昔から千利休と古田織部に興味があって、野上弥生子の『秀吉と利休』を読んだり、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」(井上靖原作)の映画を観たりした。いうまでもなく、千利休は豊臣秀吉に、古田織部は徳川家康に切腹させられた悲劇の茶人である。そして二人は師弟の間柄以上の盟友でもあった。今回、故桑田忠親(ただちか)の名著『古田織部の茶道』(講談社学術文庫)を読んだのだけれど、同著には、利休が織部にあてた五通の書状が紹介されている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は北条氏を陥落させるべく、小田原攻めをする。その際、秀吉の命を受けて、千利休は小田原に、古田織部は武蔵に行った。その期間に、二人は文通した。そこにあることが書かれていて、私の興味を引く。お互いの近況報告の一方で、歌のやりとりと同時に、何と花筒に触れている箇所がある。別の資料によると、利休は伊豆・韮山の素晴らしい竹を用い、湯本付近で、精魂こめて花筒の制作に没頭していた。同年の7月9日付けの織部宛利休自筆の書状の一部には、次のような一節が見える。ちなみに7月9日は、北条氏政が降参した日である。、
「花筒の竹は、さまざまおほけれど、音曲(おんぎょく)にていかがあるべき。又、筒共、かまへてゆかしくおぼしめし候て、そこもとへまいり候よりも、をとり申べく候。」
千利休の手紙の中に、「音曲」と出てくるが、これは「尺八」という竹花入の一つのことを指しているのだろうか。「尺八」は、竹を筒切にして、窓を切らない形の花入であるという。16万という豊臣軍が難攻不落の小田原城を攻めたそうだけれど、その最中に千利休は厳しい戦地でゆうゆうと歌を詠み、究極の花筒を制作したのだ。一説によると、利休は三つの花筒を作ったという。既成の価値観を超克するアバンギャルドとしての利休の面目が、躍如として出ている一シーンなのではないか。この後利休と織部は、秀吉から暇をもらい、熱海の温泉へ一緒に入ったそうである。
写真は、小田原で制作した「園城寺」(おんじょうじ)という千利休の竹の花筒。わざと大胆なヒビ割れを正面に施した。これに趣のある一輪の野の花を投げ入れたら、誠に見事で、客人をぞくぞくさせるだろう。利休も織部も、先鋭なデリダの「脱構築」(ディコンストラクション)を、安土桃山から江戸時代にかけて行った最前衛の数寄(すき)者である。
*http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic21.html
きりぎしに置く霊言集と黒織部 須藤 徹
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は北条氏を陥落させるべく、小田原攻めをする。その際、秀吉の命を受けて、千利休は小田原に、古田織部は武蔵に行った。その期間に、二人は文通した。そこにあることが書かれていて、私の興味を引く。お互いの近況報告の一方で、歌のやりとりと同時に、何と花筒に触れている箇所がある。別の資料によると、利休は伊豆・韮山の素晴らしい竹を用い、湯本付近で、精魂こめて花筒の制作に没頭していた。同年の7月9日付けの織部宛利休自筆の書状の一部には、次のような一節が見える。ちなみに7月9日は、北条氏政が降参した日である。、
「花筒の竹は、さまざまおほけれど、音曲(おんぎょく)にていかがあるべき。又、筒共、かまへてゆかしくおぼしめし候て、そこもとへまいり候よりも、をとり申べく候。」
千利休の手紙の中に、「音曲」と出てくるが、これは「尺八」という竹花入の一つのことを指しているのだろうか。「尺八」は、竹を筒切にして、窓を切らない形の花入であるという。16万という豊臣軍が難攻不落の小田原城を攻めたそうだけれど、その最中に千利休は厳しい戦地でゆうゆうと歌を詠み、究極の花筒を制作したのだ。一説によると、利休は三つの花筒を作ったという。既成の価値観を超克するアバンギャルドとしての利休の面目が、躍如として出ている一シーンなのではないか。この後利休と織部は、秀吉から暇をもらい、熱海の温泉へ一緒に入ったそうである。
写真は、小田原で制作した「園城寺」(おんじょうじ)という千利休の竹の花筒。わざと大胆なヒビ割れを正面に施した。これに趣のある一輪の野の花を投げ入れたら、誠に見事で、客人をぞくぞくさせるだろう。利休も織部も、先鋭なデリダの「脱構築」(ディコンストラクション)を、安土桃山から江戸時代にかけて行った最前衛の数寄(すき)者である。
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きりぎしに置く霊言集と黒織部 須藤 徹