須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

空より滑るしゅぷれっひこーる─黄落の神保町へ text 145

2008-12-15 02:53:52 | text
12月某日、所用のため、仕事をオフにし、千代田区の外神田及び神田神保町へ行ってきた。午前中に所用をすませた後、秋葉原の電気街にてフラッシュメモリー2点(今かなり安くなっている)と書庫内で使用する小さな懐中電灯を購入する。懐中電灯は、アメリカではフラッシュライト、イギリスではエレクトリック・トーチ(電気松明)と呼ばれる。日本の懐中電灯は、何か古色蒼然とした呼称だけれど、私はこの呼び方に愛着をもつ。しかし最近では米国流にフラッシュライトと呼ぶ向きもある。購入した懐中電灯は、ペンライトタイプよりやや大きめで、高輝度LEDを多く使用したもの。これは消費エネルギーが少なくて、なおかつ長時間使用に耐える。これがあれば、拙宅の書庫内の片隅にある文庫本専用書架の細部を簡単に探索することができるので、今まで苦労して探していた絶版ものの文庫本などが、かなり効率よく見つけることができるだろう。ちなみに、購入した懐中電灯で、早速『俳家奇人談・続俳家奇人談』(竹内玄玄一/岩波文庫)、『芭蕉臨終記 花屋日記』(小宮豊隆校訂/岩波文庫)、『芭蕉文集』(潁原退蔵編註/岩波文庫)、『評釈猿蓑』(幸田露伴/岩波文庫)などを探し出したのだった。読みたい本が、瞬時にしてこの懐中電灯(フラッシュライト)で見つけられる喜びは、何ものにもかえがたい。

その後、JR秋葉原駅から上野駅に向かう。上野公園内を歩き、12月14日に終わってしまう「フェルメール展」を観るため、東京都美術館に行く。しかし美術館では長蛇の行列で、70分待ちといわれ、結局「フェルメール展」鑑賞は諦めた。開催期間終了間際に駆け込んで同展を鑑賞しようとする人は、私だけに限らないらしい。公園内の銀杏の美しい黄落の真っ最中で、私の頬にも多くの銀杏の葉が降りかかる。上野公園を出て、再びJR上野駅に行き、御茶ノ水駅へ。そこから歩いて神保町の古書店街へ。数軒の古書店を中心に、探している古書の探索を行い、じっさい何冊かを購入する。何を購入したかは、ヒ・ミ・ツ…。ここでも街路樹の銀杏の黄落が激しく、田村書店の路上のワゴン内にそれが降り積もる。1時間強の古書探索行の後、神保町交差点から白山通りを水道橋方面に歩く。目的は、私が大学生時代の数年間、受験英語の採点のアルバイトを週三日行っていた、日本最古の大学受験予備校研数学館の建物の所在を確認するためである。

神保町交差点の近くに、富士レコードとTONYレコードがあり、少し行くと古書店の山口書店がある。店構えは、私の学生時代とほとんど変わらず、通路にも本がうず高く積まれている、まるで迷宮図書館のような店だ。その昔、ちょっと変わった店主がいたけれど、その人はいなかった。エリカ、神田白十字という喫茶店が昔と変わらずに存在するのを見て、ふと笑みがこぼれる。英語の採点に疲れたときなど、同僚の学生アルバイトを誘って、これらの喫茶店で休んでいたのだった。その直ぐ先に地下一階地上四階の堅牢な研数学館がある。全共闘世代の私は、学校でドイツ哲学を学び、また文芸誌「紀尾井文学」の編集を行い、そして週三日この予備校で英語の採点をしていたのだった。社学同(ブンド)主導の「お茶の水カルチェラタン闘争」などのデモ行進が、この白山通りで行われ、私たちは研数学館一階で仕事を行いながら、彼らの鋭いシュプレッヒコールを聞いていたのだ。その時代のことを思い出すと、なぜか胸が熱くなり、涙腺が緩みかけてしまう。採点の学生アルバイトは当時英語科がもっとも多く四、五人ぐらいいたように思う。数学科と国語科は各二人か三人だったのではないか。その中で、大学卒業後出版社に就職したのは、国語科のT.Y氏(小学館)と私だけである。(現在、研数学館は財団法人として存在するものの、大学受験予備校としては機能していない。)

研数学館を後にして、再び神保町に戻り、書泉グランデの前の靖国通りから神保町一丁目に行く。本ブログのtext129「重力の思想を超えよう」で紹介した「いにしえ文庫」のN.O氏に会うため。昭和30年代の良き東京の路地の面影が残るこのあたりは、何とも心地よい空間である。「いにしえ文庫」のそばに演劇、邦楽などの専門古書店があり、じじつ私が行った時、自転車の後部に古書を積み込んでいる店主がいた。「いにしえ文庫」に入り、N.O氏といろいろ話すのだけれど、開口一番、私の息子と同じ会社に勤務するT君が、私の来る前にしばらく店内にいたということだった。T君は、私の息子をよく知っているという。(しかも彼は息子と同じW大学の卒業生だ。)しばらく談笑した後、近隣の居酒屋に行って、N.O氏と旧交をあたためる。

冬木燦燦 空より滑るしゅぷれっひこーる  須藤 徹

写真は上野公園内の東京都美術館そばに立つ「フェルメール展」の看板。黄落の中の看板は、なかなか雰囲気があってよい。「フェルメール展」は観ることができなかったけれど、一番美しい季節に巡り合ったことをまず感謝すべきであろう。

アゲ嬢と寒月光─師走の近況など text 144

2008-12-14 01:35:29 | text
近況報告を兼ねて、いくつかの周辺的な事柄を書いてみることにする。11月29日(土)に「饗焔」(山崎聡主宰)の「創立50周年記念」のために、夕刻、東京の如水会館へ行く。同じテーブルの隣席の俳人が、今年の7月6日(日)、島田市で行われた「第19回口語俳句協会シンポジウム」(口語俳句協会創立50周年記念)において、同じパネリストの一人であった稲垣麦男氏(「蒼茫」編集発行人)であったことは、大変奇遇…。12月5日(金)の夕刻は、第二回「さろん・ど・くだん」の会のため、東京の山の上ホテルへ。金子兜太氏が文化功労者に選ばれたお祝いを兼ねたものであり、同氏のトークが拝聴できるので、躊躇なく出席した。同氏のトークの中で、松尾芭蕉のことに言及した内容が面白かったけれど、それについては、もう少し私なりに継続研究したいと思っている。

その金子兜太氏が主宰している俳誌「海程」のNo.448(2008年12月号)の「俳誌往来」(柴田美代子氏執筆)に「ぶるうまりん」No.9(2008年7月発刊)が、1ページにわたって紹介された。また葉書通信紙である「地祷圏俳句会」No.292(2008年11月30日刊)に、裏面一杯「ぶるうまりん」No.9の「雨滴抄」が転載された。さらに社団法人日本文藝家協会から依頼されて執筆・寄稿した拙稿が、「文藝家協会ニュース」(No.687)に掲載されたので、本ブログに転載してみよう。 *カギ括弧部分が、「文藝家協会ニュース」(No.687)に掲載されたところ。なお、転載は同文藝家協会書記局のご許可を得ている。

「俳人尾崎迷堂と大磯        須藤徹

鎌倉右大臣実朝の忌なりけり   尾崎迷堂

人口に膾炙する本作品を創作した尾崎迷堂は、私の居住する大磯町高麗にある天台宗の寺院慶覚院の第六十八代住職だった。一九五九年(昭和三十四年)、檀家の浄財により、京都の梵鐘鋳造の名人高橋才次郎制作の鐘が造られた。私が中学生のときのことである。迷堂は、それ以来、日に三度、約三七五キロ(百貫)の重さの鐘を撞くようになったという。
一句が収載されている尾崎迷堂の句集『孤輪』の跋文において、水原秋櫻子は、實朝忌を詠んだ句は少なくないけれど、これほど立派なものは未だ嘗て無かつたし、今日以後に於てもおそらく詠まれることはないであらう。」と絶賛する。 尾崎迷堂は一八九一年(明治二十四年)生まれで、一九七○年(昭和四十五年)七十八歳で没した。大磯の慶覚院に来る前、鎌倉の杉本寺ほかにつとめた。俳句は国民俳壇にはじまり、松根東洋城主宰の「渋柿」第一号からの同人であった。ところで、慶覚院は昨年の夏、約七年の歳月をかけて、篤い思いをもつ檀家の寄進により、本堂を再建した。本堂新築は、じつに八○○年以上も行われていなかったのである。

菫咲き千手の誓左右なく咲き   尾崎迷堂

本堂新築中、慶覚院の境内にあった尾崎迷堂のこの句を彫った句碑は、一時、境内の別の場所に移されたけれど、完成時きちんと本堂の前に建てられた。一句にあるように、慶覚院には、大磯の海から出現したと伝えられる、平安時代の守護本尊「千手観世音菩薩」(大磯町指定文化財)がある。迷堂自身の言によれば、句の中の「千手の誓」は『梁塵秘抄』にある今様の文句から採用し、苦心惨澹して、この句を創作したそうである。そして二○○八年(平成二十年)四月、慶覚院本堂の落慶法要と合わせて、十二年に一度、子の年に執り行われる「千手観世音菩薩」が開扉されたのだった。」 

なお、年末に恒例の「週刊読書人」の2008年回顧(俳句)の拙稿が掲載されるので、ご興味のある方は、書店にて同紙ご購入を…。そして「ぶるうまりん」10号の5周年記念特集号がようやく校了のメドがつき、年内発送できることになったことを申し添えておく。

寒月光アゲ嬢の鼻殺いでいる   須藤 徹

12月13日(土)の「俳句/W. W. W.」に提出した作品の一つ。「アゲ嬢」について判らない方が多かったので、驚いた。インフォレストが発行している雑誌『小悪魔ageha』が、その名前の由来。キャバクラ娘のファッションを身に着けた「アゲ嬢」は、収入の大半をブランド物とファッションに費やすといわれる。

写真は、新築された慶覚院の本堂と尾崎迷堂の句碑。<菫咲き千手の誓左右なく咲き>と刻印されている。

百年過ぎると─再び夢の話 text 143

2008-12-02 04:11:17 | text
過日、不思議な夢を見た。夢の話は本ブログでは約2年前(2006年12月29日)「水の夢」(text 82)に書いたことがあるものの、今回非常に鮮明に覚えているので、あえて取り上げてみることにする…。私は、日中、かなり大きな書店に行くのだが、そこは店員も客も誰一人といず、がらんどうの空間。ただ本のみが圧倒的にある。私は棚の本を手に取り、気に入った本を購入した。購入といったって、店員がいないのだから、買うことはできないにもかかわらず、なぜか私の手には、紙の袋に入った数冊の本がある。本を購入後、私は赤い自転車(これは正真正銘私の愛用するshimanoの部品で組み立てられたもの)に乗って、自宅へ帰ろうとする。

しばらく走るうちに、後ろがいやに重いので、ふと振り返ると、細身の若い男が乗っている。私の愛用する自転車には後部座席がないのだから、これは何とも奇妙なことであるけれど、夢の中では全く違和感がない。まだかなり明るい時だった。後ろに一言も話さない若い男が乗っているのは、大変気持ちが悪い。この感覚は、以前読んだ夏目漱石の「夢十夜」の<第三話>の話に共通するに違いない。これは六歳の目の潰れた息子を背負っている男の話で、暗くなった雨中の森の中の「杉の根」に行けと、背中の息子に言われて、そこに行くと、後ろから判然と声がするのだ。

「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。(夏目漱石「夢十夜」の<第三話>のラストシーン)

私の夢は、夏目漱石の「夢十夜」の<第三話>の話ほど強烈ではなかったが、それでも後ろの男に脅迫されているような、恐ろしさがあった。しかし夢は、どういうわけか、次の場面に移る。私は、自宅ではなく、木造の二階建ての集会所のようなところへ行った。鉄製の外階段の一番下に、その赤い自転車を置き、私はその階段を上って、集会所に入った。そこに何人か人がいて、しばらくその人達と談笑した。話が終わって鉄の階段を下りていくと、何と私の自転車は小さく半分に、つまり一輪車に変貌していたのである。そこで目が覚めた。朝方のことである。「どうして!」と私は夢の中で大きな声をあげていた…。と同時に、まだ背中に若い男が張り付いているようで、私は思わず後ろを振り返り、自らの背中を両手で思いっきり払った。

さて夏目漱石の「夢十夜」の中で、最もロマンティックな<第一話>は、永遠の女性をテーマとしたもの。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。」と死んでいく女に言われる美しい話である。男は又、その女に百年その墓標のそばで待ってくれと言われ、実際百年待った。そして次のクライマックスを迎える。

石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。(夏目漱石「夢十夜」の<第一話>のラストシーン)

荒星へ自転車畳む崖の女(ひと) 須藤 徹

写真は、今回の話にそって、Webから星の写真を探してみた。写真の一角に星が写っているのだけれど、ブログ用にサイズを縮小したので、見えにくい。(「星のある風景」)。http://sendai.cool.ne.jp/satotaka/hosi-fuukei.htm#new