須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

花筒の宇宙 text 97

2007-04-24 04:32:10 | text
昔から千利休と古田織部に興味があって、野上弥生子の『秀吉と利休』を読んだり、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」(井上靖原作)の映画を観たりした。いうまでもなく、千利休は豊臣秀吉に、古田織部は徳川家康に切腹させられた悲劇の茶人である。そして二人は師弟の間柄以上の盟友でもあった。今回、故桑田忠親(ただちか)の名著『古田織部の茶道』(講談社学術文庫)を読んだのだけれど、同著には、利休が織部にあてた五通の書状が紹介されている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は北条氏を陥落させるべく、小田原攻めをする。その際、秀吉の命を受けて、千利休は小田原に、古田織部は武蔵に行った。その期間に、二人は文通した。そこにあることが書かれていて、私の興味を引く。お互いの近況報告の一方で、歌のやりとりと同時に、何と花筒に触れている箇所がある。別の資料によると、利休は伊豆・韮山の素晴らしい竹を用い、湯本付近で、精魂こめて花筒の制作に没頭していた。同年の7月9日付けの織部宛利休自筆の書状の一部には、次のような一節が見える。ちなみに7月9日は、北条氏政が降参した日である。、

「花筒の竹は、さまざまおほけれど、音曲(おんぎょく)にていかがあるべき。又、筒共、かまへてゆかしくおぼしめし候て、そこもとへまいり候よりも、をとり申べく候。」

千利休の手紙の中に、「音曲」と出てくるが、これは「尺八」という竹花入の一つのことを指しているのだろうか。「尺八」は、竹を筒切にして、窓を切らない形の花入であるという。16万という豊臣軍が難攻不落の小田原城を攻めたそうだけれど、その最中に千利休は厳しい戦地でゆうゆうと歌を詠み、究極の花筒を制作したのだ。一説によると、利休は三つの花筒を作ったという。既成の価値観を超克するアバンギャルドとしての利休の面目が、躍如として出ている一シーンなのではないか。この後利休と織部は、秀吉から暇をもらい、熱海の温泉へ一緒に入ったそうである。

写真は、小田原で制作した「園城寺」(おんじょうじ)という千利休の竹の花筒。わざと大胆なヒビ割れを正面に施した。これに趣のある一輪の野の花を投げ入れたら、誠に見事で、客人をぞくぞくさせるだろう。利休も織部も、先鋭なデリダの「脱構築」(ディコンストラクション)を、安土桃山から江戸時代にかけて行った最前衛の数寄(すき)者である。
 *http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic21.html

きりぎしに置く霊言集と黒織部  須藤 徹



甲斐山中の微笑仏へ text 96

2007-04-13 03:04:18 | text
4月中旬近くの葉桜の季節、ふと思い立って甲斐山中の木喰(もくじき)仏(微笑仏)を見るために、リュックを背負って出かけた。大磯駅→熱海駅→富士駅とJR東海道線、そして富士駅からJR身延線に乗り換えて市ノ瀬駅へ。市ノ瀬駅からは徒歩で「木喰の里・微笑館」へという、何ともスローな旅だった。スピード万能の世の中に、オール鈍行と徒歩というのも、たいそう珍しい。市ノ瀬駅が無人駅であることを知らずに降りたら、車掌が私のところに来て、切符を貰いたいという。じつは「スイカ」で大磯駅の改札を通ったから、切符は持ち合わせていない。そこで、その車掌によるアナログ清算を行った。電車から降りる時は、自分でボタンを押してドアを開けるというレトロな仕組みで、非常にびっくりした。もちろん降りたのは私一人だけである。美しい鶯の声が、しばし私を歓迎してくれた。

市ノ瀬駅から国道300号線に出て、長塩トンネルと木喰トンネルを抜けて、道の駅「しもべ」へ。その少し手前の細く急峻な山道を、息を切らしながら、ひたすら登り続ける。薄く煙る甲斐の緑、ところどころに咲く山桜、そして鶯の声などが、私を慰めてくれる。大磯駅からの所要時間は約4時間半。山登りだけでも、1時間近くかかる。いうまでもなく、山登りの最初から最後まで、私一人だけである。その難行の終盤近くに、地元JAの軽自動車が通りかかり、そんな私を見かねてか、後部座席に乗せてくれた。(この場を借りてお礼申し上げる。)

木喰上人(しょうにん)は、享保3年(1718年)に、山梨県西八代郡下部町(現南巨摩郡身延町)古関字丸畑に生まれ、93歳で亡くなるまで、生涯を北海道から九州まで行脚し、天衣無縫の木喰仏(微笑仏)を制作した。永い眠りの季節から、やがて民藝運動の推進者柳宗悦(やなぎむねよし)に見出されると、その名は全国にとどろいた。小泉純一郎前首相は、<まるまると まるめまるめよわが心 まん丸丸く 丸くまん丸>という木喰上人の歌を、自身のメールマガジンに引用したそうだ。(2003年2月13日)。その木喰上人の仏像や墨書などの貴重な作品群が、この微笑館に展示されているのである。

じつはこの「木喰の里・微笑館」の館主は、義妹(天野よ志美)が務めている。彼女は又俳人で、地元の俳句誌「幹」(小林波留主宰)に所属する。そうした関係からか、微笑館の外には、故山口青邨(せいそん)や故秋元不死男(ふじお)の句碑があった。渚の人(須藤徹)と義妹(天野よ志美)とで、少し俳句の話をしたけれど、きちんとした話の交差は次回に持ち越すことにした。いつもの調子で、無季容認、メタファー(隠喩)の行使などの必要性を、具体例を出して、私は義妹に熱っぽく語った。彼女は私の一言一言を熱心に聴いてくれた。

木喰館までも消すごと霧の海   天野よ志美
花散ると眉間の割れる木喰仏   須藤 徹

帰路にもうれしいハプニングがあった。山を降り、道の駅「しもべ」へ出て、そこの土産物店で、最寄の駅(市ノ瀬駅か身延駅)へ行くバスの様子を聞いたところ、そこに居合わせた地元の美しいご婦人が、「よろしかったら、私の車で駅までご一緒しませんか」と誘ってくれたのである。いささか逡巡した私に「別に怪しい者ではありません」と微笑む。車中お話をしたところ、驚いたことにご婦人は、義妹の昔の友達で、ソフトボールの仲間であったそうだ。世間は狭い! それにしても、甲斐の人々の優しい気持ちに、心和(なご)んだ一日であった。私はおそらく、この日の微笑仏と山桜(山吹も)と人々の優しさを、そう簡単に忘れないだろう。

写真は、山梨県南巨摩郡身延町北川2855番地にある「木喰の里・微笑館」。昭和61年(1986年)6月5日にオープンした。観音像等をはじめ、同上人の自叙伝的要素の濃い『四国堂心願鏡』や『南無阿弥陀仏国々御宿帳』及び『納経帳』等の古文書類、さらには『薬師如来画像軸』などの軸物が、二室にわたって展示されている。同上人の経歴等を分かりやすく解説してくれるビデオ室もある。毎週水曜日と祝日の翌日が休館。開館時間は午前9時から午後5時まで。先述したように、道路事情があるため、そこへ訪れる前に、身延町教育委員会(0556-36-0011)か「木喰の里・微笑館」(0556-36-0753)に電話したほうが良い。

さくら日和が過ぎ text 95

2007-04-03 01:44:06 | text
桜の季節が過ぎようとしている。三分咲き、七部咲き、満開、落花と一瞬のうちに桜のシーズンは終わる。その儚さが、また良いのかもしれない。渚の人の家の回りも、多くの桜の花があり、その一部始終をつぶさに見ている。高麗山の山桜、花水川(金目川)沿いに立ち並ぶサイクリングコース沿いの桜並木、あるいは旧東海道松並木に混在する桜など。(いずれも大磯。)この季節、桜に囲まれて私は、たいそう幸せである。したがって、ことさらに花見などと浮き立って、桜の名所に行く気などまったくない。第一、桜の名所など幻想だ。自分が本当に美しいと思ったその瞬間こそが、すべてであろう。

この季節、私は武満徹の混声合唱のための<うた>「明日ハ晴レルカナ、曇リカナ」をCDで聴くのを楽しみにしている。指揮は、一昨年死去した合唱界のマエストロ(巨匠)関屋晋である。合唱はお馴染みの晋友会。私がもっているのは、なぜか <A SONG OF CIRCLES & TRIANGLES / TAKEMITSU-CHORAL WORKS>と題されたフィリップスの輸入盤なのだ。たぶん購入時、レコード店に日本盤がなかったためであろう。

このCDには、日本古謡の「さくら」や谷川俊太郎、井沢満、そして武満徹自身の詩など、12曲の合唱曲が入っている。どれもすばらしく、聴いていて、ほろりと涙する人もいるにちがいない。武満徹はなんとロマンティックで、抜群の感性をもった人なのだろうと思う。7曲目の「明日ハ晴レルカナ、曇リカナ」は武満徹の作詞で、人間の希望と苦しみが、空の天気模様と重なり、どこまでも透明で哀切である。聴くたびに、私の心は洗われる。

3曲めの「うたうだけ」(谷川俊太郎詩)も印象に残る。<むずかしいことばは/いらないの/かなしいときは/うたうだけ/うたうと、うたうと、/かなしみはふくれる/ふうせんのように/それが わたしの よろこび>という詩が、混声合唱のうたごえに乗って、風のように、私の心に忍び寄る。そういえば、松尾芭蕉の桜の句も、この季節になると、ふと思い出す。(渚の人の桜の句も、掲出しよう。)

さまざまの事おもひ出す桜かな   松尾桃青(芭蕉)
発つ朝の窓に花散る明日はパリ   須藤 徹  *『荒野抄』より