通勤の車中、開高健の『輝ける闇』を読んだ。1968年(昭和43年)、新潮社から書き下ろされたもので、同年毎日出版文化賞を受賞した記念碑的な作品である。この小説のどのセンテンスをとっても、あるいはどのことばのフラグメントをとっても、人を酩酊させ、あるいは金縛りにする。それはさながらこの小説に登場する、ウェイン大尉と私(従軍記者)のやりとりに出てくるバーボン・ウイスキーの一滴が醸し出す「ワイン・スメル」のようなものかもしれない。私はそれを俳句的文体という。
「ジャングルは長城となって地平線を蔽っている。その蒼暗な梢に夕陽の長い指が届きかけている。農民も子供も水牛もいない。謙虚な、大きい、つぶやくような黄昏が沁みだしている。その空いっぱいに火と血である。紫、金、真紅、紺青、ありとあらゆる光彩がきょう最後の力をふるって叫んでいた。巨大な青銅盤を一撃したあとのこだまのようなものがあたりにたゆたって、小屋そのものが音たてて燃え上がるかと思われる瞬間があった。」
冒頭のすぐ後に、この文章が続く。こうした粘液質のエネルギーに満ちた文章は、そう簡単に書けるものではない。ある輝きに満ちた作家の栄光の瞬間に、こうしたセンテンスが立ち上がるのであろう。それは、真正な作家の奇跡に近いものがある。このとき開高健は30代後半だった。
その開高健が選者を務める小説コンクール(大学のソフィア祭賞)に、私は二十歳のときに応募した。昭和40年代前半だから、ちょうど開高健が『輝ける闇』を発表するころだ。そのとき私の小説は、最終四作に残ったものの、賞は逸した。(入選作なし。)開高健は、大学の発行する新聞紙上で、私の作品を徹底的にこき下ろし「大江健三郎のエピゴーネン!」と書いた。冗談のような話だが、私のそのときの小説のタイトルは「出発できない朝」であった。
開高健の命日12月9日が近づくたびに、私はこの真正な作家のことを思い出し、俳句をまったく離れて、彼の作品を読み直す。写真は茅ヶ崎市にある開高健記念館。(フォトは同館のHPに掲載されているものを転載。)http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection/bunsui/kaikou/kaikouidx.html
「ジャングルは長城となって地平線を蔽っている。その蒼暗な梢に夕陽の長い指が届きかけている。農民も子供も水牛もいない。謙虚な、大きい、つぶやくような黄昏が沁みだしている。その空いっぱいに火と血である。紫、金、真紅、紺青、ありとあらゆる光彩がきょう最後の力をふるって叫んでいた。巨大な青銅盤を一撃したあとのこだまのようなものがあたりにたゆたって、小屋そのものが音たてて燃え上がるかと思われる瞬間があった。」
冒頭のすぐ後に、この文章が続く。こうした粘液質のエネルギーに満ちた文章は、そう簡単に書けるものではない。ある輝きに満ちた作家の栄光の瞬間に、こうしたセンテンスが立ち上がるのであろう。それは、真正な作家の奇跡に近いものがある。このとき開高健は30代後半だった。
その開高健が選者を務める小説コンクール(大学のソフィア祭賞)に、私は二十歳のときに応募した。昭和40年代前半だから、ちょうど開高健が『輝ける闇』を発表するころだ。そのとき私の小説は、最終四作に残ったものの、賞は逸した。(入選作なし。)開高健は、大学の発行する新聞紙上で、私の作品を徹底的にこき下ろし「大江健三郎のエピゴーネン!」と書いた。冗談のような話だが、私のそのときの小説のタイトルは「出発できない朝」であった。
開高健の命日12月9日が近づくたびに、私はこの真正な作家のことを思い出し、俳句をまったく離れて、彼の作品を読み直す。写真は茅ヶ崎市にある開高健記念館。(フォトは同館のHPに掲載されているものを転載。)http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection/bunsui/kaikou/kaikouidx.html