須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第2節〔問うことと問われることのぶつかりあい〕 extra A- 02

2012-10-31 07:44:06 | extra A
問うことが、その問われているものに本質的にぶつかることが、存在の問いの最も固有の意味に属しています。

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/序説「存在の意味への問いの究明」・第1章「存在の問いの必要、その問いの構造と優位」・第2節「存在への問いの形式的構造」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]

ハイデガーは、第2節において、「存在了解」ということばを提出する。人間は、植物や動物などと異なり、明快に概念化できないにせよ、おぼろげながら自分が何やら存在していることを知って生きている。ハイデガーは、そんな存在の仕方を「存在了解」というのだ。その「存在了解」の仕方を、ハイデガーはあえて「曖昧な」「存在了解」とする。「曖昧な」ということばは、原書(<SEIN UND ZEIT von MARTIN HEIDEGGER> /Max Niemeyer Verlag,Tuebinegen 2006/ISBN 3-484-70153-6/以下同)をみると、<vage>とある。又「存在了解」は、<Seinsverstaendndnis>である。(「アーウムラウト」は、<ae>で代用。)

じつはハイデガーは、「曖昧な」(<vage>)のことばの前に、<durchschnittliche>という語をもってきている。これを桑木務は、本来の意味である「平均的な」ということばでなく、「いいかげんな」と訳しているけれど、筆者は、あえて「いいかげんな」を「曖昧な」の<vage>に重ね合わせたい。つまり「平均的な」をそのまま活かしたいのだ。要するに問われる前の「存在了解」は、「個別化」あるいは「分節化」されずに、原初的で「平均化」された状態のままなのである。だから<vage>なのだ。ハイデガーは、そういいたいにちがいない。

「曖昧な」「存在了解」のままでは、何も始まらない。「見通し」をもって「存在の開示」を目指さなくてはならないだろう。「見通し」とは、大事なことばである。ハイデガーは、<Durchsichtigmachen>という語を使用する。「曖昧な」「存在了解」から、「見通し」によって、「存在」を問うのだ。こうした「存在」を、ハイデガーは「現存在」(<Dasein>)と呼ぶ。「現存在」(<Dasein>)は、『存在と時間』の第2節において、初めて登場することばで、いわば、ハイデガーのキーワードである。

このような「存在」への鋭いアプローチに対して、ハイデガーは「循環論」ではない、とあえていう。「存在」は演繹的に解明できないし、第一「存在」の前提などないのだから、循環のしようがないわけである。「循環論証」はありえないと、ハイデガーはかなり力をこめて、第2節でいう。問うことと問われることの激しいぶつかりあいこそが、求められる所以であろう。それを理解したうえで、冒頭の「問うことが、その問われているものに本質的にぶつかることが、存在の問いの最も固有の意味に属しています」を精読してみたい。

学生時代から筆者のそばを片時も離れない、岩波文庫版『存在と時間』の訳者桑木務(1913-2000)について、一言申し述べておこう。旧制福岡高等学校時代、滝沢克己にギリシア語を習い、その後九州帝国大学文学部哲学科を卒業。1939年、日独交換留学生としてドイツに留学、マルティン・ハイデガーに学ぶ。戦後は共立女子大学教授、中央大学教授を務めた。他に『大学の本質』(カール・ヤスパース/共訳/新潮社)、『ヒューマニズムについて』(マルティン・ハイデガー/角川文庫)などの翻訳がある。

存在の窓ゆらゆらと布地のしわ  須藤 徹

図書館と書店の行方─代官山の蔦屋書店と武雄市立図書館 text 289

2012-10-28 01:11:29 | text
社団法人日本ペンクラブより送られてきた会報「P.E.N.」第413号(2012年10月15日発行)に、言論表現委員会報告として「武雄市立図書館のCCC運営委託問題を考える」が掲載されていた。「CCC運営委託」の「CCC」とは、TSTAYAと蔦屋書店を展開する「カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社」の略である。新聞報道などでもわかるように、2013年4月1日より、佐賀県武雄市立図書館は、CCCと提携して、新図書館を開館する予定。その新図書館は、九つの「市民価値」を有するという。

1「20万冊の知に出会える場所」、2「雑誌販売の導入」、3「映画・音楽の充実」、4「文具販売の導入」、5「電子端末を活用した検索サービス」、6「カフェ・ダイニングの導入」、7「代官山の蔦屋書店のノウハウを活用した品揃えやサービスの導入」、8「Tカード、Tポイントの導入」、9「365日、朝9時~夜9時までの開館」。8番目の「Tカード、Tポイントの導入」について、日本図書館協会及び図書館問題研究会の2団体は、利用者の個人情報が外部に流出するのではないかとの意見と要望書を、今年の5月末に提出したが、武雄市立図書館とCCCからは、いまだに公式の回答がないとのことだ。

昨年暮れ、東京テレビの「カンブリア宮殿」にて、代官山の蔦屋書店が取り上げられた。その番組に出演したCCCの増田宗昭社長と武雄市の樋渡啓祐(ひわたしけいすけ/総務省OB)市長が、今年の1月に面会し、その後5月4日、武雄市はCCCに企画・運営を委託することに合意。7月18日の同市定例市議会において、それが正式に認められた。会報「P.E.N.」第413号は、そのように記す。指定管理者の契約は5年間、業務委託費は、年に1億1000万円である。

2012年10月23日(火)、所用で東京に出た折、その帰りに問題の代官山の蔦屋書店に寄ってみた。代官山の駅から約5分の至近の場所にあり、1号館、2号館、3号館と三つの瀟洒な建物が整然と並ぶ。「大人の文化の牙城」とうたうように、メインの書店のほかに音楽フロア、映画フロア、文具コーナー、ゆったりした豪華ラウンジ、さらにはスターバックスやファミリーマート、トラベルカウンターまである。ちなみに筆者もスターバックスに入り、コーヒーを嗜んだが、高い止まり木調の椅子とテーブルは、たいそう心地よい。

筆者のテーブルの目の前には、タブレット端末があり、iTunesが接続されている。写真に見えるように、圧倒的に若い人が多く、ほとんどの人がミニノートPCを操作していたり、あるいは緻密なノート執筆にいそしんでいたりする。なるほど、魅力ある空間だ。しかし、肝腎の書店機能としてはどうであろうか。土地柄、デザインやアート関係の書籍、さらには車や写真などの書籍類は、さすがに素晴らしい充実ぶりであるけれど、文学や哲学などの書籍は貧弱である。(これは筆者の錯覚又は見落としであろうか。)

新しい武雄市立図書館は、おそらくこの代官山の蔦屋書店の延長上に造られると思うが、TカードとTポイントの問題もさることながら、書籍の選書はいったい誰が決めるのだろうかと、ふと思った。(選書は基本的に教育委員会の承認を必要とする。)スターバックスやファミリーマート、トラベルカウンターなどの併設は、あくまでハード面であろう。最も大事なのは、収蔵図書の内容(選書)の充実なのではないか。これはいうまでもなく、ソフト面である。もし仮に新しい武雄市立図書館のソフト面が貧弱であったならば、「文化の牙城」どころではなく、「文化の瓦解と荒廃」が、すぐそこに待っているような気がしてならないのだが……。その成り行きを、静かに見守ってゆきたいと思う。

止まり木に引っかかってる天の川  須藤 徹


ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第1節〔存在への問いを繰り返す〕 extra A- 01

2012-10-22 11:41:44 | extra A
もろもろの偏見を考慮してみて明らかになったことは、存在への問いについての解答が用意されていないばかりでなく、問いそのものが暗いままで方向を見失っている、ということです。

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/序説「存在の意味への問いの究明」・第1章「存在の問いの必要、その問いの構造と優位」・第1節「存在への問いを、はっきりと繰返すことの必要」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]

ハイデガーは、第1節の中で、プラトンやアリストレスの古代存在論を例にあげ、存在の意味の問いかけが曖昧にされ、概念の定義付けが拒まれてきたという。さまざまな偏見があり、それらは古代の存在論自身のうちに胚胎するというのだ。それらの偏見を整理し、ハイデガーは三つのポイントを提出する。

1 「存在」は「最も普遍的な」概念である。
2 「存在」という概念は、定義することができない。
3 「存在」は、自明の概念である。

この三つの論点から、ハイデガーは冒頭のことばを書き記す。現代においても端的にいって、人間自身の「存在」の意味を考える人など、皆無とはいわないまでも、非常に少ないのではないか。「私は何ゆえに存在しているのか」などと、突き詰めて考えるのは、そうとう奇特な人である。何がわからいないといって、自分自身の存在の内実こそが、最も解明できない。

筆者に限っていえば、高校生のときから、こうした問いかけが渦巻き、大学では哲学をじっくり勉強しようと考え、松浪新三郎のさまざまな著書、サルトルの『存在と無』などをむさぼり読んだのだった。進学した大学では、幸いドイツ語圏教師の多い環境にあり、特にルートヴィヒ・アルムブルスター教授(チェコ出身)の厳しい講義は、今でも強い印象に残る。日本人では、渡辺秀教授(故人)・大谷啓治教授(後に上智大学学長)らの諸先生がた。渡辺秀先生には、ガブリエル・マルセル、大谷啓治先生には論理学を徹底的に教えられた。

今回より、本ブログの<text>版とは別に、<extra>版を設け、不定期に、ハイデガーの『存在と時間』全83節の1節ずつを取り上げ、紹介していきたい。何よりも自分のためであるけれど、何がしか読者のお役に立てれば幸いである。大学の卒業論文として、「ハイデガーとヘルダーリン」を書きあげて以来、存在の根源をたずねる思考が絶えず心中にあり、それはやがて文章・俳句創作に収斂し、現在まで休みなく続く。このへんで、もう一度「存在」の意味を、再確認(再学習)してみよう。

硝子器の希釈する空時間とは  須藤 徹

藤の実に少しみえたるけさの我─安井浩司「俳句と書」展 text 288

2012-10-14 21:41:43 | text
2012年10月13日(土)、家で朝食後、バリスタコーヒーをのんで、横浜へ。家人の代理により、あるセレモニーに出席する。しかし運悪く東海道線の辻堂駅構内で人身事故があったため、横浜市西区南幸2丁目にある会場に到着したのは、定刻を20分ほど回ってからであった。セレモニー終了後正午過ぎに、横浜駅近くにて、昼食をとってから、帽子専門店のCA4LA (カシラ)横浜相鉄ジョイナス店に寄る。若い男性店員の上手なトークにほだされ、ポーランド製の秋・冬用ハット(ハンチング)を購入する。

その後、再度東海道線に乗り、新橋経由で、銀座3丁目のギャラリーノアへ。安井浩司「俳句と書」展を観るためである。(これより前の10月8日の夕方、銀座東武ホテル地下一階のロジェドールにて、オープニングの懇親会が行われたのだが、筆者は残念ながら所用のため出席できなかった。)会場には、軸と色紙が所狭しと並び、圧倒される。俳人の豊口陽子・吉村毬子の両女史、大井恒行氏がいたので、しばし歓談する。安井浩司の軸と色紙については、文學金魚のWebサイトに詳しく紹介されているので、本ブログでは省略し、<藤の実に少しみえたるけさの我>の句に言及してみたい。

安井浩司については、拙著『俳句という劇場』(1998年・深夜叢書社)にて、筆者はすでに「天蓋のドーリア」を発表している。又本ブログにも、「詩法の山脈」(text 107/2007年7月20日)、「存在の根源をたずねる俳句」(text 186/2009年11月2日)、「安井浩司あるいはヘルダーリン、スピノザ」(text 226/2010年10月14日//2011年3月25日発行の「ぶるうまりん」17号にて「137年億年の孤独-安井浩司の神話的俳句空間へ」に改題・改稿)に拙文を掲載している。今回は、それらの文章に取り上げなかった俳句作品へ焦点を当てたいと思う。

藤の実に少しみえたるけさの我  安井浩司

「藤の実」は、秋になると約20cmの細長い扁平な莢果(きょうか)をもつ。莢果には、全面に細かい毛が密生する。晩秋の頃に完熟し、果皮は紫褐色になる。そのままにしておくと、果皮が開裂し、碁石のような種子が飛散する。種子の飛散の仕方は強烈で、それに当たって、怪我をする人もいるという。種子が飛散するのは、寺田寅彦のエッセイ「藤の実」にも描かれている。「昭和7年12月13日の夕方帰宅して、居間の机の前へすわると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚の藤豆がはねてその実の一つが飛んで来たのであった。」と、冒頭の文章にある。

俳人の多くは、「藤の花」を詠むのに熱心で、「藤の実」にはあまり目を向けない。しかし芭蕉が<藤の実は俳諧にせん花の跡>と詠んだように、扁平に垂れ下がった侘しい風情の「藤の実」は、非常に俳諧味豊かである。安井浩司は、そうした伝統を熟知したうえで、自らの現代俳句に仕立てたのだった。侘しい容貌の「藤の実」に自らを重ねるのだが、しかしそれはやがて鋭く弾けて、周囲に種子を飛ばす。この種子は、筆者には、カタログの安井浩司の挨拶のタイトルにあるとおり、「俳句と書、一体のゆめ」の「ゆめ」のように思えてならない。「藤の実」は「不死の身」になって、「ゆめ」に結晶するのだ。安井浩司は間違いなく、<藤の実に少しみえたるけさの我>の句において、見事にも静謐な自画像を刻印し、熾烈な「ゆめ」を語っているのではないだろうか。

さらには、この<藤の実に少しみえたるけさの我>の「みえたる」に、筆者はハイデガーのことばを読み取りたい。すなわちハイデガーの『存在と時間』の第38節・第39節・第40節に書かれているように、「非本来的な人間」が、日常の罠に陥り、人間の真実を見失っていることに気づくことに重ねあわせて、この句を読みたいのだ。ハイデガーは、そうした日常の罠に陥っている人間を<verfallen>(フェアファレン/頽落する)と呼ぶ。俳句の「ゆめ」を「藤の実」に見いだし、そうして安井浩司は、<verfallen>(頽落する)でない、真の人間を「けさの我」に描き出すのである。「藤の実」の種子の飛散に、もう一つデリダの「散種」(ディセミナシオン)をイメージするが、それについて書くのは、又の機会にしよう。

夜間飛行士草に眠る処女膜のように  安井浩司(以下同)

まひるまの門半開の揚羽かな

日盛りを行けば蜘蛛手の橋がある

青鷺の辺の文明は深く啄(つ)かれて

月光や山蛭載せる鉈の上

有耶無耶の関ふりむけば汝と我

ひるがおや来るはひとつの二艘舟

山や川されど原詩の鱒いずこ

厠から天地創造ひくく見ゆ

万物は去りゆけどまた青物屋

(安井浩司「俳句と書」展のカタログにおける自選130句より抄出)

◇安井浩司「俳句と書」展のカタログ= 2012(平成24)年10月8日、金魚屋プレス日本版より発行/本体1500円+税/ISBN978-4-905221-04-3


新しい現代音楽を聴く─三井の晩鐘 text 287

2012-10-08 01:14:09 | text
PCに向かっての長時間の作業の場合、だいたいiTuensからクラシック音楽をダウンロードして聴いていることが多い。それもモーツァルトの曲がほとんどである。画面に曲名や演奏者が英語表記されるので、とてもありがたい。You Tubeのときは、琴古流尺八の人間国宝山口五郎(1933-1999)や聖流尺八の元祖福田輝久(1949~)の演奏を聴く。曲名は古典的な名曲である「残月」「鹿の遠音」など。「残月」は、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』にも登場する。「磯辺ノ松ニ葉隠レテ、沖ノ方ヘト入ル月ノ、光ヤ夢ノ世ヲ早ウ、覚メテ真如ノ明ラケキ、月ノ都ニ住ムヤラン」と谷崎の小説に書かれている。(小ブログのtext 250に記載。)谷崎は瘋癲老人が死を思う場面に、富山清琴の「残月」を出しており、筆者もそれを聴きたいと思いつつも、残念ながらいまだに未聴だ。

あるいは上記のほかに、時々Webサイトにより、NHKのFM放送を聴く。2012年10月7日(日)の午後6時から放送された「現代音楽」(パーソナリティ=猿谷紀郎)の後半の「三井の晩鐘」(作曲=猿谷紀郎)は、久しぶりに筆者を感動させた。何気なく聴いていたのだけれど、バイオリン・ビオラ・チェロ・クラリネットなどのほかに、打楽器のパーカッション(中村功)とコントラバス(吉田秀)が素晴らしく、それに加えて豊竹呂勢大夫の浄瑠璃と鶴澤清治の三味線が圧倒的に良かった。これは2004年10月24日に大阪のイシハラホールで演奏され、第4回佐治敬三賞を受賞したそうだ。FM放送も、時々こういう拾い物がある。残念なことに、予期していなかったことなので、これを録音していない。

それに刺激され、以前購入した千原英喜のCD『千原英喜作品全集第1巻』をラックから取り出して、これを聴く。1曲目に「混声合唱とピアノのための銀河の序」(詞=松尾芭蕉)が収録されているのだ。指揮は当間修一、弦楽合奏は大阪シンフォニア・コレギウムOSAKA、合唱は大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団、ピアノは木下亜子。2曲目の「弦楽のためのシンフォニア第3番」、3曲目の「混声合唱のためのラプソディー・イン・チカマツ〔近松門左衛門狂想〕」も聴くたびに、発見があって面白い。このCDは、何があっても手放せない一枚である。

銀漢や百億年前の一年後  須藤 徹

写真は、以前小ブログ(text 265)に紹介した、わが家の庭の一角に生きている(?)空蝉。昨日、庭に行って見たら、まだゴムの葉にしがみついて、がんばっているではないか。これは、負けそう!

ど根性空蝉絶壁を化転(けてん)して  須藤 徹