日本映画界の巨匠の一人といわれる溝口健二監督(1898年~1956年)の「雨月物語」を、昔銀座の「並木座」(1998年閉館)に観に行ったことがある。渚の人が二十代、三十代のとき、わずか八十余席しかない同映画館に愛着をもち、これと思った映画をときどき観に通ったのである。中でも溝口健二監督の「雨月物語」と成瀬巳喜男監督(1905年~ 1969年)の「浮雲」の強烈な印象が、今でも私の脳裏に刻まれている。溝口が語った有名なエピソードとして、成瀬の映画作品に対し「あの人のシャシン(映画)にはいつも金玉がついていませんね」といったという有名な話が今に語り継がれているけれど、これはまさに正鵠を射ていよう。と同時に、溝口と成瀬の気質と映画手法の根本的に異なる内容をよく物語っている。
たとえば、溝口健二は「全体的俯瞰」や「ワンシーン・ワンカット」などの手法をとるのに対し、成瀬は登場人物の「部分的目線」、あるいは「後ろ向き」や「振り返る姿勢」など、きわめてデリケートなショットを比較的多く使用する。前者が(溝口が)、その映画において緊張感溢れる華麗なマクロ的映画手法であるのに対し、後者は(成瀬は)あくまでもミクロにこだわる繊細で叙情的なスタイルなのだ。溝口の「雨月物語」は、上田秋成(無腸)の同名の九編かなる物語の中から、「浅茅ヶ宿」と「蛇性の婬」の二作から材を得て映画化した作品で、森雅之、京マチ子、田中絹代などがきわめて斬新な演技を行う。それを名手宮川一夫のカメラが、情感豊かに鋭くとらえるのである。
原作者の上田秋成(1734年~1809年)は、江戸時代後期(享保から文化まで)の読本作者であり、和歌、俳諧、茶道、国学などを修めるマルチな教養人であり文化人。大坂の曾根崎に、私生児として生まれ、父は確かでない。4歳のとき、堂島永来町(現大阪市北区堂島)の紙油商嶋屋(上田茂助経営)の養子になった。5歳のとき疱瘡を患い、手の指が不自由に…。国学を富士谷成章や賀茂真淵門下の加藤宇万伎に、あるいは俳諧を高井几圭・高井几董(几圭の次男)に学んだ。29歳のときに結婚し、翌年養父の死去により、嶋屋を継ぐも、38歳のときに嶋屋が火事で破産してしまう。のち、秋成は医術を学び、40歳にして医者になるという特異な経歴をもつ。しかし晩年は妻に先立たれ、ほとんど両眼の視力を失うなど、非常な苦労を強いられる。
そんな中で、上田秋成は『万葉集』の研究をし、あるいは、『落久保物語』の校訂を行い、さまざまな稿の執筆に集中する。俳諧では高井几董(夜半亭3世)の序になる『也哉鈔』を著す。秋成が無腸(蟹)の号をつけたのは、「内柔外剛」「世を横に歩く」など、自らの狷介・韜晦趣味をこの別号に諷した。無腸の俳諧作品は、几董編の俳諧選集『続明烏』(1776年刊)などに掲載されている。この選集は几圭の17回忌に際して編まれたもので、俳人諸家の四季の発句及び連句十二巻で構成されており、また無腸が跋文を執筆。この著は、「蕪村七部集」の一つに数えられ、安永・天明期を代表する俳書として名高い。以下、『続明烏』から無腸の作品と跋文の一部を抽出してみよう。
枕にもならふもの也春の水 上田無腸(以下同)
桜さくら散(ちり)て佳人の夢に入る
あなかまと青梅ぬすむきぬの音 *あなかま→「静かに」の古語。「シィーッ」。
梶の葉に硯はづかし墨の糞
朝顔に島原ものゝ茶の湯かな
月の秋や二百とほかのはつかのと
四つに折ていただく小夜の頭巾かな
「几圭のおぢ、適(たまたま)、難波に来たらるゝごとに、連歌のあそび夜となく昼となく、人々らあつまりて、すゝけたる耳をかたぶけ、句ごとにめざむるものにもてはやせし。吾、其席にあれば必しも打えまひつゝ、若き人よ、さる句はかうぞつくるものなりなど、まめだちて教へられがしがうれしうて、ひたすら阿弥陀仏ぼとけに崇(あが)まへしより、いつかなじまれて、さやさやしき古家をとひもし、やどりもして、かたらはれしものから、此句作るわざには、やがて師にてぞますを、このあそびわすれゆくめるまゝ、おぢにもうとうとしうてわかれぬ。」(『続明烏』における無腸の跋文より。一部反復記号を現代的にアレンジした。)なお『続明烏』』には、蕪村、太祇、樗良、蓼太、暁台、二柳、召波、千代尼、蝶夢、麦水など、当時活躍する錚々たるメンバーが入集していて、まことに興味深い。また『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫)において、竹内玄玄一は、無腸について次のように記す。
「(前略。)<月に遊ぶおのが世はありみなし蟹>(無腸)その磊落かくのごとし。深くやまとの国ぶりに耽り、古き書どもを探り見ずといふ事なし。ひそかに俳士の無稽なる、連歌の抄物のみを拠とし、柱(ことじ)に膠し、舟に刻(きざ)める事の狭きをうれひて、也哉抄をあらはし、手爾遠波(てにおは)の梗概をしるす。その轍を同じうする者は、窺はずんばあるべからず、じつに後代の亀鑑なるかな。」写真は、西福寺(京都府京都市左京区南禅寺草川町)所蔵の上田無腸の木造。無腸の作品・跋文は『天明俳諧集』(新日本古典文学大系73/岩波書店)所収の『続明烏』から抽出した。
たとえば、溝口健二は「全体的俯瞰」や「ワンシーン・ワンカット」などの手法をとるのに対し、成瀬は登場人物の「部分的目線」、あるいは「後ろ向き」や「振り返る姿勢」など、きわめてデリケートなショットを比較的多く使用する。前者が(溝口が)、その映画において緊張感溢れる華麗なマクロ的映画手法であるのに対し、後者は(成瀬は)あくまでもミクロにこだわる繊細で叙情的なスタイルなのだ。溝口の「雨月物語」は、上田秋成(無腸)の同名の九編かなる物語の中から、「浅茅ヶ宿」と「蛇性の婬」の二作から材を得て映画化した作品で、森雅之、京マチ子、田中絹代などがきわめて斬新な演技を行う。それを名手宮川一夫のカメラが、情感豊かに鋭くとらえるのである。
原作者の上田秋成(1734年~1809年)は、江戸時代後期(享保から文化まで)の読本作者であり、和歌、俳諧、茶道、国学などを修めるマルチな教養人であり文化人。大坂の曾根崎に、私生児として生まれ、父は確かでない。4歳のとき、堂島永来町(現大阪市北区堂島)の紙油商嶋屋(上田茂助経営)の養子になった。5歳のとき疱瘡を患い、手の指が不自由に…。国学を富士谷成章や賀茂真淵門下の加藤宇万伎に、あるいは俳諧を高井几圭・高井几董(几圭の次男)に学んだ。29歳のときに結婚し、翌年養父の死去により、嶋屋を継ぐも、38歳のときに嶋屋が火事で破産してしまう。のち、秋成は医術を学び、40歳にして医者になるという特異な経歴をもつ。しかし晩年は妻に先立たれ、ほとんど両眼の視力を失うなど、非常な苦労を強いられる。
そんな中で、上田秋成は『万葉集』の研究をし、あるいは、『落久保物語』の校訂を行い、さまざまな稿の執筆に集中する。俳諧では高井几董(夜半亭3世)の序になる『也哉鈔』を著す。秋成が無腸(蟹)の号をつけたのは、「内柔外剛」「世を横に歩く」など、自らの狷介・韜晦趣味をこの別号に諷した。無腸の俳諧作品は、几董編の俳諧選集『続明烏』(1776年刊)などに掲載されている。この選集は几圭の17回忌に際して編まれたもので、俳人諸家の四季の発句及び連句十二巻で構成されており、また無腸が跋文を執筆。この著は、「蕪村七部集」の一つに数えられ、安永・天明期を代表する俳書として名高い。以下、『続明烏』から無腸の作品と跋文の一部を抽出してみよう。
枕にもならふもの也春の水 上田無腸(以下同)
桜さくら散(ちり)て佳人の夢に入る
あなかまと青梅ぬすむきぬの音 *あなかま→「静かに」の古語。「シィーッ」。
梶の葉に硯はづかし墨の糞
朝顔に島原ものゝ茶の湯かな
月の秋や二百とほかのはつかのと
四つに折ていただく小夜の頭巾かな
「几圭のおぢ、適(たまたま)、難波に来たらるゝごとに、連歌のあそび夜となく昼となく、人々らあつまりて、すゝけたる耳をかたぶけ、句ごとにめざむるものにもてはやせし。吾、其席にあれば必しも打えまひつゝ、若き人よ、さる句はかうぞつくるものなりなど、まめだちて教へられがしがうれしうて、ひたすら阿弥陀仏ぼとけに崇(あが)まへしより、いつかなじまれて、さやさやしき古家をとひもし、やどりもして、かたらはれしものから、此句作るわざには、やがて師にてぞますを、このあそびわすれゆくめるまゝ、おぢにもうとうとしうてわかれぬ。」(『続明烏』における無腸の跋文より。一部反復記号を現代的にアレンジした。)なお『続明烏』』には、蕪村、太祇、樗良、蓼太、暁台、二柳、召波、千代尼、蝶夢、麦水など、当時活躍する錚々たるメンバーが入集していて、まことに興味深い。また『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫)において、竹内玄玄一は、無腸について次のように記す。
「(前略。)<月に遊ぶおのが世はありみなし蟹>(無腸)その磊落かくのごとし。深くやまとの国ぶりに耽り、古き書どもを探り見ずといふ事なし。ひそかに俳士の無稽なる、連歌の抄物のみを拠とし、柱(ことじ)に膠し、舟に刻(きざ)める事の狭きをうれひて、也哉抄をあらはし、手爾遠波(てにおは)の梗概をしるす。その轍を同じうする者は、窺はずんばあるべからず、じつに後代の亀鑑なるかな。」写真は、西福寺(京都府京都市左京区南禅寺草川町)所蔵の上田無腸の木造。無腸の作品・跋文は『天明俳諧集』(新日本古典文学大系73/岩波書店)所収の『続明烏』から抽出した。