須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

聖イグナチオ教会とヒマラヤ杉 text 120

2007-12-18 02:11:31 | text
12月17日(月)、東京の四ッ谷駅のそばにあるわが母校上智大学に行ってきた、何のために行ったのかは、現段階ではヒ・ミ・ツ…。私(須藤徹)は、この大学で哲学(ドイツ語)を学んだが、じつは息子の一人も、この大学で哲学(英語)を学ぶという、親子ともどものソフィアン(上智大学人)。私の大学時代の論理学担当のO(オー)教授は、後に上智大学学長になったけれど、息子もこのO教授に教室でお世話になった。つまり親子二代にわたって、同じ大学・同じ学部・同じ科に席を置き、さらに同じ教授に学ぶという不思議な縁をもつけれど、もう一人の息子は早稲田大学に進んだ。

久しぶりに行った上智大学だが、学校と構内の様子は、かなり変貌していた。四ッ谷駅を降り、学校に向かうとすぐ左に大きなヒマラヤ杉が聳え立っている。これだけは昔も今も変わらない。そのヒマラヤ杉のすぐ近くに聖イグナチオ教会があるものの、これもかなり変わってしまった。大学の構内に赤レンガ造りの低層の1号館があり、当時私はこの古色蒼然とした教室で学ぶことを常としていたけれど、この建物は今も厳然とある。

上智大学に席を置いていたときは、70年安保と全共闘という、シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の猛烈な時代。全共闘を阻止するために、学校の二つの門が閉ざされることが多かった。そして締め出された私たちは、学外で学ぶのを日課としていた。学外教室の一つが、四ッ谷駅から二分ほどのジャズ喫茶「いーぐる」である。この地下にあるジャズ喫茶「「いーぐる」に行っては、コルトレーンやモンク、マイルスなどを聴きながら、吉本隆明やハイデガーなどの原書をひもといていたのだった。(授業を行っているときは学校へ行っていたが。)

ジャズ喫茶「いーぐる」は、当時慶應義塾大学在学中の後藤雅洋氏が1967年に開業した店で、何と40年を同じ場所で経営するという希少な存在だ。ジャズ喫茶は、日本にしかない特異な文化的音楽空間で、当時新宿や渋谷を中心にかなりの数があったけれど、そのほとんどが姿を消した。(たとえば、新宿の「ディグ」、「びざーる」、「ビレッジゲート」、「木馬」、「タロー」などは、全盛を誇っていた。)そういえば、ジャズ喫茶でないけれど、新宿に「風月堂」というヒッピーの屯している不思議な店もあったなあ…。

俳人の故攝津幸彦氏とは、1985年(昭和60年)7月21日(日)に、その「「いーぐる」に行った旨、私のダイアリーに記録されている。坪内稔典氏が中心となり、四ッ谷の長崎寮という場所でシンポジウムの何回かの打ち合わせが行われ、攝津氏と私もそこに出席したのである。おそらく最終の事前打ち合わせが終了したのを期に、私が「いーぐる」に誘ったのであろう。その晩は、近くの「しんみち通り」の牛タン屋でも、二人で呑み、さまざまな話をしたのだった。学年が同じこともあり、その日を境に彼と私の距離が、一気に縮まった。

今回も上智大学に行った後、独りでジャズ喫茶「いーぐる」に入ってみた。この40年でいったいどれだけの数行ったのだろうか。店内の様子が、ほとんど変わらないのもうれしい。JBL4344のスピーカー、MARK LEVINSONのパワーアンプ、ヤマハのアナログプレーヤーの鳴らす音は、絶妙で飽きがこない。こうした完璧なオーディオ装置で、今回はリー・モーガンの<キャンディー>とマイルス・デビスの<マイルス・イン・ベルリン>等を聴いてきた。前者のサイドメン、ソニー・クラーク(ピアノ)、ダグ・ワトキンス(ベース)、アート・テイラー(ドラムス)もじつに素晴らしい演奏をしていて、私は時間を忘れて聞き惚れてしまった。

写真は、ジャズ喫茶「いーぐる」の入り口に立つ上智大学生時代の私(須藤徹)。たぶん二十歳前後のときと思われる。その頃、大学の新聞が募集する「ソフィア祭賞」(選者開高健)に応募し、私は最終の四篇に残った。小説のタイトルは「出発できない朝」。拙作に対する、開高健の「大江健三郎のエピゴーネン」という痛烈な選評は、終生忘れられないだろう。サングラスにアスコット・タイ、紺のブレザーと、些か気障な姿をしていて恥ずかしいが、公表することにする。

絶壁なすりー・もーがんの鎌鼬  須藤 徹

青き空ありて text 119

2007-12-06 01:27:56 | text
慌しい日々が続いている。ただでさえ忙しい日常生活を過ごしている中で、ほとんど恒常的に、依頼原稿の執筆に追われている。「現代俳句」(現代俳句協会)1月号には、「オピニオン」として、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎/新潮社)と『芭蕉から蕪村へ』(松林尚志/角川学芸出版)に共通して伏在する、ある視点を抽出して文章化した。芭蕉像の神格化のベールを剥がし、虚と実のアウフヘーベン(止揚)をした両著の出版は、芭蕉の偶像を仰ぎみる世の中にあって、まさに貴重な書物であろう。

「俳句界」(文學の森)1月号から、「素顔の先師①─小川双々子」の原稿依頼を受け、締め切りぎりぎりで送稿した。小川双々子の知られざるエピソードを含めて、エッセイ風に文章を綴り、なお師と私(須藤徹)の映る秘蔵写真も同送した。初公開の写真は、書庫の一角に眠る、未整理の写真の中から探し出した貴重なもの。今月中に全国の書店で発売されるので、興味のある方はぜひご購入を……。

上記とほぼ同時期(少し遅く)に書き上げた依頼原稿が、「週刊読書人」の恒例の「各界回顧」における「俳句」ジャンルだ。これは毎年私が担当してきたもので、やはり締め切り直前に、同編集部に電子メールで送稿した。担当編集者とは長い付き合いで、過去何度か新宿の某カフェにて、原稿の受け渡しをしたことがある。今は電子メールという便利な媒体があるため、編集者と中々顔を合わせることが少ない。しかし彼とは、お互いに顔を見知っているので、仕事が順調に運び、大変心強い。年末のある時期に、「週刊読書人」が全国の書店に並ぶので、こちらもぜひ手にとって欲しい。

このような執筆を続ける中、「第20回現代俳句協会青年部シンポジウム」(同青年部主催)第一部のビッグ対談(井上ひさしVS金子兜太)の文章化に奔走した。「現代俳句」(現代俳句協会)3月号(又は4月号)に、かなりの頁を割いて掲載するので、原稿を完成させていただきたい、との依頼を同編集部より受けたのである。幸いなことに、第一段階の仕事(音源の文章化)を行ってくれる良い方に恵まれ、私はほっとした。

この人は、当日のシンポジウムに参加してくれた、気鋭の女性俳人で、つい先ごろ「現代俳句新人賞」(同協会)を受賞した。第一段階の後の、文章の加除、見出しつけなどの全体構成は私(須藤徹)が担当する。完璧な原稿になった段階で、井上ひさし、金子兜太両氏にゲラを送ることになる。短い文章執筆も数本抱え、さらに「ぶるうまりん」への原稿書きもある。これらを年末年始に行うのだ。この仕事に平行し、依頼を受けている「俳句」3月号(角川学芸出版)ほかに俳句作品を送稿しなければならず、何とも忙しい2008年に突入しそうである。

写真は冬の大磯の高麗山にかかる、フォルムの豊かな雲。雲は変幻自在で、まるで生き物のように、あるいは人生そのもののように、目まぐるしく形を変える。空に流れる雲の姿を見ながら、何度も深呼吸をすると、私の全身が活性化し、鋭く屹立(きつりつ)する精神が顕現してくれる。

青き空ありて不滅の冬の蝿  小川双々子