真参照。)披露宴終了後は、筆者の家族を中心に、親戚の一部の人たちと連れ立ち、夜景の美しい稲佐山山頂展望台へ行く。ANAクラウンプラザホテルに一泊した翌日は、筆者の家族だけで、出島、崇福寺、眼鏡橋、平和公園、原爆資料館、浦上天主堂などをめぐる。30歳そこそこのときに、G社の取材でカメラマンと一緒に回った事実は、ほとんど風化して記憶にない。
1678年(延宝6年)、35歳の芭蕉は<かぴたんもつくばゝせけり君が春>(江戸広小路)と詠んだ。「カピタン」(甲比丹)とは江戸時代、東インド会社が日本(出島)に置いた商館の最高責任者「商館長」のことである。毎年1回春に、貿易免許のお礼に江戸に赴き、将軍様に貢物を捧げた。将軍様は、その「カピタン」も這い蹲わせるほどの、ご威光あまねき絶大な権力をもつ、めでたい春だというのが句意。反体制の鋭い切っ先がなく、お上従順の芭蕉のこの句に対し、筆者はやや不満をもつけれど、あるいは芭蕉はラディカルな愛国主義者であったのかもしれない。そう考えれば、筆者の不満も少しは軽くなる。
出島のそのかぴたん部屋(館)を隈なく見学した。当時、日本の役人や大名などが出島を訪れたとき、接待の場所としても使用されていたという。運よく地元のボランティアガイドさんが、筆者の家族に付き添って、懇切丁寧にそのかぴたん部屋を案内してくれたのだった。驚いたことに、ボランティアガイドさんが案内してくれたものに、まったく窓のない「女中部屋」というのがある。出島に着任する商館員たちは、妻子を同行することが許されない。出島に出入りを許された唯一の女性は、丸山町や寄合町の遊女たちだった。その遊女たちがお相手するところが、この「女中部屋」にあたるのである。
「出島の門をくぐった其扇(そのおおぎ/そのぎ)は、禿(かむろ)とともに広い道を歩いて行った。西の方向で遠雷の音がしている。/道の左側は菜園になっていて、日本ではみられぬ西洋の野菜が栽培されていた。右方の建物の屋根の上にはオランダ国旗の三色旗がみえたが、微風にわずかにゆれているだけであった。出島には、商館長をはじめ主だった館員たちの居宅や玉突場、倉庫、豚舎など六十五の建物がならび、ほとんどが二階建で、木造の洋館であった。」(吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』より。)
2006年に亡くなった吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』において、出島はこのように描かれている。「商館長をはじめ主だった館員たちの居宅や玉突場、倉庫、豚舎など六十五の建物がならび、ほとんどが二階建で、木造の洋館であった」とするが、筆者たちが実際に見た復元建造物は、それよりはるかに少ないものだった。引用文中の其扇は、本名楠本滝で、10代のとき、オランダ商館医であった20代後半のシーボルトと出会い、みそめられた。その後生まれたのが、楠本イネであり、彼女は日本初の産科医となった。「ふぉん・しいほるとの娘」とは、このイネのことである。
ひとごえもすずめ隠れにオルト邸 須藤 徹
万緑や生絹(すずし)の二人風に笑み 同
万灯の帯がしゃべるよ稲佐山 同
5月12日(土)、姪の華燭の典が長崎のグラバー園内オルト邸にて行われた。披露宴は、同日夕刻、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルで盛大に開催された。素晴らしい五月晴れで、グラバー園内からは眼下に長崎の街が一望できた。(写真参照。)披露宴終了後は、筆者の家族を中心に、親戚の一部の人たちと連れ立ち、夜景の美しい稲佐山山頂展望台へ行く。ANAクラウンプラザホテルに一泊した翌日は、筆者の家族だけで、出島、崇福寺、眼鏡橋、平和公園、原爆資料館、浦上天主堂などをめぐる。30歳そこそこのときに、G社の取材でカメラマンと一緒に回った事実は、ほとんど風化して記憶にない。
1678年(延宝6年)、35歳の芭蕉は<かぴたんもつくばゝせけり君が春>(江戸広小路)と詠んだ。「カピタン」(甲比丹)とは江戸時代、東インド会社が日本(出島)に置いた商館の最高責任者「商館長」のことである。毎年1回春に、貿易免許のお礼に江戸に赴き、将軍様に貢物を捧げた。将軍様は、その「カピタン」も這い蹲わせるほどの、ご威光あまねき絶大な権力をもつ、めでたい春だというのが句意。反体制の鋭い切っ先がなく、お上従順の芭蕉のこの句に対し、筆者はやや不満をもつけれど、あるいは芭蕉はラディカルな愛国主義者であったのかもしれない。そう考えれば、筆者の不満も少しは軽くなる。
出島のそのかぴたん部屋(館)を隈なく見学した。当時、日本の役人や大名などが出島を訪れたとき、接待の場所としても使用されていたという。運よく地元のボランティアガイドさんが、筆者の家族に付き添って、懇切丁寧にそのかぴたん部屋を案内してくれたのだった。驚いたことに、ボランティアガイドさんが案内してくれたものに、まったく窓のない「女中部屋」というのがある。出島に着任する商館員たちは、妻子を同行することが許されない。出島に出入りを許された唯一の女性は、丸山町や寄合町の遊女たちだった。その遊女たちがお相手するところが、この「女中部屋」にあたるのである。
「出島の門をくぐった其扇(そのおおぎ/そのぎ)は、禿(かむろ)とともに広い道を歩いて行った。西の方向で遠雷の音がしている。/道の左側は菜園になっていて、日本ではみられぬ西洋の野菜が栽培されていた。右方の建物の屋根の上にはオランダ国旗の三色旗がみえたが、微風にわずかにゆれているだけであった。出島には、商館長をはじめ主だった館員たちの居宅や玉突場、倉庫、豚舎など六十五の建物がならび、ほとんどが二階建で、木造の洋館であった。」(吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』より。)
2006年に亡くなった吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』において、出島はこのように描かれている。「商館長をはじめ主だった館員たちの居宅や玉突場、倉庫、豚舎など六十五の建物がならび、ほとんどが二階建で、木造の洋館であった」とするが、筆者たちが実際に見た復元建造物は、それよりはるかに少ないものだった。引用文中の其扇は、本名楠本滝で、10代のとき、オランダ商館医であった20代後半のシーボルトと出会い、みそめられた。その後生まれたのが、楠本イネであり、彼女は日本初の産科医となった。「ふぉん・しいほるとの娘」とは、このイネのことである。
ひとごえもすずめ隠れにオルト邸 須藤 徹
万緑や生絹(すずし)の二人風に笑み 同
万灯の帯がしゃべるよ稲佐山 同