須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

みんなの心の中の天使─初秋の海と空を見ながら text 175

2009-08-27 20:42:19 | text
だいぶ朝晩涼しくなってきた。夕方など蝉と虫の混声合唱が、小宅に響き渡り、独特な雰囲気を醸し出している。大磯の空も海も、そして山並みも静かに秋の中に入りつつあるのだ。「ぶるうまりん」の12号が、このほど(8月23日)完成し、大磯町立図書館での「第73回ぶるうまりん大磯句会」のときに、皆で発送した。毎度のことながら、同人及び会員の内部俳人、外部俳人、マスコミ、図書館等と発送先は4部に分かれ、なおかつ冊数もそれぞれ異なる。発行所でかなり細かい段取りを事前に組まないと、当日の発送はスムーズにいかない。しかし些かの逡巡があったものの、おおむね作業はスムーズに進行し、約90分で発送作業が完了、午後1時からの定例の句会に繋げることができた。お集まりいただいた皆様に、この場を借りてお礼申し上げる。

発送後数日して、同誌の感想などが発行所に電話や手紙などで寄せられた。今号は「芭蕉の門人」が特集であるために、そのことの内容が多いけれど、拙作50句「ストラディバリウスは燃え」についての読後感のこともある。「ストラディバリウス」は、アントニオ・ストラディバリ(Antonio Stradivari/1644年~1737年)が製作した名器中の名器のバイオリン。彼はイタリア北西部のクレモナで活動した弦楽器製作者である。日本では千住真理子さんが、ローマ法王のもとにあった「ストラディバリウス」(デュランティ)をスイスの貴族から譲り受けて、使用している。運命的な巡り会わせで、彼女が「ストラディバリウス」を自己所有しているのだが、それでも億単位のお金がかかったといわれる。ちなみにタイトルに使用した拙作を含めて5句を掲出しておこう。

蓑虫や時間と空間揺れてます   須藤 徹
相聞や極寒の夜の棒掴み      同
脳中に繭玉繁る尽未来       同
蕗の中ストラディバリウスは燃え  同
雨脚の色は飴色蜷の道       同 

「ぶるうまりん」12号を発送してまもなく、ある方(女性)から谷川俊太郎の詩画集『クレーの天使』(講談社)をプレンゼントされた。その人は、前号の同11号で渚の人が「新しい天使」(K.M.追悼のための奥多摩紀行)と題して特別作品を発表した友人K.M.の実のお姉さま。現在、ジュエリー・デザインのプロ作家として都内で活動している。高校時代に親しかった友人の一人、K.M.とお姉さまたち一家は、茅ヶ崎市中海岸の平屋の家(もと大阪の喜劇人曾我廼家五郎所有の別荘だったという)に住まわれており、渚の人は、よくそこへ通っては、K.M.やお母さまなどとフランス文学や源氏物語の話をしたものである。お母さまからすすめられて『ドルジェル伯の舞踏会 』(ラディゲ作)を、新潮文庫で読んだ記憶がある。庭には松林が広がり、平屋の家は、まるで小津安二郎が好んで撮影しそうな佇まいで、お風呂も五右衛門風呂であった。時々プロの能楽師が家に来られて、お父さまなどが謡の稽古をしていることもあった。その影響であろう、友人K.M.は亡くなるまで能を愛し続けた。

著作権の関係で、同詩画集収載の谷川俊太郎の詩を、たとえ一編であっても、ここに全面引用(転写)するわけにはいかないけれど、「天使、まだ手探りしている」の中の「わたしにはみえないものを/てんしがみてくれる」の一節は許されるだろう。「わたしにはみえないものを/てんしがみてくれる」のことばは、まさに俳句創作の秘密をいい当てているし、人間のもっとも大切な「生」のコア(核)を鋭く穿つ。すでに本ブログでも触れたことのある、サンテグジュペリの『星の王子さま』の中の「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ。」(第22章)とあわせて、私たちが銘記すべき大事なことばであるだろう。私たちは、自らの内のどこかにいる「心の天使」と絶えず対話する必要があるにちがいない。クレーが描くように、天使はいつも完璧であるのではなく、「泣いている天使」や「醜い天使」であったり、あるいは「ひざまずく天使」や「幼稚園の天使」だったりする。

渚の人は、そんなクレーの優しい「天使」がこのうえなく好きなのである。そして「わたしにはみえないもの」を、内にいる数々の「天使」に教えてもらおうと思う。「ぶるうまりん」12号の特集「芭蕉の門人」には、金子晋、二上貴夫、小倉康雄等の皆様、また恒例の「特別作品30句」は、後藤昌治、片岡秀樹の皆様が執筆(発表)されている。ご多端のおり、本誌のために、お時間を割いていただいたことに、心よりお礼申し上げたい。写真は、クレーの「高いC音の勲章」というタイトルがついた作品。「言葉というものは、やはり神秘そのものと隔たること著しい。音と色彩にこそ秘儀がひそんでいる。」とのクレーのことば(日記)がある。

深川と芭蕉─墨田の長江に鱸(すずき)はおどり text 174

2009-08-20 05:12:01 | text
前ブログ「芭蕉ゆかりの地深川を歩く─第4回『「ぶるうまりん』東京吟行句会」(text 173)の補遺版として、本ブログ「深川と芭蕉」をアップする。まずはお手数ながら、中山義秀著の『芭蕉庵桃青』の冒頭部分の文章を読んでいただきたい。

「草庵は墨田の下流小名木川のそそぐ、三つまたの河辺近くに位置している。河はばひろく水量がゆたかだ。上流は両国から浅草、上野、下は永代の渡から品海のほうまでみわたされ、大空の碧雲のうちに北に筑波、西に富士ヶ嶺、泊船堂の庵号にふさわしく、『窓は含む西嶺千年の雪、門は泊す東呉万里の船』といったおもむきを展開している。/ここの草庵はもと、幕府御用達、鯉屋杉風の生簀の番小屋であった。朽ちた竹垣にかこまれて、葭と水草になかば蔽われた、庭前の古池がその名残りである。」(中山義秀著『芭蕉庵桃青』・中公文庫。引用文中の斜線は改行。)

深川の芭蕉庵に、二十代半ばの洒堂(浜田珍夕)がやってきたのは、1692年(元禄5年)の9月初旬。以来、洒堂は1693年(元禄6年)1月まで、芭蕉庵の食客となる。「珍夕愈(いよいよ)無事に逗留、草庵せばめ、瓢(ひさご)の米をくらひ候」と去来への手紙で、芭蕉は書く。その洒堂は、1693年(元禄6年)1月に帰郷、2月初めには上洛して、半紙本1冊の俳諧選集『深川』を、京都の井筒屋庄平衛より板行した。「壬申九月に江戸へくだり芭蕉庵に越年して、ことしきさらぎのはじめ洛にのぼりて、ふろしきをとく。」と、自序を記す。版元の井筒屋庄兵衛〈初代〉は、1621年(元和7年)~1709年(宝永6年)まで生きた長命の人。(90歳近くまで生を長らえた勘定になる。)京都の俳諧専門の書肆で、松永貞徳の門人のせいか、貞門諸派、談林派の俳書を多く出版したという。

俳諧選集『深川』は、当然のことながら芭蕉一座の歌仙が多い。基本的には6巻の歌仙を中心に収録した構成をとる。編集者洒堂の面目躍如たるものがあり、彼の才能を高く買った松尾芭蕉の目に、結果的に狂いはなかった。最初の歌仙は、芭蕉、洒堂、嵐蘭、岱水の四吟である。嵐蘭という、パンダの名前みたいな俳人は、もともと板倉候に仕えて三百石を領した人。姓は、松倉氏といい、浅草に住んでいた。『深川』が刊行された1693年(元禄6年)8月に、嵐蘭は鎌倉へ月見に行くが、帰途病を得て、急逝した。享年四十七歳。岱水(たいすい)は江戸蕉門の一人で、初め苔翠と称した。深川の芭蕉庵の近くに住み、芭蕉との交流は頻々となされていたという。『木曽の谿』(宝永元年)の編集者でもある。渚の人が芭蕉の最高傑作の一つと思う<生きながらひとつにこほる海鼠哉>の句に、<ほどけば匂ふ寒菊のこも>の脇をつけた人でもある。

青くても有(ある)べきものを唐辛子    芭蕉
提(さげ)ておもたき秋の新(あ)ラ鍬   洒堂 
暮の月槻(けやき)のこつぱかたよせて 嵐蘭 
坊主がしらの先にたゝるゝ         岱水
           
『深川』の巻頭の四吟のみを掲げてみた。やはりこの四吟だけでも、見事だと思う。若い洒堂を迎えた芭蕉の挨拶の発句は、俳諧師として身を立てようとする才能豊かな洒堂を「唐辛子」に見立て、辛ければ青いままでもよいが、時期が来れば、必ず真赤に色づくという、鋭いエスプリを含んだ句だ。これに対し洒堂も、秋に新調した鍬であるものの、それを提げれば重たく感ぜられるとして、新米俳諧師の責務の重さを絶妙に表現した。三句目は秋の「月」の定座。(普通「月」の定座は五句目であるけれど、「秋」は、三句目に繰り上げられることが多い。)嵐蘭は、「鍬」の「柄」につけた「槻」(けやき)の残り「木っ端」に言及。「槻」は「つき」とも読むのを、言外に表現する。四句目は、雑(ぞう/無季)の句で、岱水は一気に場面を転じ、家の普請のシーンに発想を変換、茶坊主が身分の高い人を現場に案内する、と付けた。当然、これは俳諧の席をダブルイメージにした、すなわち洒堂歓待の意を尽くした脇句であろう。

写真は、江東区芭蕉記念館のそばにある芭蕉稲荷神社。ここから「芭蕉遺愛の石の蛙」が、1917年(大正6年)の大津波のときに見つかったことから、この地を芭蕉庵跡と推定し、祠に石蛙をまつり、芭蕉稲荷としたという。(芭蕉を「稲荷」にすることに、渚の人はおおいに異をとなえたいところ…。)この石の蛙は、芭蕉記念館に保存、展示されているけれど、これはあくまで「伝」であるのではないだろうか。


芭蕉ゆかりの地深川を歩く─第4回「ぶるうまりん」東京吟行句会 text 173

2009-08-19 06:04:16 | text
松尾芭蕉が、初めて江戸の深川の草庵に住んだのは、1680年(延宝8年)、37歳の時でした。日本橋小田原町に居を構える、幕府ご用達の魚問屋経営者杉風の尽力によります。当初「泊船堂」といいました。しかし1682年(天和2年)、「八百屋お七の火事」で、草庵は焼け、1683年(同3年)、門人らの寄付金で第二次芭蕉庵ができ、さらに1692年(元禄5年)には、第三次芭蕉庵が新築されました。1693年(同6年)、芭蕉晩年の弟子酒堂編集による『深川』が刊行され、芭蕉は「軽み」への新意欲を示すなど、深川は芭蕉終生の拠点でした。「芭蕉ゆかりの地深川を歩く」というタイトルのもとに、今秋、4回目の東京吟行句会を実施致しますので、多数ご参加下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

1 〔日時〕    2009年10月17日(土)午前9時30分(現地集合)

2 〔開催場所〕  
A 吟行=深川界隈。(都営地下鉄大江戸線又は新宿線「森下」駅A1出口に集合。芭蕉稲荷神社、芭蕉庵史跡展望台、清澄庭園、江東区芭蕉記念館、萬年橋、豊田簾店(昭和61年江東区無形文化財に指定)など。*〔豊田簾店〕江戸簾として、昭和58年東京都伝統工芸品に指定されました。
B 句会=江東区芭蕉記念館研修室。(〒135-0006 東京都江東区常盤1-6-3/都営地下鉄大江戸線又は新宿線「森下」駅A1出口より徒歩約7分/電話=03-3631-1448)。

3 〔参加費用〕  3000円(入館料等込み/予定)*現地までの交通費(往復)及び昼食費は各自負担 

4 〔スケジュール〕
・集合=午前9時30分
・吟行=午前9時40分~正午 
・昼食=正午~午後12時45分
 *深川宿(03-3642-7878 )又は深川釜匠(03-3643-4053)にて。
・句会=午後1時00分~同4時45分 *出句5句 
・懇親会=午後5時30分より近隣の場所で。  
 
「こゝのとせの春秋、市中に住侘(すみわび)て、居を深川のほとりに移す。『長安は古来名利の地、空手にして金(こがね)なきもの行路難し』と云けむ人のかしこく覚へ侍るは、この身のとぼしき故にや。しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉 ばせを」(続深川集)

写真は、江東区芭蕉記念館の分館、芭蕉庵史跡展望庭園に立つ芭蕉像。夕方になると、隅田川を行き来する船上から、芭蕉の顔が望めるように、その位置が自動的に回転する。

*参加ご希望の方は、メールで申し込んで下さい。<white4002cat@yahoo.co.jp>


砦のようにジンの瓶─蝉声に励まされて text 172

2009-08-12 05:58:32 | text
朝から小宅の庭の樹木に留まる蝉声が、たいそう賑やかである。庭で一番背の高いヒマラヤ杉に止まって鳴く蝉が多いけれど、梅の古木や七重の塔(石塔)に留まって、鳴いている場合もある。鳴く時は、胴体の翅が絶妙に上下する。ああ、全身を使って鳴いていると思うと、ややダルな気持になりかけている渚の人を、切なく励ましてくれる。一説に5年~10年といわれる長い地下生活を過ごし、成虫になって地上に出ると、オスの蝉はメスを呼ぶために、一心不乱に鳴き続けるのだ。わが家の庭は、この時期あちこちに穴があき、ときどき空蝉も見かける。このように、夏から秋にかけての小宅の庭は、蝉とともに毎日が明け暮れるのである。

源氏物語の3番目に「空蝉」がある。光源氏17歳の夏の物語で、心に思った人妻空蝉に会える絶好のチャンス(彼女の夫の伊の守が、任国へ行くとき)に、彼は屋敷に出向く。けれども一夜をともにした女性は空蝉ではなく、継娘の軒端の荻(のきばのおぎ)であった。気配を感じ取った空蝉は、小袿(こうちぎ/上級クラスの公家女性が着用するやや畏まった上着)一枚を残し、素早く部屋を抜け出したのである。空蝉は、そんなに美人ではなかったけれど、立居振舞や物腰に抜群の冴えがあり、それがたいそう光源氏の心をとらえたのだった。脱ぎ捨てた小袿に、空蝉をかさね見る彼の気持は、どのようなものであったのだろう。

空蝉の身をかへてける木(こ)のもとになほ人がらのなつかしきかな   光源氏
空蝉の羽(は)におく露の木(こ)がくれてしのびしのびにぬるる袖かな  空蝉

「空蝉」に出てくる光源氏と空蝉がやりとりした歌である。今ならさしずめケータイメールでの送受信だけれど、このように頭を使いつつ技巧を凝らした、繊細な愛情表現は難しいのではないだろうか。ところで、小宅の庭に、白の百日紅、黄色いアブチロンなどにまじって、野生の白百合(写真参照)があちこちに咲いている。総数15本ほどで、それぞれに三つか四つ花をつけている。柘植の生垣にも、白百合が混じっていて、抜かないでそのままにしてある。時々家人がそれを切っては、仏間の花瓶などに挿している。数年前からの現象で、小宅の庭のみならず、近隣の生垣にもあちこち野生の白百合が混在する。

第14回「草枕」国際俳句大会の事務局(熊本市文化国際課)より、11月の熊本行きの航空券と宿泊場所を確保するためのご案内をいただいた。もうそんな時期になっているのだ。日程と時間調整を細かく行ってご連絡し、また事務局はそれに基づき、速攻で手配してくれた。(この場を借りて、お礼申し上げたい。)それとは別に、地元の大磯町(政策課)からは、このほど「大磯町行政改革推進委員会委員」への委嘱決定のご通知をいただいた。文書の発信者名は三好正則大磯町町長である。会社卒業後(定年以降)からは、何らかの形で地元に貢献したいと考えていたから、これは渚の人にとって、俳句以外のもう一つの大事な仕事になるだろう。同委員の委嘱式と最初の委員会の日にちは、別途ご案内をいただくことになっている。

仕事の内容は、名前のとおり、大磯町の行政を、歳入及び歳出等のあらゆる面から検証し、建設的な意見を具体的に申し述べることであろう。提出論文にも書いたけれど、町の起死回生になる可能性の一つとして、「文化と観光」がある。これを地道に積み上げてゆくことだ。現在の「大磯町行政改革推進委員会委員」のメンバーは、6名の学識経験者などで構成されている。大学教授、元ジャーナリスト、会社経営者等の男性と女性の中に、渚の人が入ってゆくのである。幸い三好正則大磯町町長は俳句の良き理解者で、さらにメンバーの中にも、社会学的観点から「連句」を説く人もいるという。最初の任期は2年。渚の人の新たな展開がスタートする。

「イェイツやリルケやエリオットは、ヴァレリーよりも忘れ難い詩を書いている。ジョイスやシュテファン・ゲオルゲは、彼らの道具である言語により根源的な変革をもたらした(たぶん、フランス語は英語やドイツ語ほどには変革しやすくはないのだろう)。けれども、これら高名な詩の職人たちが作った作品の背後には、ヴァレリーのそれに匹敵する個性はない。彼の個性がある意味で作品の投影であるにしても、この事実が減少することはない。ヴァレリーが果たした(そして今も果たしつづけている)価値ある使命は、この堕落したロマン主義的時代、ナチズムと弁証法的唯物論の憂鬱な時代、人間の実相の予言者フロイトとシュールレアリズム商人の時代にあって、人間に明晰の意義を説くことであった。」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『続審問』の中の「象徴としてのヴァレリー」/中村健二訳・岩波文庫)。

青葉潮砦のようにジンの瓶  須藤 徹


凝縮と洗練─ボルヘスの二著を読む text 171

2009-08-03 05:55:28 | text
8月に入ったものの、雨模様の日々が続いて、あいかわらず本格的な夏が来ない。あと1週間もしないうちに「立秋」がくるというのに…。北海道では麦が実らず、九州の沿岸部の海は赤潮が発生し、それぞれに甚大な被害をもたらしている。8月3日早朝の大磯の小宅の気温は、ラジオコントロール式の温度計で24度Cを示す。肌を露出する半袖や短パンの服装では、やや涼しすぎるくらいの気候である。日照不足と気温の低下は、自然を相手に仕事を行っている多くの人々に、深刻な影響をもたらすであろう。

8月の前半は(8月の前半もといったほうが正しいであろうか)、いつにも増して超多忙の日々が続く。この時期、俳句作品と文章の選考会が集中して3回(3日)、東京で行われるのである。また、これらの日程にかぶさって、やはり東京で打ち合わせが2回、そして句会が1回あるのだ。もちろんこれらの影に隠れている、渚の人の在宅編集ワークスが厳然と存在するのはいうまでもない。しかし、多忙は理由にならないので、毎月初めに出す「ぶるうまりん」の会報は、8月1日にメール配信と郵送を滞りなく行った。

仕事が集中すると、当然のことながら読書の時間が少なくなる。とはいえ、そのような日々、2009年6月と7月にホルへ・ルイス・ボルヘス(1899~1986))の著作(邦訳書)が相次いで発刊されたニュースを聞くにつけ、どうしても書店に足を運ばざるをえない。これは、代表的詩文を集めた『創造者』(岩波文庫/鼓直訳)と評論の選りすぐりを集成した『続審問』(同/中村健二訳)の二著である。ボルヘスのこれらの書物を読むと、既刊の『伝記集』(同/鼓直訳)を初読した時と同じように、衝撃と酩酊の綯(な)い交ぜになった独特な気持ちが、たちまちにして湧き上がる。

前者の『創造者』に収められている「王宮の寓話」には、ボルヘスの迷宮的な形而上学的世界がよく表現されている傑作だろう。「迷宮の空間」としての「王宮」の庭園には「鏡」がいたるところに配置されている。不思議なことに「直線に見える庭園の道がごく軽微ながら連続的に曲がって」いる。「黄泉への通路」とも思えるその道は、途中に「亀の供犠」が置かれ、円を形作る。その道を「黄帝」と「詩人」が歩いてゆくのだ。やがて二人は「多くの控えの間や中庭や書庫」を通り抜ける。(「書庫」が出てくるところは、いかにもボルヘスらしい。)

二人がそれらの空間を通り抜けると、「水時計の置かれた六角形の広間」が広がる。もはや「方向喪失」に陥っている「魔境」の中の二人だけれど、この「水時計」(漏刻)こそは、死の宣告が差し迫る一つの寓話ではないのか。さらに「六角形」は、「生」と「死」が隣り合わせる「迷宮」の中の象徴的な宇宙空間であるにちがいない。「六角形」は、渚の人に、いろいろなことを想像させる。たとえば、雪の結晶は、「正六角形」を基調とし、またハチの巣の各部屋も「六角形」だ。石油化学に代表される化学工業の基礎的な物質の「ベンゼン」の化学構造式も「六角形」だった記憶がある。

「六角形の広間」は、すなわち「生」と「死」の永遠を司る秘密の空間なのであろう。その空間を通り抜けて、やがて「黄帝」と「詩人」は、「白檀の軽舟で波のきらめく多くの河を渡った。」そして最後から数えて二番めの塔(最初の塔は黄色であり、最後の塔は緋色だった)の下に立つと、詩人は「黄帝」のために、「宇宙を表現する」一行または一語の詩を口にする。詩人によって歌われたその内容は、「無涯の過去からそこに住んだ人間や神々や竜の栄えある王朝を襲った、不幸な、或いは幸福な時のすべて」が含まれている。これを聞いた「黄帝」は叫んだ。「よくも余の王宮を奪いおったな!」詩人が刑吏の手によって、首を刎ねられたのは、いうまでもない。

ホルへ・ルイス・ボルヘスのことは、じつは、本ブログ「渚のことば」のtext42と同52に「ボルヘスの俳句」(2005年12月)・「俳句という迷宮」(2006年2月)において、少し書いている。つまり今回でボルヘスのことを書くのは、3回めなのだ。元外交官だった俳人の内田園生さんからお贈りいただいた『世界に広がる俳句』(角川書店)を読むと、(アルゼンチンの)ブエノスアイレスに在任時、ボルヘスを2回訪問したことが書かれている。(「世界の詩人たちのハイク」の<ボルヘスのハイク/P234~P238>)。その中にボルヘスは1981年に詩集『ラ・シラフ』(命数)という本を出版し(邦訳未完)、「十七のハイク」が収められている、ことを紹介している。

軒下の鏡月のみ映すなり  ホルへ・ルイス・ボルヘス *前出の「渚のことば」にも掲載

またしても「鏡」である。今回の「王宮の寓話」に登場する「鏡」と共通するイメージで、これは『創造者』の別のところに「鏡」という独立した詩を収載。この詩も凄い詩で、渚の人は強烈な印象を受けたけれど、これについて書くことは、別の機会にしよう。(それと『続審問』についても…。)写真は『続審問』の表紙に使用されている、イタリアの版画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720~1778)の「幻想の牢獄」。

罅の鏡四人のぼくが濡れて微笑  須藤 徹