問うことが、その問われているものに本質的にぶつかることが、存在の問いの最も固有の意味に属しています。
[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/序説「存在の意味への問いの究明」・第1章「存在の問いの必要、その問いの構造と優位」・第2節「存在への問いの形式的構造」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]
ハイデガーは、第2節において、「存在了解」ということばを提出する。人間は、植物や動物などと異なり、明快に概念化できないにせよ、おぼろげながら自分が何やら存在していることを知って生きている。ハイデガーは、そんな存在の仕方を「存在了解」というのだ。その「存在了解」の仕方を、ハイデガーはあえて「曖昧な」「存在了解」とする。「曖昧な」ということばは、原書(<SEIN UND ZEIT von MARTIN HEIDEGGER> /Max Niemeyer Verlag,Tuebinegen 2006/ISBN 3-484-70153-6/以下同)をみると、<vage>とある。又「存在了解」は、<Seinsverstaendndnis>である。(「アーウムラウト」は、<ae>で代用。)
じつはハイデガーは、「曖昧な」(<vage>)のことばの前に、<durchschnittliche>という語をもってきている。これを桑木務は、本来の意味である「平均的な」ということばでなく、「いいかげんな」と訳しているけれど、筆者は、あえて「いいかげんな」を「曖昧な」の<vage>に重ね合わせたい。つまり「平均的な」をそのまま活かしたいのだ。要するに問われる前の「存在了解」は、「個別化」あるいは「分節化」されずに、原初的で「平均化」された状態のままなのである。だから<vage>なのだ。ハイデガーは、そういいたいにちがいない。
「曖昧な」「存在了解」のままでは、何も始まらない。「見通し」をもって「存在の開示」を目指さなくてはならないだろう。「見通し」とは、大事なことばである。ハイデガーは、<Durchsichtigmachen>という語を使用する。「曖昧な」「存在了解」から、「見通し」によって、「存在」を問うのだ。こうした「存在」を、ハイデガーは「現存在」(<Dasein>)と呼ぶ。「現存在」(<Dasein>)は、『存在と時間』の第2節において、初めて登場することばで、いわば、ハイデガーのキーワードである。
このような「存在」への鋭いアプローチに対して、ハイデガーは「循環論」ではない、とあえていう。「存在」は演繹的に解明できないし、第一「存在」の前提などないのだから、循環のしようがないわけである。「循環論証」はありえないと、ハイデガーはかなり力をこめて、第2節でいう。問うことと問われることの激しいぶつかりあいこそが、求められる所以であろう。それを理解したうえで、冒頭の「問うことが、その問われているものに本質的にぶつかることが、存在の問いの最も固有の意味に属しています」を精読してみたい。
学生時代から筆者のそばを片時も離れない、岩波文庫版『存在と時間』の訳者桑木務(1913-2000)について、一言申し述べておこう。旧制福岡高等学校時代、滝沢克己にギリシア語を習い、その後九州帝国大学文学部哲学科を卒業。1939年、日独交換留学生としてドイツに留学、マルティン・ハイデガーに学ぶ。戦後は共立女子大学教授、中央大学教授を務めた。他に『大学の本質』(カール・ヤスパース/共訳/新潮社)、『ヒューマニズムについて』(マルティン・ハイデガー/角川文庫)などの翻訳がある。
存在の窓ゆらゆらと布地のしわ 須藤 徹
[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/序説「存在の意味への問いの究明」・第1章「存在の問いの必要、その問いの構造と優位」・第2節「存在への問いの形式的構造」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]
ハイデガーは、第2節において、「存在了解」ということばを提出する。人間は、植物や動物などと異なり、明快に概念化できないにせよ、おぼろげながら自分が何やら存在していることを知って生きている。ハイデガーは、そんな存在の仕方を「存在了解」というのだ。その「存在了解」の仕方を、ハイデガーはあえて「曖昧な」「存在了解」とする。「曖昧な」ということばは、原書(<SEIN UND ZEIT von MARTIN HEIDEGGER> /Max Niemeyer Verlag,Tuebinegen 2006/ISBN 3-484-70153-6/以下同)をみると、<vage>とある。又「存在了解」は、<Seinsverstaendndnis>である。(「アーウムラウト」は、<ae>で代用。)
じつはハイデガーは、「曖昧な」(<vage>)のことばの前に、<durchschnittliche>という語をもってきている。これを桑木務は、本来の意味である「平均的な」ということばでなく、「いいかげんな」と訳しているけれど、筆者は、あえて「いいかげんな」を「曖昧な」の<vage>に重ね合わせたい。つまり「平均的な」をそのまま活かしたいのだ。要するに問われる前の「存在了解」は、「個別化」あるいは「分節化」されずに、原初的で「平均化」された状態のままなのである。だから<vage>なのだ。ハイデガーは、そういいたいにちがいない。
「曖昧な」「存在了解」のままでは、何も始まらない。「見通し」をもって「存在の開示」を目指さなくてはならないだろう。「見通し」とは、大事なことばである。ハイデガーは、<Durchsichtigmachen>という語を使用する。「曖昧な」「存在了解」から、「見通し」によって、「存在」を問うのだ。こうした「存在」を、ハイデガーは「現存在」(<Dasein>)と呼ぶ。「現存在」(<Dasein>)は、『存在と時間』の第2節において、初めて登場することばで、いわば、ハイデガーのキーワードである。
このような「存在」への鋭いアプローチに対して、ハイデガーは「循環論」ではない、とあえていう。「存在」は演繹的に解明できないし、第一「存在」の前提などないのだから、循環のしようがないわけである。「循環論証」はありえないと、ハイデガーはかなり力をこめて、第2節でいう。問うことと問われることの激しいぶつかりあいこそが、求められる所以であろう。それを理解したうえで、冒頭の「問うことが、その問われているものに本質的にぶつかることが、存在の問いの最も固有の意味に属しています」を精読してみたい。
学生時代から筆者のそばを片時も離れない、岩波文庫版『存在と時間』の訳者桑木務(1913-2000)について、一言申し述べておこう。旧制福岡高等学校時代、滝沢克己にギリシア語を習い、その後九州帝国大学文学部哲学科を卒業。1939年、日独交換留学生としてドイツに留学、マルティン・ハイデガーに学ぶ。戦後は共立女子大学教授、中央大学教授を務めた。他に『大学の本質』(カール・ヤスパース/共訳/新潮社)、『ヒューマニズムについて』(マルティン・ハイデガー/角川文庫)などの翻訳がある。
存在の窓ゆらゆらと布地のしわ 須藤 徹