須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

ぶるうまりん25号の入稿完了─特集は「多田裕計」と「ぶるうまりんライブ句会の醍醐味②」 text 295

2013-02-22 23:17:02 | text

2月某日、財団法人角川文化振興財団より、「第47回『蛇笏賞・沼空賞』候補作品ご推薦のお願い」という文書が届く。毎年いただくものであるけれど、その年によって、「蛇笏賞」に推薦したい候補作品と作家がいない場合もあり、そのときは残念ながら推薦を見合わせる。今回は、積極的に推したい作品と作家がいたので、その旨葉書に書いて、直ちに投函した。

そのあと、角川学芸出版より、第64回読売文学賞に決定した、和田悟朗著『風車』の二次会祝宴への出席依頼の文書が届いた。場所は、帝国ホテル本館17階インペリアルラウンジ「アクア」。日時は、2013年2月18日(月)、午後8時30分から。しかし当日は所用のため、出席叶わず、失礼申し上げた。誠に残念至極……。 

和田悟朗先生からは、ほとんどのご著書をご恵贈いただき、またご自身が編集発行される俳誌「風来」をも、いただいている。本来は、万難を排して、会場に赴いて祝意を表さなければならない。この場を借りて、衷心よりのお祝いを述べることで、ご海容いただければ幸いだ。

ぶるうまりん25号(2013年3月23日発行予定)の入稿が、このほど完了した。特集はⅠ「多田裕計」とⅡ「ぶるうまりんライブ句会の醍醐味②」の2本。いつもよりやや早いペースでの入稿完了だ。特集Ⅰの「多田裕計」は、外部から梶山千鶴子氏(きりん主宰・日本ペンクラブ会員)、高橋龍氏(面発行人・元れもん及び俳句評論等同人)、瀬戸正洋氏(里同人・元ぶるうまりん同人)、内部からは山田千里・村木まゆみ・須藤徹の3氏が執筆担当した。編集後記にも、多田裕計について、筆者の思うところを書いた。それぞれの原稿のタイトルは確定しているけれど、本になるまでは非公開とする。 

多田裕計は、1912(大正1)年8月18日、福井県福井市で生まれ、1980(昭和55)年7月8日に没した。67歳。早稲田大学フランス文学科卒業。同16年、「長江デルタ」で、芥川賞を受賞した。受賞時、29歳だった。俳句は、学生時代、師の横光利一の十日会に参加、石田波郷を識る。同28年、「鶴」に参加、後に同人となる。同37年、「れもん」を創刊、主宰した。句集に『浪漫抄』(大雅洞)、『多田裕計句集』(角川書店)、句文集に『ショパンの雨滴』(近藤書店)、俳句文章集に『芭蕉その生活と美学』(毎日新聞社)、『小説芭蕉』(芥川賞作家シリーズ/学習研究社)などがある。『小説芭蕉』には、多田裕計の代表作「長江デルタ」をはじめ「荒野の雲雀」「叙事詩」等の小説を収録。そのほか児童文学の著作も、数多くある。 

以上は編集後記にも書いた多田裕計のおおざっぱな経歴。筆者は、1973(昭和48)年、多田裕計に入門、1980(昭和55)年に師が亡くなり、「れもん」が終刊するまで7年有余の間、同誌に在籍した。多田裕計の作品集でおすすめは、まず芥川賞受賞作の『長江デルタ』。多田裕計が敬愛するアンドレ・マルロー(1901-1976)ばりの社会的視野の豊富な作品で、上海を舞台にしている。多田裕計は、当時松竹株式会社などを経て、中華映画社上海本社に勤務中だった。芥川賞の作品が掲載されている「文藝春秋」昭和16年9月号の受賞者感想において、多田裕計は、こう語っている。 

「私の『長江デルタ』が、芥川賞になつた。私は幸運だつたのである。そのかはり、私は非常に努力し、今後の期待にそはねばならぬ。新聞記者の来訪をうけ、『これからの生活は出来るかぎり地味に、小説は出来る限り大胆に書きたい』と述べた。私はさう思つてゐる。友人はそれは矛盾ではないかと云ふ。けれどもそれを矛盾でなくするのも作家の秘密だと思ふ。スケールの大きな、また藝術性の豊かな作品も書いてみたい。私の夢である。(略。)」(本文は一行ごとに改行されているが、本ブログではベタ書きにしている。) 

『小説芭蕉』(芥川賞作家シリーズ/学習研究社)も一読をすすめる。また、晩年の、自伝的小説の三部作である「幼年絵葉書」(文學界・昭和51年8月号)、「城下少年譜」(同52年2月号)、「父と明笛」(同54年1月号)は、単行本未刊行で、雑誌で読むしかないけれど、多田裕計へのアプローチを試みる者にとっては、必須の小説であろう。 

俳句評論では、社会性俳句の問題を扱った「社会性の美学」などが収録されている『ショパンの雨滴』(近藤書店)に目を通されたい。句集では、いうまでもなく、『浪漫抄』(大雅洞)と『多田裕計句集』(角川書店)である。

 多田裕計作品30句

月光降る白き流木と錆罐に   多田裕計(以下同)

崩れ残る高きパウロが日に歩む

郷愁の流氷幻音ストーブより

緑野割れ屋根割れ人の肉も割れ

爆忌の詠歌鈴音やがて叫喚す

火の阿蘇原みどりの裾に浮く天草

枯葦に耳影のびて暾が鳴りだす

何れも俺でない枯野のガラス屋

枯野来る吾子よ汝が家他になし

風白し都市が矩形に三角に

鳥飛んで胸しぼる型澄むレモン

氷柱落つ一瞬水平線赤し

火の馬や春潮音を振り切れず

唇必ず幸のみを言へ緋のダリヤ

楡の根に錆自転車の霧二日

孤独な日々コップに歪む青樹海

薔薇幾千降れよ雪降る夜の海

紅梅の一と枝に湾の楕円あり

月に立ち芒駿馬のごと白し

天の紗を打ち抜く単音梅ひらく

スコップの斜めの深さ苜蓿

風花や公達めける蟹の色

牛をばら撒き太陽を擲げ冬火山

秋風の場末に愛とレニンの語

月夜らしテラスのうへの種袋

六月の夕日がのびて白い菓子

火の砂漠見よランボオの影十字

力撃つ法華太鼓に霧うごく

名月の無人の都市の硝子売り

いつの間に月光なりし雪柳

(多田裕計句集『浪漫抄』より須藤徹抄出)

 *『浪漫抄』=昭和49年7月1日、太雅洞より発行

 

 


きさらぎの空と渚を見つめて─1月から2月にかけての日々抄 text 294

2013-02-07 06:50:52 | text

 2013年の1月は、大磯の知人と甲斐の国の義母(家人の母)との別れがあり、それぞれ通夜と告別式に参列する。1月4日(金)と5日(土)が大磯の知人、同月24日(木)と25日(金)が甲斐の国の義母である。神奈川県平塚市と山梨県身延町で葬儀が執り行われた。後者では、首都圏から長男一家(3人)と札幌より次男も参列。一部上場企業の管理職としての激務の中、長男と次男は二日間にわたる葬儀を、滞りなく終了することができた。(合間に、長男はケータイ電話、次男はノートPCを片時も離さずに、会社の仕事を行う。)皆で下部温泉の下部ホテルに一泊。

義母は、91歳で黄泉の国に旅立つ。生涯非常に優しい人だった。学生時代以来の関係(義母としては26歳から)だから、40年以上の長きにわたって、折につけて私たちをフォローしてくれたのだ。家人の実弟たちが、某団体の理事などの役員を務めている関係上、現職あるいは元の衆議院議員の弔電が多数、会場で読み上げられた。(参議院議員の選挙近しの実感あり。)帰りは、子どもたちと現地解散し、実妹夫婦の車に便乗させてもらい、富士川沿いに走り、富士宮にて新東名に入って、そのまま大磯へ。ちなみに翌日の1月26日(土)は、第114回BM大磯句会が行われるので、この日に帰宅する。

2月1日(金)、かねてより予定していた、小宅のWi-Fi化(高速無線ラン化)を、業者に行ってもらう。小宅には、家人のノートPC1台及び筆者のPC2台(デスクトップとノート)の3台があり、旧来の有線ランケーブルでつながっており、不便をきわめていた。また、アップル社のiPad(アイパッド)を購入したので、どうしてもWi-Fi化(高速無線ラン化)が必要になったのだ。iPad購入は、仕事仲間の知人と実妹夫婦の使用状況を聞いて、購入を決めたものである。しかし、iPadの基本と応用の操作方法が未熟のため、今しばらく学習せざるをえないだろう。

筆者が選者を務めた、第17回「草枕」国際俳句大会(2012年11月17日表彰式)の「一般部門」の入賞作品が、同会のWebサイトに紹介されていたので、これを閲覧する。リーフレットは、まだお送りいただいていないので、Webサイトをよく確認した。大会参加者は、一般部門・ジュニア部門・外国語部門・俳画部門・当日投句部門を含めて、8983人から16946作品が集まった、とのことである。また、第18回「草枕」国際俳句大会は、2013年6月1日から作品募集を開始するそうだ。

神奈川東ロータリークラブ(飯田泰之会長)から、このほど正式に「卓話」の依頼があり、これを受諾する。2013年3月8日(金)のお昼、横浜駅西口「ホテルキャメロットジャパン」(旧ホテルリッチ)にて、俳句の卓話を行う。テーマは近日中に決定する予定。この件は、G社在社中の同僚及び先輩の二人がすでに終了ずみで、その関係から筆者にお鉢が回ってきたもの。同僚及び先輩の卓話は、次の内容だ。岡田則夫(芸能史研究者)=「日本初のレコード吹き込みと快楽亭ブラック」、阿部庄之助(元立風書房代表取締役)=「出版という商売と文化」。

乾坤をなす睦月の富士川の幅   須藤 徹

一月の死や水平に飛ぶ新聞紙    同

母はああ冬木になりて畳に眠る    同


ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第9節〔現存在の分析論の主題〕 extra A- 09

2013-02-01 22:01:17 | extra A

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/第1部「時間性へ向けての現存在の解釈、および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」・第1編「現存在の予備的基礎え分析」・第1章「現存在の予備的分析の課題を解明すること」・第9節「現存在の分析論の主題」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]

現存在の実存論的分析論は、すべての心理学、人間学、またさらに生物学より以前にあるものです。

 Die existenziale Analytik des Daseins liegt vor jeder Psychologie, Anthropologie und erst recht Biologie.

序説が終わり、いよいよ第1部第1編第1章(第9節)が始まる。ハイデガーは例によって、長いタイトルをつけているけれど、これを読んでも、何をいおうとしているのか、よく分からない人が多いにちがいない。これらを無理して厳密に解釈しないほうが、いいのではないかと私は思う。それより、本節の最後のほうにある、「現存在の実存論的分析論は、すべての心理学、人間学、またさらに生物学より以前にあるものです。」をきちんと頭に入れるべきである。

このセンテンスで大事なことは、ハイデガーが明確に「現存在の実存論的分析論」< Die existenziale Analytik des Daseins>をいい出していることだ。第8節までは「実存論的」ということばは、出てこない。ここにきてハイデガーは、いよいよ本格的に「実存」ということばを、いわば堰を切ったように使い出す。彼はここで、「エクシステンチア」(存在=ザイン)と「エクシステンツ」(実存)を、きちんと使い分ける。

ハイデガーは「わたしたちがエクシステンチアという呼び方の代りに、いつも解釈のための表現である目のまえにあることを用い、存在規定としてのエクシステンツ〔実存〕を、現存在だけに割当てることによって、混乱は避けられる」と考え、次のように明言する。「現存在の『本質』は、その実存にあります。」今ではほとんど死語に近い「実存」であるけれど、あらためてハイデガーの使用する「実存」のことばを熟視すると、心の中にさざ波が起きる人もいるにちがいない。

ジョージ・スタイナーの『ハイデガー』(岩波書店同時代ライブラリー/生松敬三訳)によれば、人間だけが「存在を考える努力をすること」ができるとし、ハイデガーの『存在と時間』においては、存在から実存への移行を切実に思考した仕事であるとし、次のようにいう。

 「人間の現実存在、人間が『人間であること』は直接的かつ恒常的に、存在を問うことにかかっている。この問うことがハイデガーの実存Existenzと呼ぶものを生み出し、問うことのみがこの実存を実質的で有意味なものたらしめる。(略。)現存在は螺旋的に内部に向かってつき抜けて、真理が『蔽いをとって』あらわれる『明るみ』に到達するのでなければならない。」(ジョージ・スタイナー『ハイデガー』/岩波書店同時代ライブラリー/生松敬三訳/165頁~166頁)

このようなとらえ方に対し、ハイデガーは本節において、どのようにいっているのだろうか。それをみてみよう。

「現存在は、そのつど自分の可能性であり、しかも現存在はその可能性を、目のまえにあうものとして、ただ性質的に『もって』いるのではありません。しかも現存在はそのつど本質的には自分の可能性ですから、この存在するものは、自分の存在のなかで、自分自身を『選ぶ』ことも、獲得することもできるし、また自分を失うことも、ないしは決して獲得するのではなくて、ただ『見かけ』だけ得ることもできるのです。」(ハイデガー『存在と時間』第9節「現存在の分析論の主題」/上巻86頁。)

くらがりに「封印」を問う榾明り  須藤 徹