須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

ぴかその眼のように─「ぶるうまりん」22号の発行 text 281

2012-06-25 22:57:31 | text
2012年6月23日(土)、「ぶるうまりん」22号を大磯から発送した。ご協力いただいた同人の皆さまに、心よりお礼申し上げたい。創刊同人のお一人であるC.Y.さんが、静岡県沼津市から駆けつけてくれたのには、スタッフの皆が感激した。発送と句会を終えた後、午後5時過ぎより、国道1号線沿いにある大磯の瀟洒なカフェ<magnet>に場を移し、しばし歓談する。このカフェは、店内にお洒落な夏物ストールやブックタイプのノートなどがさり気なく置かれ、とても明るくさわやかである。辛口ホットジンジャーなどを注文し、「バグダッド・カフェ」(パーシー・アドロン監督)や「ユリシーズの瞳」(テオ・アンゲロプロス監督)などの映画の話をする。集まった同人のほとんどが映画好きで、どこまでも話は尽きない。さて、「ぶるうまりん」22号より、筆者(須藤徹)の書いた「編集後記」を以下に紹介してみよう。

 俳人の多くは、多忙を極める。俳誌の主宰者や編集長は、月刊・隔月刊・季刊・不定期刊にかかわらず、その編集と刊行のために、多くの時間をとられる。句会参加(指導)も多い人では、二日に一回の頻度という、超過密スケジュールをこなしている人もいる。むろんそのほかに、新聞・雑誌などのマスコミへの寄稿や、公的団体での諸活動もコンスタントに行わなければならない。寄贈されてくる大量の句集等にも、きちんと対応する必要がある。これでは、本を読む時間など、ほとんど持てないだろう。ここでの本というのは、もちろん句集ではない。世評の高さや低さにとらわれずに、独自の視点で読み込もうとする、国内外の小説・社会科学書・哲学書、あるいは日本の古典など、ありとあらゆるジャンルの書物を指す。

 幸い二十代中頃と三十代前半から師事した二人の師は、いずれも俳句以外のジャンルにも精通し、お会いするたびに、さまざまな話題のお話をされた。フランス象徴詩、映画、聖書、現代文学等のお話を聞いて、編集子は、そのつどはっと目を見開かれたものだった。大学で編集子が勉強したのは、ハイデガーを中心に、フッサール、ヤスパース、ガダマー、ディルタイなどの現代ドイツ哲学であるけれど、古代ギリシア哲学も、熱心に授業に通った。大学でドイツ哲学を専攻したことから、卒業後もその筋の書物を読む機会が多く、こうした傾向は、同じように今でも続く。最近の編集子の哲学書選択は、学生時代とその延長上において、スピノザが中心となってきた。

ブライアン・マギー編の『西洋哲学の系譜』(副題は「第一線の哲学者が語る西欧思想の伝統」/晃洋書房)における「スピノザ」の項では、マギーがアンソニー・クイントンと対談する。そこで、クイントンはスピノザの重要な用語である「様態」を「布地のしわ」といっているのだけれど、これはじつに卓抜な解説と感心した。「すべてを内包する単一実体の構造の中では、局所的・時間的要因から構成されるものは布地のしわのように突然生じるのです。彼は、こうしたしわを様態と呼びます。様態は、彼の見解では、テーブルや椅子、われわれ自身や友人たち、ヒマラヤ山脈のような、通常、自立して存在していると考えられているものの本性なのです。(略。)スピノザにとっては、それらは存在する万物の構造によってあちこちに呈せられる、つかの間の外見にすぎないのです。」

アンソニー・クイントンのこの説明で、読者もスピノザの「様態」が、おぼろげながら少し理解できたのではないかと思うが、いかがであろう。ここまで述べれば、本号の特集「書評の光」が、なぜ登場したのか、お分かりいただけるのではないか。できるだけ俳句の外へ、すなわち俳句の外延部を永く道草することによって、俳句に近づけるのではないかと考えるのだ。朝から晩まで、さらには三百六十五日の間、俳句漬けでは、間違いなく俳句が見えなくなるに決まっているからである。真実を知ろうとする真摯な努力(欲動)を、スピノザは「コナトゥス」と呼ぶ。とすれば、俳句活動への並々ならぬこうしたエネルギーも「コナトゥス」のなせる業に違いない。


鳥雲にすてぃーぶ・じょぶずののどぼとけ
存在はいつも非在のつくし野です
んからあまでにげみずをおいかける 
蝌蚪散りぬぱぶろ・ぴかその眼のように
外待雨(ほまちあめ)その真ん中のかすれ声    
口中を花筏ゆく暗殺かな
春耕や陽を裏返しわれを消す
ひな壇にわれを置き去る我二人
てのひらのスタジアムUFOが病んでいる
そして愛す陽と薬缶のたましいいろ

*同号の須藤徹の「ぴかその眼のように」作品50句より10句を抄出