[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/第1部「時間性へ向けての現存在の解釈、および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」・第1編「現存在の予備的基礎分析」・第2章「現存在の根本構えとしての『世界・内・存在』の一般」・第13節「在る基礎づけられた様相における内・存在の例示。世界認識」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]
A世界・内・存在は、配慮された世界から配慮を取り去っています。認識作用が、目の前にあるものを観察しながら規定することとして可能であるためには、予め世界と配慮しながら交渉をもつということのひとつの欠如態を必要とします。(1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫)
B世界の=内に=有ることは、配慮することとして、配慮された世界に気をとられている。認識することが直前に有るものを考察し規定することとして、可能になるためには、それに先立って、配慮するという仕方で世界と関わっているということの或る失陥が必要である。(1969年7月1日第3版の辻村公一訳「世界の大思想」/河出書房)
C世界=内=存在は、配慮として、それが配慮する世界に気をとられている。客体的存在者に考察的規定という態度としての認識が可能になるためには、それよりもさきに、世界との配慮的交渉の欠如的変様が起こることが必要である。(2005年6月30日第13刷の細谷貞雄訳ちくま学芸文庫)
D世界内存在は、配慮的な気づかいとしては、配慮的に気づかれる世界に気をとられている。だから、認識作用が、目の前にあるものを観察しながら規定するはたらきとして可能となるためには、それに先だって、世界と配慮的に気づかいつつかかわるというありかたが欠損していることが必要となる。(2013年4月16日第1刷の熊野純彦訳岩波文庫)
Das In-der-Welt-sein ist als Besorgen von der besorgten Welt benommen. Damit Erkennen als betrachtendes Bestimmen des Vorhandenen mogelich sei,bedarf es vorgaengig einer Defizienz des besorgenden Zu-tun-habens mit der Welt.
今回は、桑木務、辻村公一、細谷貞雄の、いわば定番的訳書と、新訳の熊野純彦の訳を並べ、それぞれどう訳しているかを見てみたい。ハイデガーの原文は、四人の訳文の下にあるので、ご興味のある方は、熟読して欲しい。この他に、松尾啓吉(勁草書房)、寺島実仁(三笠書房)の訳書もあるけれど、この二冊は未入手であるので、省きたい。
第13節において、いささか大事な部分なので、四書の訳文を比較してみたのだ。どの訳文も、非常に苦労して訳していることがわかるものの、読者にはやはりわかりにくいだろう。「認識作用」は、「世界・内・存在」の具体的な一つの存在の在り方であるが、ハイデガーは、その際に人々が無意識に行ってしまう「配慮的気づかい」を中止しなければ、目の前にあるものが、認知できない、とするのである。すなわち純粋に「存在論的に」考えるのでなければ、対象を認識できない。
遮断機の死角に真の実存はあり 須藤 徹