須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

沈丁花をダフネと呼びて─つれづれの日々に text 276

2012-03-23 06:35:05 | text
沈丁花をダフネと呼びて若かりし伯父や燦たる借財遺す (塚本邦雄『豹變』・花曜社より)

筆者小宅の庭に咲き誇る紅白の二本の梅の花が、にわかに散りだした。飛び石が雪のように白くなり、思わずため息をついてしまう。そのかわり、その飛び石近くに、数年前家人が植えた一株の沈丁花が、ようやく蕾を綻ばせ、鋭い香りをあたりに漂わせている。椿の木の下には、二つの蕗の薹が、首を覗かせて、かわいらしく筆者の様子をうかがう。さらにあたりを見渡せば、黄色いミニ水仙やヘレボルス(クリスマスローズ)も咲いているではないか。二本の杏の木も、もう少しで花を咲かせるだろう。

塚本邦雄の第14歌集『豹變』には、<沈丁花をダフネと呼びて若かりし伯父や燦たる借財遺す>の一首が掲載されている。小宅の庭の沈丁花を見つつ、この歌を思い浮かべるのだけれど、本来の「ダフネ」の話は、アポロンに追われて月桂樹に姿をかえた、ギリシア神話の美しいニンフのことだろう。つまり「ダフネ」は、月桂樹の異名としてのほうが格段に名高いような気がする。しかし沈丁花は、学名を「Daphne odora」といい、やはりギリシア神話の女神ダフネにちなむ。「odora」は「芳香」を意味するそうだ。

掲載した歌に出てくる「燦たる借財」を遺した、「若かりし伯父」は、いったい何をしたのだろうか。親の莫大な財産を懐に、ある種の仕手株に手を出したのか、あるいはラスベガスのカジノに行って、巨額の損を出したのか、そのへんはまるで分からない。この若い「伯父」は、もともとまともな仕事を地道に行うタイプではなく、きっと根っからの投機筋のような人種であるにちがいない。しかし、それでもその本来の気風(きっぷ)の良さから、小さい姪は、歳がそう遠く離れていない「伯父」を心から愛する。その「伯父」は、姪に「沈丁花は、別名ダフネともいうんだよ。花言葉は『栄光』『不滅』!」とそっと教えてくれたのだった。

「遠山に日のあたりたる枯野」より還り来て悲をみごもれり 母 (同)

冬霞たつやカルロス・ガルデルの「沈黙(シレンシオ)」わが挽歌となさむ (同)

壮年のあとかたもなき夜のリラ何に執して死なざりけるか (同)


塚本邦雄第の『豹變』に登場するこの4首から、若き「伯父」の一生の「生きざま」を、それとなく読み取りたいと思うのは、果たして筆者だけではないにちがいない。

沈丁に拳銃隠す夜の怒涛 (須藤 徹『幻奏録』・邑書林より)

最近、ドイツ文学者の氷上英廣(ひがみ・ひでひろ/1911-1986)のエッセイ集『ニーチェの顔』(岩波新書)を読んでいたら、特に「犀・孤独・ニーチェ」の章がつよく印象に残った。氷上英廣といっても、なかなか馴染みのない名前と思うけれど、一校時代は、同級生の中島敦と親交が厚く、後に『中島敦全集』を編纂する。彼は当時、中島敦にカフカを教えられたという。戦後1950年に新制・東大教養学部助教授、1957年に同教授へ就任した。ニーチェについての著作物が多く、『ニーチェの顔』を読んでも分かるとおり、達意の文章を書く人でもある。妻は南原繁の長女で、歌人であった待子…。「犀・孤独・ニーチェ」では、ショーペンハウアーに強い影響を受けたニーチェの人物像を、表情を含めて「犀」に模しているところが、じつにユニークで面白い。

その「犀」は、ゾウに次ぐ大型の哺乳類であり、特に最大のシロサイは体長4m、体重2.3tにも達するという。巨体に似合わず最高時速50kmで走る。「犀」の皮膚は非常にぶあつく硬質で、体全体を鎧のように覆っているところが、なんとも興味深い。版画家のアルブレヒト・デューラーが1515年に製作した木版画(写真参照)を見るのが、筆者の楽しみの一つでもあり、いろいろなイメージが湧いて楽しい。そういえば、不条理演劇の代表的作家として知られる、ウジェーヌ・イヨネスコの代表作である「犀」は、ある日突然街にあふれ出す犀を人間と重ね合わせ、人々に相当な戦慄をあたえる。ある意味で、集団ヒステリーの内実と個的人間の尊厳を描いた作品だが、イヨネスコ自身は明らかに「ファシズム」をイメージしたといっている。そのイヨネスコの「犀」を現代詩にイメージしたのが、坂井信夫の『日常へ』(漉林書房)である。

「……あのころ犀をみかけることは稀だった。だが、いまはどうだ。わずか二十年が経っただけなのに、路上を往きかうのは犀ばかりだ。かたい角をふりかざしながら挨拶を交わしているではないか。かれらは、いつ自分が犀になったかも気づかないままスーパーTOPにつめかけ、デニーズを満席にしている。だれもが犀でいることを疑いさえしない。それはたんに慣れてしまったからなのか。かつて犀となった者は白い眼でみられていたが、いまではだれも異様とは思わない。むしろ人間のほうが歩道のはしっこを遠慮がちに歩いている。……」(坂井信夫の『日常へ』の25より)

原発が54基ある日本列島のどこもかしこも、今「犀」だらけだと思うのは、果たして筆者だけであろうか。それはむろん国会の中もそうであるし、巷も多くの「犀」に溢れている。たとえば、テレビや新聞によく登場する、巨悪の権化(!?)としての東電も、よく考えてみるまでもなく、会社設立期から現代に至るまで、幹部の多くが、体全体を鎧のように覆った巨大な「犀」に変身、巷をわがもの顔にして、跋扈(ばっこ)往来したのではないか。そして悲しいことに、東日本大震災の被災者たちは、詩人のいうように、今まさに「歩道のはしっこを遠慮がちに歩いている」のである。

最後にお知らせ一つ。『ぶるうまりん』21号が完成、3月下旬に大磯より発送の予定です。特集は「無季俳句への射程」。筆者(須藤徹)は「喩の声」50句を同誌に発表しました。乞うご期待!!です。本ブログをご覧になり、購入ご希望の方は、次のメールアドレスへご連絡いただければ、幸いです。1冊税込み・送料込み、千円です。

White4002cat@yahoo.co.jp

漱石の「一夜」は前衛的なエクリチュール─拙稿「降臨する『草枕』の非人情」の改訂作業 text 275

2012-03-02 21:53:33 | text
かつて書いた拙稿を見直しての全面改訂作業が続いている。ある団体において、リニューアル原稿を掲載するためである。具体的な掲載先を現段階で記述するわけにはいかないので、「ある団体」とだけとしておく。拙稿は、『ぶるうまりん』15号(2010年8月28日発行)に書いた『俳句的小説から俳文へ─降臨する『草枕』の非人情』(400字詰約35枚)である。この仕事のために、『漱石全集』(岩波書店版)の何巻かを読み直し、また小宮豊隆の『夏目漱石』全3巻(同)も再読した。さらに、大岡昇平の『小説家夏目漱石』(ちくま学芸文庫)、江藤淳の『決定版夏目漱石』(新潮文庫)、柄谷行人の『漱石論集成』(第三文明社)などにも以前以上に眼を配り、必要なところを中心に精読。

今回の改訂作業の柱は、『草枕』に先だって明治39年(1906年)5月18日に大倉書店から刊行された、夏目漱石の『漾虚集』の中の短編「一夜」についての拙考を、ワンセクションたてて、加筆したことである。『漾虚集』には、「倫敦塔」「カーライル博物館」「幻影の盾」「琴のそら似」「一夜」「薤露行」「趣味の遺伝」の七編が収載されている作品集で、岩波文庫や新潮文庫等で読むことができる。ウェブサイトの「青空文庫」でも、一部の作品をのぞいて公開されているので、気軽に親しめる。『漾虚集』については、比較文学の観点から多くの研究者が鋭くアプローチされているけれど、『漱石全集』第2巻に掲載されている小宮豊隆の解説をまず精読すべきだろう。

(『一夜』は)三人が一つ所に落ち合って過した一夜を、真の断面として描き出したものである。是は、普通の意味での小説の、筋と歴史と性格とを重要視する考え方に対して置かれたアンチテーゼ──従って又自分自身の『琴のそら似』のようなものに対しておかれたアンチテーゼ──であり、それが俳句的な小説であるという点で、『猫』に繫がるものを持ち、且つ後の『草枕』の先駆をなすものである(小宮豊隆の『漱石全集』第2巻の解説/原著の旧仮名を現代仮名づかいに修正。)

小宮豊隆は「一夜」について、明確にこのように述べる。この短編は、明治38年11月号の『中央公論』発表直後から「分からない」小説として一致衆目されていたようで、高浜虚子宛の夏目漱石の書簡でも、この点に触れている。「御批評には候へどもあれをもっと分る様にかいてはあれ丈の感じは到底出来ないと存候。あれは多少分らぬところ処が面白い処と存候。あれを三返精読して傑作だというてくれたものが中川芳太郎君であります」(明治38年9月17日の夏目漱石の高浜虚子宛書簡/原著の旧仮名を現代仮名づかいに修正。)書簡中の中川芳太郎は、東京帝大で夏目漱石の講義をうけ、漱石の依頼で講義ノートをもとに「文学論」の原稿をまとめた。英文学者としても著名で、著書に『英文学風物誌』がある。

夏目漱石の「一夜」については、漱石自身、『吾輩は猫である』(以下『猫』とする)の第6章にも書いてある。「先達(せんだっ)ても私の友人で送籍(そうせき)という男が『一夜』という短編をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤(とく)と主意のあるところを糾(ただ)してみたのですが、当人もそんな事は知らないよといって、取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」。いうまでもなく送籍は夏目漱石である。注目すべきは、文中で「全くその辺が詩人の特色かと思います」と言わせているところである。明らかに『猫』の系列とは異なる詩的(俳句的)作品として、夏目漱石自身「一夜」をとらえていることが、容易に理解できる描き方であろう。

読んだらすぐにわかると思うけれど、ほぼ同時期に書かれた『猫』と『漾虚集』の作品における、その文体はおおいに異なる。『猫』の平易で腰のすわった奥行きの深い文体と異なり、『漾虚集』の「幻影の盾」や「薤露行」は、絢爛たる古語をまじえた雅文体で描かれる。夏目漱石は、こういってよければ、単一でステレオタイプな小説に収斂するのが目的ではなく、あくまでエクリチュール(書きことば)の実験場に身を置き、作家としての10数年間を燃焼したのにちがいない。「一夜」は、もちろん「幻影の盾」や「薤露行」などの雅文体で描かれた作品ではないが、内容的にはしっかりした古典的な構成をもつ両作品とは違い、一瞬の「場」(時空)を描いた、現代にも通ずる前衛的なエクリチュールと思う。

思い起こして欲しい。俳句は「日常から日常へ、螺旋曲線を描きながら突き進んでいく」(須藤徹『俳句という劇場』所収「俳と詩の役割」)もので、最終的には宙吊りにされてしまう。俳句は、ものごとのディテールのいちいちの説明ではなく、それは一瞬の「時空」を穿つ。夏目漱石は、「一夜」を「誰が読んでも朦朧として取り留めがつかない」と謙遜するけれど、そうではなく、「一夜」がディテールの構成的連鎖の解体を目指したからこそ、一般に分かりにくい作品になったのであろう。エクリチュールの実験場に身を置く作家は、ステファヌ・マラルメがそうであったように、「世界は一冊の書物に至るために作られている」ので、「世界」を「一冊の書物」に閉じ込めるのを、生涯の究極の仕事とするのだ。「一夜」の冒頭部分を転写してみよう。

美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と髭ある人が二たび三たび微吟して、あとは思案の体である。灯に写る床柱にもたれる直き背の、この時少しく前にかがんで、両手に抱く膝頭に険しき山が出来る。佳句を得て佳句を続(つ)ぎ能(あた)わざるを恨みてか、黒くゆるやかに引ける眉の下より安からぬ眼の色が光る。
「描けども成らず、描けども成らず」と椽(えん)に端居して天下晴れて胡坐かけるが繰り返す。兼ねて覚えたる禅語にて即興なれば間に合わす積りか。剛(こわ)き髪を五分に刈りて髭貯えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦し了って、からからと笑いながら、室(へや)の中なる女を顧みる。
 竹籠に熱き光りを避けて、微かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は繰り深き庭に向えるが女である。
「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣に片足をそと崩せば、小豆皮の座布団を白き甲が滑り落ちて、なまめかしからぬ程は艶なる居ずまいとなる。
(夏目漱石『倫敦塔・幻影の影』の中の「一夜」の冒頭部分)。

ここに出てくる女は明らかに、『草枕』のヒロインである那美さんに似ていて、三人のテンポのよいかけあいも、内容は異なるものの、『草枕』の画工と那美さんとのやりとりを連想させてやまない。最後に、夏目漱石の初七日に夏目鏡子夫人が香典返しとして配った袱紗に書かれた句を掲げてみる。このことは同夫人の『漱石の思ひ出』(松岡譲筆録/角川文庫)に出てくる。ちなみにこの句は、明治44年に漱石が寺田寅彦宛の葉書に、大阪の湯川病院から投函したもの。さて、香典返しの袱紗にこの俳句を入れることに決めた(選句した)のは、鏡子夫人(夏目漱石の生前の託けを受け)なのか、あるいは高浜虚子か松根東洋城なのか、そのほかの誰か、本当のところを知りたいと思うのは、おそらく筆者だけではないだろう。

稲妻の宵々毎や薄き粥   夏目漱石