須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

蓼科の秋 text 117

2007-10-25 23:07:56 | text
10月16日から同月19日までの4日間、八ヶ岳山麓の蓼科に行ってきた。あるプロジェクト(蓼科の縄文の里に天然温泉の露天風呂を造る計画)の発案者兼プロデューサーである柳平彬(やなぎだいらさかん)氏の要請による。柳平氏は、1940年東京生まれで、慶應義塾大学経済学部を卒業後、丸紅飯田株式会社(現丸紅株式会社)に入社。その後渡米し、ダートマックス大学大学院でMBA(経営学修士)を取得され、1975年、グループダイナミックス研究所を創立された。現在、AIA(心構えの意識変革)やTOS(営業管理者の理論武装)の研修プログラムの普及につとめられている。著書や訳書が多数ある。

柳平彬氏は、1990年、長野県蓼科にトップ・エグゼクティブのための「たてしなエグゼクティブハウス」を建設した。最近その敷地の一角を掘削した結果、今年の7月5日、深度1150メートルから、毎分226リットルの天然温泉が湧き出たのだ。じつは柳平氏は、「黒川温泉のドン」あるいは「日本一の温泉露天風呂づくり名人」といわれる後藤哲也氏の指導により、2005年川崎市に縄文天然温泉「志楽の湯」をオープンさせた実績がある。今回も柳平氏と後藤氏のコラボレーションにより、八ヶ岳山麓の蓼科に天然温泉の縄文風呂を造ろうという算段。

私は、11月3日(土)アルカディア市ヶ谷で開催される、井上ひさし氏VS金子兜太氏の対談を中心とした第20回現代俳句協会青年部のシンポジウムの準備で大わらわであったため、いったんはこの要請に難色を示したのだけれど、「今、後藤哲也氏が蓼科に来ていて、陣頭指揮をしつつ石組みを行っている最中なので、ぜひ現場に来て取材をして欲しい」ということばに結局、絆(ほだ)されてしまった。途中(17日)、東京で現俳協の幹事会があるため、やむなく蓼科を離れざるをえない一幕があったけれど、全部で4日間をこのプロジェクトに費やしたのである。

柳平彬氏とは、氏が仕事で蓼科を去るまでの2日間、後藤哲也氏とは都合4日間寝食をともにしたことになる。その間、後藤氏に密着し、夜間にはご著書『黒川温泉のドン─再生の法則』(朝日新聞社)を前にして、いろいろとお話をうかがった。熊本の黒川温泉を日本有数の温泉地にした立役者であるため、訥々と話される内容には、非常に説得力がある。「カメラを向けて絵になる場所が日本には少ない」「軽井沢と京都がダメになってしまった」「地域や企業を復活させて、日本を再生する必要がある」「今のお客さま(人間)の求めるものは癒しという形」など、一言一言が核心をついているので、聞き漏らすことができない。けれども、10月20日(土)、上野の東天紅で現俳協の第44回全国大会があるため、その前日(19日)に私は蓼科を発った。同月21日(日)は、定例の「ぶるうまりん」句会が行われた。

写真は、重機三台が入った現場で指揮をとる後藤哲也氏。厳密に1センチ単位で、総量300トンにもなる、八ヶ岳山麓の安山岩の一つ一つの置く場所を、作業する人々に指示する。ちなみに露天風呂は二つで、いずれも「縄文」をイメージした「勾玉」のかたちに造られた。高低差、角度、配管のポジション、湯の位置、カラマツ・シラカバ・コナラなどの周囲の植物の風景等を一瞬にして頭の中のコンピュータにプログラミングして、露天風呂と風景をデザインする姿は、まさに神がかり的な技であった。

鳥の死骸夜の蓼科は砒素だった   須藤 徹