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〈現代っ子〉ノート

2007-12-25 08:33:27 | BOOKS
梶田叡一 「〈現代っ子〉ノート」 東京書籍 2007.09.10. 

江戸時代の人々は、きわめて実直で合理的な生活様式を持っていました。例えば義理人情。義理人情には窮屈な面がありますが、合理性もあります。でも明治維新を境に、この心情を捨ててしまったのです。 次の大きな歴史的曲がり角は、60年前の敗戦で、日本は、アメリカを中心とした連合軍に占領され、7年間近く主権を失いました。ヨーロッパで広範囲な民衆に対しての教育が始まったのは、フランス革命後の19世紀初頭からです。一方日本では、16世紀に、庶民の子どもまで読み書き計算ができるなど、ヨーロッパでは考えられないほどの教育伝統を持っていたのですが、敗戦ショックの後遺症で、一種の精神的植民地になってしまったのです。 戦後の新教育は、デューイの薄っぺらな解釈に基づいたもので、日本に入って2、3年で破綻しました。「這い回る経験主義」ということで、強く批判されたのです。やり過ぎたということで、今度はきちんとした教育をしようということになりました。それが「教科主義」です。そして、それがひどくなったからということで、次には「教育の人間化」が叫ばれました。その後、「現代化」ということで理数教育が中心になり、1985年前後から、臨教審の報告もあって「個性化」が打ち出されるようになりました。 本当に子どもの側に視点を置いていたら、学校での具体的な活動方針が簡単に右から左へ振れるということはありえません。 明治維新後の森有礼による学制改革以降ずっと、学校は、いわば小さなお役所でした。富国強兵のために、全国津々浦々まで張りめぐらされたお役所だったのです。お役所というのは、いつだって上意下達です。 残念ながら、日本では本当に「子どもの姿を見つめながら教育方針を決める」という姿勢が育たず、結局、上に対抗するものとしては、下からの政治主義的な組合運動しか起こらなかったのです。上の方が常にアメリカの意向で動くのに対し、下の方では、「労働者の祖国・ソ連」をモデルとして、「ソ連のやり方ではそうでない」と主張する。結局は政治的なヘゲモニー争いです。 今地域や父母と連携しながら、それぞれの学校の運営を進めていく必要があります。90年代のゆとり教育の時期に、日本の学力は全体的には低下しました。しかし、私学は例外です。「お受験」が流行ったのは、公立がだめだという認識が広くあったからです。公立では学校にも教師にも当たり外れがひどいから、私学が選ばれたのです。 私学は、アラカルトの料理を出す専門店で、公立はスタンダードな料理を出す定食屋です。スタンダードな料理にその学校独自の個性的な工夫を加えると同時に、どの公立学校に行ってもこの水準以上の教育を保証します、ということにならなくてはいけないでしょう。


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