須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

後代の亀鑑─上田秋成(無腸)はマルチな人だった text 179

2009-09-30 06:44:02 | text
日本映画界の巨匠の一人といわれる溝口健二監督(1898年~1956年)の「雨月物語」を、昔銀座の「並木座」(1998年閉館)に観に行ったことがある。渚の人が二十代、三十代のとき、わずか八十余席しかない同映画館に愛着をもち、これと思った映画をときどき観に通ったのである。中でも溝口健二監督の「雨月物語」と成瀬巳喜男監督(1905年~ 1969年)の「浮雲」の強烈な印象が、今でも私の脳裏に刻まれている。溝口が語った有名なエピソードとして、成瀬の映画作品に対し「あの人のシャシン(映画)にはいつも金玉がついていませんね」といったという有名な話が今に語り継がれているけれど、これはまさに正鵠を射ていよう。と同時に、溝口と成瀬の気質と映画手法の根本的に異なる内容をよく物語っている。

たとえば、溝口健二は「全体的俯瞰」や「ワンシーン・ワンカット」などの手法をとるのに対し、成瀬は登場人物の「部分的目線」、あるいは「後ろ向き」や「振り返る姿勢」など、きわめてデリケートなショットを比較的多く使用する。前者が(溝口が)、その映画において緊張感溢れる華麗なマクロ的映画手法であるのに対し、後者は(成瀬は)あくまでもミクロにこだわる繊細で叙情的なスタイルなのだ。溝口の「雨月物語」は、上田秋成(無腸)の同名の九編かなる物語の中から、「浅茅ヶ宿」と「蛇性の婬」の二作から材を得て映画化した作品で、森雅之、京マチ子、田中絹代などがきわめて斬新な演技を行う。それを名手宮川一夫のカメラが、情感豊かに鋭くとらえるのである。

原作者の上田秋成(1734年~1809年)は、江戸時代後期(享保から文化まで)の読本作者であり、和歌、俳諧、茶道、国学などを修めるマルチな教養人であり文化人。大坂の曾根崎に、私生児として生まれ、父は確かでない。4歳のとき、堂島永来町(現大阪市北区堂島)の紙油商嶋屋(上田茂助経営)の養子になった。5歳のとき疱瘡を患い、手の指が不自由に…。国学を富士谷成章や賀茂真淵門下の加藤宇万伎に、あるいは俳諧を高井几圭・高井几董(几圭の次男)に学んだ。29歳のときに結婚し、翌年養父の死去により、嶋屋を継ぐも、38歳のときに嶋屋が火事で破産してしまう。のち、秋成は医術を学び、40歳にして医者になるという特異な経歴をもつ。しかし晩年は妻に先立たれ、ほとんど両眼の視力を失うなど、非常な苦労を強いられる。

そんな中で、上田秋成は『万葉集』の研究をし、あるいは、『落久保物語』の校訂を行い、さまざまな稿の執筆に集中する。俳諧では高井几董(夜半亭3世)の序になる『也哉鈔』を著す。秋成が無腸(蟹)の号をつけたのは、「内柔外剛」「世を横に歩く」など、自らの狷介・韜晦趣味をこの別号に諷した。無腸の俳諧作品は、几董編の俳諧選集『続明烏』(1776年刊)などに掲載されている。この選集は几圭の17回忌に際して編まれたもので、俳人諸家の四季の発句及び連句十二巻で構成されており、また無腸が跋文を執筆。この著は、「蕪村七部集」の一つに数えられ、安永・天明期を代表する俳書として名高い。以下、『続明烏』から無腸の作品と跋文の一部を抽出してみよう。

枕にもならふもの也春の水          上田無腸(以下同)
桜さくら散(ちり)て佳人の夢に入る
あなかまと青梅ぬすむきぬの音       *あなかま→「静かに」の古語。「シィーッ」。
梶の葉に硯はづかし墨の糞
朝顔に島原ものゝ茶の湯かな
月の秋や二百とほかのはつかのと
四つに折ていただく小夜の頭巾かな

「几圭のおぢ、適(たまたま)、難波に来たらるゝごとに、連歌のあそび夜となく昼となく、人々らあつまりて、すゝけたる耳をかたぶけ、句ごとにめざむるものにもてはやせし。吾、其席にあれば必しも打えまひつゝ、若き人よ、さる句はかうぞつくるものなりなど、まめだちて教へられがしがうれしうて、ひたすら阿弥陀仏ぼとけに崇(あが)まへしより、いつかなじまれて、さやさやしき古家をとひもし、やどりもして、かたらはれしものから、此句作るわざには、やがて師にてぞますを、このあそびわすれゆくめるまゝ、おぢにもうとうとしうてわかれぬ。」(『続明烏』における無腸の跋文より。一部反復記号を現代的にアレンジした。)なお『続明烏』』には、蕪村、太祇、樗良、蓼太、暁台、二柳、召波、千代尼、蝶夢、麦水など、当時活躍する錚々たるメンバーが入集していて、まことに興味深い。また『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫)において、竹内玄玄一は、無腸について次のように記す。

「(前略。)<月に遊ぶおのが世はありみなし蟹>(無腸)その磊落かくのごとし。深くやまとの国ぶりに耽り、古き書どもを探り見ずといふ事なし。ひそかに俳士の無稽なる、連歌の抄物のみを拠とし、柱(ことじ)に膠し、舟に刻(きざ)める事の狭きをうれひて、也哉抄をあらはし、手爾遠波(てにおは)の梗概をしるす。その轍を同じうする者は、窺はずんばあるべからず、じつに後代の亀鑑なるかな。」写真は、西福寺(京都府京都市左京区南禅寺草川町)所蔵の上田無腸の木造。無腸の作品・跋文は『天明俳諧集』(新日本古典文学大系73/岩波書店)所収の『続明烏』から抽出した。

モダンな江戸期俳人桜井吏登─『吏登句集』から text 178

2009-09-19 23:52:59 | text
江戸時代の俳人に、桜井吏登(りとう/1681年~1755年))という魅力的な俳人がいる。芭蕉の高弟服部嵐雪から点印を譲られ、雪中庵二世を名のったけれど、最終的に吏登に戻った。晩年、病臥に伏し、喜撰法師が歌を残さなかったことを羨み、自著『卯の花垣』『卯の花衣』を、弟子の大島蓼太(雪中庵三世)に命じ、焼き捨てさせたといわれている。盲目の俳人竹内玄玄一(1804年没)の『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫)によれば「老後深川北島の巷に卜居せし頃は、畳二枚を敷くのみにて、書をつみ机を置けば、じつに膝を容るるの席もなし。一客来つて語る時は、おくれて到る人入ることあたはず。さきの客出づるを待つて入りて風話すとなん。いかにも貧にいかにも清し。その風韻の幽玄なる、当時に和する者なく、まことに陽春白雪とや称すべし。」とある。

桜井吏登のことは、先師多田裕計(1912年~1980年)により「れもん二十歳代研究会」の古典勉強会の際に(渚の人が二十代のときに)初めて学んだ江戸期俳人。おそらく多田裕計も小学館の「日本古典文学全集」のうちの『近世俳句俳文集』から、その作品を拾ったものと思われるけれど、後年渚の人は雪中庵雀志校訂による『嵐雪全集』(明治31年6月博文館発行)を手にいれ、同著の後半に「吏登全集」として「吏登句集」が収載されているのを見つけて驚喜したのだった。最近では加藤郁乎氏の『江戸俳諧にしひがし』(平成14年/みすず書房)の中で、かなり詳しく触れられている。それによれば、江戸期俳諧の泰斗中村俊定氏(1900年~1984年))が、「雪中庵吏登について二三」に、「嵐雪号」継承のいきさつについて言及されているそうで、その一部も紹介している。

「嵐雪の門葉は雪中庵二世吏登のときはすでに雪門の呼称があった。昭和5年に十二世を継いだ増田龍雨のころまで雪中庵の呼称は其角堂九世を継いだ永湖とならび近代までひろく知られる。継承に問題が全くなかったわけではない。三世を襲った蓼太がその『雪颪』(ゆきおろし)宝暦元年(1751)序で二世湖十の編んだ『江戸廿歌仙』延喜二年(1745年)刊を批判、さらにこれを批判した雁宕(がんとう)の『蓼すり古義』明和八年(1771)刊が出て江戸座対雪門の論争が起きたりした。」加藤郁乎氏は、同著にこのように記し、そして中村俊定氏の「雪中庵吏登について二三」を紹介するのである。いずれにせよ雪中庵の継承から江戸座対雪門の対立に構図が拡がるのだが、当の吏登は、結局生きている間に弟子の蓼太にその名蹟を譲る。

晴間より夕日の辷る柳かな 
しら魚やあさまに明くる舟の中
蝶の羽のさはれば切るる紙衣哉
はつ櫻あらしの肌はまだ触れず
ほととぎす旭を瀧へまくりこみ
竹の子や身の毛ぞよだつ星明り
松が枝も折るべき月の光かな
月見する水より音の尖りけり
秋雨や石の仁王のあら木どり
秋の野の果や薄の骨と皮
しぶ柿のしづかに秋を送りけり
木がらしや火のけも見へぬ泊り船
落つる日や吹きさらされし大根馬
ほれぐと日を抱く庭の落葉哉
若人の中こそよけれ年の暮

「吏登句集」119句より、渚の人の15句選。特に<蝶の羽のさはれば切るる紙衣哉><はつ櫻あらしの肌はまだ触れず><竹の子や身の毛ぞよだつ星明り><松が枝も折るべき月の光かな>などの句は、非常に感覚が鋭く、現代にも通ずるモダンさが横溢する句だと思う。フランス文学を専攻した多田裕計が、桜井吏登の俳句を古典研究の一環として選んだ理由がよく分かる。西洋の「デーモン」的なものがそこはかとなく揺曳する雰囲気もあり、まったく新しい感覚の作品と思うが、いかがであろうか。写真は、小宅の茶室の障子にさしかかる日と、梅の枝の葉の揺らぎ。一瞬まるで海中にいるような錯覚に陥った。風の音が、とても優しい…。


グラウンド・ゼロの記憶から─9.11から8年が過ぎて text 177

2009-09-11 11:31:56 | text
あの忌まわしいニューヨークでの「グラウンド・ゼロ」からちょうど今日(9月11日)で、8年目である。世界貿易センター(WTC)のツインタワーに、イスラム系アルカイダにハイジャックされた飛行機の激突するシーンが、テレビから繰り返して放映され、それは今でも、鮮明に記憶に残っている。ツインタワー崩壊により、その日一瞬にして、2749人もの死者が出た。その後ブッシュ大統領は、イラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」<axis of evil>と呼び、イラク戦争に踏み切る。米国防総省によれば、米軍と有志連合軍の死亡者数は、9月10日現在で4654人という。またこの戦争でなくなった民間人は、世界保健機関によれば、2008年1月の時点で15万1000人とする。

ところで、イラクに派遣された日本の自衛隊は戦死者が一人も出ていないと、公表されている。しかし、イラクを含む海外派遣任務に就いた1万9700人の自衛官のうち、35人が在職中に何らかの原因で死亡していると言われている。死因は事故・死因不明が12人、自殺が16人、病死が7人。とはいえ「在職中」には任務からの帰国以降も含まれているため、イラク国内で死亡した正確な自衛官の数は不明である。数字が続いて恐縮だけれど、自殺大国の日本は、人口10万人あたりの自殺者数は、2006年の時点で世界第8位である。(上位はリトアニア、ベルラーシ、スロベニアなどの旧共産主義国の中欧・東欧が多い。)10年連続で年間3万人の自殺者が出る日本は、すでに自死によりこの10年で30万人が亡くなっている勘定になる。(単純計算すれば、毎日100人自殺するのが、10年続いているわけだ。)

こういう数字をみると、本当に日本は豊かな国なのかと、しばし考え込んでしまう。戦後60年たった現在、日本はたしかに驚異的な経済発展をとげたけれど、どこか歪(いびつ)でイカガワシイ幸せを共同幻想したのかもしれない。政治も経済も社会もすべてセットで、構造的な豊かさという「肥満」の奥に、いつの間にか「ステージ3」ぐらいの「癌細胞」が体内のいたるところに転移しているような気がする。もっとも経済は、リーマン・ショック以降さらに急速に落ち込んで、現在やっかいな「癌」と同時に、「脳梗塞」をも患っているのであろうが…。電車の中や街中で出会う若者が、昔にくらべて不機嫌で、暗い表情をしているように思うのは、果たして渚の人だけであろうか。就職できず、またたとえ就職できたとしても派遣社員で、いつ首を切られるのか分からない日々を過ごすのなら、表情は決して明るくなれるものではない。

その9月11日午前中、自動車免許の更新で大磯警察署に行く。無事故無違反(というとエラそうに聞えるけれど、単に車に乗る機会が少ないだけ)で「ゴールド免許」をもつ渚の人は、交通安全の講習30分と眼の検査だけで、更新手続きを終えることができた。①免許が、ICカード化(要暗証番号)②①にともない本籍欄が空欄(不正防止のため)③今までの「普通免許」は、「中型免許」になる─の3点の説明を、警察署担当者から聞く。3番目の「中型免許」というのは、定員10名以下、車両総重量8トン未満、最大積載量5トン未満の車を運転できるという内容。2007年(平成19年)6月2日に施行された道路交通法によるもので、新制度では「普通免許」、「中型免許」、「大型免許」の3種類(今までは「普通免許」と「大型免許」の2種類)になる。渚の人はむろん「中型免許」である。これで、2014年(平成26年)の誕生日1ヵ月後の11月1日まで、5年間有効。

その日ささやかながら嬉しいことが起こった。夜、書庫に入って、使い勝手を良くするために、全集類などのかなりの量の書籍を入れ替える作業をしていたところ、5年ほど行方不明であった万年筆2本が、レザーのペンケースの中に入ったままの状態で出てきた。この万年筆2本は、それぞれ思い出が詰まったもの。すなわち1998年(平成10年)1月、渚の人の家族4人で南イタリアのイスキア島に行ったとき、帰路ローマにて購入した本国の「アウロラ」と2000年(同12年)秋、ある記念により受贈した「パイロット」の「カスタム743」の2本である。ともに渚の人の手に馴染んだ2品であり、あたかもわが子に再会したような懐かしい思いがした。さっそく中をきれいに洗浄し、あらたにインクを入れて書いたところ、じつに滑らかにペンが走る。その後「ペリカン」の「スーベレンM800」と「ウォーターマン」の万年筆を購入したから、ペンの家族も4人(メイン)になったのだ。

今回、本当は江戸期の俳人 桜井吏登(雪中庵二世)と上田無腸(秋成)について書く予定だったけれど、スペースがなくなったので、残念ながら次回以降にしよう。写真は、南イタリアのイスキア島内を走る三輪タクシー。イスキア島に行くには、ナポリから少し離れた港町「ポォツォーリ」(女優ソフィア・ローレンが幼少期を過ごした)から船で行く。島は、いたるところに温泉が噴出している。私たちが泊まったホテルにも、温泉があったので、そこに着くや否や、プールのような浴場に息子たちと入った記憶がある。南イタリアでは、昼食をとるために立ち寄った港町「バーリ」も、なかなか落ち着いた良いところだった。街中にぜんぜん自販機が見られず、そしてケータイを使用する人もいない。たまたま昼食時に隣あわせた女子学生10人ほどと引率(?)の若い男の先生たちの、柔らかく(品良く)しかも闊達な笑顔を見たとき、渚の人は静かな感動をおぼえたものだった。

青蘆や闇に唇(くち)寄せ水を吊る  須藤 徹


秋は火のごとく─8月から9月へ text 176

2009-09-03 07:14:47 | text
第45回総選挙(衆議院)の投票に、8月30日(日)の午前中に行った。投票場所は、大磯町高麗区民会館。じつは3人いる投票立会い人の一人に、渚の人の父親がなっている。父親は、その3人の真ん中に座り、不正投票がないかどうかの目視確認を行う仕事を担当、午前7時から午後8時までそこに詰めたという。(ご苦労様でした。)結果は308議席獲得という、民主党の歴史的大勝に終わる。安倍、福田の二人の首相投げ出し後に、麻生太郎首相が就任したのが、2008年9月24日であるけれど、これは明らかに解散総選挙への一時的なリリーフ役である。しかし、それを弁えずに、麻生首相は本気を出して、政権にしがみついてしまった。自民党が今どういう大きな欠陥を持つ政党であるのか、トップから末端までのほとんどの党人が、あまりに無智蒙昧であったツケが、今回の選挙結果であるだろう。

同日の午後、家人の従姉が東京の杉並区から、購入したばかりの新型ハイブリッド戦略車ホンダの「インサイト」に乗って、大磯の小宅に来る。購入したばかりのため、カーナビの操作に今ひとつ馴染めず、少し道に迷ってしまったという。車名は「洞察力・看破力」を意味する英語の<insight>に由来するそうで、これはよいネーミングである。世界最高レベルの低燃費を実現したこの車は、いわゆるエコカーの代表的なモデル車であるが、もっともグッドな低炭素実現は、車に乗らないことだと思うが、いかがなものか。彼女が着いてすぐ、冷蔵庫に冷やしておいたドライジン「タンカレー」を炭酸で割って振舞う。(料理は家人担当。)このジンは最近渚の人が愛飲するもので、杜松(ねず)の実の香味が上品で、味もソフトでまろやかである。(家人の従姉は小宅に一泊する。)

その家人の従姉より、歌人塚本邦雄氏(故人)の墨書色紙をいただく。彼女は、東京・新宿の文化出版局に定年まで勤められ、一時期同社の「銀花コーナー」に席を置き、そのとき塚本氏と懇意になられた。渚の人の第一句集『宙の家』の栞執筆者の一人が、やはり塚本氏で、どうも少なからぬ縁があるようだ。しかし華麗な塚本氏の筆跡は、達筆すぎて判読が難しい。書庫内にある『定本塚本邦雄湊合歌集』(文藝春秋)で調べたものの、その作品は見当たらない。思い余って、デジカメでその色紙を写真に撮り、それをJPGとしてメールに添付し、ある方(歌人)に尋ねている。果たして、この件、良い結果が出るだろうか。

秋の焔の白き一滴 鐵棒の鐵ひややかに青年を吊る  塚本邦雄
秋は火のごとく過ぎたり反世界いづこに水色の萩匂ふ  同
秋旱五人の友となかたがひせり瀝青のごとき珈琲    同

暦がかわって、「ぶるうまりん」の会報(73号)をメール配信又は郵送した翌日(9月2日)、仕事を半日オフにして東京の神保町にて、フリーランスの編集者H.K氏と会う。彼から、約2年前某書籍(俳句)編集・出版のプロジェクトを打診(依頼)されていたけれど、渚の人の超多忙により、そのままになってしまっていたものの、さすがに気が引け、少しばかり余裕ができたのを機に、彼との打ち合わせになったものである。彼も、ある書籍への大量の原稿執筆・編集が一段落したので、お互いのタイミングがあったのだ。古書店の小宮山書店近くのカフェテラス「古瀬戸」で2時間ほど打ち合わせをし、そのあと彼の行きつけの居酒屋にて、一献を傾ける。ボトルキープしてある蕎麦焼酎を1本あけ、なお2本目の半分ぐらいまで二人で飲み続ける。

ボトルキープした蕎麦焼酎には、H.K氏の名前のほかに、某老舗出版社のH出版部長の名前があったけれど、大丈夫なのだろうか。翌日朝早く、渚の人には珍しく二日酔いの体調不良で、目が覚めてしまった。まったく朝食をとる気にならず、精神も集中できない。現段階では企業秘密で、プロジェクトの内容をここに記すことができないけれど、近々企画書を執筆して完成させ、(H.K氏及び)某老舗出版社に提出しなけらばならない。H.K氏によると、この話はすでにH出版部長に伝わっているので、何としてでも企画を完成させ、これ(本出版)を実現して欲しい、とつよく言われてしまった。

某詩歌総合誌より、自選100句とエッセイ(400W4枚)の原稿依頼を受け、依頼内容と見本誌をみて、「諾」の返事を出す。今から5年前の2004年秋に日本ペンクラブの「電子文藝館」に「朝の伽藍」と題して100句を発表したけれど、今回はそれに被らないようにするつもり。具体的にいえば、『宙の家』(書肆季節社/1985年)、『幻奏録』(邑書林/1995年)、『荒野抄』(鳥影社/2005年)の3句集以後からの自選作品集成になる。さらに第46回現代俳句全国大会の選句依頼を受ける。応募作品総数は15,432句とのこと。締め切りは9月15日(火)と早いので、集中して選句作業を行わねばならない。

写真は、大磯の海岸によく見られるパラグライダーのエンジンユニット。エンジン付パラグライダーは超軽量動力機といい、航空法は適用されない。エンジンユニットは大型扇風機のようなプロペラ付エンジン。それを背中に背負って飛び立つ。エンジンは80cc~250ccまであるが、80ccのエンジンでも十分飛び立つことが可能。パラシュートやエンジンユニットなどの必要な装備を全部そろえると、100万円ほどかかるという。休日の大磯海岸に出かけると、これが2台~3台ぐらい空を舞っている。上手な人は、かなり上空まで飛ぶ。大磯の海はすでに秋色濃く、訪れる人もめっきり少なくなってしまった。